リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

民主主義社会の能力構築-民主制の専門化あるいは啓発された民主主義―

前章では市民参画の根拠としての「科学技術の政治化」を扱った.筆者はこれを平川秀幸の言う「専門性の民主化」(1)に対応するものとして考えている.平川は「専門性の民主化」を有効に進めるためには「「民主制の専門化」が不可欠である」として「政策 決定過程やそこでの科学的プロセスが広く社会に開かれても、社会の側に有意味な科学的・ 政策的貢献ができるだけの能力がなければ、「民主制の民主化」も「専門性の民主化」も有名 無実になってしまうからだ。」と述べている.この章ではこの「民主制の専門化」について考えてみる.

平川の言にあるように「民主制の専門化」は民主主義社会の能力構築である.これは究極的には社会を構成する個人の能力構築(科学技術リテラシーの涵養)をどう行うのかという問い,つまり啓発に帰着する問題であろう.しかしこのこと(科学技術リテラシーの涵養)の具体的内容は本論考の第3部「科学リテラシーの再構築」で述べることとし,以下では「民主制の専門化」が可能かどうかという理念的な問題について述べたい.

市民による意思決定の質 専門的事項について市民が判断できるのか?

「科学技術と社会の相互作用」の章で教育の課題として「科学が社会に遍在し、科学と社会が分かちがたく結びついて、いうなれば科学―社会複合体となっている現代という時代を俯瞰的に眺め、科学と社会のあり様とあるべき方向性を考えることのできる観点(切り口)の獲得であろう。少し大げさに言うならば、文明論的視点で現代の科学文明をとらえることといってもよい」があることを述べた.

科学技術に関わる問題について民主的な統制を行うためには,市民自身がその問題について何らかの判断を行う必要があり,そのための教育というか市民の学びが必要となる.しかしそれは市民が科学技術について科学者や技術者と同じレベルの知識を持ち,それによって科学技術がかかわる問題を判断することではない.それは端的に不可能であるのだがそれだけの理由ではない.市民が行うべき判断とは,専門家の行う判断とは異なる.上述のように「科学―社会複合体となっている現代という時代を俯瞰的に眺め、科学と社会のあり様とあるべき方向性を考えることのできる観点(切り口)の獲得」に基づく判断である.やや突飛なたとえであるが,政治指導者による軍事的意思決定と同種の判断と言えるかもしれない.

たとえばアメリカ大統領は世界最強の軍の最高司令官ではあるが、大統領になるにあたって軍事の専門家であることは求められない.国防省等の官僚や参謀本部の軍人、補佐官が意思決定すべき問題についてブリーフィングを行い,可能な選択肢を示し,大統領は同盟国との関係とか世論とか軍事以外のことも考慮に入れながら,示された選択肢の中から,あるいは示された選択肢を超えて日々判断を行うのである.アメリカでなくどこかの小さな国の指導者であっても軍事政権でないかぎり意思決定の本質は同じである.指導者に求められるのは,専門知識ではない.専門家の補佐を受ける必要はあるが,総合的な判断力であり,一般的な常識や良識に基づいて意思決定していくのである.

シビリアンコントロール(文民統制)の最大の眼目は軍の暴走を防ぐことであり、また重要事項の意思決定が政治指導者に独占され、他のステークホルダーが関与できないという点で科学技術政策とは大いに異なる。その意味で同一視はできないが、きわめて重大で専門的な事項であっても専門家の補佐を受けながら一般的な常識によって判断していくという意思決定の構造、専門家が選択肢を示し選択は政治家に委ねるという専門家の立ち位置は参考になるだろう。

このような例を示したのは,高度に専門的な事項にかかわる判断を専門家ではない人間ができるのだろうかという当然の疑問に答えたいためである、現に政治指導者は軍事という高度に専門的な事項についての判断を行っているのであり、これは適切な専門家の補佐があれば、専門的な知識が必要な分野でもレイマンコントロール(素人による統制)は可能であることを示している。社会が科学技術についての意思決定を行うことは同様の構造の下に可能ではないだろうか.

