リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

二人の科学者

マイケル・ファラデーは、電磁場の基礎理論を確立し、電動機技術の基礎を築いたイギリスの物理学者である。クリスマス・レクチャー「ろうそくの科学」でも知られている。アインシュタインニュートンと並ぶ科学界の巨人であるが、世俗的名誉には関心がなく、ナイトへの叙爵も王立協会会長職も固辞した。権力とも距離を保ち、クリミア戦争 (1853–1856) の際に政府から化学兵器を作ってもらえないかという要望がきたとき、彼は机をたたいてこう断ったという。「作ることは容易だ。しかし絶対に手を貸さない!」(1)。引退するまで、1日のほとんどを実験室で過ごし、一研究者としての生涯を貫いた。召命という言葉がある。神に召されて使命を与えられることをさすが、ファラデーはまさに科学に召命された研究者であったと言えよう。

ファラデーと対照的な生涯をおくったのがエドワード・テラーである。テラーはローレンスリバモア国立研究所の所長を務め、水爆の開発に主導的役割を演じた人物である。核戦争による人類滅亡を描いた「博士の異常な愛情」(スタンリー・キューブリック監督)の主役である大統領顧問ストレンジラブ博士のモデルともいわれている。

テラーはドイツからの亡命後、オッペンハイマーの指導するマンハッタン計画(原爆開発計画)に参画した。日本への原爆投下の惨害を知った多くの物理学者が政府と距離を取る中で反共主義を唱え、積極的に水爆開発を主張し、テラー・ウラム配置と呼ばれる水爆を爆発させるための基本機構を創案した。晩年にはソビエトの核ミサイルをミサイル衛星やレーザー衛星、地上迎撃システムで無力化する戦略防衛構想(SDI)を推進し、レーガン大統領からアメリカ科学界最高峰の栄誉とされるアメリカ国家科学賞を贈られた。

テラーは「物理学者は原罪を知った…」と言ったオッペンハイマーや日本への原爆投下を生涯悔いていたアインシュタインと異なり、原水爆開発に一貫して肯定的な言動を行い、悔いることはなかった。

ファラデーとテラー、権力や世俗的栄光と科学との関連においてこの2人は対照的である。もちろん、2人の境遇や個人的資質が大きく異なっていることが基礎にあることはいうまでもない。しかし科学技術のおかれた時代背景の違い(ファラデーは19世紀前半、テラーは20世紀半ばに主たる活動を行った)があることも見逃すことはできない。ファラデーの時代の科学は基本的に個人の科学者が自己の研究的関心に沿って行うものであり、政府や産業からの大きな資金も必要とはしなかった。科学と技術は別個のものであり、研究成果の実用化・産業化に向けた大きな社会的圧力も存在しなかった。権力や資本に対して自由な立場を維持することができたのである。

 一方、テラーが頭角をあらわすきっかけとなったのは、マンハッタン計画である。マンハッタン計画では、原爆開発という単一の目的のため、ロスアラモス研究所だけでも約6700人の科学者・技術者が動員され、約20億ドル(現在の貨幣価値に換算ずると300億ドル、日本円で2兆4000億円)が投じられた大プロジェクトである(2)。このように、特定の目的とその達成までの期間をトップダウンで決定し、多数の科学者・技術者と巨費が投じられるプロジェクト型研究は、以後、軍事研究に限らず、原子力、航空機、超LSI開発なのど工学部門、さらには宇宙科学、ヒトゲノム解読、加速器建設など基礎科学を含む広範な分野に広がっていった。

プロジェクト型研究の拡大は科学と社会の関係を一変させた。科学研究が膨大な資金と人手を要するものに変化したことにより、研究者は自分の興味の赴くままに自由に研究を進めるファラデー型の研究者から、技術的応用を社会にアピールしながら研究費を調達し、業績をあげていくテラー型の研究者へと変容を余儀なくされた。資金提供者である政府や企業の発言力が格段に大きくなり、政府や企業と近しい立場にある、つまり資金を引き出す力のあることが指導的研究者の条件となった。このような科学と社会の関係性の変化は科学そのものの変質を伴うものになっている。このことは多くの科学論研究者により指摘されているが、その中から、金森修の指摘している科学の変質過程の3つのモデルを手がかりにこの問題を考えることとする。

しかし、その前に、このモデルの前提となる、科学者・技術者のエートス(気風・習性)の変化、具体的には、専門分化の極度の進行による科学者・技術者の視野狭隘化、やや極端な表現ではあるが、科学者・技術者が「自分が研究している宇宙の微々たる部分については実によく「知っている」が、それ以外のことについてはまったく何も知らない」(3)状態になっていることについて、その問題性を見てみよう。

(1)wikipedia、マイケル・ファラデー、https://ja.wikipedia.org/wiki/マイケル・ファラデー

(2)日本原子力研究開発機構原子力百科事典、https://atomica.jaea.go.jp/

(3)オルテガ・イ・ガセット(1995):「大衆の反逆」、筑摩書房