リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

耳を澄ませるために

 

耳を澄ませるために 現場の知に耳を傾ける

 野生のシカやウマは群れを作る。その理由の一つは群れを作ることにより、たくさんの目や耳を持つことができ、警戒監視機能が向上することである。そして大きな群れでは小さな群れよりも捕食者検出率は高いとされている。いわゆる「多くの目」効果である。

 かなり荒っぽい比喩だが、何かリスクが存在する場合、それを検出するには多数の目や耳、つまり多くの人々の知見が集められ、活用されることが望ましい。

もちろんシカやウマの集団とは異なり、人間がリスクに対峙する場合、様々なリスクに対して、多くの場合、それに対応する専門家、たとえば化学物質に対しては化学物質の専門家が、原子力にたいしては原子力の専門家が存在し、それぞれのリスクに対応する組織も存在する場合が多い。高度な能力を持つ見張り役がいるのである。

それにもかかわらず、できるだけ多くの人の知見を取り入れる必要があると主張するのには、いくつかの理由がある。たとえば、それが市民の権利として考えられるからであり、民主主義社会の能力を高めるからである。しかし、それらは後の節の宿題として残すことにし、ここでは前節で触れた「無知」との関係に絞って述べてみよう。

巨大開発や遺伝子組み換え生物の導入といったことに対して、「何が起こるかわからないではないか」という「無知」への憂慮はしばしば反科学と解釈され、「ゼロリスクという誤った期待を持っている」とか「根拠のない心配をしている」、「感情的な判断をしている」とみなされ、憂慮を表明する人たちに科学的根拠を示せという要求がなされる。しかしこれまで述べてきた前例がある以上、「無知」を憂慮することは反科学ではないし、科学をよく知らないから過剰な心配をしているわけでもない。小林傳司は科学技術にかかわる問題についての市民の意見を分析し、「市民の意見というのは、決して感情的判断ではなく、ある種の歴史的経験主義といったものに基づいているように思えるのである。食品添加物が引き合いに出されているように、「かつて専門家や行政が安全と言っていたものが、後になって危険性を持つことが判明した事例がある」と市民は考えるのである。そして、「遺伝子治療に関しても、専門家は安全性を確認していると述べている」が、これも食品添加物と同じようになる可能性があるのではないか、と推論するのである。そして「遺伝子治療は命に関わるものである以上、後で予期せぬ問題が生じたという事態は困る」ので、「安全性のチェックを強化してほしい」と考えるわけである。」と述べている(1)。科学の進展の様子を見ていても、未知が既知になることばかりではない。放射線の影響とか、有機塩素化合物の毒性だとか、ひとまず確定(既知)だと思われていたことが、後でデータが蓄積されるにつれて不確かになっていく、つまり既知が未知に変わっていくことはむしろよくあることである。したがって「無知」が存在するかもしれないことを憂慮することは、愚かなことではなく、そこに何か根源的な不確実性が存在していることへの直感的な理解があると考えた方がよい。過去に政府や専門家が安全性を強調しながら結果的に失敗してきたことを経験している以上、次も失敗するのではないかという懸念を抱くことはむしろ合理的ですらある。このような理解や懸念を素人の誤解や過剰な心配とみなして政府や産業や専門家が躍起になって啓発しても不安はなくならない。「無知」の領域が存在していること、「無知」への憂慮は正当なものであることをいったんは認めなければ話は始まらないのである。

「無知」の領域が存在していることを認めるならば、科学技術にかかわる問題について、専門家や政府の外側に広く知見や意見を求め、関与者を拡大することは当然のことになる。「多くの目」効果が期待できるからである。しかしそもそも専門家が予見しえないリスクを非専門家が指摘できるのだろうか。科学技術の方法論に踏み込んで考えてみよう。

