リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

2 組織の慣性―もう決まったことだー

 

 大きな組織には一種の慣性(現在の運動状態を続けようとする性質)がある。慣性はとりわけ巨大な官僚組織、つまり国や都道府県といった行政組織において著しい。科学技術政策もその例外ではない。というよりも、長期にわたる投資や安定した制度が必要であるため、典型的に大きな慣性を持つ政策であるといえるだろう。

慣性には善悪両面がある。ある分野に長期的・計画的に投資を行い、その分野を支えることはたとえば宇宙開発や海洋調査を大きく進展させることになった。その功績はほとんどの人が認めるところだろう。また一方で、何回も使う用語だが「筋の悪い」分野に資金・人材を大量に注ぎ込んでしまったために引き返せなくなってしまったり、過去に決めた方針に引きずられて機動的な意思決定ができず、事態を悪化させてしまうことも起こる。前者の典型的な例は高速増殖炉であり、後者の典型的な例は水俣病であろう。

このような悪い意味での慣性が働いている例を見てみると、そこには「無謬性の神話」と「政策の自己目的化」という共通の特徴があるように思われる。

「無謬性の神話」とは、官(政府)は無謬(誤らない)という前提に立った思考のことである。官僚は自分が決めたことであれ、前任者や上司が決めたことであれ、一度決めた政策の誤りを想定もしないし、議論もしない。誤りが明白になってきてもそれを認めない。大雑把に言うとこういうことである。原子力政策やダム建設などの国土開発、公害病への対応など行政機関の問題点が指摘されている事例のほとんどにあてはまることであるが、とりわけ悲惨な結果がでるのは保健行政の誤りである。ここでは、イギリスにおける変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(VCDJ)について見てみよう(1)(2)。

 VCDJは、クロイツフェルトヤコブ病(進行性認知症、運動失調等を呈し、発症から1年~2年で死亡する致死率100%の神経難病)の一種である。原因は、狂牛病に罹患した牛の神経組織を食べたことによる異常プリオン蛋白の侵入である。イギリスでは狂牛病の牛が爆発的に増加したことから、人間への感染の懸念が広がり、その可能性を検討するサウスウッド委員会が1988年に組織された。サウスウッド委員会が「人間への感染の危険性はありそうにない」という報告を1889年に行ったことで政府は牛肉を介した狂牛病の人間への感染の可能性を否定し、イギリスの牛肉は安全であると宣言した(小林傳司)。しかし現実には100人以上の人々が牛肉から感染したVCDJにより死亡し、1996年には保健相が「発病の原因が狂牛病に感染した牛肉であることを否定できない」と表明して、政府は安全宣言を撤回した。

経緯からするとサウスウッド委員会の報告に責を求めるのが妥当なように思える。しかし、サウスウッド委員会は感染の可能性を否定したわけではない、「人間の健康に何らかの影響を与えるとはほとんど考えられない。しかしながらこういった見積もりの評価が誤っていれば、結果は大変深刻なものとなるであろう」と感染の可能性を留保しているのである。政府への情報源はサウスウッド委員会だけではなかった。政府自身がその後組織した海綿状脳症諮問委員会は1990年に「現在の知識の下では人にリスクを及ぼさないと明確に述べることは妥当ではなく、またゼロ・リスクを主張することも適切ではない」と政府に伝えている。同年、委員会は主席医療担当官あてに作成した牛肉の安全性に関する文書でくず肉の危険性を示唆する文言を盛り込んだ。しかし農漁業食糧省(MAFF)の反対により、この「最も感情を刺激する可能性のある」文言は削除され、その後もMAFFは人間への感染の可能性を明確に否定し続け、イギリスの牛肉は安全であり、それは科学的な証拠に基づいていると、一貫してゼロリスクを主張しつづけた。 

もちろん、肉にはかならず末梢神経が含まれているのだから、牛肉を使う限り、リスクを完全に排除することはできないだろう。MAFFとしては牛肉を介したVCDJの発生を認めることがイギリスの畜産業の壊滅につながることを懸念したことは理解できる。しかしリスクの存在を認め、国民にもそれを誠実に伝え、脳除去の手法の改善など可能な限りのリスク低減策をこうじることはできたはずである。事実大臣自ら脳除去の手法への疑念をMAFF内では提起していたことも明らかになっている。 

