リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

教科書はなぜ退屈か

中学校や高校の理科の教科書を覚えておられるだろうか。理科の教科書を面白いと思った記憶のある方は少ないのではないだろうか。理科を長く教えてきた私もそうである。教科書の重要性を理解しているつもりではあるが、およそ読んでおもしろいものではない。

その理由はおそらく2つある。一つは教科書に書いてあることを知ることの意味がわからないことである。生物の教科書には細胞分裂の際の染色体のふるまいが事細かに記されている。それに目を輝かせる生徒もなくはないと思うが、「それが何?」と多くの生徒は思っているであろう。「学校の勉強とはそんなもんさ、いちいち意味なんか考えておられん」と割り切っている生徒もいるだろう。実は染色体のふるまいは遺伝病とその診断、育種、出生前診断といった社会的にも大きな意味を持つ文脈の中で研究され、解明され、応用されてきたのだが、そのような文脈は教科書にはほとんど記されていない。

文脈は物語といってもいいだろう。社会が何を問題とし、人々が(科学者、医師、市民、政治家・・)その問題にどのようにかかわったのかという物語は学ぶことの意味を与える。それがないと、染色体の物理的振る舞いに興味を持つ生徒(あまり多くはない)を除く多くの生徒に対して、なぜこの内容を学ぶのかという「学びの意味」がほとんど伝わらないのである。しかし、この「物語」としての科学については「リスクを学ぶ」の章でもう一度取り上げることにし、ここではもう一つの理由に焦点を当ててみよう。

教科書が面白くないと思うもう一つの理由は、いま述べた文脈の問題とも関連するのだが、科学が確立された疑問の余地のない知識体系として扱われていることである。「研究によって絶えず知識が更新される」、「研究者の中でも見解が対立し、論争が行われる」、「科学技術が社会変動を引き起こし、社会変動が科学技術に影響を与える」といった科学技術の最もエキサイティングな部分がほとんど扱われていないのである。新しい発見、新しい技術的達成、科学者間で行われている学説論争、原発や遺伝子診断のような社会的・倫理的な論争といったダイナミックに変化する側面は、コラムとして扱われることがあるが。本文にはほとんど出てこない。

ここで教科書を取り上げたのは、教科書を批判するためではない。理解しやすく興味深い教科書とするために著者・編集者が注ぎこむ膨大な労力には敬意をはらっているし、限られたスペースにてんこ盛りに知識を盛り込まなければならない教科書には限界が存在している。そもそも教科書は一つの資料であって授業を興味深いものにするかどうかは教師の腕だということも承知している。教科書を取り上げたのは、教科書が、私自身も含めて科学教育に携わる教育者・研究者の持っている前提、「確立された知識体系」として科学を扱うことをわかりやすく表現したメディアだからである。この節ではこのことのはらむ問題点とその対極、学校教育の中で「未確立の知識体系として科学を扱う」ことの可能性について考えてみたい。

ただしあらかじめ断っておくが、「確立された知識体系として科学を扱う」ことが良くないと主張したいわけではない。原子論で三態変化(固体、液体、気体の変化)を説明したり、慣性の法則で物体の運動を説明したりといったことについて原子論や慣性の法則をいちいち疑ってみる必要はない。原子論や慣性の法則を不動の前提として扱うことになんら問題はない。しかし、本書の主たる対象であるトランスサイエンス問題についてまで「確立した知識体系として科学を扱う」立場を教育に適用することには問題があると私は考えているのである。

「何のための科学技術なのか」という問い

科学技術は何のためにあり、科学者・技術者のミッションは何だろうか?

このことについては、科学技術が一つの独立した社会的営為として認識され、科学者・技術者という職業が成立して以来、無数の論考があり、無数の議論がある。ここではその内容自体には立ち入らない。しかし「科学はその応用にあたって、個人、社会、環境、人体の健康に有害となりうるもので、人類の存続さえ危うくする恐れがあること、そして科学の貢献は平和と発展、世界の安全という大義にとって不可欠なものであることを考慮し」、「科学研究の遂行と、その研究によって生じる知識の利用は、貧困の軽減などの人類の福祉を常に目的とし、人間の尊厳と諸権利、そして世界環境を尊重するものであり、しかも今日の世代と未来の世代に対する責任を十分に考慮するものでなければならない」(「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」)(1)、「事業の倫理的、人道的、科学的、社会的又は生態学的な価値について自由に、かつ、公然と意見を表明すること。科学技術の発展が人類の福祉、尊厳及び人権を損なう場合又は「軍民両用」に当たる場合には、科学研究者は、良心に従って当該事業から身を引く権利を有し、並びにこれらの懸念について自由に意見を表明し、及び報告する権利及び責任を有する(ユネスコが採択した「科学研究者の責任及び権利に関する勧告」)(2)が示すように、少なくとも科学者・技術者共同体内部においては、科学技術のミッションは人類全体の福利の向上であること、科学技術の発展が人類の福利を損なう場合があり、その場合、科学者・技術者は自律的にその可能性を判断し、行動する責任と権利を持つことが合意されつつあることは確かだろう。

科学技術の発展と人類の福利が一致すると判断される場合(たとえば難病に対する治療法の発見)には、科学者・技術者はその職務の意義について疑問を持つことなく邁進できる。

この2つの間に矛盾が起きる時こそ、科学者・技術者の姿勢が問われる。これは決して科学技術の指導層だけの問題ではない。一人一人の科学者・技術者がこの矛盾に向き合い、自らの問題として自律的に判断し、行動することが求められる。

しかし、科学者・技術者はその所属組織を取り巻く政治経済構造や権力関係に、現実には大きな影響を受けている。その影響は組織や自己の利害に都合の良い方向に判断・行動をゆがめる方向に働きやすい。たとえば「このプロジェクトを進めるか否かは上の人の判断であって自分はそれに従うまでだ」、「いま私のしていることは、一部の人には不利益を与えてしまうかもしれないが、社会全体を考えれば、正しいことだ」と判断の責任を上位者や組織にゆだねて判断の責任を回避したり、科学技術の負の側面を合理化するといったことである。