このような論じ方には非現実的という懸念もあるだろう。選挙と政党内の競争を勝ち抜いてきた政治家はそれなりの資質を備えた選良であり,市民と政治家を同列に論じることは適当ではないのではないか、たとえばイギリスのEU離脱の賛否の際の議論やトランプ政権時のあからさまな嘘を国民の多くが信じてしまう(もっともトランプも「選良」ではあったが・・)ということに見られたように、質の高くないポピュリズムに訴える議論に市民は流されやすい,衆愚政治になってしまうのではないかという懸念である。この懸念には一定の説得力があることは否定できない。

しかし市民の間で自主的で質の高い議論が行われ,それが当該地域の政治的意思決定を主導した事例,民主制の専門化が成功し,衆愚とはならなかった事例も過去には見られる.著名なものを2つ挙げてみよう.

まず静岡県三島・沼津・清水地域における石油化学コンビナート建設反対運動である.以下の記述は「「三島・清水・沼津コンビナート反対闘争」における直接民主主義と公共政策」(小林由紀男),「石油コンビナート反対闘争」(三島市役所HP),「清水・三島・沼津石油コンビナート反対運動 ――住民組織の発展と学習会―」(西岡昭夫・吉沢徹)による.

1963年,東駿河湾地域(三島・沼津・清水)石油コンビナート建設が計画された。三島市では先に誘致した東洋レーヨン工場による地下水くみ上げによる水不足に悩んでいたことがあり,企業誘致への市民の疑念が芽生えていた.折から四日市公害が大きな問題になっていたこともあり,住民は行政関係者とともに公害被害が問題になっていた地域へ見学者を送りだし,公害被害の惨状をつぶさに見学した.特に四日市見学は住民に大きな衝撃を与えた.「行政関係者や漁民、住民の代表などは住宅地域と石油コンビナートが隣接する中で大気汚染被害が激甚化している様を目のあたりにした。この経験がその後の反対運動の方向性を決定づけた」(1).四日市と同様のことが東駿河湾で起こることへの懸念が住民の間で広がったのである.

見学会後,少人数の学習会が数百回行われ,学習会ではメディア報道,学術資料などが使われたが,とりわけ効果的だったのは住民自身の作成した資料であった.「この時期、住民グループの代表たちはバスを連ね、四日市千葉市などの視察に出かけているが、その体験を自分たちの言葉でまとめ、学習会などで視聴覚資料として使用していた」(1).そしてその結果,「われわれ三島市の農民は、近隣の市、町の工業化による地価の値上りを羨望の目で見ていたところであり、内心喜んだが、四日市の石油コンビナートにおける公害の噂を耳にし、不安でもあった。そこで先進地見学ということになり、四日市・倉敷・千葉等へ出向き、特に四日市ゼンソクを目にして、公害に対する認識が芽生えてきた。特に幼児を持った婦人層は真剣になってきた。その結果、われわれ予定地農民は、種々手をつくして資料を集めて研究し、百回を越す学習会を開き、終り頃には地区の老人までが公害を話題にし、PPM等の聞きなれぬ学術用語を口にするまでになった。」(2)という証言に見られるように住民の学習が進んでいく.学習会の内容は「公害という「言葉」の考え方に始まり、石油化学、火力発電所、亜硫酸ガス、逆転層、地下構造と地下水、四日市ゼンソク、気道抵抗、肺性心、石油業界の資本構成、財閥、公共投資、社会開発、地方自治など工学、自然科学、医学、政治経済学」(西岡・吉沢)にも及んだ.「市民は博学になることが自己の防衛にとって絶対必要であることを感じていた」のである.住民は学習会で知見を得ただけではない.学習会は「意識伝授の場でなくて、知識を生み出して力に変える場」(3)になっていった.自治会、婦人会、青年団などの地域集団からなる「石油コンビナート対策三島市民協議会」が結成され,この協議会には,のちに教職員組合や商工会議所などの職域グループが次々に加わっていき,全戸アンケート(三島市婦人連盟が実施)で9割を超える市民が反対運動を支持することになっていったのである.三島市長はこの状況を見て民意は決したと判断し,市としてコンビナート建設に反対するという声明を出した.沼津,清水では三島ほど住民の意見が統一されていたわけではないが,民意は明らかに反対に傾き,清水町長(反対声明の発出は清水町が最も早い),沼津市長も相次いで反対を表明した.当時,富士石油などの企業,国(通産省)、静岡県はコンビナート推進の立場にあり,とりわけ静岡県は広報において「公害は全く考えられない」「亜硫酸ガスはごく微量」「コンビナートは漁業を妨げない」などのあからさまな誘致推進の言説を行い,市長選への介入まで行っていたが,地元自治体の反対を無視してまで強行することはできず,コンビナート建設計画は撤回された.