 小惑星探査衛星のはやぶさ2号は地球から約3億km離れた小惑星りゅうぐうからサンプルを採取し、地球に帰還した。これはJAXAはやぶさ2プロジェクトの偉業である。3億km離れた探査機を直径わずか900mのりゅうぐうに着陸させ、サンプルリターンを行うというのは驚くべき精密さである。このような偉業を見たとき、科学技術の素晴らしい成果に驚嘆するとともに、科学技術により何もかもが分明になり、コントロールできるという感覚が生まれることが理解できる。何も宇宙科学に限らず、気象学や分子生物学、あるいは飛行機とか原子炉の設計のような工学であっても、専門家のなしとげる成果には驚嘆すべきものがあり、とうてい素人が容喙できるようなものではないと思える。しかし、このような成果は、実は科学技術が扱いやすいもの、つまり計算が可能で、応答が予測しやすい事物を対象としているという面によるところが大きいことを見逃してはいけない。小惑星探査機の例で言うならば、宇宙において圧倒的に大きな力は太陽や惑星の引力であり、それに加えて太陽風や光の圧力である。引力は計算でき、太陽風や光の圧力は探査機のエンジン推力により補正できる。非常に巨大なスケールではあるが何が起こるか、それに対してどうしなければならないかは計算可能である。

ところが自然現象の多くはそうではない。わずか634mのスカイツリーから紙を落としたとしよう。紙がどこに落ちるか正確な位置を求めることはできない。紙の行方を決めるのは重力だけではなく紙の周りを流れる空気の流れであり、後者が無視できない効果をもたらす。乱流の中の物体がどうふるまうかは、たとえ計算しようとしても、計算量がたちまち莫大なものになり発散してしまうのである。あえてわかりやすい例をあげたが、同じように正確な予測ができない例は生態系や生体中における物質間の相互作用、地震による地盤の破壊(どこでいつ壊れるのか)など枚挙にいとまがない。要するに「よくわからない」のである。

しかし「よくわからない」から諦めるかというと、そういうわけにもいかない。薬や食品添加物として有望な物質が見つかったり、地域の経済的発展に役立ちそうな開発計画が持ちあがれば、その可能性を追究したくなるのは当然である。

ではどうすればよいのだろうか。一つには安全率を取りながら実用化するという手があるだろう。たとえば食品添加物の場合、有望な物質が見つかれば、動物実験を行い、無毒性量(各種毒性試験において有害な影響が認められない一日当たり最大投与量)を確定し、ヒトと動物の種の違い、ヒトの個体差を考慮し、安全係数(通常100)で無毒性量を割ってヒトの一日許容摂取量とする(2)。安全係数、つまり余裕の大きさを使って安全を確保しようとするのである。同様の考え方は化学物質や土木構造物、薬(薬の場合は治療に有効な量と有害な量との割り算で算出する)等、様々な場面で使われている。

シミュレーションという手もある。システムが多数の要素で構成され、要素間に複雑な相互作用が働いている場合は、それらを模擬したモデルをコンピューター上に設定し、モデルがどうふるまうかを経時的にシミュレーションするのである。気候変動、核融合、自動車や飛行機の設計など様々な場面で使われている。

AIという手もあるのかもしれないが、筆者はよくわからないので、ここでは略しておく。

さて、では安全率やシミュレーションでリスクを防ぎきることができるかというと、そうは言えない。安全率の設定というのは、実はかなりあいまいである。食品等で通常使われている100という安全係数も確たる根拠があるわけではない。人の食べるものなので、かなり厳しい100という数字を選択しているわけで、言ってみれば専門家の相場感覚である。相場感覚を超えるような事象は想定されていないし、また摂取する物質間の相互作用も考慮されていない。ちなみに飛行機のような安全性と軽量化のせめぎあいの激しい分野では安全率は1.5程度(予想される最大荷重に対して機体が分解しない限界荷重の比)と低く抑えられている。飛行機の場合は安全率を低くとるぶん、メンテナンスの徹底と部品管理で安全を担保しようとしているのである。対象が違えば、それぞれの専門家の相場感覚は異なってくることがわかる。

シミュレーションにしても研究者は予想のためのモデルを立て、それに従ってシミュレーションを行うが、そのモデルが正しい(概ね正しいといったほうがよいだろう)かどうかは結局は現実とすり合わせてみないとわからない。気象モデルなどは過去の気象の変化の経緯をモデルがうまく模擬しているかシミュレーションで確かめている。現実とすり合わせてみてうまくいかないようだったら、モデルを再考するのである。気象モデルのように先生役になってくれる現実がたくさんあれば、モデルを修正する機会はあるが、大規模プラントの事故のような早々起こるものではない事象においては先生役は数少ない。「起こってみなければわからないことがたくさんある」というのが実態であろう。

