リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

関与の論理 公正のための介入 脆弱な人々を守る権利はあるのか?余計なお世話ではないのか?

2 公正のための介入 脆弱な人々を守る権利はあるのか?余計なお世話ではないのか?

 「リスク社会とその特性」の章でも触れたが,ある電力会社の課長と話した経験をもう一度再録するところからこの話をはじめよう.

彼は原子力発電所に反対する人々を大略次のように批判した

 

大学病院のヘリが家の近くをよく通るが、それをうるさいといって批判する人がいる。そういう人は自分のことばかり考えていて社会全体のことを考えていない。原子力発電所も社会全体のために必要不可欠なものという意味で病院のヘリと同じだ。それなのに否定するのは、社会全体のことを考えていないのだ 

 

原子力発電所の立地したところは、それまで開発が遅れ、貧しくて困っている人たちが多かった。原子力発電所ができて道も学校も新しくなり、生活がとても便利になって皆喜んでいる。それなのによそものが入ってきて原子力発電所反対を叫んでいて住民は困っている。

 

 この発言は原子力発電所を批判した私との議論の中でなされたものであり、お互いに少々けんか腰であったので,感情的になってしまった部分もあるとは思うが、リスクとその配分についての重要な論点を含んでいる。それを一般的な表現で述べてみれば次のようになるだろう。

1 リスクはあっても社会全体の総効用を高める政策があるのならば、それを推進すべきであり、リスクの観点にもっぱら注目して批判をすることは、社会全体の総効用を低めることになる。

2 政策により特定の人たちにリスクが偏る場合には、リスクを被ることに対する補償を行うことによって(迷惑料を払って)、リスクを引き受ける人々の効用を改善して対処すればよい。

3 リスクを被る人々がそのリスクと補償について受容するのならば,第三者がそこに介入すべきではない。

 

いかがであろうか。3.11後の原子力発電所という文脈があるために課長の発言はきわどく聞こえるが、その文脈から離れれば、これらの主張には一定の説得力があるように感ぜられないだろうか。

 

このうち1と2については、「リスク社会とその特性について」でリスク分配の不平等を不可視化しかねない等の問題点を指摘したが、以下では上記3について、リスクの受容と第三者の介入について述べてみたい。

 

 まず受容について考えてみよう.人はどんなときにリスクを受容するのだろうか.たとえば自動車は公共交通機関に比べて事故のリスクは大きい.公共交通機関を利用できる場合でも自動車を使う人は多い.それは自動車がドアツードアの便利さ,プライバシーの守りやすさなどのベネフィットを持っているからだろう.人はリスクとベネフィットを見比べて自動車を選ぶ,そして選ぶのは個人(家族や友人で同乗する場合もあるが,それは個人の範疇に入れておこう)である.

一方,たとえば原子力発電所放射性廃棄物処分場の受けいれといった事案の場合,自動車を使う事と何が異なるのだろうか,もちろん,このような施設を受け入れる地域の人々にとってベネフィットはほとんど存在しない.存在するのはもっぱらリスクである.しかし,通常リスクを受容してもらうため,何らかの補償措置が行われるのであるから,それをベネフィットととらえれば.リスクとベネフィットを比較考量して意思決定するという構造は同一と考えることもできる.しかしそこには大きな違いもある.

一つは意思決定の主体が個人ではなく,集団(たとえば自治体,漁協)であることである.集団である以上,意思決定のプロセスには集団構成員の合意の調達が必要となる.どのような手法で行うにせよ,そこにはリーダーと構成員,構成員相互,リーダー相互の権力構造が織り込まれている.

もう一つはリスクもベネフィットも外からやってくる,つまりリスクの生産もベネフィットの供与も外部の集団(たとえば国,企業)に由来するということである.そしてこれらの集団は特権的立場の強力なアクターであることが多い.

何かものごとを決める際に,指導層が意思決定を独占するのではなく,集団のあらゆる人々が意思決定に参与する熟議の形をとることが望ましいことはおおかた合意できることであろう.しかし上記の2つの要素が組み合わさると,リスクを持ち込んでくる外部集団と影響を受ける集団(被影響集団)の指導層との利害の取引となってしまうことが起きやすい.

