リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

科学技術の政治化―技術システム選択への市民参加とDP(討論型世論調査)

 改めて本章冒頭に述べた「民主主義社会においてはすべての市民が、その社会が将来どうあってほしいか、どうあるべきかという社会像の選択に関与する権利と義務を持っている。そして上述のように科学技術は「何が社会にとって良いことなのかという価値観の選択」、社会像の選択に深くかかわっている。この2つを前提とするならば、すべての市民は科学技術に関与する権利・義務を持っていることになるのは必然である。」に立ち戻ってみよう。

社会像の選択、別の言葉で言えば社会のあり様を決めていくということは、政治と深いかかわりがある、と言うよりも政治そのものと言ってよいかもしれない。つまり「すべての市民は科学技術に関与する権利・義務を持っている」ということは政治という価値観の相互作用(対話、協調、衝突等)の場、価値観のアリーナの場に科学技術に出てきてもらうことを意味している。私はこれを「科学技術の政治化」と呼んでみたい。

「科学技術の政治化」は政治的利益のために科学を利用するという意味のpoliticization of scienceと紛らわしく、スターリンによる生物学の介入がもたらしたルイセンコ事件(注)、政治の強力な支持のもとに行われたナチスの人体実験、原爆製造への科学技術者の動員といった忌まわしく、胡散臭いイメージが喚起されるかもしれない。もちろんそのような含意でこの言葉を使っているわけではない。一言で私の言いたいことを表現する他の言葉が思いつかないのでこの言葉を使うが、全く逆の意図で使っていることは最初に断っておきたい。

私の意図しているのは、政治が(正確に言えば権力を握る政治家や官僚が)科学技術とそれを担う人々を権力的に支配する体制とは真逆の形の政治と科学技術の関係である。具体的には

  • 科学技術の研究や実装を科学技術の進歩に伴う必然的な帰結ととらえるのではなく、その背後にはやはり価値観(より豊かに、国際競争により強く等)とそれに基づく選択が控えていることを、科学技術の専門家も、資源を配分する政治家や官僚も、そしてなにより市民自身が明確に意識し、その価値観と選択の問題を議論の俎上にのせる
  • 価値観である以上、だれが主体であるかによって異なってくることが当然であり、多様性が存在する。多様性を反映した議論の場を設定する。
  • その議論の場では、専門家の立ち位置は専門的知見を提供するという抑制的なものであることが望ましい。
  • 議論の場を実質的なものとするためには、価値観の多様性に対応した選択肢の多様性が保証されることが必要であり、そのために、科学技術の研究、その果実としての技術システムの形成・実装の初期段階から論点を可視化し議論を始める。
  • 官庁(官僚)は合意を形成する黒子ではなく、合意形成を支えるプラットフォームとしての役割を果たすべきである。

 科学技術の政治化の前提は、市民を含め科学技術にかかわる人々が、科学技術を人間の意図から独立して自律的に前進する自動機械とみなすのではなく、その進展は人間の価値観、つまり人々が何を科学技術に期待しているのか、何を恐れているのかに依存していることを認識することである。そして科学技術の進展が人々の価値観に依存している以上、科学技術がもたらす「好ましい結果」、「悪しき結果」は価値観によって変わりうることを意識することである。

これは自明のことのようにも思えるが、必ずしもそうではない。科学技術が近代以降の人々の生活にもたらした大きな変化は、科学技術が新しい便利さ、新しい豊かさあるいは軍事的強さをもたらすことを当然と考える意識をもたらした。これは国家間、企業間の文脈で言えば、科学技術を先んじて研究・開発・実装する者、企業、国家が先んじて豊かになれる、強くなれるということであり、特許などの先行者利得を考慮すれば、科学技術がもたらす新しい豊かさ・強さの供給にともなう経済的・軍事的利得を独占的・寡占的に享受できるということである。この論理に過度に依存すると、科学技術競争に勝利し、先行者利得を享受する、つまり科学技術で先んじていかに儲けるか、いかに強くなれるかということが最重要となり、それ以外の価値は二次的なものになる。場合によっては、採算という一定の合理的制約の存在する経済価値すら無視され。政府・軍・企業の注目する科学技術の研究・開発・実装における競争に勝つことが自己目的化する。「好ましい結果」はGDPを増やすこと、軍が強くなること、国際競争に勝つことであり、「悪しき結果」とはその逆ということである。経済価値や軍事的価値に回収されない価値、競争への雑音になるような価値観は顧みられなくなり、自然や文化の破壊、不公正の発生、一部の人たちの生活や健康への脅威といった不具合が発生しても、社会全体のためにやむをえないことととして無視されるか、被害の弁済という形で後始末的に処理されるようになる。科学技術を価値づける観点が単純化するのである。こうなると社会が科学技術に関わる決定を行う選択肢も単純化し、科学技術はあたかも自動機械のようにその選択肢の方向に動いていく、あるいは暴走していく。

