リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

リスク社会とその特性―リスク認知・リスク処理の科学技術への依存

1928年に開発されたフロンは、人体に毒性がなく、不燃性で化学的に安定している理想的な冷媒として、あるいは断熱材、発泡剤、半導体等の洗浄剤として1960年代以降急激に普及した。しかし、1974年にアメリカのローランドがNature誌に提出した論文がきっかけとなり、フロンによる環境破壊に懸念が抱かれるようになった。ローランドは、フロンが成層圏で放出する塩素原子がオゾン層を破壊し、地上に到達する有害紫外線の量が増える可能性を指摘したのである。その後、この懸念を裏付けるデータが、日本を含む数か国の南極観測隊NASAから報告され、オゾン層破壊が現実のものであり、極上空では極端にオゾンが減少したオゾンホールが出現していることが1980年代後半には明らかになった。フロンによるリスクは速やかに国際社会に共有され、オゾンの製造、消費および貿易を規制するモントリオール議定書が1987年に採択された。これは科学技術が生み出したリスクが科学者によって発見され、フロンの代替物質の開発を含めて科学技術による対応がなされたという意味で科学の成功物語の一つといってよいかもしれない。

しかしここで注目したいのは科学技術が生み出したリスクの認知やリスクの処理が科学技術に全面的に依存しているということである。紫外線や放射線、有害物質は知覚できない。具体的な被害が出れば、何か恐ろしいことが起きているということが市民にはわかるが、いったい何がどのようにして被害をもたらしているかは科学技術の専門家による調査に待つしかない。ましてまだ被害が起きていない、あるいは被害を起こした要因が多様な環境要因の中にまぎれてしまっている場合には、リスクが生じているということ自体がわからない。「危険は本質的には目には見えないが、因果律にはのっとっている。そして最初は危険をめぐる(科学的または反科学的)知識の中に、またその中にだけあらわれる」(1)のである。未知のリスクについては、専門家のみがその潜在的危険性を知りうる、そして指摘できるのであって、市民はそれを問題として取り上げ、何らかの規制を加えるという議題設定自体ができないということになる。

既知のリスク(リスクをもたらすものがある程度特定できるリスク)についても似たようなことが起きる。リスクが特定されたとしても、そのリスクがどの程度の影響を人の健康や生態系に与えるのか、どのような対策をとればよいのか、他のリスクとの相乗効果はあるのかないのかといったことは多くは専門家によって確定される。

上でも述べたように、科学技術が生み出すリスクは巨大化し、遍在しているが、社会がそのリスクを認知し、対処していくのも科学技術に頼らざるを得ない。つまり「専門家におまかせする」のである。

科学技術とその専門家への全面的な依存は、信頼を意味するわけではない。むしろ逆である。科学技術、特に科学の顕著な特徴の一つは系統的懐疑主義である。系統的懐疑主義とは要するに何でも疑い、徹底的に根拠を追及することであるから、意見の不一致はごく普通のことである。むしろ意見の不一致こそが科学の進歩につながるのである。健全な科学では必ず意見の不一致が研究を進める原動力となっている。しかし大きなリスク、たとえば原発事故や薬害の存在下で、意見の不一致があらわになれば、市民は誰を信じればいいのか、何を信じればいいのかわからなくなる。「専門家におまかせ」するしかないのに「専門家におまかせ」できないことがわかって市民の不安は高まる。このようなとき専門家集団、つまり科学技術共同体はしばしば一枚岩となろうとする。すくなくとも外部に対しては統一見解を打ち出し、共同体の権威と利益を守ろうとする。だがこれは多くの場合、逆効果となる。異論や代替的選択肢の排除はリスク隠しではないかという疑念をもたらし、これは市民の憤激をかい、市民感情に不安ではなく今度は不信をもたらす。依存は不信に転化する。

本当に必要なのは、科学技術共同体が一枚岩になってありもしない無謬性を装うことではない。市民の不安には根拠があることを認め、異論を周辺化するのではなく、むしろ科学技術の方向性を修正する資源として認めて「専門家による見解と対抗専門家による見解との弁証法的な関係」(1)を共同体内部に構築することである。

一方で、リスク認知をめぐる社会と科学技術の関係に変化がおきていることも指摘されている。小林傳司は「科学という営みがその中核的価値として重視する「因果関係の厳密な確定」及びそれと対をなす「不確実な事柄を断定しない」という知的禁欲」(2)が薬害や公害の被害者の救済を阻む論理として機能していることを指摘している。生態系や人体の中の錯綜した因果関連を厳密にたどらなければ、あるいは多数の汚染原因がある場合に、どの汚染がどの被害者に被害を与えたかということを厳密に立証しなければならないのであれば、汚染の規制も汚染者の責任追及もできず、汚染もその被害も広がる一方である。科学が「危険増大の許可証を与えることになる」のであり、「厳密な科学性と危険とはひそかな連帯関係にある」(1)。このような場合、厳密な因果関係の追求はむしろ真実を覆い隠す。必要なのは別の論理であり、この要請に応えたのが、四大公害訴訟が援用した疫学の論理である。

疫学においては、たとえば二酸化硫黄の濃度が高い地域に長く居住している集団の肺疾患の罹患率が統計的に有意に高くなった際には、因果関係を厳密に立証しなくても、罹患率を上昇させた原因として二酸化硫黄を特定する。裁判所は、汚染物質の発生者から被害者まで厳密な科学的因果関連を切れ目なくたどっていく従来の手法では公害問題の正当な解決は得られないと判断し、判決に疫学的証明を活用したのである。

裁判所が(当時の世論から考えてこれは「社会が」と言い換えてもよいように思われる)が科学技術に求めたのは、患者を救済し、これ以上の汚染を防ぐことに有効なリスク認知であり、それを提供したのが疫学であったのであろう。この場合、社会は、科学技術が提供するリスク認知の単なる受容者ではない。むしろ問題の文脈に応じた適切なリスク認知を提供することを要求する主体的クライアントである。「どのような「科学的合理性」の論理を採用するかを、社会的合理性の見地から行っている」(2)のである。リスク認知自体は、その多くを専門家に依拠するとしても、専門家集団(科学技術共同体)が提供するリスク認知のどれを選択するか、リスク認知に応じてどのように行動するかは社会の側の問題ということであり、ここに社会の側の主体性の回復の兆しを見て取ることができる。

(1)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(2)小林傳司、科学技術と公共性、「公共のための科学技術」、13-34