 極端な事例を出すならば、「科学の社会化」の章で述べたフリッツ・ハーバーは毒ガス開発について、「戦争をこれによって早く終結することができれば、無数の人命を救うことができる」(3)と毒ガス開発を合理化していたという。原爆など破壊力の大きな兵器が開発されるたびに同様の言説が繰り返されている。

 もちろん個別の科学者・技術者に組織や政治経済システムの持っている責任を転嫁させろと言っているわけではない。それはむしろ個人の倫理にシステムの責任を還元してしまい、責任の矮小化につながるだろう。しかしだからといって個々の科学者・技術者に責任がないわけではない。その責任は行為の責任(何をなすべきか)でもあるが、まずは「認識の責任」(状況から何を読み取るべきか、そこから何を考えるべきか)として立ち現れてくる。自己の携わる仕事の意味を、その仕事が生み出す利潤とか研究成果というような組織(企業、学会、大学等)の基準にもっぱら依拠して判断するのではなく、仕事が何を世の中にもたらすのか、それによって悲惨な思いをする人はいないのかといった広い視野、長期の視野で考える責任である。自己の所属する国家や組織の利益を公益とみなすことを自動的に行わず、その利益とひきかえに不利益を被る可能性のある人々や地域や自然の存在を慮る責任である。「何のための科学か」ということを自己利益の合理化という欺瞞性をはぎとって問い続け、考え続ける責任、内面化する責任である。

そのような「認識の責任」への自覚は一般的・抽象的な「科学者・技術者の責任」の議論からは生まれにくいだろう。水俣とか福島第一原発とか出生前診断障碍者差別の問題とか個別具体的なトランスサイエンス問題の経緯を知ること、とりわけその問題にかかわった人々の苦悩や悲しみ、問題を乗り越えようとする努力、言うならば「人々の物語」を知ることが「認識の責任」につながると私は考える。その物語を知ることが、それを通じて、学ぶ者の内面に根付いた「認識の責任」への切実な自覚を喚起し、「何のための科学か」という問いを内面化する効果的な経験となると考えるからである。それは科学者・技術者にとって科学技術の内容を学ぶことと同等の重要性を持つ、むしろ科学者・技術者への志を固める段階では内容以上の重要性を持つと筆者は考える。トランスサイエンス問題を科学教育の主要な対象として取り込む根拠の一つがそこにあるのである。

 

少し前置きが長くなったが、次章からは、科学教育(主として初等中等教育だが大学の教養教育も射程に入る)におけるトランスサイエンス問題の扱いについての筆者の考えを述べていく。

(1)科学と科学的知識の利用に関する世界宣言(1999)、国際連合教育科学文化機関・国際科学会議共催による世界科学会議で採択、https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/siryo/attach/1298594.htm

(2)科学及び科学研究者に関する勧告(2017)第39回ユネスコ総会採択https://www.mext.go.jp/unesco/009/1411026.htm

(3)宮田親平(2007):毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者、朝日選書

科学者・技術者を育てることがおろそかになる?その1

(2)市民教育という側面が強調されすぎれば,科学者・技術者を育てることがおろそかになるのではないか。科学教育の重点を市民教育に振り向けることが科学者・技術者の養成に悪影響を与え、結果として科学技術の質の低下、ひいては国際競争力の低下と日本の貧困化を招いてしまうのではないか?

 まず現実問題として、科学教育が科学技術の進歩を担う科学技術者の養成を重要な任務の一つとすることは確かである。市民教育を第一義とする科学教育改革であっても、この機能を損なうことは当の市民の賛同を得られないであろう。

 結論から言うならば、科学技術と社会の界面に発生する問題(トランスサイエンス問題)を科学教育の主要な対象として取り込み、それについて市民が意思決定することを重要な科学リテラシーと考える科学教育、市民教育を第一義とし、将来の科学者・技術者のための基礎教育をそこから派生するオプションと位置付ける科学教育が将来の科学者・技術者の養成にとってむしろプラスの影響を与えるであろうと筆者は考える。その理由は3つある。

  1. 知識爆発の加速

 現代社会の顕著な特徴は知識の爆発的な成長である。科学技術・学術政策研究所の推計によれば、自然科学に限定しても2018年の世界の論文数は160万件であり、その数は年々増えている(1)。知識は生産され、加工され、流通され、商品化されて社会を変容させていく。わかりやすい例はスマートフォン(スマホ)やSNSのテクノロジーであろう。ロシア・ウクライナ戦争では市民個人がスマホで撮影した動画がSNSを通じて世界中に配信され、ロシアによる無差別攻撃の実態を即時に明らかにし、ロシアの情報統制を食い破っている。チュニジアリビア、エジプトなどの独裁政権が倒れる端緒(ビロード革命)を作ったのもスマホSNSである。

知識爆発に対応するためにはどのような教育が必要であり、どのような試みがなされているのだろうか。大学の専門教育の事例になり、市民教育の話題からは外れてしまうが、分かりやすい例なので、医学教育に見てみよう。医師は医学の急速な進歩に対応し。生涯にわたって絶え間なく知識を更新していかなければならず、その基盤となる中核的な知識と知識更新を支える人格特性である主体的な学びの姿勢を医学部の教育で培う必要がある。

しかし医学教育の具体的な場面を考えてみるとこの2つは簡単に両立できるものではない。講義形式の授業は多くの知識を短時間で系統的に教授することはできるが、学生の主体的な学びを呼び起こすのは難しい。一方、主体的な学びを促すようなグループワークやケーススタディでは知識を落ちなく網羅的に扱うことは難しい。

講義ではしっかりと基礎知識を教え、主体的な学びは臨床実習等の実習系授業でその知識を実地に応用することにより育成する、つまり役割分担するという形も考えられ、実際、伝統的な医学教育はこのような形で行われてきたが、このような方法では医療現場での問題解決能力を育てることは難しいと考えられるようになってきた。高校のもっとも優秀な層が医学部に進学してくるはずなのに、学生は教えられた知識を医療現場で活用できず、講義で教えたはずの知識でも容易に剥落してしまうという実態があるからだ。