 安全率やシミュレーションが信頼できないということを言おうとしているのではない。安全率もシミュレーションもそれぞれに有用ではある。しかし、それをやみくもに信頼して絶対視してはいけないというごく当たりまえのことを言いたいのである。

 リスクが現実化することを防ぐためには、特定の方法に頼りきるのではなく、多様な方法を併用する必要がある。その一つの方法として専門家以外の人、とりわけリスクに直面する現場の人からの情報(現場の知)を丁寧に聞き取る方法がある。例を挙げてみよう。

 吉野川宮崎県高千穂町土呂久鉱山では硫砒鉄鉱を焼いて亜砒酸の製造を始め、周辺地域で砒素中毒になる人が相次いだ。1962年に鉱山は操業を止めたが、地域の砒素被害を知っていた地元の岩戸小学校の教師が児童の健康への影響を心配し、健康調査をしたところ、1913年から1971年までの間になくなった人の平均年齢が39歳と極めて低年齢であることがわかった。教師集団の中心となって調査を行っていた斎藤正健は世帯ごとの死亡者と病名を克明に調査し、「土呂久鉱山周辺被害(死亡)地図」をまとめあげた(3)。この調査は「素人の調査で専門性がない」と否定され、県による健康診断でも病気の広がりが著しく過小評価され、一時、もみけされかけたが、教師たちのこの調査がきっかけとなって、土呂久の住民が裁判闘争に乗り出し、公害被害が社会問題化して最高裁での和解に至ったのである。土呂久の住民は操業当初から鉱山の亜非砒酸製造の煙が有毒であり、それが集落に病をもたらしていることを認識し、行政にもそれを訴えていたが、全く取り合ってもらえず、社会に知られることもなかった。その問題を丁寧に調べ、住民の話に耳を傾ける教師の存在がなかったなら、寒村の業病というような形で葬りさられていたのではないだろうか。

 一般に汚染や災害について住民は何かしらを知っていることが多い。水俣では水俣病確認以前からチッソの排水口に船を持っていくと、船底に付着した貝類が落ちて(死んで)船底がきれいになることが知られていた。何か毒が出ていることは経験的に知られていたのである。新潟水俣病の場合も阿賀野川の流域漁民は、患者の確認される20年以上前から「昭電の毒水」の存在を認識していた。富山県神通川流域でも1955年に婦中町の医師荻野昇が住民調査の結果、鉱毒説を発表し、報道されて、イタイイタイ病が社会から認識される30年も前から、住民は、原因はわからないながらも、この病気の存在を認識していた。ちなみに荻野医師の鉱毒説は当時の富山県医学界から一蹴されている(4)。

2018年の岡山県真備町で起こった洪水では200人以上が死亡する被害を出したが、洪水に襲われた地域は古くから住んでいる住民にとっては水害が起こることが必至と思われている地域だった。氾濫を起こした小田川は勾配がきわめて小さく、増水時には高梁川からの逆流が頻繁に起こることが多く、治水上の問題点として指摘されていた(5)。付け替え工事の要望もなされていた、それにもかかわらず小田川周辺の低地は住宅地として開発され、結果として大きな災害に至ってしまったのである。

土石流の起こる谷には、蛇、竜などの字が使われていることがある。土石流がのたうちまわる蛇や竜にたとえられるためで、地名の中に過去の災害の記憶を残しているのである。

たとえば長野県の南木曽町には、蛇抜沢や押出沢という地名で土石流の起こる谷が記され、土石流災害で亡くなった人の霊を慰めるため、「蛇ぬけの水は黒い 蛇ぬけの前にはきな臭い匂いがする」(6)等の土石流の予兆も言い伝えを記した碑が立てられている。逆に宅地開発などが進められている地域では、地名が忌まわしいとして改名されたり、良い意味の漢字に読み替えられるなど、過去の災害を隠そうとすることが多い。その場合、何も知らずに移り住んできた人々は土石流に何も知らず、その脅威に対して無防備になってしまうだろう。

