リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 5 第三段階 教材作成

第3段階(教育実践)

 第3段階は教育実践の場である.ここでは教師は地域の事情や個々の学習者の学習状況を考慮して補足することはあるにしても,トランスサイエンス問題を直接教えることは最小限にとどめるのが望ましい.トランスサイエンス問題の内容及びトランスサイエンス問題を理解するための基礎となる科学的知識自体はカリキュラムと紐づいた資料や経験の組み合わせ(印刷物、動画、専門家どうしの討論の中継、現場見学,当事者の講演やインタビュー等)によって極力提供し、教師を教授者の役割から解放し、「学習者相互及び学習者と専門家を含むトランスサイエンス問題のステークホルダーとが議論する際のコーディネートを行う」ことに集中してもらうのである。コーディネーターは単なる司会ではなく、以下の使命がある。

①寛容と信頼と責任の雰囲気の醸成

 率直で建設的な議論を行うためには、議論の参加者の間で他者への権威主義的・攻撃的・冷笑的な態度を控え、参加者が相互を尊重し、他者の考えを否定しない寛容の雰囲気を保つ必要がある。教師は議論のオーガナイザーとして寛容の雰囲気の醸成を行うことが求められる。これはトランスサイエンス問題に限らず、議論一般に求められることであるが、トランスサイエンス問題を議論する際に特に求められる雰囲気もある。それはトランスサイエンス問題という高度な専門知が関与する問題であっても、市民は自分の頭で考えることができ、行きつ戻りつしながらも、専門家も交えて皆でじっくり話し合うこと(熟議)により正解に近いものを探していける、意思決定ができるという信頼、ハンガーフォードの語を借りるならばいわば市民的公共圏への信頼である。それは裏を返せば専門家に責任を押し付けることなく市民も意思決定の責任を分かち持つという責任の感覚である。

教師はこの寛容と信頼と責任の雰囲気を議論に参加するもの全員で作っていかなければならないことを強調し、調整していくことが求められる。

②ゆさぶり この議論は正解にたどりつくことを目的とした議論ではない。議論を通してトランスサイエンス問題を考えを深めていくことが目的である。考えを深めるためのコーディネートには、ときには積極的に議論に介入し、議論を揺さぶることも求められる。議論がある特定のステークホルダーの論理に偏する形で進んでしまったり、議論を深めることなく立場の違いを追認するだけの議論(みんなちがってみんないい)に収束してしまいそうだったりという場合はその議論をゆさぶってやるのである。。たとえば大規模開発に地元住民の受容は大切だというがその地元とは何だろうか?自然保護と開発の対立を考える際、その自然とは何をさすだろうか?水田や人工林といった人の手が加わることによって成り立つ「自然」は自然なのだろうかといった疑問を投入することによって固縮しがちな思考をゆさぶり、ステークホルダーの論理の背景にある価値観を学習者に気づかせたり、学習者が自身の価値観や自明のものと思っていて意識していない前提に気づくのを助けるのである。もちろんこれはおしつけとは異なる。「自分の頭」で考えてみる、「自分の頭」で考えたことを他者との議論の中で吟味することを促すためにゆさぶるのである。

③トランスサイエンス問題のメタ科学的側面への注目 トランスサイエンス問題の教育において科学的知識を扱うことは当然である。しかし科学的知識を身に着けることがトランスサイエンス問題の教育の主たる目的ではない。トランスサイエンス問題について専門家の補佐を得ながらも自分の頭で考え、意思決定を行うことができる市民を育成することがトランスサイエンス問題の教育の眼目である。そのためには、教師は、学習者がトランスサイエンス問題についての議論のメタ科学的側面(「科学技術へのクライアントシップ」の節で述べた「科学が知識生産システムとして持っている特性」)に注意を向け、その観点からトランスサイエンス問題についてアプローチすることを促す役割を果たすことが求められる.

