リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

専門性という檻

日本が近代大学制度を導入した時、ヨーロッパでは、すでに自然哲学からの自然科学の専門分化が進行し、工学や農学も学問としての専門性を確立しはじめていた。日本の大学は基本的に、その当時のヨーロッパの学問の枠組みをそのまま日本に移植したものであったため、日本の自然科学は自然哲学の色彩をほとんど持たず、最初から専門分化していた。また「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」(帝国大学令)にあるように、学問によって国家を軍事的・経済的に発展させるという目的で設立されたため、「何のために研究するのか」ということはほとんど自明であり、深く問われることは乏しかった。「自らが従事する「科学」研究の意味をさして問わず、既成の枠組み内部での業績競争こそが、研究者たちの日常を支配している観念となっていた」(1)のである。

研究者(科学者)の関心は、それぞれの学問分野における業績(論文)を蓄積していくこと、それをテコに激しい競争に勝って、研究者としての地位を高めていくことに集中し、科学技術が社会や自然にどのような影響を与えていくのかということについての関心は薄かった。厳しい言い方をすれば、科学は最初からタコツボ化していたのである。そしてそのタコツボは研究が進むにつれて細分化し、ますます多数のタコツボが出現し、その中での競争に集中することによって研究者の関心は社会全体を考えることからさらに離れていった。

近年の激化した業績競争はそれを加速している。大学や研究機関では年俸制の導入・拡大が進んでいるが、年俸制の場合、各年度の業績によって次の年度の給与が増減する。給与の増減だけでなく、任期付き雇用の場合には、業績と雇用は直結する。

聞いた話になってしまうが、知り合いの研究者が、政治・経済・社会・文化・国際関係などをめぐる優れた論考に対して授与される、ある有名な賞を受賞した際に「本など業績にならない。論文を書きなさい」と教授に言われたのだという。

もちろんこれは単なるエピソードに過ぎないが、多くの研究者、特に若手の研究者は常勤の職を得るため、研究資金を獲得して研究を続けていくため、激しい業績競争にさらされている。その背景には、研究や教育に向けられる資金が細っていく中、業績競争で研究者を駆り立てることで大学や研究機関が資金と高評価を獲得するという形での大学・研究機関間競争が存在する。

競争や専門分化によって当該学問分野が進歩していくことは、いいことには違いない。しかしそこに起きる視野の狭隘化の弊害を直視することも必要であろう。各研究者が狭い自分の領域に立てこもり、領域内での業績競争に終始することは、自分の行っている研究の意義を深く考えず、意義を自明視することに直結する(というよりも自明視しなければやっていけない)。研究の成果がどう社会に実装されるのか、社会や自然にどのような影響を与えるのかという、研究領域を超えた問い、もしかしたら自らの属する学問コミュニティの存在意義を否定しかねないような問いは、今日明日の研究に役立たない無駄な思弁的な問いとして意識の底に押し込められる。研究するときの自分と、社会の中で生きていく自分が分裂し、前者が後者を圧倒する。研究成果が無条件に社会の進歩につながるという予定調和的な見方で自分を納得させ、また社会に対して主張することになる。縄張りを固守し、専門性の檻を強化する思考になっていくのである。

かつてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹朝永振一郎を中心とした物理学者が、核兵器を物理学者が作り出してしまったことに対する悔恨の思いもあり、核兵器廃絶運動を進めたことがあったが(現在も途絶えているわけではないが、社会への影響力は格段に減少している)、自分の雇用さえままならない研究者にこのような社会的視野を要求することは難しい。

社会科学についても同様の視野狭窄、専門性への閉じこもりが見られる。経済学は社会科学の中では数学的モデル化が進み、社会科学の女王とも言われているが、奇妙な前提の上に壮大な学問が構築されている面がある。たとえばホモ・エコノミクス(自己の経済利益を極大化させることを唯一の行動基準として行動する人間の類型)という仮想的人間像である。人間の多様な側面(宗教、人間関係、倫理等)の市場の外にはみ出す部分をちょん切って人間の行動を予想することを学問の前提としているが、このような粗野な人間像が全面的に通用するのは、株式や債券市場での取引のような短期的で自分の利益追求のみに専心することが許される特殊な場合に限定されるだろう。教育や介護といったクライアントに全人的に向き合わねばならない世界の人たちにとっては、ホモ・エコノミクスはむしろ非現実的である。これらの事業に従事している人たちを動かす最も大きな動機付けは、子どもや被介護者の福利とその福利が向上したときに感じる自らの幸福感・充実感であって、自己の経済的利益の最大化という動機付けは、あったとしても付随的なものである。