以上の経緯の中で注目すべきはやはり学習会である.学習会の積み重ねが市民の知見を高め,学習会によって市民が横につながっていく,そしてその中で市民の意見がまとまっていく,学習会は市民の自己教育の場であり,同時に「公害反対の声を一本の糸によりあげてゆく糸車の軸芯」(3)として機能したのである.専門家の存在も忘れることはできない.三島市が委嘱した松村調査団(国立遺伝学研究所の研究者や沼津工業高校の教諭から構成される調査団)は学習会に丁寧に足を運び,市民に調査結果やその意味を報告している.このことが市民の公害への理解を促進したことは疑いない.現代の言葉で言えば「市民科学」と呼べる研究実践も行われている.沼津工業高校の生徒たちは「西岡教諭の指導で鯉のぼりによる気流調査をおこなった。5月上旬の連休を中心に10日間、朝6時から夜8時まで、鯉のぼりの向きを調べた結果をもちより、地図のうえに精細な気流図を書きあらわした。別の生徒たちは、牛乳ビン100本を狩野川に放流して、汚染された排水が駿河湾に流れこむ方向をたしかめる海流調査をおこなった」(2)。この研究は国の調査団の報告を覆す結果となり,専門家の指導による市民による研究の初期の成功例となった.専門家の補佐の下,市民が知見を深め,時には自ら調査を行い,民主的に意思決定していくという民主制の専門化の一つのモデルケースであったと言えるだろう.

次に「吉野川住民投票」(4)を主な資料として徳島県吉野川第十堰について見てみよう.第十堰は吉野川を分流するために設けられ,1752年から1878年という長い年月をかけて築造された石造りの堰である.建設省(当時)はこの第十堰を撤去し,可動堰化する計画を1991年に決定し,計画内容について審議する吉野川第十堰建設事業審議委員会を設置した.この委員会は1998年に可動堰化が妥当とする答申を建設省に提出した.可動堰化による環境や財政への悪影響を懸念した市民有志は吉野川シンポジウム実行委員会を立ち上げ,1993年に「吉野川の自然と第十堰改築を考える」というシンポジウムを行った.シンポジウムへの反響は大きく,当初,1回限りのシンポジウムの予定だったが,以後,シンポジウム実行委員会は,シンポジウムの開催の他に,建設省への情報公開要請,自然観察会,カヌーによる川下りなどさまざまなイベントも行い,市民に吉野川と第十堰への関心を喚起することに努めていった.「吉野川シンポジウム実行委員会」は可動堰化に反対というよりも市民の意見を聞いて決めてほしいというスタンスをとるものであった.1995年にはさらに「ダム・堰にみんなの意見を反映させる県民の会」が発足したが.この会のスタンスも可動堰への賛否は問題にせず,市民の意見を反映させる手続きのありかたのみを検討の対象とした.「本当にみんなが可動堰が必要だと考えるなら造ればよいと割り切っていた」のである.しかし建設省,県,市町は建設推進で一致しており,世論調査で可動堰に反対する意見が多数を占めても変わることはなかった.