これは日本だけの問題ではなく、世界的な課題であるわけだが、この課題に対応するためカナダのマクマスター大学で開発され、日本を含め世界中の医学部で採用されている教育手法がPBL(Problem Based Learning)である。PBLは「「現実の臨床場面を描写した症例シナリオを少人数グループ(学生6~7名)で討論し、患者の問題を解決するために必要な知識、考え方を学生自らが見出し、自己学習することによって医学を習得していく」(2)という形の教育である。PBLは基礎知識と実践を分離するのではなく、医療実践(学生が医療実践を本当に行うわけではないが、取り上げられるのは実際の症例であり、そこで考慮に入れるべきことには患者の生活の質や医療倫理も含まれてくる)の文脈の中に知識を位置づけることによって、実践に活用できる生きた知識を身に着けさせようとするこころみである。

これはかなり大胆なこころみのように見える。PBLの授業では、通常の授業のように学生の学ぶべき知識を教師が選んでおき、それを順序だてて学ぶわけではない。取り上げられる症例の診断・治療の方針は学生が個人で、そしてグループで考察していき、その考察の過程のなかで必要な知識を獲得していく。時間もかかるし、取り上げることのできる症例の数は限られている、考察の過程は学生によって異なるので、どのような知識を獲得するかを教師がコントロールすることは講義に比べて難しくなる。これは教える側にとってはかなり不安ななことではある。しかし、それにもかかわらずPBLが広く世界の大学で行われているのは教える側の不安を打ち消すに足るだけの成果が上げられているためであろう。私はPBLに対し、「医学知識をバランスよく教えられるのか、偏りが生まれてしまうのではないか」と疑問を持ち、自分の勤務する三重大学の医学部のPBL導入の責任者に問うてみたことがある。回答は明快であった。

「医学部の教授陣にもそういう懸念はあった。強い反対意見も示された。現在でも反対意見がなくなったわけではない。しかし、医学を大学で全部教えることはもうできないというのは医学部関係者の共通認識であり、学生が、常に進歩していく医学を自分の力で身に着けられるように育てていくことは、個別の医学知識を獲得するよりも重要である。医学教育もそのような方向で変わってゆかなければならないのであって、その方向性そのものには選択の余地がない」

「医師の身につけるべき知識・スキルは膨大であり、しかも進歩が急速であるため、卒業前教育で十分な水準に達するのは不可能である。必要最低水準の知識・スキルをすべてカリキュラム内で扱うのも不可能。大量の知識を浴びせかけるような講義一辺倒の教育では、結局、知識・スキルは身につかない。国家試験対策でその場しのぎの勉強しかやってこない学生は考える力が身につかず、最悪の医師になってしまう。発想を転換し、学生の興味関心により、多少の知識の凸凹ができても、自ら考え、学習していく力を身につけさせることに教育の重点を置くべきである。」

実際の効果としても「系統的に臨床医学の知識を講義するよりも学生の動機づけは大幅に高まり、知識の定着も良くなった。」、「講義型の授業では、底辺の学生のレベルが非常に低くなるのに対して、PBLではグループディスカッションがあるため、学生は勉強せざるを得ず、底上げになっている。ただし伸びる学生は非常に伸びるため、学生間の差はむしろ大きくなってしまった」

というのである。

ここから言えることは、多くの医学知識か主体的に学ぶ姿勢かという二者択一の問いを立てるのは適切なことではなかったということである。実践に対して有用で必要に応じて絶えず更新されていく「生きた知識」は、医療実践の文脈、つまり、病気が診断され、治療され、患者の生活の質が改善されていく文脈,そしてそれを医療者が協働して実現していく文脈という、医師にとって知識の意味を切実に感じ取ることができる文脈の中でこそより確実に習得されうる。一見すると効率的な知識教授の時間を奪ってしまうかに見えるPBLが実は主体的な学びを通して知識を、医学部卒業後も医学の進歩に追いついていく学びへの構えを、そして知識を更新する方法を獲得する場になっているのである。

長々と医学教育のことを述べてきたのは、医師という医学を背景とした学問的専門職の教育と同様のことが市民教育の枠組みの中での将来の科学者・技術者の教育に対しても言えるのではないかと考えるからである。逆説的に思えるかもしれないが、医学部PBLにみられるように、急激に知識が増大する知識爆発に対応するためには、初期教育の段階においてたくさんの知識を知ることの重要性はむしろ低くなる。状況に応じて知識を更新する学びへの構えを持つこと、その更新の方法を知っていること、つまり「いかに学ぶかを知ること」、「学び続けることを知ること」、「より深く知ることが必要な時に知ること」、「他者とともに学ぶことを知ること」「知識を問題解決の資源として使うこと」が重要になる(3)のであって、これは医師だけではなくて科学者・技術者一般の教育にも言えることであろう。その際、重要になるのが科学技術を使用する文脈である。

将来の医師が医療実践の文脈の中で効果的に学べるように、トランスサイエンス問題は科学技術を学ぶ上での有用で豊饒な文脈を提供してくれるのではないか。

たとえば水俣病など公害について考える際には、汚染源からの汚染物質はどのように環境中に拡散していくのか、それが生態系にどのように影響を与え、人間にどう跳ね返ってくるのか、被害を受けるのは誰なのか、どうすれば汚染や被害を極小化できるのか(できたのか)、法や倫理の側面も含め、問題を扱うことが必要となる。多様な観点から現象を吟味し、まだよくわかっていないこともあることを承知の上で公的な意思決定(どんな規制をするのか、誰を被害者として認定するのか,汚染者の責任をどう問うていくのか)をしていかなければならない。従来の科学教育の常識からすればこのような問題を扱うことは、複雑すぎて整理しにくく、混乱をもたらす危険があると考えられるだろう。基礎的知識の十分な習得後に取り組むべき課題と考えるのが普通だと思われる。しかしこのような科学技術が現実と切り結ぶ文脈であるからこそ、そこに真正性を感じることができ、学びの意味が切実さを持ってたちあらわれて来る。トランスサイエンス問題を科学教育の中に持ち込むことは、一見、将来の科学者・技術者の教育にとっては余分な要素を持ち込むことのように見えるかもしれないが、科学教育にこのような真正性、、学びへの切実感を持ち込むこと、それを動因として主体的な学びの姿勢を獲得していくことが期待できると考える。また医療実践の文脈の中で医学生が医師の仕事の何たるかを知りるように、科学者・技術者の仕事の実相を知るよすがともなりうるであろう。