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 4 第二段階 教材作成

第二段階(教材作成) 第一段階で生産的な議論が行われていれば、それ自体が良質な教材となりうる。大学生あるいはある程度トランスサイエンス問題についての学習をすすめてきた高校生には第一段階での議論をネットで中継し、リアルタイムで見せながら議論に参加してもらうようなこと、イメージとしてはNHKで放映されているマイケル・サンデルの「白熱教室」のような経験の機会を提供することも考えられる。しかし予備知識があまりない段階で、第一段階での専門家の議論をそのまま理解せよというのは非現実的であり,また専門家の議論で触れられることがなくても前々節(科学への留保付きの信頼)や前節(科学の方法論)で見た,トランスサイエンス問題の教育で扱うべき論点があるので、補足的な教材の開発が必要となる。それが第2段階である.

教材には3つの役割がある、一つは第一段階での専門家の議論をより分かりやすくリアルなものに再構成することである。例えばシミュレーションである。地球温暖化や自然災害などはThe Climate Trailとか浸水ナビのようなシミュレーターが存在する。シミュレーションとVRやARを組み合わせることで、学習者の居住地域の災害被害や温暖化に伴う生物相の変化をリアルに追体験できるようになるだろう。ロールプレイも有効な方法である。たとえばPLT(Project Learning Tree)という環境教育団体が開発しているFocus on Riskというカリキュラムでは,電気製品の電磁場規制を求める法律が州議会上院で審議されていると仮定し,通常の電磁場がガンなどの有害な影響をもたらす証拠はないとする全米研究評議会,送電線とガンの発生の間に弱い相関が見出されている研究があることに注目し,電磁場規制を行うと同時に研究をさらに進めるべきだと主張する生体電磁気学会,電機製品の電磁場規制を行う法律は不要であり,そのような法律は産業を損ない,職の喪失につながるとする電気製品団体,電磁場規制の法律は公衆,とくに子どもの健康への潜在的な危険を防ぐ意味があるとして電磁場規制に賛成する医師会など様々な立場に生徒を割り振ってそれぞれの立場から上院議員の立場の生徒に公聴会で主張を展開,上院議員が立法の是非を判断するというロールプレイを行っている.このようなロール(役割)の体験は疑似的ではあるが当事者意識を喚起し、情緒的反応も含めて当事者の意思決定を内面から理解する助けになるだろう。

もう一つの役割は、地域性の補足である.地域によって直面するトランスサイエンス問題は異なっている.原子力発電所立地地域ではもっともリアルに感じられるトランスサイエンス問題はやはり原発であろうし,原発も地域ごとにその抱える問題(たとえば事故の際の避難手段,想定される地震の種類や震度,地域経済との関係など)は少しずつ異なっている.この地域性の補足を行うことによって学習者が自分の経験と関連付け,より腑に落ちて理解することができる.従来,地域性の補足は教師が授業準備の一環として行うのが普通であり,そこが教師の腕の見せ所でもあった.しかしこれは手間も知識も必要で簡単に行えることではない.教師の創意を尊重しつつも当該のトランスサイエンス問題の専門家や媒介の専門家,地域をよく知っている地元の人と教師がチームを組んで現場見学や当事者へのインタビューも含め地域性を補足する教材の開発を行うのが望ましい.

第2段階では教材作成と並んでその教材を効果的に利用するための教師教育も行われることが望ましい.教材開発と教師教育は車の両輪であって,優れた教材開発がなされても実施に当たる教師がその意図を理解し,意図に沿った活用をしてくれないと教材の教育効果は期待できない.

教師教育では教材の内容と手法についての説明は当然なされるが,それと並んで重要なのが,「科学技術へのクライアントシップ」の節で取り上げた「科学が知識生産システムとして持っている特性」(可変性・可謬性,多様性・累積的進歩・真理への漸近性,前提の厳密性・前提による議論の拘束,公開性・選択肢の提示・あいまいさの許容,(市民の)エンパワメント・責任・自己決定・自己信頼)である,教師にはこの点に留意して教育実践を行ってもらわねばならないので,どのトランスサイエンス問題を取り上げる場合でも,この「科学が知識生産システムとして持っている特性」を扱っておく必要がある.特に(市民の)エンパワメント・責任・自己決定・自己信頼の項目,トランスサイエンス問題についての社会の方向性は広い意味での政治,つまり市民が決めていくのだということは強調しておく必要がある.