政治が動かないことに危機感を覚えた市民は1998年に「第十堰住民投票の会」を立ち上げ,住民投票条例制定請求のための署名集めを徳島市で開始した.1カ月で徳島市民の49%の署名が集まり,市に提出された.しかし市議会は条例案を否決し,いったんは住民投票は白紙に戻った.だが「第十堰住民投票の会」は市議会議員の構成を変えることによって住民投票を実現させようと戦略を転換し,1999年の市議会議員選挙では条例賛成派が躍進し,議会の過半数を占めることになった.その後,選挙時には条例賛成だった議員の一部が反対に転じるなどの混乱があったが,結果的に条例は成立し,同年投票が行われ,投票率55%,可動堰建設反対が92%で民意は可動堰建設に反対であることを明白に示した.翌2000年には建設省は第十堰改築を撤回することとなった.

この吉野川第十堰をめぐる市民の動きにも清水・三島.沼津石油コンビナート同様の学びの構造を見て取ることができる.吉野川第十堰の場合,市民の学びの仕掛けを作り上げていったのは吉野川シンポジウム実行委員会であった.上述のように実行委員会はシンポジウム,親水イベント,市民アンケート,ダム事業審議委員会の傍聴呼びかけ等を通じて市民に第十堰への関心を喚起し続け,そこからさらに新しい市民グループが生まれるというように市民の学びの母体であり続けた.それらの市民グループが日常的に学習会を繰り返し,徐々に第十堰への関心が広がるとともに改築の問題点も広く理解されるようになったことが,徳島県全体でも,第十堰周辺の自治体でも改築反対という意見が過半数を占める(1998年,四国放送による世論調査)結果につながっている.

実行委員会やそこから派生した市民グループは治水工学や法学,生態学などの専門家の助言を受けながら建設省の治水計画の検証も行っている.特筆すべきは建設省の治水計算の誤りを発見・指摘したことであろう.建設省は第十堰の水のせき止めが第十堰上流の水位をかさ上げし,150年に一度の大雨が降ると危険推移を42cm超えてしまうという計算結果を第十堰撤去・河口堰建設の根拠としていた.計算手法としては,斜め堰である第十堰を,計算上河岸に直角に設置された堰と仮定して計算する堰投影計算方式を採用したが,その際,堰の高さを過大に,堰の長さを過少に見積もってしまい,水位計算も過大になってしまったのである.清水・三島・沼津石油コンビナートと同じように,市民科学の有効性を示す格好の事例となっている.

 この2つの事例のいずれにおいても住民投票やアンケートの結果によって政治的意思決定を行う事は間接民主主義の否定であり,専門的知識のない市民の感情的な判断は危険であるという批判がなされたが,市民の意思決定(住民投票は首長や議員を拘束するものではないので,厳密に言えば意思表示)は個別の政治的利益に足をとられる首長や議員よりもむしろ明確な根拠に立脚した理性的なものであった.国や県,大企業といった大きな権力を持ったアクターが繰り出す利益誘導、専門家を動員した推進言説の流布に対して、市民は説得力ある対抗言説を構築できたのである.なぜこれらの事例はこのような成果を収めることができたのだろうか,いいかえれば衆愚とならなかったのだろうか.そこには次のような理由が考えられる.

(1)対抗的公共善の提示

 清水・三島・沼津コンビナートの場合は地域の経済的発展,吉野川第十堰の場合は治水という公共善(公共の福祉)の達成のために必要というのが国や県の論理である.それに対して地域の市民は各自の個別の利害を主張したわけではない.個別の利害ならば,たとえば補償金というような形で個の利益を積み増すこと,条件闘争に引き込むことによって説得することができる.実際,原発のような巨大開発では漁協や立ち退き住民の説得にこの手法が多用され,成功している.しかし市民が依拠したのは環境や健康,美しい景観の保全,地域の文化の伝承(吉野川第10堰の場合,第10堰自体が文化財の性格を持っている)といったもう一つの公共善,あるいは対抗的公共善というべきものであり,国や県の主張する公共善に対抗しうる固有の論理を持っていた.対抗的公共善が持つこの固有の論理の説得力が市民に納得と自信を与え,国や県が仕掛けてくる条件闘争に取り込まれないしっかりした足場を与えたのである.