(1)文部科学省科学技術・学術政策研究所,2021、科学技術指標2021、調査資料-311

(2)小田康友・増子貞彦、2006、医学教育の現在と佐賀大学医学部の挑戦―PBLの理念と課題、佐賀大学高等教育開発センター大学教育年報2、60 -66

(3)Aikenhead ,G., Orpwood, G., Fensham,P.(2011): Scientific Literacy for a Knowledge Society. In C. Linder, L. Ostman, D.A. Roberts, P-O. Wickman, G. Erickson, & A. MacKinnon (Eds.), Exploring the landscape of scientific literacy (28-44). New York: 

 

 

科学教育は科学技術の生み出すリスクを扱うことができるのか

(1)科学教育は科学の系統性に沿って基礎(ここでは初歩という意味で使っている)から積み上げる教育ではないのか?科学の系統性を飛び越えて原発だとか遺伝子組み換えのような高度な科学技術の生み出すリスクを扱うことなどできるのか?

 確かに科学には一定の系統性が存在する。原子・分子の存在を知らずして化学反応を正確に理解することはできないし、原子核を知らずして核反応を理解することはできない。しかし、基礎から積み上げていくことに科学技術の学びを限定するという考え方には大きな難点がある。科学技術と社会の界面において問題が持ち上がってくるのは、リスクの大きさや種類がはっきりしない先端的な科学技術の社会実装の場面であることが多い。科学技術の系統性に沿って、基礎から知識を積みあげていかなければならないとしたら、先端まで達するには膨大な時間を必要とする。ほとんどの市民にとってそんなことは不可能であって意思決定は専門家に丸投げするほかなくなる。それは民主主義社会にとって明らかに不適切な意思決定である。そうだとすればここでは発想の転換が必要となるだろう。市民にとって必要なのは個別的知識というよりも総合的判断力であり、自分たちが意思決定の主体であるという自覚と主体性であると考えるのである。基礎から積み上げる学習がなくなるわけではないが,それは既存の知識体系を内化することを目的とするわけではなく,科学技術に関わる意思決定に必要になるから学習するのである.そこでは教育の意義が変容している。ある事柄について「どれほど知っているか」ではなく、その事柄について意思決定するためには「何を学ばなければならないかを知っている」、そして「学んだことを意思決定にどう活用するか考える」ことの方が重要となる。そしてこのような意味を持つ教育を行おうと思えば、それは初歩から高等へ、易から難へと続く知の階段を昇るというよりも、むしろ科学技術と社会の界面に生じる具体的な問題(トランスサイエンス問題)を対象とし、問題についての意思決定を行う行為の中に知識習得が埋め込まれるという形の教育になるであろう。知識は意思決定に先立って一般的な知識として学ばれるのではなく、ある具体的な問題についての意思決定に必要な資源として意思決定の文脈の中で選択され、学習されていく。使うことによって知識を学ぶのである。

これはスポーツの試合とそのスポーツに必要なスキルとの関係を考えればわかりやすいかもしれない。探求活動が盛んなある高校の教師が探求をバスケットにたとえていた。バスケットにはドリブルやパスが要素として含まれている。それらの要素的スキルをしっかり練習することによってバスケットが上達するというのが普通の考え方である。探求活動を始めた当初はこの考え方に立ち、探求に必要なスキル、アンケートの仕方とかインタビューの方法とかを探究活動に先立って学ばせていたが、いざ探究活動を行うとそれらのスキルが活用できていない、そこで考え方を変え、いきなり探求活動を行わせ、早く多数回の探求を回すこと、つまりバスケットでいえば試合をたくさん行うことによって探求活動の成果が上がるようになったというのである。スキルは探求の中で学んでいく。「探求から基礎に降りていく学び」が成立しているのである。同じことが、科学技術と社会の界面に生じる具体的な問題を学ぶ際にも言える。意思決定を行う経験の文脈の中でその決定の基礎となる知識が学ばれていくのである。このような学習の形態であっても基礎的知識を学ぶことができる、むしろいわゆる生きた知識(活用できる知識)となることは前章で取り上げた三島や吉野川第10堰、あるいは原発立地や福島第一原発の事故後の市民による放射線とその健康影響についての学習といった事例がよく示している。