当該のトランスサイエンス問題の理解に必要であっても,専門家どうしの議論の中に取り上げられなかったものについては補足しておく必要があるだろう.たとえば日本の原子力政策はおおむねエネルギー政策の枠内で論じられることが多いが,使用済み核燃料の処理(再処理なのか直接処分なのか)には安全保障政策(核開発)が密接にかかわってくる.AIの脅威を考える際には,AIに職業が代替されていくというような直接的な脅威だけではなく,「意志とは何か」,「身体性とは何か」という根本的でどう取りあつかっていいかわからない哲学的疑問がからんでくることもふれておいたほうがいいだろう.

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 4 第一段階その2 媒介の専門家の役割

ではこの第一段階において媒介の専門家は何を行うのだろうか,その使命は3つある。

①カリキュラム化するトランスサイエンス問題とその問題についての議論を提供する専門家の選択 学校や市民のニーズに応じてカリキュラム化するべきトランスサイエンス問題を選択し,その問題への議論を提供してくれる専門家への依頼を行う.専門家への依頼を行うに際しては,専門家の意見の布置を調べ(マッピング)、できるだけその布置に対応した専門家を選択し、依頼する。

② 議論の前提の設定

 議論に参加してもらう専門家には下記に述べる議論の前提を理解しておいてもらう必要がある.その前提を議論の前に提示し,また議論がこの前提を踏まえなくなってきたときに適切に議論に介入して修正する.

a . 市民と専門家の関係 市民と専門家のあるべき関係については何回か述べてきたので,詳しくは述べないが,市民とのコミュニケーションが専門家に脅威をあたえるようなものではなく,むしろ専門家の孤立を防ぎ,専門家へのレスペクトにつながるものであることを納得してもらう必要がある.このことについて1951年という早い時期にマンハイムが述べているのでそれを引用しておこう.なお文中のコミュニティは市民社会,彼らあるいは「より明敏な人間類型」とは専門家を指す.「民主主義社会では、これらのより知識の豊かな、より明敏な人間類型の存在は極めて大切である。しかしながら、コミュニティにおけるかれらの位置は、他の者から隔絶したものや他の者を支配する位置であってはならないのであって、コミュニティが相互的交換を通してかれらの高い資質を分けもてるような位置でなければならない。真の民主主義社会は、高い才能と業績をもつ人間を孤立化させることなく、かれらとコミュニティの残りの者との間のコミュニケーション路線を創設することによって、かれらを統合する」(1)

b.専門家の役割 a.と関係するが、専門家の役割はかなり抑制的になる。「正しい知見」を提供することが専門家の役割ではなく、オルタナティブを提示することによって教室の中に公共圏を作りだすことが専門家の役割であることを理解してもらうことが必要になる.もちろん各専門家が各自の見解を正しいと考えるのは当然ではあるが、ここで想定している議論は,どの意見が正しいのかという専門家どうしで議論のヘゲモニーの掌握を競うような議論,勝ち負けを決めることを目的とした議論ではない.

あるトランスサイエンス問題についてどのようなオルタナティブがあるのか,それぞれのオルタナティブは何を根拠としているのか,合意できること(これが共通の基盤となる),合意できないこと(これが議論の焦点となる),立論の前提が変化することで合意が可能となること(これが議論に新しい視点を持ち込む)を明確にし,整理して学習者や教師、カリキュラム開発者に提示することが専門家とその議論を司会する媒介の専門家の役割である.