(2)補完性原理 市民が求めたのは対抗的公共善だけではない.それ以上の大義となったのは「地域のことは地域で決める」という考え方,県とか国といった上位の権力に決定を委ねず,自らの頭で考え,自らの意志で地域の未来を決めたいという意識である.これを政治学の言葉で言えば補完性原理(政策決定はコミュニティにより近いレベルで行われるべきという原則)にあたるだろう.

三島・沼津・清水においても吉野川第十堰にしても,基礎的自治体(市町)の政治(議会,首長)は概ね少なくとも当初は県や国の意を受け,コンビナート,河口堰推進の立場であった.しかし最終的には全戸アンケートや住民投票の結果,さらには選挙結果を受け,地域の民意を受容した意思決定を行った.様々な形で巻き返しを行って主導権を取り返そうとしていたことから考えると,必ずしも納得したというわけではなかったと思われる.地域の民意を受容しなかった場合の政治的リスクと受容した場合の国や県との関係悪化などのリスクを比較し,渋々ではありながらも民意を受け入れる決断をしたのであろう.しかし結果として地域の民意に沿った決定が行われたことは確かなことである.これは意外に重要なことである.基礎的自治体の政治家にとって上級権力よりも地域の民意を優先することが政治的利益につながることを示した,つまり(政治家自身は意識はしなかったかもしれないが)補完性原理の先例になったからである.同様なことは新潟県巻町や高知県窪川町(原発建設)にもみられる.ただし補完性原理が全く通用していない場合もあることを忘れてはいけない.安全保障である.沖縄の辺野古基地建設に見られるように,どのような民意が示されても上級権力がそれを無視して政治的意思決定を行うことはありうる.

なお言うまでもないことであるが,補完性原理は自らの意志で決める以上その結果は自ら引き受けるという責任と表裏一体であること銘記しておかなければらない。.

(3)ボトムアップの学びの場とそれを補佐する専門家の存在 選挙運動,デモなど街頭でのアピール等も行われたが,運動の中核は学ぶことであった.三島・沼津・清水においても吉野川第十堰にしても当該問題に対する市民の関心が高く,学びの場(学習会)が自発的に多数出現し,その中で市民が問題に対する学びを深めることができた.専門家は多くの学習会に直接足を運び,市民の不安や疑問に誠実に答えようとした.当時沼津工業高校に勤務し,松村調査団の一員として気象調査を担当した西岡昭夫は「学習会は対話形式であった。こうして、難解で初めて聞くような科学的な話が砂地に水の滲みこむように入っていった。博学になるという喜びの中で「科学する住民」ができあがり,ここに此の運動成功の鍵がある」(   )と述べている.「博学になるという喜び」という表現はやや大時代的に聞こえるが、これは市民が専門的知識を何か自己と無縁の難解なものではなく,自己にとって切実で具体的な問題の文脈の中に位置づくもの,その問題に対処する力量を向上させてくれるものとして受け取り,だからこそ「砂地に水の滲みこむように」受け入れることができたことを意味している.今の用語でいえばエンパワメントであり、キャパシティ・ビルディングである.そのため専門家は「人々が今どのような知識を要求しているかを的確に知るために関係諸分野の研究を徹底的に学習し」という入念な事前準備を行い,市民と対話し,単なる知識提供者ではなく学びのファシリテーターとしての役割を果たしている.トップダウンではなくボトムアップの学びが成立しているのである.

この例は市民の側に学びのニーズ(モチベーション)が存在し,それに専門家が的確に応答しようとし,さらに両者を結ぶ場(学習会)があれば,市民は比較的短期間で適切な科学技術へのリテラシー(一般的な科学技術に関する知識という意味ではなく、当該問題を判断するのに必要なリテラシー.自然や社会についての地域固有の知識を含む一方で、当該問題を判断するのに直接的には必要ない知識は含まなくてよい.)を身に着け,問題を判断することができる(専門家のように判断するという意味ではなく,主権者としての意思決定をするのに十分な情報を得たうえで主体的に判断するという意味)ことを示していると考えられる.

