リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

そっと行う 科学技術へのバランサー

 ここからは、そっと行う(順応的管理)ことについて考えてみよう。そっと行う(順応的管理)ということは、耳を澄ませることと一対である.事態の進行に対して耳を澄ませる(モニタリング)ことにより、成果や副作用を評価して,計画にフィードバックさせていく過程の全体である。計画を大きく変更する場合があるし、場合によっては代替案に乗り換え、当該科学技術から撤退することもありうる。このことが可能であるためには、当該科学技術が修正・撤退の必要性を無視して暴走する自動機械に化してしまわないよう平衡をとる錘(バランサー)を社会に組み込んでおくことが必要となる。

 科学技術研究も他の社会活動と同じく、分野が立ち上がり、拡大していくにしたがって関係者のコミュニティが形成されていく。このコミュニティを維持していくためには、絶えず研究のフロントが前進し、博士論文のタネが生まれて、新規参入してくる若手研究者のポスト(そのためには中堅の研究者が昇進していくポストも必要となる)が継続的に供給されなければならない。

しかし、財政危機による全体のパイの伸び悩みと研究に必要な装置類(第一線の研究を進めていくためには、高額な装置とその絶えざる更新が必要であり、多くの科学研究は装置産業化してきている)の価格高騰、大学(とりわけ国立大学)や国立研究所のポスト削減と非正規化、つまり研究資源がひっ迫してきたことが科学技術分野間の生き残り競争を激化させている。

競争のアリーナは学術界内部にとどまるものではない。研究に必要な資金は学術界の外部(政府や産業界)から供給されるものである以上、メディアを含め、資金供給に影響力がある人々の支持を取り付けていく必要がある。政府や産業界にも科学技術を活用して経済的利得や政治的成果を得たいという思惑が存在するので、その思惑に沿う形で研究成果をアピールし、他の科学技術分野との競争に勝ち抜いていこうとするアピール競争が行われやすい。

このような科学技術内外の構造的要因が存在するため、ある程度の規模に発展した科学技術に対して、その成果を活用して利得を得る方向でのモチベーションは働いても成果の持つリスクに配慮するというモチベーションは働きにくい。何回も例を出すため、食傷ぎみではあろうが、やはり原子力発電に例を取ると高木仁三郎小出裕章といった原子力工学内部から警告を発してきた人々は主流派から疎外され、無視され、嘲弄されてきた。地震学の分野から警告を発した石橋克彦は分野外の人間であるとして、これも無視された。当該科学技術の内部の人間からすればこれらの人々は裏切り者であったり、素人であったりと、要するに当該科学技術の発展を妨害する雑音とみなされたのである。事故や高レベル放射性廃棄物の蓄積などのリスクは意識されてはいるものの、将来の科学技術が克服できるものと楽観視されたり、無視されたりしてきた。そして当該科学技術の正の側面が一方的に強調されてきた。「「人類の福祉」への貢献と同時に「人類に及ぼす害悪の可能性」を可能な限り明らかにする必要があることに対するあらわな無関心」(1)が支配的だったのである。

ちなみに個人的体験になるが、私が高校教員だった時に理科教員の団体で原子力の研究者の方を講師に呼んだことがある。事故時の放射性廃棄物の漏洩のシミュレーションをされている方だったので、興味を抱いた私が、格納容器が破壊されるような事故の場合、周辺地域がどうなるのか質問したところ、「そのような事故は起こりえない。起こりえないことを研究しても無意味だ」と一刀両断されてしまったことがある。小うるさい素人と思われたのかもしれないが、おそらくこの研究者自身がそう信じこんで、自分を納得させていたのだろう。

話をもどそう。内部からの批判が抑圧され、外部からの批判もはねつけられることが懸念され、また実際に起こっている以上、その科学技術は暴走する危険性を抱えていることになり、それを抑制し、バランスをとるバランサーが必要である。かんがえられるものは何だろうか。もっとも大事なのは暴走を抑えることのできる市民の育成、つまり市民の教育であるが、教育については別途述べるので、以下ではそれ以外の要素について触れることとする。   

一つの試みとしては「安全政策を総合的に支えるため の「安全の科学(リスク管理科学:レギュラトリーサイエンス)」(2)のようなリスク・コントロールを研究成果とする科学が考えられる。このような科学が進展し、科学技術政策決定の際の指標を提供できるならば、「「先進技術の社会的影響評価」の制度化」(2)が可能になり、公正取

引委員会が資本主義の健全な発展を支える規制装置であるのと同じように、科学技術の内部に規制機能を組み込めることができるかもしれない。規制の対象となる科学技術分野(たとえば原子力工学や化学工学)やそれを所管する行政から相対的に独立し、それらの分野の内部のヒエラルキーに組み込まれない、独自性を持つ実証科学としての地位を確立し、それに基づく政策提言ができるようになれば、レギュラトリーサイエンスが、いわば恒常的な第3者委員会のような機能を果たすことが期待できるからである。

 しかしレギュラトリーサイエンスに過剰な期待をかけるわけにはいかない。レギュラトリーサイエンスは規制科学とも呼ばれるように、規制の対象となるものが必要となる。規制の対象となる有害事象の存在することがレギュラトリーサイエンスの存立の根拠である。したがって、有害事象を引き起こす可能性のある科学技術から撤退するという、いわばちゃぶ台返しのような根源的批判を提示することはレギュラトリーサイエンス自体を脅かしかねない。結果、技術的改良や意思決定システムの改善によって安全を確保するという問題解決志向の研究(微温的な研究)が生産的な研究として歓迎されることになる可能性が大きい。寿楽幸太は原発事故や化学工場事故等の複雑で高度なシステムを分析した社会科学や人間科学の知見が「工学者や政策担当者、経営者などに親和的な言説へと、いわば「翻訳」された」ことを分析し、そこに「社会科学的批判性の揺らぎ」を指摘しているが(3)、これと同じことがレギュラトリーサイエンスにおいても起こりうる。「ミイラ取りがミイラになる」危険が存在するのである。こうならないためには、レギュラトリーサイエンスの方向性を検討するメタの視点を持つ社会科学の研究(メタ・レギュラトリーサイエンス)も必要になるだろう。