科学教育の歴史と現在

まず科学教育の明治以降の歴史を簡単に振り返ることから始めてみよう。よく知られているように第2次世界大戦までの政府の政策の眼目は富国強兵である。富国のためにも強兵のためにも欧米から科学技術を移入して近代軍隊と近代産業を立ち上げ、強化すると共に、軍隊と産業を担う科学技術人材を育成することが必要である。それを制度的に担ったのが帝国大学士官学校であり、それにつながる高等学校、中学校(現在の高等学校)の学校理科である。これらのエリート教育の系統においては、科学教育は軍事と産業に奉仕するという明確な方向付けの下、科学技術の専門家を養成すること及び科学技術に適性のある生徒,学生を選抜し,選抜した学生を教育することが科学教育の主要な機能であったと言ってよい。一方、小学校の理科は初期には自然科学を学ぶことをその目的とし,その意味で中学校以降のエリート教育との連続性が見られたが、明治中期以降、「理科ハ自然科学ノ各分野ノ初歩ヲ教エルノデワナク,人生二緊密二関係ガアリ,児童ガ日目撃スル天然物及ビ現象二関ス 知識ヲ得サセルコト」(小学校令に規定された理科教育の目的)とあるように日常生活との関連性が重視され、自然科学を教える中学校以上の科学教育と必ずしも整合的とは言えなくなる。これは発達段階への配慮の他、中学校(男子のみ)への進学率が第2次世界大戦直前の昭和15年の段階でも7%であり、教育内容面での小学校教育との接続が大きな問題ではなかったこと、「「理科教育振興」と「皇国民錬成の徹底」という方針との間のジレンマ」(1),つまり理非を超えた超越的権威を認めない自然科学のまなざし(科学的態度)が自然科学の領域を超え出て天皇制国家秩序にも向けられることに対する支配層の危惧など様々な要因が働いていたと思われる。しかし第2次世界大戦が始まると小学校は国民学校となり、「科学ノ進歩ガ国運ノ興隆二貢献スル所以ヲ理会セシメルト共二,皇国ノ使命二鑑ミ,文化創造ノ任務ヲ自覚セシムベシ」(国民学校令)と富国強兵がストレートに持ち込まれるようになる。

第2次大戦後、教育内容の国家基準が廃され(文部省は学習指導要領は作成したが試案とされ、その採用は自治体に任されていた),国家の発展に有用な科学技術の専門家を育てるという科学教育の目的は後景に退いた。学習指導要領自体も児童生徒の日常生活への有用性という側面が強調されており、教育現場でも、地域産業や民主主義を支える市民を育成するという科学教育の目的が意識されるようになった。アメリカの進歩主義教育に影響を受け、日常生活や地域社会の改善を目的とした生活単元学習・問題解決学習と呼ばれる理念の下で作成されたカリキュラムが全国の自治体や学校で独自に作成され、実施された。

しかしこれは長くは続かない。市民に有用な理科という視点はよいとしても、それが日常生活や農工業など地域産業に役立つ科学的知識ということに限定的に解釈されてしまうと理科が関連性の明確でない雑然とした知識の集積になってしまう危険性がある。日常生活や地域の中から問題を見出し、それを解決しようとする過程を通して理科や社会科を学んでいく問題解決学習は、優れた教育的力量を持っている教師が指導すればすばらしい成果を上げるが(戦後教育の金字塔と呼ばれる「やまびこ学校」は教科教育の実践とはみなされていないが、まさにこのような実践だったと私は考えている)、それをすべての教師に期待することは難しい。活動しているだけで満足してしまい、教育が成立していないのではないかという「這いまわる理科」批判が広がった.進歩主義教育が社会主義と近いのではないかと警戒されたという側面もある。教育現場にも保護者にも地域にも戦後教育改革への疑念が芽生えてきたのである。

教育界の外部からも戦後の教育改革への批判が噴出する.朝鮮戦争の特需で息を吹き返した日本の産業は、産業を支える科学者・技術者(工業高校卒業者のような初級技術者を含む)を大量に育成するための教育を求めるようになり、財界(主として日経連)は戦後教育を修正し.科学技術人材を育成する教育を充実することを求める提言を数次にわたり政府に提出した。政府もそれに応え、中央教育審議会は「戦後わが国の教育は,その改革が急激に行われたため,科学技術教育の面からみて,教員組織・施設・設備等においてはなはだ不備があり,その内容も各学校段階間に関連性を欠き,多くの問題を包蔵しており,進歩した科学技術の要請する科学者・技術者を養成することは,質においても量においても望み難い現状である。このことは諸外国において,膨大な経費を投じ画期的な科学者・技術者の養成計画を樹立し,真剣に科学技術教育の振興をはかっている今日,深く反省されなければならないところである」(2)との認識を示し、「数学(算数)・理科および技術に関する教科においては,内容を精選して基本的・原理的事項が系統的にじゅうぶん学習されるようにする」(2)と科学技術者養成に結びつく初等中等科学教育の内容の系統化に取り組むことを明示した。以後、指導要領は概ね10年に1回の間隔で改訂されていくことになるが、科学技術立国に向け、科学技術のフロントを広げていくことができる科学技術の専門家養成のための基礎教育という科学教育の位置づけは変化していない。

過去、高等学校においては理科Ⅰ、理科総合などの市民教育を視野においた科目が行われたことがあり、また現行学習指導要領(2018年告示)の「科学と人間生活」では「これからの科学と人間生活との関わり方について科学的に考察し表現する」(3)ことになっているなど教師の解釈次第で科学と社会のかかわりについて深く追求できる可能性を備えている科目も存在する。中学校の理科にも「科学技術と人間」「自然と人間」という科学技術について扱う単元が存在する。その意味では市民が科学と社会のかかわりを考えるための科学教育という視点が存在していないわけではない。しかし中学校ではこれらの単元は入試に出題されることも少なく、「おまけ」的に扱われることが多い。高校においては物理、化学、生物、地学の名を冠した科目、親学問とでも言うべき学問体系が存在していてその初歩という位置づけになっている科目が本流とみなされており、そうでない科目は「学問的な質が低いと思われ」「それが学校の名声に影響すると思われている」ため履修率は低くなっている(4)。これらの科目は「理科系科目の苦手な中学生や高校生に理科を教える方策」、「やさしい理科」と考えられているのである(5)。松山圭子はこの現状を「教える側が くやさしい科学〉 はしょせん くやさしい科学〉 だという程度の意識ならば、 STS 教育(科学・技術・社会の関係を扱う教育)は二流の教育になる」(5)と批判している。「市民のための科学教育はどうあるべきか」という問題意識の下に原発、遺伝子組み換えなどのトランスサイエンス問題に関する意思決定を扱う良質の実践も存在する(たとえば内田隆は原発を素材とした参加型テクノロジーアセスメントを高校の教室で再現する実践を行っている(6))が、散発的なものにとどまっており、その影響力は乏しいと言わざるを得ない。

