リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

市民参画の根拠-科学技術の政治化 悪しきロックイン

前節で触れたロックインとは「一定の技術を社会が選択した場合、その技術がその後の社会の技術選択を一定期間選択する」(城山英明)(1)現象である。ロックインの例としてよくあげられるわかりやすい例はタイプライターのキーボードの文字配列であろう。安岡孝一(2)によれば、文字配列が現在の配列(Qwerty 配列)に固定されたのは、第一にQwerty 配列を取っていたレミントンと別の配列を取っていたカリグラフのそれぞれの製造会社が一つの持ち株会社の傘下に入り、その際にレミントンの配列に統一したこと、第2にレミントンとの互換性を重視してQwerty 配列を採用した同業他社のアンダーウッドが開発したタイプライターが、打った文字をその場で見ることができる画期的なタイプライターであったため、ベストセラーになったことによるという。またコンピューターのキーボードにQwerty配列が採用されたのも、初期コンピューターにおいて入力の主流であったテレタイプの開発者であるドナルド・マレーが文字配列にQwerty配列を流用したためであるという。コンピューターのキーボードの文字配列という地味ではあるが社会の基盤となっているスタンダードが確立されたのは、実は入力のしやすさといった技術の優位性があったわけではなく、多分に歴史的経緯によるのである。

ロックイン自体は、技術システム(ここでは、単一の技術ではなく、多数の技術が組み合わされた技術体系及びそれを支えるインフラ、社会制度も含めて技術システムと呼んでいる)と社会の関係を安定させ、技術システムへの投資を確実化し、技術システムから得られる利得を社会成員が確実に享受するために必要な過程ではある。しかしロックインは社会が一定期間、当該技術システムの虜となることであり、その技術システムの悪影響が明白であっても、別のシステムへ切り替えるコスト(スイッチングコスト)が膨大になりすぎるため、当該の技術システムが社会の中に強固に居座ってしまうことがある。いわば悪しきロックインである。もちろん、何が悪しきロックインなのかは人によって判断が異なる。ここでは私が悪しきロックインと考えている例をあげてみよう。

たとえば塩化ビニールである。塩化ビニールは樹脂製造時のモノマー(塩化ビニール樹脂の原料、発がん性を持つ)への曝露やモノマーによる土壌汚染、柔軟性を調整するための可塑剤の溶出による食品等の汚染、焼却時のダイオキシンの発生、焼却灰中の有害重金属(安定剤として鉛、カドミウムなどが使用される)など数々の問題を抱えているが、安価であり、柔軟性を調整することによって食品包装、農業用フィルム、電線被覆、建設資材などきわめて広範な用途に利用できるため、日本国内だけでも170万トン(2019年)が製造され、主要なプラスチックの一つとなっている。もちろん生分解はされない。プラスチックの中でもとりわけ多くの問題を含んでいるものではあるが、化学工業には塩化ビニールの生産をやめるわけにはいかない事情がある。

水酸化ナトリウムは紙類、アルミニウムの製造、中和剤など工業用に広範な用途をもつ重要な物質であるが、その主要な製造法は塩化ナトリウムを原料としたイオン交換膜法であり、副産物として塩素が発生する。塩素には塩酸製造、漂白、殺菌などといった用途はあるものの、水酸化ナトリウムの副産物である塩素の生産量はこれらの需要で必要な量よりはるかに多い。もちろん塩素は有毒ガスであり、そのまま捨てるわけにはいかない。化学工業としては塩素の処理が大きな問題となる。そこで救世主として登場したのが塩化ビニールである。塩化ビニールの原料はエチレンと塩素であり、塩化ビニールは「余剰塩素の格好の消費先」(村田徳治)(3)になっているのである。重金属を使わない製法の模索や焼却処分の方法の工夫など一定の対応はされてきているが、プラスチックの中でも環境負荷が大きな物質であることには変わりがない。ポリカーボネートなど、より環境負荷が少ない代替物質も存在するが、安価であることや水酸化ナトリウム製造との対応関係があるため、容易には切り替えることができない。塩化ビニルは化学工業の中にロックインしてしまっているのである。

もう一つもっと大規模な例をあげてみよう。アメリカではすでに1940年代には自動車の排ガスによる光化学スモッグが発生し、健康被害が報告されるようになっていた。第二次大戦後の人口の増大と郊外を含む都市域の爆発的な拡大で自動車公害の激化と自動車のコスト(自動者保有に伴う個人的なコストだけでなく、駐車場や道路用地の確保、公害や事故に伴う公的医療費支出など公的コストも含む)の上昇が起こったが、モータリゼーションはむしろ進展し、鉄道は衰退していった。たとえばロサンゼルスでは1920年代には,パシフィック電気鉄道とロサンゼルス電気鉄道の2社が合計で約2,400km の路線を保有・運行していたが1961年には全路線が廃止となっている(中野彩香)(4)。同じことが全米で同時に進行し、アメリカの都市の多くは自動車での移動を前提とした都市となっていった。