しかし政府は、一度ゼロリスクを宣言してしまったために、リスク低減の規制の導入がゼロリスクへの疑念と政府への不信をかきたてることを恐れ、つまり政府の無謬性にこだわって、国民にも伝えず、ほとんど無策のまま時を過ごしてしまった。多数の死者を出し、政治的危機にまで発展してようやく感染の可能性を認めたのである。早いうちに誤りを認め、政策を変更していれば、犠牲者を減らし、畜産業への打撃も最小限に抑えることができたのではないかと思われる。VCDJは「無謬性の神話」が政策変更の余地をなくしてしまい。結果として大きな禍をもたらした典型的な事例といえるだろう。問題に対処すべき規制当局が問題の一部となってしまったのである。

「政策の自己目的化」は一度決めた政策について、政策遂行が目的と化し、政策の有効性とか政策の目的が後景に退いてしまう、つまり本末転倒が起こることを指す。

典型的なのが原子力、巨大ダム、兵器といった人工物やテクノロジーの開発の際に見られる。いったん開発目標が決まると、巨額の追加費用が発生したり、大きな事故が起こってスケジュールが大幅に遅延したり、行く手に大きなリスク(たとえば暴走する原子炉、核戦争)があっても、当初の目標を変えることなく突き進む。私企業の場合ならばコストと利潤のバランスという一種の歯止めがあるが(だから東芝原発から撤退しようとしている)、国家の場合はそのような歯止めはない。ラベッツは、超音速輸送を例として「ある技術革新が、技術的観点からは危険が大きく、採算がとれるかどうかも疑わしく、誰にとってもてはなはだ有害であり、法的・政治的にも問題がある、とわかっていても、その技術革新が国家威信に貢献し、重要産業における雇用と士気を維持する上で重要ならば、国家から膨大な資金を受げ取ることもある」、「プロジェクトの費用と利益を計算する際に、法律的に責任を問うことのできないあらゆる費用-特に自然環境や人間環境の悪化が無視される。」と述べ、そのようなテクノロジーを「暴走するテクノロジー」と呼んだ(3)。これは政策遂行のためにどのような犠牲も厭わないという意味で政策の自己目的化の極端な例だといえよう。私は日本でいえば高速炉や核燃料再処理がこれにあたると考える。

 

「無謬性の神話」と「政策の自己目的化」は単独ではなくしばしば対で現れ、相互強化する。政策の結果が政策の目的から乖離してきたり、副作用が出てきた場合、政策そのものには誤りはない(無謬)のだから、解離や副作用を人や資金の追加投入によって克服しようとすることは正しいことだし、場合によっては隠蔽や虚偽も正当化される。何しろ政策は正しいのだから。

しかしそうやって深みにはまっていくといつしか政策遂行自体が目的となっていき、政策は柔軟性を失い、政策本来の目的は政策を正当化するための添え物、刺し身のツマのような存在となっていく。外部からの批判、内部からの告発も行われるが、それを封じ込め、築き上げてきたものを失わないようにするため、ますます無謬性の神話が強化されていく。

この悪循環が続くと、政策は「裸の王様」化していき、その破綻があらわになってくるのである。

 

最後に、この節で述べてきたこと、つまり科学技術における責任なき支配、想像力の縮減、組織の慣性といった官僚機構や産業は自らその宿痾に抗して政策変更を行うことができるのだろうかということを考えてみよう。結論から言えば、外部からの強制、つまり強力な政治や世論の力が作用することなしに官庁や産業みずからが政策変更に乗り出すことはおそらくほとんど期待できないと私は考える。その理由は3つある。

①利権共同体の権力 これはすでに何回も述べていることであるが、政策を進めていく官庁や政策遂行から利益を得ている産業、研究機関などが国費の使用、研究費の調達、天下りの確保といった組織の利益につながる強い人的・資金的ネットワークを築いており、利権を脅かす政策変更には頑強に抵抗する。

②先送りによるリスク回避 官庁や大企業のような大きな組織の内部では「政治的・組織的文脈においては継続的関与は、撤退よりもより容易でより危険が少ないように見える。たとえそれが実際にはより困難で、より危険であったとしても」(4)という力学がはたらく。政策変更を提起することは、たとえそれが組織の長期的利益につながるものであったとしても組織内での摩擦を引きおこし、担当者にとっては大きな個人的リスクとなる。個人にとってはその在任期間中に政策変更の提起を行わず、先送りにすることがリスク回避策となる。