ひとたび学問の論理の外側に立てばこのようなことは自明であろう。落下速度と物体の形状が無関係なのは真空中でしか成り立たないのと同様に、ホモ・エコノミクスという人間行動の前提は限られた状況の中でのみ妥当である。このことはもちろん経済学の専門家(経済学者だけでなく、経済官僚など経済学をバックグラウンドとする人々)はよく承知している。修正の提案もなされている。しかし依然としてこの前提が経済学の基礎になっていることは変わりない。経済学は緻密な理論、膨大なシミュレーション、優秀な人的資源からなる壮大な伽藍であるが、その基礎はホモ・エコノミクスという小さな石の上に載っているのである。

このことが必ずしも問題というわけではない。前提の限定性を考慮し、慎重な運用をすればよいのである。しかし、経済学が発展・細分化し、その専門性が高まるにつれてこのことは忘れられやすい。専門性という檻に自ら閉じこもってしまい、その檻の基礎となる前提を忘れてしまう。ホモ・エコノミクスという眼鏡で世界を見ていることに気づかなくなってしまうのである。この状態のまま経済学を社会に適用すれば、それはきわめて危ういことになる。社会政策のほとんどすべてをホモ・エコノミクスの考え方で貫徹するような政策になりかねない。

そして、自然科学と同様、社会科学においても人文学においても学問は細分化し、業績競争は激化している。視野狭窄の危険はあらゆる学問分野において大きくなってきているのである。

 もちろん技術者においても事は同様である。研究者(科学者)よりもより社会に近い位置にあるという点では、自らの仕事と社会の関連性について判断を迫られる場面は多いと思われる。しかし技術者、特に企業の技術者の場合、組織の縛りが強い。組織の頂点に近い上級技術者を除けば、意思決定の権限はごく限定されている。技術システムの巨大化につれて、「止めることのできぬ巨大な歯車の1つの小さい歯にすぎない」(2)状況が進んでいくと、組織の社会的使命、つまりは自分は何のために働いているのかということへの関心が希薄となり、自分の割り当てられた業務の遂行にのみ関心が集中するようになる。視野狭窄(たとえば「それはとても重要だ。しかし私の仕事ではない」、「そういうことは上の人が考えてくれる」)に陥り、「集団的にはあれほどの権力を自由にする企業の中心部におけるこの個人的責任の欠落」(2)ということになるのである。

 科学者・技術者のこのような視野狭窄、専門性の檻への閉じこもりにより何が起きるのだろうか。彼らが閉じこもっている専門性の檻は、世界の一部を、彼らの属する学問分野の視点により切り取ったものである。彼らは、その視点を精緻化することによって、人工衛星や100万kW級の発電所やヒトの全ゲノム解読といった赫赫たる成果を上げてきた。現代世界は事実上、彼らが作り出したものといってよいだろう。しかし、そのことは同時に前章で述べたリスク社会をももたらしている。リスクは原発にせよ、遺伝子組み換えにせよ、化学物質にせよ、その因果は錯綜していて、それぞれの檻の守備範囲を容易に飛び越えていく。化学物質一つとっても数種類の化学物質による生物への複合作用のことなど不明のまま、日々、新規の化学物質が市場に登場するのである。そこに起こることは「専門と専門の隙間から、ザルの目を通り抜けるように危険が落ちていく」(3)という事態に他ならない。

それを一言でいえばこのようになるだろう。「彼らは自分たちの顕微鏡をひたすらのぞき込んでいるばかりで足元の床が抜けそうになっていることを感知できないのだ」(4)と。

(1)佐々木力(1996):科学論入門、岩波書店

(2)スチュワート・リチャーズ(1985):科学・哲学・社会:岩坪昭夫訳、紀伊国屋書店

(3)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(4)ジャンピエール・デュピュイ(2011):ツナミの小形而上学(嶋崎正樹訳)、岩波書店