 このように、現場の知はその地域の人々の間で共有されるにとどまり、政策に必ずしも反映されない場合が多い。とりわけ行政が進めようとしている政策と反する知見の場合は専門家ぐるみで知見が否定され、無視されることがしばしば見られる。しかし上述の例でも分かるように、現場の知が政策に生かされていれば犠牲者が無いかあるいは少なくて済み、実は行政や企業のコストもはるかに少なかったはずである。これは、専門家や政策担当者だけでなく、関連があるとみなすことができるあらゆる関係者、とりわけ地域住民や住民の声を集約することができる立場の人々(教師や医師、市民団体等)の声に早い段階から耳を傾け、対話することが必要となることを示している。

 

耳を澄ませる 対話により枠組みを組み替える

対話を行う際、大事なのは、対話の当事者が、対話によって自らの枠組みを組み替えることができる柔軟性である。物事をとらえる枠組みは立場によって、人によって異なる。原発の問題一つとってみても、推進側の電力会社や経産省と受け入れる側の住民とでは見える風景が異なる。住民の中でも建設業と水産業では重要と思う事柄が異なる。立地自治体と周辺の自治体とではまた異なってくるだろう。さらには専門家であっても研究対象や背景となる学問によって枠組みは異なる。このような人による、立場による枠組みの違いは当然のことであるのに、開発を進めようとする、あるいは新規技術の導入を進めようとする側からはこれを厄介視し、推進側の枠組みに議論を絞って強行突破しようとすることが多い。島根原発2号機設置の際の公聴会で、1号機設置の際に住民に示されたシミュレーションよりはるかに広い範囲で温排水が広がり、漁業被害が出ていることを漁民が訴えた際に、温排水の問題は対象外として議論しないと門前払いの答弁を通産省が行い、公聴会が紛糾したことがあった(7)が、これなどは典型である。内容を絞って「ここは○○を議論する場だから、その他のことは議論させない」というスタンスは都合の悪いことを議論させない勝手な設定と受けとられ、混乱と紛糾を招き、不信感を増幅させてしまった。現実に漁業被害が出ている事は重要な情報であり、本来ならば、そのような情報(現場の知)は、既存の枠組みを、より豊かなものへと組み替える機会ととらえるべきであるのに、推進側の枠組みを一切変えないで押し通そうとしたのである。

公聴会は意見を聞く、つまり対話の場である。対話は、複数の枠組みの交流によって、より妥当な(より多くの人に認められる)枠組みを構築できるという認識(信念といった方がよいかもしれない)と、対話によって自らの枠組みを相対化し、乗り越えていく(脱構築)ことを許容する柔軟性があるからこそ実り多いものとなりうる。対話の主体が変化し得るから対話になるのであって、変化する気がないのならそれは対話ではない。公聴会が「単なる形式」と揶揄されるもやむを得ないだろう。

このことは個別の開発計画や新技術の導入にとどまらない。「○○が不足している、○○がどれだけ必要だ。だから××を推進する必要がある」というような不動の大前提とそれに基づく長期計画を立て、それには一切触らないで、そこからすべてを演繹する手法がエネルギー政策や産業政策には典型的にみられる。この前提を背後に持っているから、政策の基調は変えない(変わらない)。結局は対話ではなく、「日本全体のためにご理解下さい。ついては○○させていただきます」というような戦術的な駆け引きになってしまうことになる。上(前提)から下(前提を実現させるための現場での対話)への流れしかないのである。これでは現場の知などくみ取れる余地はない。経産省国交省の官僚が公聴会などに出てきても木で鼻をくくったような答弁をして住民を憤激させるということはよくあるが、上から下への流れしかないから、彼らはそうせざるを得ないのである。住民の意見をくみ取るようなことを本省は期待していないのだから。

本来は、たとえ局地的な話し合いであっても、そこからくみ取った知見を前提に反映させてゆく、下から上への流れもなければならない。前提自体も問いなおしていく熟議に発展させられることができれば、対話は実に実り多いものになる。それこそがあるべきサイエンス・コミュニケーションであり、協働はそこから始まるのである。

