リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

市民参画の根拠ー科学技術の政治化― サブ政治化する科学技術

まずは科学技術の進歩の不可避性及びその進歩が善をもたらすという信念について考えてみよう。これまで何回か触れているウルリッヒ・ベックは、経済や科学技術が民主的統制の範囲外となり、政治が科学技術やグローバル経済にかかわる諸セクターが生み出すリスクをコントロールできなくなってきている状況、諸セクターが政治のコントロールを離れて半ば自律的に作動することをさす概念としてサブ政治という概念を提示した。その動因は「一つには技術的進歩イコール社会的進歩そのものであると見なされるからである。もう一つには、技術的変化の発展方向とその成果というのは、 技術=経済上の必然性が具体化された避けられないものと見なされるからである」だとしている。現代文明は科学技術の進歩を与件として組み込んでおり、新しい発見・発明は善とみなしており、それが世の中に広まっていくのは必然ということである。善なのだから民主的統制は不要であり、自律的に成長し、拡張していくがゆえに民主的統制が難しいということになる。こうして科学技術は民主主義の外側にはみ出していく。

しかしこれは科学技術や科学技術を担う人々(科学技術の専門家)が外部から何のコントロールも受けないアジール(結界)のような場所に隔離されて自由に発展したりふるまったりするという意味ではない。事実はむしろその逆である。「社会・科学複合体の問題点 国家と資本(産業)の論理による科学技術の公益性の独占―知は奴隷なりー」の節で述べたように、脱政治化され、価値観をめぐる問いから切り離された科学技術は、むしろそれゆえにむき出しの資本主義と国家主義の論理の浸透に無防備になり、資金提供者である産業界や官僚、そして官僚の背後に控える政治家の意向を前提として、いわばこれらのセクターの掌の上で動く存在になってしまう。

これらのセクターは科学技術の専門性を名目に民主的統制、もっと具体的に言えば議会や市民からの「厄介な」批判や意見から科学技術とそれを担う専門家を守る防火帯を敷いてくれるかもしれない。しかしその防火帯の外側で続いている不信の連鎖はいつか荒れ狂う炎となって防火帯を飛び越えて専門家を襲うかもしれない。また、本来、科学技術への批判や意見、たとえば汚染に苦しむ地域の第一次産業の人々、巨大開発に巻き込まれて、住民同士が激しく対立し、関係性が壊れてしまった地域の人々といった多様な人々の声、時に科学技術を指弾することもある多様な声は、「何のために科学技術を研究し、社会に実装していくのか」という深い問いを専門家に喚起し、たとえば四日市公害訴訟の判決、レイチェルカーソンの「沈黙の春」、宇沢弘文の「自動車の社会的費用」に見られる社会への問題提起のように、問いへの応答を通して自明だとおもわれていた概念の再構築を促し、科学技術をむしろ豊かにしてくれるものである。それを防火帯により遮断して届かなくすることにより、専門家は産業や国家の提示する価値観に疑問を抱かずに、天(産業・国家)から降ってくる仕事に専心するようになり、それが社会に何をもたらすかは経営者や政治家が考えることと思うようになる。

第2次大戦時の原爆開発計画に携わり、後に素粒子物理学の業績でノーベル賞を受賞したリチャード・ファインマンの「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(2)という著書の中には、原爆開発に成功した研究者たちの一部が手放しで喜んだ情景が描かれている。この研究者たちは目前に現出した巨大な破壊力が自分たちの知性の結晶であるという喜びを感じるとはできても、その破壊力により殺され、恐るべき傷害を負わされていく人々を想像することはできなかったのであろう。その背景には戦争に勝つという至上目的というか錦の御旗がある。上(国家)から与えられた使命が想像力を遮断してしまうのである。このような状態に置かれた科学技術においては。価値をめぐる問いに心を煩わされずにすむ。与えられた目的に向かって目的合理的に前進すればよい。そこに研究費が無制約に投入されるなら、そこはある意味科学の楽園となる。しかし価値をめぐる問いから遮断され、科学の楽園の中で目的合理性のみで突っ走った科学者集団の恐るべき極端な実例をナチスや石井部隊の中国における人体実験という形で我々は知っている。ここまで極端に走らなくても、たとえば新規の化学物質の創出、遺伝子組み替えなど日々行われている科学技術の実践は本来、それが社会や自然に何を呼び起こすかの判断、価値観を問う判断を絶えず科学者・技術者に迫っているはずである。しかし、世の中の多様な声からの遮断、声への応答を政治家・官僚や経営者に投げてしまう心性はこのような判断を行うことを放棄させ、権力や企業の私的利益への奉仕を唯一の価値判断の基準へと斉一化させる。ここから石井部隊やナチスの所業との距離は意外に近いのである。

多様な声を遮断し、資本や国家の要求に従うことは、短期的には科学技術への投資を呼び込むことになるかもしれないが、科学技術の発展を制約する可能性もある。経済産業省が牛耳る原子力に偏したエネルギー研究投資や、高速増殖炉とか熱核融合炉のような一向に進展が見られてこなかった分野を国策事業として優先し、ニュートリノ観測のような世界的業績をあげてきた研究を冷遇してきた総合科学技術会議(現総合科学技術・イノベーション会議,平田光司は「科学技術会議の見解と学者の意見がかみ合っていない。完全に直交しているようだ」(3)と評している)の判断は、脱政治化されたがゆえにむしろ研究が国家や産業の支配に服してしまい、その発展が大きくゆがめられ、制約されてしまった実例であろう。この他、日本やEUにおける遺伝子組み換え作物をめぐる世論に見られるように、科学技術の発展そのものに対する疑念や反発を招き、発展を制約することになる場合もある。

 

(1)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(2)リチャード・ファインマン(1986):ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)、岩波書店大貫昌子子訳

(3)平田光司(2004):科学における社会リテラシーとは、総合研究大学院大学湘南レクチャー(2003)講義録、3 – 25