このような基調の中にある科学教育においては、科学教育の中で市民教育は二義的なものにならざるを得ない。市民の位置づけは科学技術人材をそこからくみ出すプールであり、山頂(優秀な科学技術の専門家)を支える裾野である。小学校から大学へと続く科学教育の経路の中で科学技術の専門家となることがメインゴールであり、非専門家となることはサブゴール、脇道となる。高校で理系、文系の区分けをする学校が多いが、文系は文系科目が得意な生徒の集団(もちろんそのような生徒もいるが)というよりも理科・数学が得意でない生徒の集団、いわば理系を積極的に選択しなかった残余の生徒と考える意識が生徒にも教師にも根強いのは教育のこの構造に由来している。近年の理科・数学エリート校(SSH,スーパーサイエンスハイスクール)への人的・財政的テコ入れ等の理科・数学教育強化政策は端的に言うと高校段階からの理数系英才教育であり、この構造をさらに強化している。

ただ公平を期して言うならば。このような構造に利点がないわけではない。高等教育が初等中等教育の基礎に立つ以上、初等中等教育が科学技術の専門家をリクルートする役割を持っていることは確かである。自然科学という知的営みの持つプロセスの厳密さ、論理の明晰さを追体験することが経済、政治など社会生活の他の領域にも転移可能である(たとえば寺田虎彦の随筆はそのことをよく示している)こと、つまり知的スキルの習熟という意味合いもあるだろう。またなによりも国民すべてが専門家になりうる可能性を与えるという点では教育の機会均等の理念の現実化であることも確かである。すくなくとも中学校以上ではエリートを育て、小学校では体制に従順な民衆を育てるというエリートと民衆を画然と区別した戦前の教育よりははるかに民主的である。科学教育協議会など日本の戦後の民間教育運動が「理科は自然科学を教える教科である」ことにこだわり、文部省(文科省)の教育政策を差別・選別の教育だとして批判してきたのは、この戦前の愚民化政策の再来を警戒しているからに他ならない。

だがこの章の始めにも述べた「民主主義の目詰まり」を洗い流し、科学技術の生み出すリスクをそのリスクを生み出すセクターの意図にのみ委ねないで(それはしばしば当該セクターの利益を守る方向にゆがめられる)、市民が主体的・民主的にコントロールする、つまり科学技術を統治する(正確に言えば科学技術の専門家と共同して統治するので共治とするべきだが、共治という用語は一般的ではないので統治とする)ためには、このことを主たる目的に据えた市民教育が科学教育の主流となる(mainstreaming)ことが不可欠と私は考える。市民教育の性質上、それはすべての市民にとって必要であり、そして科学技術の専門家もその専門以外の分野においては市民である以上、科学技術の専門家のための基礎教育は市民教育という幹から派出する枝であり、幹はあくまでも市民教育である。

ではこのような教育は具体的にはどんな内容となるのであろうか。次にこのことを論じてみたいが、その前に上のような主張に読者の皆さんが感じるであろう疑問について筆者なりの回答を述べておきたい。

(1)三石初雄(1978):国民学校低学年理科における教育内容・方法及び自然観の検討--教師用書「自然の観察」の分析を通して, 人文学報13号, 159-192

(2)中央教育審議会(1957):科学技術教育の振興方策について(答申) (第14回答申(昭和32年11月11日)),https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/571101.htm

(3)文部科学省(2018):高等学校学習指導要領理科「科学と人間生活」.https://erid.nier.go.jp/files/COFS/h30h/chap2-5.htm

(4)科学技術振興機構(2015):科学技術リテラシーに関する課題研究報告書

https://www.jst.go.jp/sis/archive/items/literacy_01.pdf

(5)松山圭子(1999 ):大学教養教育としてのSTS教育,青森公立大学紀要,5(1),18-26

(6)内田隆(2015):未来のエネルギー政策を題材としたシナリオワークショップ ~参加型テクノロジーアセスメントの手法を利用した理科教材の開発と実践~,理科教育学研究 55(3) 425-436

科学教育の歴史と現在

まず科学教育の明治以降の歴史を簡単に振り返ることから始めてみよう。よく知られているように第2次世界大戦までの政府の政策の眼目は富国強兵である。富国のためにも強兵のためにも欧米から科学技術を移入して近代軍隊と近代産業を立ち上げ、強化すると共に、軍隊と産業を担う科学技術人材を育成することが必要である。それを制度的に担ったのが帝国大学士官学校であり、それにつながる高等学校、中学校(現在の高等学校)の学校理科である。これらのエリート教育の系統においては、科学教育は軍事と産業に奉仕するという明確な方向付けの下、科学技術の専門家を養成すること及び科学技術に適性のある生徒,学生を選抜し,選抜した学生を教育することが科学教育の主要な機能であったと言ってよい。一方、小学校の理科は初期には自然科学を学ぶことをその目的とし,その意味で中学校以降のエリート教育との連続性が見られたが、明治中期以降、「理科ハ自然科学ノ各分野ノ初歩ヲ教エルノデワナク,人生二緊密二関係ガアリ,児童ガ日目撃スル天然物及ビ現象二関ス 知識ヲ得サセルコト」(小学校令に規定された理科教育の目的)とあるように日常生活との関連性が重視され、自然科学を教える中学校以上の科学教育と必ずしも整合的とは言えなくなる。これは発達段階への配慮の他、中学校(男子のみ)への進学率が第2次世界大戦直前の昭和15年の段階でも7%であり、教育内容面での小学校教育との接続が大きな問題ではなかったこと、「「理科教育振興」と「皇国民錬成の徹底」という方針との間のジレンマ」(1),つまり理非を超えた超越的権威を認めない自然科学のまなざし(科学的態度)が自然科学の領域を超え出て天皇制国家秩序にも向けられることに対する支配層の危惧など様々な要因が働いていたと思われる。しかし第2次世界大戦が始まると小学校は国民学校となり、「科学ノ進歩ガ国運ノ興隆二貢献スル所以ヲ理会セシメルト共二,皇国ノ使命二鑑ミ,文化創造ノ任務ヲ自覚セシムベシ」(国民学校令)と富国強兵がストレートに持ち込まれるようになる。