 当たり前のことではあるが、経済的価値とか軍事的価値は重要ではあるが、価値の一部でしかない。社会が多様な価値観と利害を持つ多様な人々で成り立っている以上、社会が行う選択は、その選択が何をもたらすのか、どのような価値に貢献し、どのような価値を危険にさらすのか様々な立場の人々が吟味し、その結果、打ち立てられる合意という形で選択がなされて行かなければならない。理想的過ぎると言われることは承知しているが、熟議による民主的決定であり、つまりは熟議を経て政治が決めていくのである。

もちろん科学技術の場合、民主的に決定するとは言っても自然科学的事実を無視して決定するわけにはいかない。マスクがウイルス感染を防ぐために効果的かどうかは話し合いでは決まらない。しかし科学技術に関わって起きてきた諸問題(たとえば原発、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病)を見れば、政策が実際には産業に与える影響(変異型クロイツフェルト・ヤコブ病が牛肉から感染する可能性を認めれば食肉産業は大変なことになるぞ!)とか官庁への信頼(ここまで進めてきた核燃料サイクル政策をいまさら止められるか!どぶに何兆円も捨てたと言われるぞ!)といった価値観をベースにして動いているのに事実基盤が過度に強調され、決定の背後には価値観が控えている事が隠され、科学技術の専門性が盾となってそのごまかしを正当化してきたことは否めない。人々も薄々それを知っているから政策を信頼しない。信頼が欠如していることを承知しているので、ますます権力的な政策決定が行われるという悪循環となり、科学技術に対する不信が蓄積されてきた。

必要なことは 科学技術の場合であっても、何か客観的真理で自動的に社会の選択が決まるわけではなく、社会の選択は熟議によって決めていくべきこと、熟議の参加者が自らの価値観(何を重要だと思い、何を優先すべきと考えるか、裏を返せば何が重要でなく、何を後回しにすべきか)とそれが自分の利害とどのように関連しているか(利害を隠すことによって不信が生まれるので利害を明確にすることは重要である)を明確にし、他者の価値観を理解しつつも、自らの価値観と公益の関連性、社会の取るべき道を主張し、議論することである。その際、競争と先行者利得は過度に主張されるべきではない。競争は人の目を曇らせ、冷静な利害得失の考慮ができなくなるからである。

もちろん熟議によって科学技術の進むべき道が決めることは容易なことではない、至難といってもよいだろう。熟議(というか議論一般に)は神のような公平な裁定者は存在しない。熟議に参加する人々がそれぞれの立場において合理的な判断をしているとしても(部分最適)、それを寄せ集めて組み合わせても全体として合理的な判断になる(全体最適)になるとは限らない。というよりも、そもそも合理的な判断というのはある価値観の枠組みを前提としてその枠内で、当該価値観をいかにコスト最小で実現していくかということでしかないのかもしれない。そうだとした場合、価値観を共有しない人同士の話し合いでの合意というのは、「合理的に判断した結果こうする」という合意ではなく「あなたのいうことには同意しないがよくわかった。私の主張がすべて通らなくても十分な話し合いの上の結論だから同意しよう」というプロセスへの満足感の表明でしかないのかもしれない。しかしそうであっても熟議が無意味だとは言えないと私は考える。熟議(意見の表明と十分な話し合い)というのは、話し合いの結果、良い結論が出るから必要というわけではない(もちろん、その方がいいに決まっているし、その可能性は高まるだろうが)。熟議は権利だから必要なのである。つまり熟議の正当性は結論の有効性ではなく権利に由来すると考えるからである。

では熟議をより多くの人々が幸せだと感じる方向でかつプロセスの正当性が感じられる方向で実践するための条件は何だろうか、一つには、繰り返しになるが初期段階からの関与である。ある技術システムが市民の目の届かないところで他の技術システムよりも優位なものとして選択され、科学技術の発展の必然的結果であって選択の余地のないものだとして提示されるのでは熟議の余地はほとんどない。当該技術システムの開発の初期段階、あるいは基礎研究から技術開発への進展への見通しがある場合には、基礎研究への着手の段階から情報公開が行われ、関係者の意見が総覧され、市民の目にさらされ、関係者相互、関係者と市民の相互交流が行われ、その結果如何で方向性を修正していく必要がある。研究の初期段階から社会とのコミュケーションを不可欠の要素として組み込んでおくのである。その際には、対抗技術の可能性やそれに応じた資源配分についても吟味されるべきであろう。大事なことは未来への分かれ道を見極め、タイミングを逃さず、意思決定していくことである。現状ではこの部分が専門家と官僚(実質的には官僚)の裁量(さらに言うならば恣意)に任されすぎている。初期の重要な決定が閉じられた小集団の中でなされ、その決定が当該科学技術の方向性を決めてしまっているのである。近年、医学研究においてPPI(患者・市民参画)が研究倫理の観点からだけでなく「研究の民主化」、「研究計画そのものの社会的妥当性の判断に患者。市民の視点を導入する」(1)の観点からも進められようとしている。この考え方は科学技術の他の分野にも援用されるべきであろう。市民参加を周辺的な要素ではなく、科学技術の研究開発・実装のすべての段階、特に初期段階の必須の要素として考えられなければならない。