立論の前提が変化することで合意が可能となることを取り上げる意義は上に述べたが、では合意できないことを明確にすることにはどのような意義があるのだろうか。それは同じ現象(たとえば食糧危機)を対象としていても、論者によってそれをもたらす主要因(生産量が不足しているのか、貧困国・貧困層の購買力不足なのか)や問題解決へのアプローチが異なることが明らかになることでトランスサイエンス問題の多様な側面が学習者に意識されるようになり、先に述べた基本高水量のような議論の前提となる数字や想定についてすら論争がありうることを知ることで、学習者はよりラディカルに(根底的に)トランスサイエンス問題を考えられるようになることにある。

さらには専門家自身が自明のものとして考えている価値観(良きものとは何か、良きもののなかでも何を優先すべきかについての考え方、経済成長を重視するのか、社会的公正を重視するのかなど)とそれに基づいた政策も実は論者によって異なることが明らかになることによって専門家自身も気づいていないことが多い科学のイデオロギー性、そして政策決定のプロセスの中でどこからが科学でどこからが価値観であるか(市民の領域であるか)といったことが意識されることにある。

ここで大事なことは不一致や意見の変更を専門家の弱さとしてとらえないことである。先にも述べたが,不一致があるからこそ科学は進んでいくことができるのであり、不一致を強さとしてとらえる必要がある。教育学者のウィギンズとマクタイは教育学的に解釈する「理解」について論じ「理解は論争的でありうる。実際,21世紀において,理解はあらゆる領域において常にそうであった。事実,総合大学(university)は,その定義からいって複数のディスコースの「世界(universe)」である。そこは,私たちが合意するだけでなく意見を異にすることに合意した場所であり,新しい議論と証拠にもとづいて,私たちが意見を変えるだけでなく自由に決意することもできる場所である」(2)と述べているが、トランスサイエンス問題に対する「理解」についてもこの考え方を当てはめることができる。

③議論の司会と前提の保持

 議論の司会を行うが、司会の役割は結論を導くことではない。異なるオルタナティブを支持する専門家間で合意できること,合意できないこと,立論の前提が変化することで合意が可能となることを明確にしていくことにある。このゴールと上の②に述べた前提を参加する専門家にしっかり共有してもらい、勝ち負けの論争やあまりに細部にこだわるような意味のない議論への迷走を防ぐことが司会の役割である

カール・マンハイム(1971):自由・権力・民主的計画,池田秀男訳,未来社

グラント・ウィギンズ,ジェイ マクタイ (2012):理解をもたらすカリキュラム設計―「逆向き設計」の理論と方法,西岡加名恵 訳,日本標準

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 3 第一段階

以下,各段階について具体的に述べていく.

第一段階(論点整理)

 この段階では何か特定のトランスサイエンス問題について、どのようなオルタナティブがありうるのか、その中からどのオルタナティブを選択するべきか、その根拠は何か、ということについて当該の問題の専門家が議論し、何が合意できるのか、何が合意できないのか、合意できない場合、それぞれの専門家の立論の前提が変化することで合意が可能となるのかならないのかといったことを詰めていく。たとえば近年,出生前診断の普及に伴い,胎児が遺伝性の疾患を持つと診断された場合の人工妊娠中絶が増えている.このことについて国家などの権力が優生学的にそれを利用することについてはほとんどの専門家がこれに反対するという点で合意できるだろう.一方で出生前診断で胎児に障害が発見された場合,女性が自発的に人工妊娠中絶を行うことは出産に関する女性の権利(リプロダクティブ・ライツ)だと考え,胎児条項として法にそれを明記すべきとする専門家がいる.一方,出生前診断で胎児の遺伝病が判明した場合の選択的中絶は当該疾患の人々の生の価値を脅かすものであって女性個人の自己決定権であるリプロダクティブ・ライツに含めることはできないという専門家がいる.人工妊娠中絶できる条件として母体保護法第14条第1項の「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」という規定が援用され,いわば拡張解釈で実質的に選択的中絶が行われている現状に問題を認めつつも,法に胎児条項として明文化することは,国が、胎児の障害を中絶の「適応」と認めることであり,優生政策そのものであるとして,胎児条項には反対し,当面現状のままで政策変更をすべきではないとする専門家もいる.まずは合意できることとできないこと(合意できないと合意できたこと)がここで線引きされる.

