リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

耳を澄ませる 見せかけの知との対峙

経済学者のフリードリヒ・ハイエクは、賢明なエリートが社会を俯瞰的に把握し、設計し、指導することができるという前提に立つ設計主義・計画主義を「進歩を続ける理論的知識が、今後あらゆる分野において複雑な相互関係を確証可能な事実へと還元してくれる妄想」として批判した。また彼は「見せかけの知」と題するノーベル賞受賞記念講演で「経済学者が政策をもっと成功裏に導くことに失敗したのは、輝かしい成功を収める自然科学の歩みをできるかぎり厳密に模倣しようとするその性向と密接に結びついているように思われます。しかしそれはわれわれの専門領域においては完全な失敗へと導きかねない企てです」と述べ、厳密な条件統制を行うことができる物理化学を模して経済をコントロールしようとする経済学を厳しく批判した。「物理化学の偉大かつ急速な進展が起こったのは、相対的に少ない変数を持つ関数として観察される現象を解明する法則にもとづいて説明と予測を行うことができた分野」であること、一方経済学のような社会科学は「本質的に複雑な構造、すなわちその特性が相対的に多数の変数を含むモデルによってのみ明らかにできる」ことを前提しなければならず、またそのような変数を観測・測定しつくすことはできないために「現実世界で生じるさまざまな現象の可能的原因として許容される事実を、きわめて恣意的に制限してしまう」ことを指摘し、「科学が到達すると私たちが予測できることには厳然たる限界が存在する」、「科学的方法が到達できる以上のものを科学にーつまり、科学的原理にしたがった意図的統制にーゆだねることは嘆かわしい結果をもたらす恐れがある」と結論している。経済学がいかに華麗な数学的体系と経済政策への影響力を持っていたとしても、複雑な経済システムの各要素間の関係と相互作用をすべて観測することなどできない以上、物理化学を模倣して社会をあたかも一つの実験系のように扱ってコントロール可能であるかのように理論化し、社会にもそう見せかけようとしている多くの経済学(学派)は、ハイエクにとって似非自然科学であり、「見せかけの知」なのである。

 ハイエクは経済学を批判しているが、複雑な系を扱う工学もまた「科学的方法が到達できる以上のものを科学にーつまり、科学的原理にしたがった意図的統制にーゆだねる」という意味で「見せかけの知」と化している場合がある。原子力工学はその典型であろう。

福島第一原発の事故を経験してわかったことは、原子炉という複雑で巨大なシステムが外部から攪乱を受けた際の、システム内部要素の複雑で緊密な(タイト・カップリング、ある要素またはサブシステムの変動が他の要素やサブシステムに波及していき、その波及を遮断することが困難)相互作用は、少なくとも事故の進展の途上では、原子力工学の専門家にもほとんど理解できないということである。事故後の後付けの調査で大筋のストーリーはわかってきたが、細部のこと(たとえば水蒸気爆発が起こる危険性はなかったのか、地震動で配管はどうふるまったのか)は事故後10年以上たっている現在でもいまだにほとんどわかっていない。原子力工学には膨大な研究資源(研究者、研究費)が投じられ、巨大な研究分野に成長したが、結局、事故の進展をコントロールするどころか、どのように事故が進展しているのか、いくのかという理解すらできないことが明らかになった。精緻で巨大な理論はある条件の範囲内ではそれなりに有効なものではあるが、そのよって立つ条件を超えた現実に直面した時無力だった、つまり原発をコントロールできると対社会的に喧伝しておきながら、実はコントロールできない「見せかけの知」だったのである。

では原子力安全の研究が不十分だったから、裏を返せばもっと研究をすすめれば、原子力工学は「見せかけの知」ではなくなり、原子炉が安全なもの、もう福島のような大きな事故を起こさないものになるのだろうか。おそらくならないだろう。 