もう一つは民意を可視化する議論の場の設定及びそこでの議論の政策への反映である。もちろん議会という政策についての議論の場がある。そして議会は法という形で、政策に根拠と強制力を与えるという意味で、きわめて重要な議論の場である。しかし個別の問題において議会の結論が民意と乖離することは決して珍しくない。前にも述べたように選挙は政策パッケージへの投票であり、個別の政策課題への民意を問うものではないからである。間接民主主義の宿命であり、政策間の整合性を取らなければならないという意味では、個別の問題について民意との乖離が直ちに悪いというわけではない。

ただ問題は審議会や与党内政策会合といった議会外の場が実質的な議論の場になっていて、議会では「法案が通るのか通らないのか、いつまでに通すのか」といったパワーゲームが優先され、政策の本質や、当該問題に対する民意は何かということが議論される場になっていないことである。議会に法案が上程されたときには調整が終わっており、審議を経ても本質的な修正は行いえない。議会が議論の場とならず、単なる多数決の場となっている。与党の意見=民意という単純な方程式しかないのである。学校で教わるような民主主義の基本理念である少数意見の尊重などは一顧だにされていない。

特に科学技術の問題については、たとえば総合資源エネルギー調査会がエネルギー基本計画を決めると、それがそのまま与党の政策になっていくように、審議会の比重が高い、そして審議会は、官僚が業界や与党(有力政治家、族議員)と舞台裏で調整しておおよその方向性を事前に決めてしまうことが多いのである。これは議会の実質的無力化である。

このような利害調整型の政治の弊害は国民の目にもよく見えており、不満はたまっている。だが変えようと思ってもどう変えたらよいのか、そのビジョンが見えないのである。ときにその不満が噴出し、しがらみを断ち切って改革断行を主張する政治家が支持を集めることがある。しかし、そのような政治は期限付き独裁といった様相を呈しやすく、必ずしも事態を好転させない。トランプ政権末期のように国民の間に分断をもたらす結果に終わりやすい。利害調整型でも独裁型でもない政策決定が求められるのである。

このような政策決定の仕組みを変えていくことが必要である。私になにか良い案があるというわけではないが、福島第一原発の事故後に行われた原子力発電への依存度に関するDP(討論型世論調査、専門家から何回か情報提供を受け、一定の知識基盤を形成した上で討論を行い、投票を行うというタイプの世論調査)は参考となるのではないか(2)。この調査では専門家やステークホルダーが討議して作成した3つのシナリオ(原発依存度0%、15%、20-25%)について全国から無作為抽出で選ばれた300名の参加者が東京都内に集まり、専門家の情報提供も受けつつ2日間にわたって議論し、最終的に原子力ゼロとする意見が過半数を占めた。そして同時に行われたパブリックコメントも踏まえて政府のエネルギー戦略が決定された。「それまで閉鎖的な意思がなされてきたエネルギー政策の分野において、市民参加のプロセスが導入され、政府の公式の政策決定に一定の影響を及ぼしたという意味で,日本における科学技術への市民参加にとって、このDPは一つの画期であった」(2)と評価されている(ただしその後の政権交代によって上記の決定は覆された)。

熟議を経た民意を知る手法であるDPは、間接的であるとはいえ民意を反映しているという意味で一定の正当性を持っている。議会に代わりうるものではないが、政策をめぐる議論の一つの定点、参照点となりうるのであり、関係者に一種の共通の足場を与えることができる。判決の持つ影響力を考えてもらえばよいかもしれない。判決は個別の事案に対するものであり、違憲立法審査のような特殊な例を除けば、議会や政府は当該事案以外の事案に対してまで拘束はされない。しかし実際には判決は、類似事例を扱う際の参照枠組みとして機能し、政策を変えていく力を持っている。判決が政策を巡る議論に収束点を与えるため、政策担当者もそれを足場にして次の議論をはじめることができるのである。

DPにこのような影響力を持たせるためには、間接的とはいえ、公的なプロセスを経て形成された民意ということに一定の正当性を与え、拘束はされないが尊重しなければならない責務を議会と行政府に課す必要があるだろう。DPと異なる政策決定を行った場合の説明責任を求めるのである。