 次の段階として,胎児の状況によってこの合意の境界線は動きうるのかどうか議論する.議論の分析にしばしば使われるモデルであるトゥールミンモデルにおける限定詞(主張の限界)についての議論に移っていくわけである.上記の例で言うならば,胎児条項を支持する場合でも,妊娠後期(22週以降)の胎児は母体外で生存が可能であり,この時期の中絶は新生児の殺害と線引きができなくなるとしてリプロダクティブ・ライツに含めないという見解もありうる.一方選択的中絶はリプロダクティブ・ライツに含めることはできないという見解であっても脊髄性筋萎縮症1型のような重篤な呼吸不全を伴い,ほとんどが乳児期に死亡するような,子どもにとって極めて過酷な経緯をたどる病気の場合には選択的中絶を認めるかもしれない.さらには遺伝子治療のようなゲームチェンジャーが登場すると境界は劇的に動きうる.中絶につながるという理由で出生前診断に反対している専門家の場合は,治療の可能性が開かれることでむしろ出生前診断の肯定へと変化する可能性もある(もちろん遺伝子治療の是非自体についても意見は分かれるので,この場合,議論が複雑化してしまうが・・).

このように個別事例に即した議論あるいは仮想的にはなってしまうが前提が変化した場合の議論を行うことは,むやみに議論を煩雑化してしまうように思われるかもしれないがそうではない.具体的な状況に即して合意の境界線は動きうるのであり,専門家各人の立場も可変的なものである.そのことがはっきりするのはこのような境界線の議論を行うことによってであり,初等中等教育や市民教育のカリキュラムの作成にあたっても示唆するとろが大きいと私は考えている.

なお,わかりやすくするために大きく2つの段階に分けたが,実際の議論をこの2段階で行うとは限らない.境界線的な個別事例から議論が始まるかもしれない.概念上2つの段階にわけたが,合意できること,合意できないこと,立論の前提が変化することで合意が可能となることが要素として入っていればそれでよい.

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 2

分量がごく少ないですが,キリがいいので教師を支えるしくみが3つの段階からなることの最初の部分を述べておきます

 

そのしくみは次の3段階からなる.

第一段階は論点整理の段階である.媒介の専門家(現在,このように認知された専門家が存在するわけではないが,科学論研究者などの科学をメタ的に分析する社会科学者,理科教育学の研究者などを想定している)が組織する専門家(たとえば問題が出生前診断である場合には出生前診断を推進したり批判する研究者やNPO,政策担当者等,対立するオルタナティブの主張を背景とした専門家が含まれていることが必要)相互の討論の場が設定される.ここで特定のトランスサイエンス問題について教育実践の場に提示する複数のオルタナティブが提示され,それらにかかわる論点整理が行われる.

第2段階はカリキュラム作成の段階である.第一段階の論点整理を受けて媒介の専門家と教師や教育学者(教育工学や教育方法論などを含む広い意味での教育学)の討論の場が設定される.ここでは教育実践の参考となるモデル的なカリキュラムの作成(モデル的と的をつけたのは,あくまでも参考であって教育実践を拘束することを意図していないという意味を含ませている)が行われる.

第3段階は教育実践の場である.学習者は資料等からトランスサイエンス問題について学ぶとともに,教師のコーディネートのもとに学習者相互及び学習者とトランスサイエンス問題のステークホルダー(専門家,問題に関与する市民等)との間で討論を行い,それを通して議論のメタ科学的側面に注意を向け,各人の依拠する価値観や支持するオルタナティブを(暫定的に)選択する.

以下,各段階について具体的に述べていく.