第2次大戦後、教育内容の国家基準が廃され(文部省は学習指導要領は作成したが試案とされ、その採用は自治体に任されていた),国家の発展に有用な科学技術の専門家を育てるという科学教育の目的は後景に退いた。学習指導要領自体も児童生徒の日常生活への有用性という側面が強調されており、教育現場でも、地域産業や民主主義を支える市民を育成するという科学教育の目的が意識されるようになった。アメリカの進歩主義教育に影響を受け、日常生活や地域社会の改善を目的とした生活単元学習・問題解決学習と呼ばれる理念の下で作成されたカリキュラムが全国の自治体や学校で独自に作成され、実施された。

しかしこれは長くは続かない。市民に有用な理科という視点はよいとしても、それが日常生活や農工業など地域産業に役立つ科学的知識ということに限定的に解釈されてしまうと理科が関連性の明確でない雑然とした知識の集積になってしまう危険性がある。日常生活や地域の中から問題を見出し、それを解決しようとする過程を通して理科や社会科を学んでいく問題解決学習は、優れた教育的力量を持っている教師が指導すればすばらしい成果を上げるが(戦後教育の金字塔と呼ばれる「やまびこ学校」は教科教育の実践とはみなされていないが、まさにこのような実践だったと私は考えている)、それをすべての教師に期待することは難しい。活動しているだけで満足してしまい、教育が成立していないのではないかという「這いまわる理科」批判が広がった.進歩主義教育が社会主義と近いのではないかと警戒されたという側面もある。教育現場にも保護者にも地域にも戦後教育改革への疑念が芽生えてきたのである。

教育界の外部からも戦後の教育改革への批判が噴出する.朝鮮戦争の特需で息を吹き返した日本の産業は、産業を支える科学者・技術者(工業高校卒業者のような初級技術者を含む)を大量に育成するための教育を求めるようになり、財界(主として日経連)は戦後教育を修正し.科学技術人材を育成する教育を充実することを求める提言を数次にわたり政府に提出した。政府もそれに応え、中央教育審議会は「戦後わが国の教育は,その改革が急激に行われたため,科学技術教育の面からみて,教員組織・施設・設備等においてはなはだ不備があり,その内容も各学校段階間に関連性を欠き,多くの問題を包蔵しており,進歩した科学技術の要請する科学者・技術者を養成することは,質においても量においても望み難い現状である。このことは諸外国において,膨大な経費を投じ画期的な科学者・技術者の養成計画を樹立し,真剣に科学技術教育の振興をはかっている今日,深く反省されなければならないところである」(2)との認識を示し、「数学(算数)・理科および技術に関する教科においては,内容を精選して基本的・原理的事項が系統的にじゅうぶん学習されるようにする」(2)と科学技術者養成に結びつく初等中等科学教育の内容の系統化に取り組むことを明示した。以後、指導要領は概ね10年に1回の間隔で改訂されていくことになるが、科学技術立国に向け、科学技術のフロントを広げていくことができる科学技術の専門家養成のための基礎教育という科学教育の位置づけは変化していない。

過去、高等学校においては理科Ⅰ、理科総合などの市民教育を視野においた科目が行われたことがあり、また現行学習指導要領(2018年告示)の「科学と人間生活」では「これからの科学と人間生活との関わり方について科学的に考察し表現する」(3)ことになっているなど教師の解釈次第で科学と社会のかかわりについて深く追求できる可能性を備えている科目も存在する。中学校の理科にも「科学技術と人間」「自然と人間」という科学技術について扱う単元が存在する。その意味では市民が科学と社会のかかわりを考えるための科学教育という視点が存在していないわけではない。しかし中学校ではこれらの単元は入試に出題されることも少なく、「おまけ」的に扱われることが多い。高校においては物理、化学、生物、地学の名を冠した科目、親学問とでも言うべき学問体系が存在していてその初歩という位置づけになっている科目が本流とみなされており、そうでない科目は「学問的な質が低いと思われ」「それが学校の名声に影響すると思われている」ため履修率は低くなっている(4)。これらの科目は「理科系科目の苦手な中学生や高校生に理科を教える方策」、「やさしい理科」と考えられているのである(5)。松山圭子はこの現状を「教える側が くやさしい科学〉 はしょせん くやさしい科学〉 だという程度の意識ならば、 STS 教育(科学・技術・社会の関係を扱う教育)は二流の教育になる」(5)と批判している。「市民のための科学教育はどうあるべきか」という問題意識の下に原発、遺伝子組み換えなどのトランスサイエンス問題に関する意思決定を扱う良質の実践も存在する(たとえば内田隆は原発を素材とした参加型テクノロジーアセスメントを高校の教室で再現する実践を行っている(6))が、散発的なものにとどまっており、その影響力は乏しいと言わざるを得ない。

このような基調の中にある科学教育においては、科学教育の中で市民教育は二義的なものにならざるを得ない。市民の位置づけは科学技術人材をそこからくみ出すプールであり、山頂(優秀な科学技術の専門家)を支える裾野である。小学校から大学へと続く科学教育の経路の中で科学技術の専門家となることがメインゴールであり、非専門家となることはサブゴール、脇道となる。高校で理系、文系の区分けをする学校が多いが、文系は文系科目が得意な生徒の集団(もちろんそのような生徒もいるが)というよりも理科・数学が得意でない生徒の集団、いわば理系を積極的に選択しなかった残余の生徒と考える意識が生徒にも教師にも根強いのは教育のこの構造に由来している。近年の理科・数学エリート校(SSH,スーパーサイエンスハイスクール)への人的・財政的テコ入れ等の理科・数学教育強化政策は端的に言うと高校段階からの理数系英才教育であり、この構造をさらに強化している。