専門家の立ち位置については議論をしておく必要があるだろう。DPにかかわる専門家の選任は専門家間に存在する意見の多様性を反映して行われる必要がある。科学技術に関わる多くの問題は社会像の選択にかかわる学際的なものなので、自然科学・工学だけでなく社会科学や人文学が関与する必要もある。これらのことを考えると、業界の利害にからめとられやすい官庁や特定の学会ではなく、俯瞰的な視野と公正への志向性を持つ学術団体が望ましく、具体的には学術会議が選任することが望ましいと考える。

DPの運営についても工夫をする必要がある。専門家間でほぼ合意がなりたつようことについてはあえて市民が意思決定する必要性はあまりない。専門家間で合意されていないこと、たとえば高レベル放射性廃棄物地層処分するのか人間がアクセスできる場所に暫定的に管理するのかといったことについてこそ市民が判断することが求められる。そのためには何が専門家間で合意されていないのか(争点)に論点を絞り、それぞれの専門家の主張の根拠は何かを聞きとり、争点とその根拠をめぐる専門家間の対話を傾聴して判断する形が望ましい。オーストラリアの裁判所では、高度な専門性が要求される事案では原告、被告間の権力・知識格差によって裁判の行方が左右されやすいという反省の上に立ち、従来の対審構造(双方が相手側証人の証言の信頼性を反証する方式、証言においては、証人は質問に答えることしか許されない)に替えてコンカレント・エヴィデンス方式(双方の専門家承認が同意できる点、できない点を明記した共同報告書を作成し、それをもとに裁判官、代理人、専門家承認が討議する)(3)が採用されているが、この構造と類似した手法である。

DPを運営するスタッフについては所管官庁が派遣するのではなく、学術会議の機能を強化し、官庁からの派遣職員でなく学術会議の専任スタッフが行うのが望ましい。官僚ではなく研究者として遇し,研究者の職歴として評価するのが望ましい.

 なお専門家とDPに参加する市民の関係は、最終的な選択の主体は市民であるという意味で、市民が主であり、専門家は専門的助言を提供するにとどまるという意味で従である。これは優劣の関係ではない。政治家と科学顧問のような関係、対等ではあるが、意思決定は市民が行うという意味である。

むろんDPの代表性には限界があり、議会の持つ「選挙で選ばれた人たち」という正当性と匹敵するような正当性は持ちえないことは確かである。また討議する問題に対して関心の低い市民は参加を忌避しやすく、結果的に関心の高い市民が集まりやすいという面がある。それが議論の質を保つことに働く一方で、代表制を損なう面もある。病気の人々、高齢者、障碍者といった意見を言いにくい人々への配慮も必要となる。オンライン会議が普及してきたとはいえ、地方や情報弱者への配慮という問題もあるだろう。しかし形骸化した審議会よりも実質的で民主主義の理念により適った方法となりえると考える。

ここではDPについて取り上げてきたが、何らかの形で民意が反映されるのなら、もちろん他の方法でもかまわない。イタリアやスイスが国民投票原発政策を決定したように非常に重要な問題については直接民主主義を適用することも考えられる。いずれにしろ、科学技術に関わる個別の問題について議会や行政府の意思決定に影響を与えるだけの重みをもった民意の表明が行われることが重要である。そしてそれを可能にするためには政府のしくみの変更も必要になるだろう。政府の意思決定の仕組みの中に、選挙だけではない民意の表明のための回路を制度的に組み込み、民意を練り上げていく場の提供も行うのである。その回路の設定とサポートを政府の公式の使命とすることが求められる。具体的な姿を想像することは難しいので、雑駁な言い方になるが、政府には政治家と官僚からなる法執行の機能だけでなく、様々な人々が集っては民意の熟成と出力を行う広場(プラットフォーム)としての機能も求めたいのである。

 

(注)ルイセンコ事件 ソ連の農学者であるルイセンコが獲得された形質は遺伝するという学説を唱え、それを信じたスターリンの指示によって、ルイセンコ学説に疑義を呈した生物学者が投獄したり処刑されたりした事件。政治の介入によってソ連における生物学の研究は著しく立ち遅れた。

 

(1)日本医療研究開発機構:患者・市民参画(PPI)ガイドブック ~患者と研究者の協 働を目指す第一歩として~、000055213.pdf (amed.go.jp)

(2)三上直之(2020):テクノロジーアセスメント、科学技術社会論の挑戦 2 科学技術と社会、127-148、東京大学出版会

(3)ピーター・マクレラン,:コンカレント・エヴィデンスⅡ,https://www.sci.tohoku.ac.jp/hondou/RISTEX/page4/page4.html