リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

市民参画の根拠-科学技術の政治化 社会像の選択

社会像の選択

科学技術は、他の様々な社会経済的要素と組み合わされたシステムとして、さらには何が社会にとって良いことなのかという価値観の選択や社会変革へのビジョンとともに社会に実装される。例を見てみよう。

「リスク社会とその特性」という節で、スチュワート・リチャーズを援用し、「プルトニウムは核爆弾の製造が容易であり、核爆弾に準ずる厳格な管理・警備と情報統制が必要となる。それは警察や軍を含む官僚機構とそれをコントロールする政治に権力を集中させることになるだろう」、「集権化に慎重な官僚や政治家であっても、「テロへの対抗」という論理に誘引され、やがて人権侵害に対してためらわなくなっていく。「怪物と戦うものは、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。そして君が長く深淵をのぞきこむならば、深淵もまた君をのぞき込む」(ニーチェ)のである。」と述べた。経済産業省が構想するように軽水炉原子力発電所)、核燃料再処理工場、高速(増殖)炉の原子力エネルギー体系が確立されれば、一定量さえ集めれば簡単に核爆弾を作れるプルトニウムが日本中を走り回ることになる。必然的に治安機構とその上に立つ政府の力を強大化することになり、国民自身が安全のためにそれを強く要求するだろう。そして一度このような技術と社会の相互強化が確立してしまうと、別の形の社会を想像することすら困難になるだろう。プルトニウムを発電に使うことは単なる発電手法の変更ではない。社会の権力関係を変え、人々の想像力さえ変えるのである。

似たようなことは遺伝子組み換えについても言える。遺伝子組み換え作物にかかわる問題は消費者にとっての安全性、農法や収穫量、農家の手間といった農業の手法といった目に見えやすい問題に限定されない広がりを持っている。遺伝子組み換えへの懸念は、たとえば環境団体のグリーンピースが指摘するように、多国籍企業による農業支配懸念、優良な種子を種とりで選抜してきた農家の権利への侵害、家族農業という生活様式の崩壊というように、農業をめぐる様々な主体とその関係性からなるアクターネットワークとでもいうべきものを根こぎにしかねないという社会経済的側面にも向けられている。食という人間生活の基盤であるものにかかわる各地域の伝統や文化を衰滅させかねないこと、つまり社会のあり方が変わること、そして種子支配が進めば流通や消費を含む農業システム全体がそれに適応してしまい、後戻りできなくなることに危機感が抱かれているのである。

このように、科学技術を考える(より厳密に言えばトランスサイエンス問題にかかわる科学技術)ことは、我々がどんな社会を望むのかということと切り離し得ない。したがって科学技術について何か困ったことが起こったり、その必要性について論争がある際には、自明の前提となっていることが多い「どんな社会がより善い社会なのか」を考え直す必要がある。「ありもしない「価値中立的な科学技術」ではなく、「善い科学技術」(あるいは少なくとも「より悪くない科学技術」)とは何か、「誰にとって善いのか」を探ること」(1)、つまりその科学技術を通してどんな社会を実現しようとしているのか、あるいはどんな社会への可能性を閉ざしているのかを議論しなければならないのである。

民主主義社会においてはすべての市民が、その社会が将来どうあってほしいか、どうあるべきかという社会像の選択に関与する権利と義務を持っている。そして上述のように科学技術は「何が社会にとって良いことなのかという価値観の選択」、社会像の選択に深くかかわっている。この2つを前提とするならば、すべての市民は科学技術に関与する権利・義務を持っていることになるのは必然である。

おそらく、この論理は理屈としては多くの人が認めるところであろう。一方で、現実に科学技術の方向性に市民が影響力を持っているかと言えば、そうは言えないということも、これまた多くの人が認めることであろう。その制度的な原因については「社会・科学複合体の問題点-民主主義の目詰まり」の節で一部を述べたが、ここでは、より構造的というか現代文明の深部に根差す要因から述べていくことにしよう。

(1)平川秀幸(2010):科学は誰のものか―社会の側から問い直す、NHK出版