ただ公平を期して言うならば。このような構造に利点がないわけではない。高等教育が初等中等教育の基礎に立つ以上、初等中等教育が科学技術の専門家をリクルートする役割を持っていることは確かである。自然科学という知的営みの持つプロセスの厳密さ、論理の明晰さを追体験することが経済、政治など社会生活の他の領域にも転移可能である(たとえば寺田虎彦の随筆はそのことをよく示している)こと、つまり知的スキルの習熟という意味合いもあるだろう。またなによりも国民すべてが専門家になりうる可能性を与えるという点では教育の機会均等の理念の現実化であることも確かである。すくなくとも中学校以上ではエリートを育て、小学校では体制に従順な民衆を育てるというエリートと民衆を画然と区別した戦前の教育よりははるかに民主的である。科学教育協議会など日本の戦後の民間教育運動が「理科は自然科学を教える教科である」ことにこだわり、文部省(文科省)の教育政策を差別・選別の教育だとして批判してきたのは、この戦前の愚民化政策の再来を警戒しているからに他ならない。

だがこの章の始めにも述べた「民主主義の目詰まり」を洗い流し、科学技術の生み出すリスクをそのリスクを生み出すセクターの意図にのみ委ねないで(それはしばしば当該セクターの利益を守る方向にゆがめられる)、市民が主体的・民主的にコントロールする、つまり科学技術を統治する(正確に言えば科学技術の専門家と共同して統治するので共治とするべきだが、共治という用語は一般的ではないので統治とする)ためには、このことを主たる目的に据えた市民教育が科学教育の主流となる(mainstreaming)ことが不可欠と私は考える。市民教育の性質上、それはすべての市民にとって必要であり、そして科学技術の専門家もその専門以外の分野においては市民である以上、科学技術の専門家のための基礎教育は市民教育という幹から派出する枝であり、幹はあくまでも市民教育である。

ではこのような教育は具体的にはどんな内容となるのであろうか。次にこのことを論じてみたいが、その前に上のような主張に読者の皆さんが感じるであろう疑問について筆者なりの回答を述べておきたい。

(1)三石初雄(1978):国民学校低学年理科における教育内容・方法及び自然観の検討--教師用書「自然の観察」の分析を通して, 人文学報13号, 159-192

(2)中央教育審議会(1957):科学技術教育の振興方策について(答申) (第14回答申(昭和32年11月11日)),https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/571101.htm

(3)文部科学省(2018):高等学校学習指導要領理科「科学と人間生活」.https://erid.nier.go.jp/files/COFS/h30h/chap2-5.htm

(4)科学技術振興機構(2015):科学技術リテラシーに関する課題研究報告書

https://www.jst.go.jp/sis/archive/items/literacy_01.pdf

(5)松山圭子(1999 ):大学教養教育としてのSTS教育,青森公立大学紀要,5(1),18-26

(6)内田隆(2015):未来のエネルギー政策を題材としたシナリオワークショップ ~参加型テクノロジーアセスメントの手法を利用した理科教材の開発と実践~,理科教育学研究 55(3) 425-436

第3部 科学リテラシーの再構築―科学を統治する市民を育てる 緒言

これまで述べてきたように現在の科学技術と社会の関係は「社会の科学化」.「科学の社会化」というべき状況にある.社会の科学化と科学の社会化は密接な関係を持ちながら進行し,科学技術と社会が分かちがたく結びついて「科学―社会複合体」を形成している.トランスサイエンスの領域が拡大しているのである.その中で科学技術が民主的統制を離れ、政治が科学技術やグローバル経済にかかわる諸セクターが生み出すリスクをコントロールできなくなってきている状況、諸セクターが政治のコントロールを離れて半ば自律的に作動するサブ政治化が進行している.「民主主義の目詰まり」である.「民主主義の目詰まり」を解消するために,科学技術は市民との関係性を組みなおし,欠如モデルから対話と関与のモデルへの転換を迫られている.ではこのことが教育へどのような含意を持ち,教育はどのようにこの状況に対応していけばよいのだろうか.

筆者は科学教育(初等中等教育で言えば理科教育)でほとんど等閑視されてきたこの問題に向き合い,むしろこの問題の解決を科学教育の中心的な使命とすることが必要だと考えている.後で述べるように現在の科学教育は,普通教育と言われている義務教育,高校の普通科教育も含め,その中心的使命が科学技術の専門家養成となっており,普通教育は専門家教育のための予備教育となっている.むろん普通教育としての科学教育の理念が存在していないわけではないが,実態的には,普通教育は科学技術の専門家養成に向け,科学技術に適性を持つ候補者を絞り込むプロセス,もっと有体に言えば理科・数学が得意な生徒を理系に囲い込み,それ以外の生徒を文系に分類して進路を切り分けていくプロセスとなっている.これでは教育が「民主主義の目詰まり」のいわば培養基となっていると言わざるを得ない.

この状態を改革し,科学教育を本来の意味での市民教育,具体的に言えば,専門家と共に科学技術の発展の方向性を考え,科学技術政策に関する意思決定を行い,市民自身も政策執行のアクターとなるための教育を科学教育の中核にすえることが必要と筆者は考えている.科学技術の専門家となるための教育あるいは科学技術の専門家への教育(現職教育)はこの市民教育の基礎の上に構築されるべきである.比喩的に言えば現在の教育は科学技術の専門家養成が幹であり,市民教育はそこから分かれていく枝である.この関係を転換し,市民教育を幹とし,専門家教育を枝とするのである.このようなコンセプトの転換は専門家教育にも変容を要求することになる.市民と協働し,市民を支えることを専門家の重要な使命と考える志向性を教育の目的として明示することが求められる.

以上の前提に立って以下では科学教育(主に初等中等教育)の現状と筆者の考える科学教育改革の方向性を考えてみたい.

なお科学教育は科学技術教育として工学を含める方が本書の趣旨には適当であるが、やや語が長く、技術教育も含めて科学教育と呼ばれることもあるので、ここでは科学教育と呼んでいる。