リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

社会・科学複合体の問題点 民主主義の目詰まり

ベックは現代社会の分析に有用な様々な概念を提示したが、そのうちの一つがサブ政治という概念である(1)。近代社会において経済や科学技術が民主的統制の範囲外となり、政治が科学技術やグローバル経済にかかわる諸セクターが生み出すリスクをコントロールできなくなってきている状況、諸セクターが政治のコントロールを離れて半ば自律的に作動することをさす概念である。議会制民主主義の機能不全を指摘した概念と考えることができるだろう。

議会制民主主義に基づく政治は、議員として選出されてくる人々(立法府) が、社会の安危にかかわる問題、社会の方向性にかかわる問題に対して国民を代表して議論し、その議論の結果である法律が行政府を通じて執行され、国民の福利を向上させる、あるいは少なくとも福利を危険にさらさないように問題をコントロールできることを前提として成り立っている。しかし大学、企業、研究機関(政府自身の研究機関を含む)が日々生み出す科学技術やそれによる新しい人工物がリスクを生みだしているとしてもそれを政治が逐一モニタリングすることはほぼ不可能である。

リスクとして意識されるようになってきたとしても、そのリスクを生み出す産業や科学技術が社会に根を張り、社会―科学複合体が形成され、経済活動の重要な一貫をなすまでに成長すると、政治によるコントロールは難しくなる。プラスチックが自然分解されずに海洋等に蓄積されることが自明であるにもかかわらず政治が有効な規制を打ち出せず、レジ袋の有料化という弥縫策にとどまっているのはその好例であろう。では政府の関与が不可欠ならば、政治がコントロールすることができるかといえば必ずしもそうではない。日本やフランスにおける原発アメリカにおける兵器開発に典型的に見られるように、行政府(狭義の政府)が産業や研究機関と強力な相互依存関係を築き上げている(社会―科学複合体)場合には、政治家や政党にとってその複合体と対決することは政治的なリスクとなるが、複合体の利益に沿うよう行動すれば(複合体の一員、つまり族議員となれば)、複合体からの支援をあてにできる(票と金)。複合体を政治の力により強化すれば、一層の支援が特定の政治家や政党に集中し、政治家・政党が政界内で大きな力を得ることができる。このようなしがらみが一度形成されると、政治家はそのしがらみに足を取られ、民意を実現するのが政治ではなく、複合体の利益を実現するのが政治ということになってしまう。政治が主体となって問題解決を行うことが期待できなくなる。むしろ政治が問題の一部となる。

この傾向は議会制民主主義における政治につきまとう2つの限界、

①政策パッケージによる政治家や政党の選択(投票)

②短期利益が長期利益に優越する傾向

によってさらに強化される。

まず①について述べてみよう。

国立環境研究所気候変動リスク評価研究室の報告書「地球規模の気候リスクに対する人類の選択肢」(2)にはこんな一節がある。「競争的民主主義では、投票を行う際に気候変動リスク管理が争点にならなければ、投票時に有権者は立候補者の気候変動リスクに対する考えを知ることが困難である。そして、他の争点に関して国民の信を得た政治家が、気候変動リスクに関して信を問うこともないまま判断を下す可能性がある。」

これは気候変動リスクに限らず、ほとんどあらゆる問題にあてはまる。議会制民主主義では議会において多数を占める政党が「選挙により信を得た」として政権を握り、政策を具体化していくが、選挙の争点とならなかった問題についての国民多数の意見と政権の政策が食い違うことはしばしば発生する。民意と政策が乖離するのである。科学技術に関する問題でいえば、ほとんどどの世論調査を見ても原発を縮小・廃止という意見が多数であるが、政府が基幹電源として原発を維持するとしているのがその例になるだろう。

自民党にしても立憲民主党にしてもその政策のほとんどを支持するようなコアの支持層がさほど多いわけではなく、各個人は政策ごとに賛否を選択している。このような状況においては「医療、福祉、環境問題などに関わる多様な個別的論点に関心を持つ人々が生まれており、その人々の利害は従来の会社、労働組合といった制度への帰属と対応しなくなっているのである。したがって、政党はそのような諸制度の利害をもとにした政策パッケージによっては、これら分散化した利害を吸収できなくなっている」。これは一面では政党の枠組みに吸収されない市民運動を喚起することにはなっているが、一面では政党が市民の意見を吸収し、市民の代理となって政策を遂行していくという議会制民主主義が機能しにくくなっていることでもある。民主主義が目詰まりを起こしているのである。

②短期利益が長期利益に優越する傾向

ちょうどこの原稿を執筆している2020年8月に、北海道寿都町が核廃棄物最終処分場受け入れに向けた文献調査に応募する方針を表明した。その理由は20億円の交付金により町の財政危機をしのぐことだという。もちろん財政危機を回避することは必要だが、すくなくともメディア報道からは10万年間の長期間にわたって核廃棄物を貯蔵することへの覚悟は伝わってこない。当座の財政危機への対応という短期の視野が10万年の長期保管という長期の視野を圧倒しているように見える。実は核関連施設の受け入れはしばしばこのような短期的視点でなされている。元敦賀市長が1983年に行った講演で「短大は建つわ、高校はできるわ、五十億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これもいま、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の街づくりが出来るんじゃなかろうか」「50年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今は(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか・・・」と述べているのがその端的な例である(4)。短期的でその日暮らし、今が、現世代がひとまず豊かになればよい。未来世代がどうなろうとそれは他人事なのである。もちろんこれはかなり極端な事例ではある。しかし目の前の受益が今は目に見えない未来の受苦よりも優先されること、現在世代のニーズを満たすために未来世代のニーズを顧みないことは、たまり続ける核廃棄物をよそ眼に福島第一原発の事故まで原発を拡大し続けてきた日本の国家政策にもあてはまる。だれが見てもわかりきった問題について先送りし、放射能漏れなどの問題が起こるたびにもぐらたたき的に処理され、組織の改廃など目先を変えることによって乗り切ってきた。「軋轢を解決しようとするのではなく、一時的にそれを避けようとし、そのためにはいかなる方法でも用い、それによってかえって多くの混乱を来るべき将来に蓄積する結果になることをも辞さない」(5)という当座しのぎの対応が繰り返されている。

政治に本来期待されるのは、政治の場でなければできない大局的な合意形成を行い、それに基づいた長期的なビジョンを示すことである。しかし逆に政治が目の前の短期的問題(明日の選挙はそれに左右される)にこだわり、票にはなりにくい長期的問題は先送りするか官僚機構に丸投げしてしまうことが中央政府でも地方政府でも常態化している。政治が決めるべきことを政治が決めていないのである。ここにも民主主義の目詰まりが起きている。

 

(1)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(2)国立環境研究所 、「地球規模の気候リスクに対する人類の選択肢」、https://www.nies.go.jp/ica-rus/report/version2/index.html 

(3)小林傳司(2007):「トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ」、NTT出版ライブラリーレゾナント

(4)内橋 克人(1986):「原発への警鐘」、講談社

(5)オルテガ・イ・ガセット(1995):「大衆の反逆」、筑摩書房