 もう一つのバランサーとしては、科学技術が社会に実装される以前に、そのリスクとベネフィットを自然科学・人文科学・社会科学のバランスのとれた観点から議論し、リスク抑制策を組み込んだり、場合によっては実装を差し止めることを、政府をはじめ広く社会に提言する学術組織が考えられる。この役割は、政府の経済政策に事実上従属している総合科学技術・イノベーション会議のような政府内の組織が担うことはできない。政府から独立し、分野横断的に研究者を組織できる日本学術会議の機能を拡張し、この役割を担ってもらうことが望ましい。原子力発電のように個別科学技術と産業と政府が緊密に結合し、それ自身の利害によって自律的に動く巨大な産官学複合体にたいしてこのような組織はほとんど蟷螂の斧のように見えるかもしれないが、当該科学技術のコントロールの必要性とその方策について社会科学、人文科学を含めた広い見地からの学術的根拠を提供することの意義は大きい。むろんこれは一方的に当該科学技術の外側で議論するという意味ではない。当該科学技術分野を含めさまざまな学問の間の対話の中から方向性を見出すという意味である。専門知を包含しながらもそれを超えた総合知を作り上げていくのである。

 よりラディカルに考えれば「責任」という概念の再考が必要なのかもしれない。ここでいう責任とは、いわゆる「責任」の語意とは少し異なることをさしてつかっている。「責任」とは通常ある行為が他者に被害を与えた際の民事・刑事上の責任というように、事後的なものであるが、ここで言う責任とは事前的な責任、たとえば新規の科学技術の社会実装や化学プラントの立地等の巨大開発が何かしらの被害を起こす可能性がある場合、その行為を「やめる」責任、当該科学技術等から「引き返す」責任、いわば事前責任と「やめる」、「引き返す」ことをしないまま何らかの加害が発生した場合の事後責任をセットとした責任を考えている。製造物責任については限定された形ではあるが事前責任が認められている。それを個別の製造物ではなく、科学技術や地域開発にも拡張し、強化された事後責任と組み合わせるのである。アセスメント(事業の実施を前提としない、撤退も選択肢に入れたアセスメント)と事前の説明責任、仮に被害が予想されているにもかかわらずその行為を行った場合、無過失でも故意でもなくても被害発生前の状況に復帰させる、あるいは被害を賠償する責任、被害が当該科学技術や地域開発に由来するものではない場合、それを証明する責任(挙証責任)の3点セットとでも言えばいいのかもしれない。なんだかボヤっとしていることは論じている私自身も十分承知している。しかし、現在の社会には従来の通念や法では対応しにくい穴がたくさん空いている。海洋のプラスチック汚染のように生態系や種などが主たる被害者となっていて被害者が責任の追及主体にはなれない場合、10万年の未来まで管理が必要な核廃棄物のように権利を侵害される主体(未来世代)がまだ存在していない場合、地球温暖化による島しょ国の居住地喪失のように被害と加害が時間的・空間的に離れていて統一的に権利・義務関係を調整する主体が存在していない場合等である。これらはどれもこれも、これまで論じた「無知」の領域に入るものではない。この行為(プラスチックの製造・廃棄、原子力発電、化石燃料の大量消費)を長年続けていればいずれは困ったことになるだろうと予想されながらも、責任を取る主体も不明のままで漫然と行われ、引き返せないままずるずると今に至っている。その間に発生した利益は生産者と消費者に回収され、外部不経済(取引当事者以外に及ぶコストや危害、市場の外で発生するため、価格に転嫁されない)は、地方、貧困者・地域、開発途上国、自然といった発言力の低い他者に片寄せられてきた。

このようなことが将来繰り返して起こることを防ぐためには、いつその責任が発生するのかわからない事後責任単独よりも、困った事態が起こる前の事前責任、入り口の段階での責任をもっと明確化し、それと対応させた形で事後責任を設定することが必要と考える。つまり「やめる」責任、「引き返す」責任の主体はだれかをはっきりさせ、責任(自然や未来世代への責任を含む)を定義し、どの時点でその責任が発生したかを監視し(そのためには立ち入りなど情報収集の権利が保障される必要がある)、責任が果たされていない場合の責任追及を遅滞なく行う、そのためにも責任追及を行う人々に不当な圧力が加えられないよう保護する、そのような明示的なしくみを社会実装するのである。それは外部不経済を内部化して公正を実現することであり、また潜在的な加害者の事前規制へのインセンティブを高めて予防効果をもたらすことも期待できる。

 以上、欠如モデルから対話と関与のモデルへ転換しなければならない理由を述べてきた。ここからは上述の「現場の知に耳を傾ける」などと一部重複する部分もあるが、科学技術・科学技術政策への市民参画の根拠を考えてみることにしよう。 

(1)柴谷篤弘(1998):反科学論、筑摩書房

(2)日本学術会議(2010):リスクに対応できる社会を目指して、http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-tsoukai-10.pdf

(3)寿楽幸太(2020):原子力と社会-「政策の構造的無知」にどう切り込むかー

、『科学技術社会論の挑戦2 科学技術と社会―具体的課題群』、106-126、東京大学出版会,149-168