これには、自動車会社やタイヤ会社が出資したナショナル・シティ・ラインズ社が全米の鉄道会社を買収し、鉄道を廃止してバスに置き換えていくという自動車産業の戦略的行動も関係していることも指摘されているが、それよりも自動車の普及に伴って自動車専用道路、駐車場、ガススタンド、車での利用を前提とした商業施設など社会の基盤(インフラストラクチャー)が社会生活を営む上で不可欠のものとして人々の生活の中に組み込まれたこと(アメリカ的生活様式)、自動車産業、石油産業が巨大な雇用を生みだすようになったことが大きい。一度技術システムが社会に緊密に組み込まれ、産業となってそこに多くの人々が利害関係者(被雇用者、消費者等)としてかかわるようになれば、そのシステムに欠点があったとしても、欠点とスイッチングコストとの見合いで、別の技術システムへの乗り換えが困難になる。この段階までくると社会と技術システムの関係がいわば逆転する。技術システムが社会にとっての所与となり、技術システムを前提として社会が動くようになる。たとえば渋滞とそれに伴う道路周辺の大気汚染が問題となったとしたら、自動車を代替するような交通体系を創出するのではなく、フリーウェイ(自動車専用道路)を建設するなど、欠点の是正のために技術システムをさらに巨大化・複雑化させて、より社会の中に深く組み込もうとするのである。

さらには技術システムを基盤とする巨大な利権複合体が形成されるため、技術システムの維持・強化・普及のための制度的仕掛けが用意される場合も多い。たとえば原発の場合、立地を促進するための電源立地地域対策交付金原発の費用がかさめばかさむほど利益が大きくなる総括原価方式(電気供給のためにかかるすべての費用を「総括原価」とし、そこに事業資産の3%を上乗せして電気料金を決める制度)といった制度的仕掛けと電力の地域独占がセットとなって原発立地に電気料収入が計画的に注ぎ込まれてきた。これがもうけを多くしたい電力会社、初期コストの高い原発に電力会社が尻込みしないよう、収入保障をしたい通産省(現経産省)、原発ニーズを生みだしたい日立などの巨大重電企業の三方良しの関係、強力なトライアングルの基盤を生み、日本が世界有数の原発大国となってきたのである。

もっともこれは、やや逆説的なもの言いになるが、制度の力を示すものであるともいえる。逆回しの制度、たとえば、自民党政権ではありそうにないが、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)がESG投資(環境・社会・企業統治に配慮している企業を重視・選別して行なう投資)の基準の中に原発リスクを取り入れ、また廃炉を特別損失ではなく、むしろ原発リスクを削減するポジティブな要素とみなすように決算の体系を変更すれば、一気に潮目を変えることになり、その瞬間から電力会社は競って廃炉に走り出すだろう。

話をもどそう。ここに述べたような悪しきロックインを回避するには、前節の最後にも述べたように技術システムが社会に実装される上流部、社会による科学技術の選択の段階こそが重要である。この段階で実装について、それが何を社会にもたらすのかについて慎重に検討することが必要とされる。しかしこの段階での予想が実装の結果をすべて見通すなどということはありそうにない。だからこそ悪しきロックイン(むろん立場によって「悪しき」なのかどうかは異なる)を回避するために前章で述べた「耳を澄ませ、そっと行う」(事前警戒原則と順応的管理)こと、直接の利害関係者とはみなせない立場の人も含め、すべての市民に開かれた議論の場を設定し、最初の方向付け自体から公開の場で議論していくことが重要である。

早い段階での対抗技術(オルタナティブ・テクノロジー、代替技術と呼ぶのが一般的であるが、代替という日本語には、すでにあるものを置き換えるというニュアンスがあり、複数の技術システムの初期段階からの検討という意味をこめてこの言葉を使う)の検討も重要である。選択肢が一つしか提示されなければその道を行くしかない。

そして実装が進んでしまい、悪しきロックインが社会をとらえてしまった場合は、思い切った方向転換、「科学の社会化」の章で述べた「山を下りる」ことも必要になる。技術システムの前提でもあり結果でもある社会システム自体の見直しも求められるだろう。原発を見直そうとすれば電力の大量消費とそれに応じてきた電力の中央集権システムを見直すことが必要になる。農薬と化学肥料に頼る栽培技術体系を見直そうとすれば、均一な品質・外見の農作物を大量に必要とする食糧市場システムを見直すことが必要になる。部分的な手直しではなく、価値観にかかわる部分も含めた社会の再編成が求められるのである。

(1)城山英明(2018):科学技術と政治、ミネルヴァ書房

(2)安岡孝一(2005):Qwerty配列再考、情報管理、48巻2号、115-118

(3)村田徳治(2001):化学はなぜ環境を汚染するのか、環境コミュニケーションズ

(4)中野彩香(2009):カリフォルニア高速鉄道建設計画の展望 ─背景の環境問題と自動車産業の動きを中心に─ 運輸と経済 69巻3号, 77-85