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 1

教師への支援の必要性についてもう少し述べてみたい.一般的に言って政府見解(ここでは、各種基本計画・方針など政府から公的に発信された言説一般を政府の見解と考えておく)が教育を通じて国民へと下りてくるという構造は好ましくない。しかし現実には、教育、特に初等中等教育の場では、政府見解は、他の言説とは一線を画され、実質的に「権威ある「正しい」言説」とみなされることが多い。文科省教育委員会という行政ルートから降りてくるということが背景にあることはもちろんだが、トランスサイエンス問題を扱う際の、いわば安全策が政府見解であることも大きいと私は考える。教師は授業のため教材研究を行い、授業の中で何を扱うか(教育内容)、どんな順序でどのように扱うか(教育方法)を設定する。この際、ガイドラインとなるのは教科書や既存の教材,先行する教育実践だが,トランスサイエンス問題についてはそのようなリソースは極めて乏しい.またトランスサイエンス問題には対立点を含む様々な言説があるが.授業で取り上げる言説については、「なぜその言説を選択したのか」の理由を教育者は説明する(説明責任)、少なくとも説明を考えておく責任がある。もっと端的に言えば、「偏向ではないか」、「なぜこの考え方を取り上げ、そちらの考え方は取り上げないのか」といった潜在的・顕在的クレームにどう返答するのか備える必要がある。そんな時便利なのが政府見解である。政府という権威ある情報源が知るべき情報を整理し,情報の中立性や信頼性を保証しているということで教材を探すしんどさを軽減できるし,説明責任は政府につけかえることができるからである。東日本大震災前にほぼ原発推進一色の原発副読本がさしたる抵抗なく教育現場に受容されたのは、教育現場が副読本は政府(文科省資源エネルギー庁)見解と受け取ったことが大きいと思われる。

こう書くと教育現場や教師の責任逃れを指摘しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。教育の中で取り上げるべき様々な問題があり、一つの問題についても数多の言説がある。その中で各問題について有力な言説は何か、言説間で何が相違点で何が一致点なのかといったことについて的確に判断することを個別の教師に求めるのは無理がある。何かのよりどころを求めるのは当然であろう。

問題は教師のスタンスにあるのではない。教師が適切な支援を得られないまま、トランスサイエンス問題を扱わなければならない現在の教室のしくみを問題と考えなければならない。

ではこの状況を何かしら改善していくことはできるだろうか。上述のシナリオワークショップやコンセンサス会議を模した教育実践などトランスサイエンス問題を扱った教育実践は行われているが,共通するのは教師の役割を教授者からコーディネーターへと変換していく志向性である。私はその志向性をさらに進め、

①互いに対抗する言説(オルタナティブ)の内容の伝達と,それぞれの言説の相違点,共通点を示す役割をその問題の専門家どうしの対話にゆだね、教師の役割を,伝えるべきトランスサイエンス問題の選択と,生徒が専門家同士の対話に対するメタ的な視点を獲得することへの支援に特化させていく

②教育現場や市民啓発の場と科学の専門家をつなぐ「媒介の専門家」(小林傳司の論述

(1)からヒントを得てこの言葉を使っているが、小林の使い方よりも狭い意味、教育・啓発の場における専門家と教師・児童生徒、専門家と市民をつなぐという意味で使っている)により設定される専門家どうしの対話の場で教育実践や市民啓発の場に提示するオルタナティブを選択し,事前の論点整理を行う

というしくみを作ることが有効ではないかと考えている。

(1)小林 傳司(2010):社会のなかの科学知とコミュニケーション, 科学哲学、4,33-45,

開かれた公共圏としての教室とコーディネーターとしての教師

資源エネルギー庁文部科学省が共同で発行した「チャレンジ!原子力ワールド」という中学生用向け副読本(1)がある.2010年発行なので,福島第一原子力発電所事故の直前の発行といってもよい.この副読本では放射性物質の危険性に触れてはいるものの,そのすぐ後で「万一、事故発生という事態になっても周辺環境への放射性物質の放出を防止できるよう、何重にもわたる安全設計を行っています.」等と原発の必要性と安全性が力説されている.津波に対しても「大きな津波が遠くからおそってきたとしても、発電所の機能がそこなわれないよう設計しています」と記述されている.事故後,この副読本は現実とあまりに乖離した原発宣伝だとして批判され,回収された.事故とその影響の巨大さを考えれば,文科省経産省は,学校教育を政府の原発宣伝の場としてきたという批判を甘受するべきであろう.

