リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

科学の変質過程-3つのモデル

近代細菌学の基礎を築いたことで知られるルイ・パスツールは「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」と語ったという。この言葉は、戦争にまで至った当時のフランスとプロイセン(現ドイツ)の対立を反映している。彼は好戦的であったというわけではないが、フランスの科学力がドイツに劣っていたことをフランスがプロイセンに敗北した原因の一つとして考えており、科学の振興に国力を注ぐことを強く訴えた。アンモニア合成の業績でノーベル賞を受賞したドイツのフリッツ・ハーバーも戦時には科学者が軍に協力することを当然と考え、毒ガス開発の指揮を取った。近代の国民国家の成立と、国民国家うしの覇権をかけた国力増進の競争が進行するにつれ、科学は国家及び国家を支える産業(富国強兵!)によってからめとられていく。科学技術を不可欠の要素として取り込んだ政治経済体制が確立し、そのもとで科学の軍事化・産業化が進んでいくことになる。同時に見逃せないのは、科学の側もその成果を喧伝することによって社会からの支援をとりつける、もっとあからさまに言えば研究費と人件費を確保してその営みを回していく、それ自体が一種の産業になっていることである。そこには「科学研究は、専門家の共同体の内部に閉じ込められた活動ではなく、その共同体の外部の様々なセクターが、共同体の中を覗き込み、何か「利用できることはないか」、「搾取可能な知識」はないか、と探索の目を光らせる一方、専門家の共同体の方でも、自分たちの研究成果が、外部のセクターに高値で売れるのではないか、とこちらも探索の目を光らせる」(1)という科学技術と国家、産業の相互依存関係が成立している。

 このことは科学技術を論ずる多くの論者により指摘されているが、その中からとりわけ厳しい指摘を行っている金森修の分析を見てみよう(2)。金森は古典的な科学観、科学者観である「実証性、客観性、普遍性、公益性を備えたものとしての科学」、「自然界の秘密を探るために一生を真摯な研究に捧げる孤高の人間としての科学者」が近代初期に一定の妥当性をもったものとして社会に浸透していったが、現代においてこのような科学観、科学者観を保持することは難しくなったことを指摘している。金森は、科学、科学者の変容を3つのモデルで説明している。一つはマンハッタンモデルである。マンハッタン計画アメリカの原爆開発計画)は、政府が科学技術の目標設定をし、それに沿って多数の科学者を動員した大プロジェクトである。これは国家が科学をリードすること、つまり国家による科学政策が科学の大きな動因となることの契機となった。科学政策は資金を科学の特定分野に引き寄せる名分となるため、科学は政治や科学の他分野に対して折衝的で闘争的な姿勢を取らざるを得なくなった。ここにおいて科学はいくぶんか政治化する。「国家からの独立性・自立性規範にヒビが入」るのである。

そして1970年代以降、急激に発展した生命工学に典型的に見られる「生命工学モデル」がそれに続く。知識が莫大な富をもたらすことが関係者の共通認識となることにより、知識の公開性規範がゆらぐ。特許権の保護のため研究成果が秘匿され、大学教員がベンチャービジネスを起業することが珍しくなくなってくる。「科学的知識を起源とする一連の事象の一種の商品化、商業化」が進行するのである。

そして「放射能汚染モデル」である。原子力発電を継続・拡大することに利益関心を持つ関連企業や省庁の複合体と科学者が一体となり、「本来なら企業や関連省庁よりは客観性や中立性を担保されているはずの科学者集団自体が。複雑極まりない利権構造や権力性の中に組み込まれる」。その結果、「科学技術が大枠での公共性からほんの少しでも逸脱し始める時、それは公の仮面をかろうじて装着しながらも、事実上は特定の利益集団の保護に集中するという様相を呈する」。科学のおそらくもっとも重要な規範であるはずの客観性規範が脅かされるというのである。

もちろん、金森も科学界全体が以上のような状況に置かれているとしているわけではない。むしろ多くの科学、科学者は古典的規範に則って作動し、行動していると考えている。しかし「一部の科学は既に変質し始めている」ことをきちんと認識し、その意味を見据えることが必要だと考えているのである。

 これら3つのモデルに共通するのは、国家の軍事的・政治的・経済的優位性と産業の市場における競争優位性への科学技術の貢献を、その貢献がいかなる変化を社会や個々の市民(たとえば原発事故で故郷を追い出された市民へ、原爆で死んでいった市民へ)にもたらすかという文脈抜きで肯定され、要求され、科学者・技術者自身もその要求に乗っていることである。世界科学会議は「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」(ブダペスト宣言)で人類の知の知平を拡大する「知識のための科学」(science for knowledge)に加えて、「社会のための科学」(science for society)も科学の使命とした。しかし、現実の科学技術の現場では、「社会のため」ということが、ほとんど何の留保もなく「国家のため」、「産業のため」に読み替えられている。国家と産業が科学技術の公共性を独占しているのである。そこで、次にこの国家と産業による公共性の独占についてもう少し深掘りしてみよう。

(1)村上陽一郎(1999):科学・技術と社会―文・理を越える新しい科学・技術論、光村教育図書

(2)金森修(2015):科学思想史の哲学、岩波書店

(3)United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization, (1999): DECLARATION ON SCIENCE AND THE USE OF SCIENTIFIC KNOWLEDGE, http://www.unesco.org/science/wcs/eng/declaration_e.htm