これまでにも触れてきたように人間の認識には限界が存在する。「無知」という領域がある。「無知」を要因とする事故、発生を予測できない事故はそもそも起こってみないとわからない。巨大で危険なシステムのリスク管理に使われる確率論的リスク評価の中心的な技術体系であるフォールトツリー分析やイベントツリー分析は、システムに悪影響を与える事象を想定し、それがいかなる経路を通って事故に至るかを分析する手法である。したがって「いかなる事故イベントを想定するかが分析の限界となる」(神里達博))2)。つまり想定されていない事象が発端となる事故は防止できないという認識論的限界が存在するのである。またたとえ既知の領域であってもコストを無限にかけることができない以上、あまりに低確率(だと認識された場合)の事象は切り捨てざるを得ない。その場合、当該の事象が事故にまで発展することは防ぎえない。

おそらくどんな極端な原発推進論者でもチェルノブイリや福島のようなレベル7の事故を許容できる範囲内の事故と考える者はいないはずである。じかし上記のような人間の知の限界がある以上、たとえ低頻度であってもレベル7の事故は今後も起こりうる。現に原子力規制委員会は「原子力規制委員会としましては、福島第一原発の事故を踏まえて策定された新規制基準 に適合する原子力施設につきましては、同様の規模の重大事故が発生する可能性は極めて 低く抑えられていると判断させていただいております。 他方で、原子力災害対策を考える上では、確率がゼロではない限り、事前にできる限りの対策をするということで、二つ目の丸にございますように、こうした厳しい安全対策が講じられても、なお予期されない事態によって重大事故に至る可能性があることを意図的に仮定して、様々な事態に対処できるような緊急時対応をあらかじめ定めておく必要があるという考え方に基づきまして、災害対策の強化をさせていただいているところでございます。」と述べている(3)。回りくどい言い方のため、長く引用せざるを得なかったが、要は福島クラスの事故は起こりうることを認めているのである。改めて確認しよう。研究とそれに基づく安全確保策によって残存リスクは低減できるだろうがリスクそのものが消滅することはない。これは人間の知に限界がある、認識論的限界が存在することに起因している。原子力事故を行政と業界の癒着とか、官産学の利権共同体とか人間社会のもろもろの事情に帰する議論はよく見られる。それはそれで重大な問題だが「認識論的事故」という原理的問題とは関係がない。清潔で有能で誠実な官僚や経営者や研究者がそろっていたとしても起こりうることは起こりうるのである。過度にこのような人的要因を強調することは適切ではない。要は原子力を破滅的な事故が起こらぬようコントロールすることはおそらく「科学的方法が到達できる以上のものを科学にーつまり、科学的原理にしたがった意図的統制にーゆだねる」ことになり、これは「見せかけの知」であるということだ。原発推進側はまずはこのことを率直に認め、それにもかかわらず推進するのだということを主張する必要がある。

もう一つ付言しておこう。ベックは「住民の大半や原発反対者が問題にするのは、大災害をもたらすかもしれない核エネルギーの潜在能力そのものである。目下事故の確率が極めて低いと考えられていても、一つの事故がすなわち破滅を意味すると考えられる場合には、その危険性は高すぎる。」と述べている(4)。ベックのこの立場、「住民の大半や原発反対者」の立場は原発のリスク低減とは別次元の立場であることを明確に認識しておく必要がある。。これは大半のリスク論者とは異なる立場であり、破滅的リスクと他のリスクとの比較考量そのものを拒否する立ち場である。リスクの低減ではなくリスクの消滅を求めている。コントロールできないリスクへの門を閉じることを要求しているのであり、無知ゆえにゼロリスクを求めているわけではない。行政や事業者、メディア、研究者はそのニュアンスの違いに耳を澄ませ、リスクの低減をどこまで行うかという裾切りの議論には乗ってこないこのような立場もまた道理の通ったものであることを認める必要がある。

 

(1)フリードリッヒ・ハイエク(2010):ハイエク全集第2期第4巻 哲学論集、長谷川みゆき他訳

(2)神里達博(2020):リスク論、『科学技術社会論の挑戦2 科学技術と社会―具体的課題群』、106-126、東京大学出版会

(3)北海道庁総務部原子力安全対策課:平成29年度第1回 原子力防災に関する連絡会議 会議録 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/gat/bousai/H29-01kaigiroku.pdf

(4)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局