しかしここで強調したいのは,この副読本の記述の妥当性の問題ではない.確かに第一原発事故後の現在から見ればこの言説は端的に間違っていたが、それ以上に問題なのは、次の2つの点にあると私は考える.

①「正しい」言説の提示と権威づけ 

トランスサイエンス問題において「正しい」言説はありえない.「正しい」言説はありえないからトランスサイエンス問題になっているのだと言ってもよい.原発は典型的なトランスサイエンス問題であり,安全性についても,コストについても,エネルギー源としての持続可能性についても競合する多様な見解がある.にもかかわらず,「放射性物質の危険性の問題はあるにしても,原発は基本的に安全であり,エネルギー安全保証と地球温暖化対応のために原発は不可欠である」という言説が「正しい」言説として提示されている。ある中学校の事例紹介がなされ,その中で、ディベート中の意見という形で原発への批判があることが触れられてはいるものの,それは刺身のツマにとどまっており,全体として国の政策である原発推進論をほぼそのままなぞった形になっている.

資源エネルギー庁経済産業省)と文科省が発行したという体裁をとることによって権威付けが行われていることにも問題がある.文科省としては検定のような明白な権威づけをしたものではなく,教育現場の参考となる資料を提示しただけだというスタンスなのかもしれないが,教育現場はそのようにはとらえない.文科省の考え方がこの副読本に示されていると考えることがむしろ自然であろう.なにしろ文科省が発行しているのだから. 

文科省は政府の一部ではあるが,政府の政策を教育内容として学校に下ろしてくることには極めて慎重になるべきだと私は考えている.「民主的に選ばれた政治家によって統治され,国民の信任を受けた政府の見解を学校で教えることの何がいけないのか,これこそ民主的なことではないか」と考える人もいるだろう.その方が多いかもしれない.しかし私はそうは思わない.民主主義社会の政策形成は,問題を考えるのに必要な情報をもとに,他者の思惑にできるだけ制約されない自由な議論が行われることが前提となっている.この前提に立つ教育こそ民主主義の健全性を保つ教育である.しかし教育が政府の政策を教育内容に翻訳して権力サイドの情報をもっぱら流すようになってしまえば,教育は権力サイドの言説を強化し,そのことによって権力を強化し,それがまた権力サイドの言説を強化する正のフィードバック回路の一部となってしまう.それが典型的に見られるのは政権の偉大さと正当性を教化する使命を持った独裁国家の学校である.

権力のプロパガンダである独裁国家の学校を理想だと思う人はほとんどいないだろう.そうであるならば.民主主義国家の学校は「公正・中立」な「正しい」考え方(それはしばしば政府の考え方である)を教える場ではなく.「制度的な「政治空間」(他にも市場やメディ アという公共圏もある )においてなされる「決定」に対して 、異議申し立て 、疑義、問題提起、反省・再考の促し、対案の提案を行う」(2)多様な対抗的言説(オルタナティブ)に対しても開かれた議論のアリーナ,公共圏となることこそが望ましい.

オルタナティブの貧困

副読本では学習のまとめとして原子力発電を増やすべきか減らしていくべきかディベートを行うことになっている。しかし少なくともこの副読本を扱うだけでは生産的なディベートは成立しないだろう。一つの理由は、地球温暖化対応、エネルギー安全保障、安全性、核燃料サイクルなどそれぞれにかなりの分量の説明がなされているが、ほぼ一方的な原発推進の言説に満ちており、普通に読めば原発は必要で今後増やしていくべきという結論にしかならないことである.