関連して言うならば、このような対話が成り立つためには、対話をマネジメントする主体は事業を推進する官庁ではないほうがよいだろう。当該官庁の利害を超越することは、当の官庁にはできないし、できたとしても信用されにくい。国で言えば環境省、地方で言えば環境部局のような別の官庁が行司役として入り、考えうるすべての関係者を組み入れた議論を行うことが望ましい。本来ならば環境アセスメントはそのような考え方の上に立っているはずである。そして省どうし、部局どうしの間のように対等者どうしで折り合えない場合は、アメリカの連邦政府の「環境の質に関する委員会」(Council on Environmental Quality)のようにより上位の権限を持つ官庁が裁定する形にすればよい。

 

耳を澄ませる 吟味し続ける

対話の内容の中には、発がん性とか事故の際の汚染とか、災害の危険性のような自然科学的・工学的内容だけでなく、社会的・経済的・倫理的な内容も組み入れるべきである。。平川秀幸は、ヨーロッパで行われた遺伝子組み換え作物GMO)に対する大規模な社会調査から抽出された「一般市民がGMOに抱く主要な疑問」を紹介しているが、それによれば「GMOの使用で利益を得るのは誰なのか」。「規制当局はGMO開発を進める大企業を効果的に規制するのに十分な権力と能力を持っているのか」。「予期されなかった被害が生じたときには、誰が責任を負うのか、どうやって責任を取るのか」といった自然科学・工学だけでは答えようがない疑問が多くを占めている(8)。科学で決定的な答えは出せない。まさにトランスサイエンス問題である。

このような疑問には自然科学内部での論争のように決定的な結論は出しにくい(多分出せない)。遺伝子工学によって多収量のコメの品種が開発され、それが発展途上国の食糧不安の解消につながったとしても、農家の種子企業への依存による自律性の喪失や在来品種の消滅につながるとしたら、それを承服できないとする人々は多いだろう。むろん食料不足というような差し迫った危機を克服することのほうが重要だと思う人も貧しい都市生活者の中には多いだろう。しかしいずれにしろこれが正しいという絶対的な結論がない以上、ひとまずの結論が出たとしてもそれはあくまでも暫定的な結論であることを関与するすべての人が意識し、継続的に吟味していく必要がある。「もう決まったことだ」という結論の固定化(つまり事象を見る枠組みの固定化)は継続的吟味を拒否することであり、むしろ有害である。

そしてそれぞれの立場の人からの主張をそれぞれに根拠があることを認め、結論を出すというのは「リンゴとミカンを比較する」というようなある種強引なことを行っているのだという自覚を持つ必要がある。リンゴをミカン何個分というように換算することはできるが、それはあくまでも換算であってリンゴはミカンにはなりえない。このしごく当たり前なことをしっかり皆が意識していないと、費用便益分析というような「客観的」手法に惑わされる。手法が悪いわけではないが、手法の根底には「リンゴとミカンを比較する」という前提が含まれていることを意識する必要があるのだ。

上述の考え方は、新技術の導入やある地域の開発を進めたいと思っている側にとっては、実にイライラする、先の見えないと思われる考え方だろう。議論の進展次第で、最初の結論がひっくり返ってしまったり、大きな遅延が起こる可能性もある。しかし誠実な対話の中でそういう結論になれば、それはそれで受け入れるしかないのではないか。それを恐れて強引な権力的行政を行ったり、金で地域の切り崩しを行ったりすることは、結局は問題をこじれさせ、関係者間の不信と猜疑を引き起こす。誠実な対話の中からしか信頼は生まれないのである。

 

(1)小林傳司2007):「トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ」、NTT出版ライブラリーレゾナント

(2)食品安全委員会(2016): 食品の安全性に関する用語集 (第 5.1 版)yougoshu_fsc_5.1_201604.pdf

(3)アジア砒素ネットワーク(2005):TOROKU 土呂久、pamphlet-toroku.pdf (asia-arsenic.jp)(土呂久公害についてのパンフレット)

(4)政野 淳子(2013):四大公害病 - 水俣病新潟水俣病イタイイタイ病四日市公害 、中央公論

(5)内田 和子(2011); 岡山県小田川流域における水害予防組合の活動, 水利科学,  55 巻,3 号,  40-55

(6)長野県庁(2019):地図から読み取れる防災情報、https://www.pref.nagano.lg.jp/sabo/manabu/chizu-yomitoku-1.html

(7)内橋 克人(1986):「原発への警鐘」、講談社

(8)平川秀幸(2011):リスクコミュニケーション論、大阪大学出版会