(4)民意を示す機会の存在

 通常の市民生活の中では、地域の有力者でもない限り、市民が政治的意思決定に関与する機会は選挙ぐらいしかなく、選挙と選挙の間は政治家が政治を取り仕切る。それが間接民主主義といえばそれまでだが、民主主義の本旨である「市民とは統治者のことであって、すなわちそれは、自己の統治者、共同社会の統治者、自分の運命の支配者であることをさす。」(5)という感覚は希薄になりがちである。結果、多くのことはお上まかせになり、市民は権利の意識も責任の意識も政治への関心も薄くなり、政治の主体ではなく客体になってしまう。このような市民の姿を見慣れている政治家が、政治的意思決定を直接の民意に委ねることへの危惧を抱くのは当然ともいえる。政治家が住民投票などを間接民主主義の否定として拒否反応を示すのは、あながち自分たちの権限が制約されるという不快感からだけではないのである。しかし、上の例の場合,結果として民意は情緒的・盲目的なものではなく、むしろ「啓発された民意」と言うべきものだった。その民意を形成したものは明らかに市民の学びであり、市民の学びは市民の意思を表明する機会の存在(住民投票、全戸アンケート、選挙(争点が絞られ、その争点に関する市民の意思がはっきり示される選挙))に触発されたものであった。市民の意思を表明する機会の存在が市民の学びを促進し、この2つが相互強化することによって「啓発された民意」,つまり「啓発された市民」をもたらしたのである。ある問題について正しく判断する(ここでいう「正しい」とは善悪という意味ではなく,その判断が何を意味するのか理解されたうえでの判断という意味で使っている)ためにはその問題について知ろうとする意欲と一定の知識が必要となる.その意味で「啓発された市民」の存在が「啓発された民意」の前提である.しかし,だからといって「啓発された市民」が少ないのだから「啓発された民意」などあろうはずがないというのも一面的な見方である.民主主義がまだ疑惑の目でみられていた18世紀後半にトーマス・ジェファーソンは「もし、人民が充分な思慮をもって支配権を行使するほど賢明ではないと思うなら、対応策は人民から権力を取り上げることではなく、人民に思慮を教えることなのだ。」(5)と述べた.判断する機会の存在は「人民に思慮を教える」,つまり市民の啓発の絶好の機会であり,判断する機会の存在が意欲を育て,知識を育むこともまた事実なのだ.

ただしこれはある問題について民意を表明する機会が存在することが直ちに「啓発された民意」をもたらすことを意味するものではない.「啓発された民意」のためには市民が自らの価値観を他者の価値観(それは時に対立する場合もある)とすり合わせる熟議を行い,その中で各自の価値観を公共の規範(上記の公共善)へと再構築する学びのプロセスが必要である.それなしでは情緒論となり、まさに衆愚となる。その点は留保する必要があろう.

(5)市民科学 市民自身が公害被害地へ出かけて聞き取りをしてきたり,気流の調査を行うなど市民科学の実践が行われ,その参加者の学びが他の市民に還元されるという市民科学による学びが行われた.市民科学は広域で多数の参加者を同時に得ることができるため,簡易で標準化された手法があれば,大きな成果が期待できる.市民科学については次章で詳しく述べることとしたので,ここではこの程度にとどめておこう.

(1)小林由紀男(2017):「三島・清水・沼津コンビナート反対闘争」における直接民主主義と公共政策 : 住民運動から市民的コンセンサスへ,立教大学大学院法学研究49巻,1 - 38

(2)三島市:石油コンビナート反対闘争,

https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn001983.html

(3)西岡昭夫・吉沢徹(1968):清水・三島・沼津石油コンビナート反対運動 ――住民組織の発展と学習会―,行政研究叢書,1968巻7号,217-241

(4)武田真一郎(2013):吉野川住民投票―市民参加のレシピ, 東信堂

(5)ベンジャミン・R. バーバー(2009):ストロング・デモクラシー: 新時代のための参加政治,日本経済評論社,竹井隆人訳 ジェファーソンの言葉はウィリアム・ジャービスへの手紙の文中のもので,この本から引用した