もう一つの理由は「オルタナティブの貧困」とでもいうべきであろう.ディベートを行う以上,双方の主張の根拠資料が提示され,「非現実的ではないか」,「コストがかかりすぎるのではないか」,「地域間の公正を阻害するのではないか」等のように双方が相手の主張を吟味し,その過程を通して,何が対立点なのか,何が合意できる点なのかが明確になっていく必要がある.

特に大事なのは,原発依存度の削減または原発廃止をしていくことと,地球温暖化対応しながら必要な総エネルギー供給を確保していくこととが両立できるのかできないのかという,原発に対するオルタナティブなエネルギー政策のポイントとなる問いとそれをめぐる定量的な議論である.

しかし,原発については,原発推進の根拠となる資料がある程度提示されているが,代替手法については、具体的なオルタナティブ省エネルギーも含め,どんな発電を使えば原発をどの程度代替できるのか,それはどのように進められていくの)が示されないまま,様々な発電方法の利点と欠点が列挙されているのみである。たとえば風力発電については,その発電原理を紹介し,その後

風力発電の特徴

・自然のエネルギーを利用するので、石油などのように資源がなくなる心配がありません。

・電気を作るときに二酸化炭素を出しません。

・たくさん発電するためには広大な風力発電機の設置面積が必要です。」

とその特性を述べているが、これだけである.記述は少なくかつ定性的で、これでは上記の議論は行いようがない。

もちろん紙幅の問題はあるし、この副読本だけでエネルギー教育を行うわけではない。しかし、そもそもこの副読本の目的は,「自分たちの国でどのようなエネルギーをどう使うのかについて私たち一人ひとりが考える必要があります。将来、みなさんが大人になったときに、「あなたはどういう選択をしますか」という判断を求められる機会が必ずやって来ます」と副読本自体の中に述べられているように、市民に政府のエネルギー政策を理解してもらうのではなく、エネルギー政策に関する市民の意思決定(あなたはどういう選択をしますか)の基礎を培うことにあるはずだ。別の言い方で言えば,選択を可能とする公共圏を教室の中に創造することである.そうだとすれば,副読本に見られる,このオルタナティブの貧困または排除というべき風景は,「あなたはどういう選択をしますか」という自らの問いに応える誠実さの欠如と考えるほかないだろう.

 

 以上、長々と特定の書籍の批判を行ったのは、この副読本が、教室を公共圏としようとする際の格好の反面教師となるためである。教室を公共圏とするためには、「「正しい」言説の提示と権威づけ」、「オルタナティブの貧困」ではない方法で様々な言説が語られなくてならない。その実現のために教師を、児童生徒を、あるいは初等中等教育の枠を超えて市民を支援する必要があるだろう。

その必要に対応するものとしてすぐ思いつくのは,教室に提供される言説をより多様に、より豊富なものとし、言説の提供者についても多様化を進めることである。しかしこの方向性を単純に推し進めることは、提供される側の負担が重くなりすぎるという難点がある。判断のポイントを把握できないまま、多量の情報を浴びせかけられると、人間は判断自体を放棄したくなる。そうならないために教師(市民の学習の組織者まで広げて考えれば教育者とした方がいいかもしれない)は論点を精選し、言説間の共通点・相違点を整理するゲートキーパーの役割を果たす必要があるが、そのようなことを行うためには、そもそもトランスサイエンス問題にかなり精通しておいてもらう必要がある、それもまた現実的ではない。言説の多様化・豊富化はゲートキーパーとしての教師への支援を伴って行われるのでなければ、かえって混乱をもたらすことになりかねない。ではその支援をどのように行えばよいのだろうか.そのヒントは教師(市民の学習の組織者まで広げて考えれば教育者とした方がいいかもしれない)の役割の転換と専門知を媒介する専門家の教育への関与にあると私は考えている。以下、それを述べてみよう

(1)中学生のためのエネルギー副読本「チャレンジ! 原子力ワールド」企画制作委員会

(2010):文部科学省経済産業省資源エネルギー庁

平川 秀幸(2004):科学技術論と社会学とのコラボレーションに向けての論点提起, フォーラム現代社会学, 3, 70-72