③官僚による界面の支配 これはあまり論じられていることではないので、少し詳しく論じてみよう。新型コロナ政策に見られるように、政治が意思決定を行う際には、専門家(主として研究者)の意見を踏まえることが求められている。しかし専門家はそれぞれの分野の知見を踏まえた政策提言はできても異なった分野間の意見調整はできない。そもそも専門家は自らの専門分野で答えることのできる問いを設定し、それに応答する定式化されたプロセスを構築することでその問いに答えているからである。エネルギー問題のように、因果関係が複雑に入り組み、多様な専門分野、多数のアクター間の相互作用が交錯する問題(悪構造の問題)については、専門家の意見を踏まえながらも政治がその時々のかじ取りをしていくほかない。しかし政治の扱う課題が外交、経済、医療、教育。環境等々と多岐にわたる以上、問題の交通整理を行い、意思決定をサポートするスタッフが必ず必要になる。アメリカの場合、それは民間から任用される補佐官であり、日本(に限らずほとんどの国においても)ではキャリア官僚である。

これ自体は必然的なことであるが、そこに官僚の権力が生まれる。官僚は専門家と政治を取り持つ存在である。事務局という立場で議論を整理するが、多くの場合、それは整理という語感から連想されるような中立的なものではない。議論の背後で落としどころに向けた絵を描いているのである。有限の時間内で議論を収束させるために行っているのではあるが、落としどころには官僚の所属組織やその組織の関連業界の意向が働き、その利害が反映することがまれではない。原子力委員会事務局は、2012年に、使用済み核燃料の処理のコスト試算を行ったが、その際、直接処分をすると、再処理事業にこれまでかけてきたコストが無駄になるからという論理で,そのコスト、つまり再処理事業に費やしてきたコストを直接処分にかかるコストとして計上するという操作を行って,直接処分のコストが再処理のコストよりも高くなるという資産を行った(2012年の算出、これはあまりにも露骨な操作であったために、委員に指摘され再計算した結果、直接処分のコストが再処理を下回ると、算出結果が逆転した)(5)。この類のことはエネルギー政策の分野では多数見られるが、他の分野でも同様であろうことは想像に難くない。しかし官僚は黒子であり、その存在が見えない。政策選択を実質的に左右する存在であるにもかかわらず、責任はとらない。責任をとらずに自在に政策を動かす見えない権力が作動し、官僚と業界の利益を脅かすような政策変更を阻んでいるのである。

コロナについても同じ力学が働いているのではないか。感染症の専門家が集まる専門家会議では、専門家の意見がまとまりやすく、その根拠も明確である。政府がそれを無視することは大きな政治的リスクとなる。しかし現在の新型コロナウイルス感染症対策分科会のように経済学者やメディア、知事など多様なメンバーが関与し、それぞれが根拠を持つ異なる立場からの立論が交錯するということになると、どの立場を選択してもそれなりに根拠を持つことになり、政策の正当化が可能である。官僚の黒子としての力はむしろ大きくなるのではないだろうか。多様な意見を政策に反映することはかならず必要であるが、それが有効にはたらくためには、官僚によるコントロールに陥ることをを警戒する必要がある。むろん実務担当者としての官僚の意見を聞くことは必要であろう。しかしそれは顔の見えない黒子としてではなく、実務担当者の立場としての参与であり、最終的な決断と責任は政治にあることを明確にしておかねばならない。

 

科学技術にかかわる問題が生まれたり大きくなってきて、組織の慣性に抗した政策選択が必要となってきた場合、政策変更は、菅直人血友病患者のエイズ問題で厚労省を指揮したように、あるいはドイツのメルケル首相が原発全廃を決断したように、政策から利益を引き出している利権共同体(官庁、産業、政治家)の外部者の決断と介入によってなされるであろう。つまり民主主義の出番である。では科学技術にかかわる民主主義の現状はどうなっているのろうか。ここにも問題が発生している。次にそれを見てみよう。

 

(1)パトリック・ズバネンバーグ、エリック・ミルストーン(2005):「「狂牛病」1980年代から2000年にかけて;安全の強調がいかに予防を妨げたか」、『レイトレッスンズー14の事例から学ぶ予防原則』、283-302、七つ森書房

(2)小林傳司(2007):「トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ」、NTT出版ライブラリーレゾナント

(3)ジェローム・ラベッツ(1977):「批判的科学―産業化科学の批判のために」、中山茂訳、秀潤社

(4)William Walker(2000), Entrapment in large technology systems: institutional commitment and power relations, Research Policy29,833–846

(5)吉澤剛・中島貴子・本堂毅(2012):「科学技術の不定性と社会的意思決定 ――リスク・不確実性・多義性・無知」、科学82(7)、788-792