熟議には時間がかかり、結果も予測しがたい。それよりも外部集団と指導層が直に交渉し、指導層の合意を取り付けることができれば、少々の異論があったとしても被影響集団の合意をとりつけたという形にすることができる。こう書くと外部集団と被影響集団の裏取引を描いていると取られるかもしれないが、そうではない。指導層が被影響集団の利益を誠実に考えていたとしても、指導層の内部に閉じられた議論でことを進めるならば、結果的に熟議は排除される。むしろ熟議は速やかな意思決定を阻害する要因とみなされ、厄介視されるだろう。熟議を経ないで行われる指導層の強引な意思決定は集団内に亀裂を生み、集団のまとまりを破壊する。被影響集団に打ち込まれる強力な楔となり、「つけこむ隙」が作られるのである。こうなると、被影響集団を構成する個々人の個別の利害が強く意識されるようになり、集団はバラバラな個人の塊に化する。指導層をはじめとする影響力の強い人々の利害が優先され、リスクにもっとも強くさらされる人々(集団の中で弱い立場にある、いわば周辺化された人々であることが多い)やその意見は排除されることになりやすい.やや抽象的な言い方になったが、過去の日本の巨大開発の多くはこのようにして受容されていったのであるし、現在でも特に発展途上国では地方政府(被影響集団の指導層)と企業の合意のみで開発が進められ、先住民など開発によりもっとも大きな影響を受ける人々を排除した意思決定がなされることは珍しくない。

実は問題はそれだけではない。熟議に参加できないのは周辺化された人々だけではないのである。熟議に参加するには幼すぎる子どもや、まだ生まれていない未来世代もまた熟議に参加できない。しかしこれらの人々は実は大人や現在世代よりもむしろ大きな影響を受ける人々かもしれない。ではこれらの人々の利害を大人や現在世代が熟考して物事を決めていると言えるのだろうか。ここで上述の「社会-科学複合体の問題点」の節で述べた元敦賀市長の原子力発電所についての発言を思い出してほしい。彼は「50年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今は(原子力発電所を)おやりになった方がよいのではなかろうか・・・」と述べている。現在世代の目先の利益のために将来世代の利害への考慮などは実にあっさり投げ捨てられてしまうものであることがよくわかる。

さてこのように周辺化された人々や幼い子どもたち、未来世代といった人々の熟議から、つまり意思決定のプロセスからの排除があるとすれば、上述の

「リスクを被る人々がそのリスクと補償について受容するのならば,第三者がそこに介入すべきではない。」は疑わしく思えてくる。価値観の相対性が重視される現代の風潮から言えばやや挑発的な物言いになってしまうが、むしろ外部(リスクを作り出す人々とそれを受け入れる人々と言う閉じた二元的構造の外部)からの適切な関与が必要であると思われるのである。もちろんだからといって正義感に燃えた第三者がその正義を振りかざして乗り込んできてもうまくいきそうにはない。それはかえって事態を紛糾させるだけだろう。ではどのような関与の論理があるうるのだろうか、この小論の手に余る巨大な課題ではあるが、この課題についての私なりの考えかたを述べてみたい。

(1)関与の論理その1 基本的人権の普遍的保障

 中国政府のウイグル人への弾圧(強制収容,強制避妊手術等)に対してアメリカ,EU,英国,カナダは2021年3月に人権侵害を理由に、新疆ウイグル自治区責任者の資産凍結などの対中制裁に踏み切った。中国政府は内政干渉だとして反発しているが,弾圧が事実だとすれば,テロ対策等の理由を挙げたとしても決して正当化できない.このような事案に対しては内政干渉という批判は通用しない.だからこそ中国政府は「世紀のウソ」と躍起になって否定しているのであろう.基本的人権の保障は少なくとも民主主義国家においては国家主権を超えて普遍的に保障されなければならないものであり,その侵害の是正要求やそのための措置は内政干渉にはあたらない.むしろ要求することの方が正義に適った適正なことであり,義務ですらある.

この論理を貫徹するならば,たとえば高速道路や汚染物質を排出する軍事基地,工場,鉱山等の直近に住んでいて健康を害したり,害する可能性のある人々は,健康や生命という最も重要な基本的人権を脅かされるのであり,それを知った地域外の人々が「騒ぎ立てる」のは迷惑行為どころか基本的人権の保障に資する行為であり,むしろ責務であると考えられないだろうか.あるいはこう考えることもできるだろう。すべての人に基本的人権を保証することは地域とか国家とかの共同体の責務である。しかし共同体がそのことを果たせないあるいは果たす意思がない場合、共同体外の人々であっても、基本的人権の侵害に直面する人々を擁護するため声をあげる責任があり権利があるのだと。

もちろん現実的には声をあげても無視されることが多い。国家主権とか当事者適格(権利関係について判決を受けることができる訴訟手続上の地位,当事者を対象とする裁判をすることが紛争解決に適切であるかどうかが問われる.当事者であることを裁判所が認めないと不適法として訴えは却下される)を基本原理とする現在の法体系という高い壁を考えれば、少なくとも当面は蟷螂の斧たることを免れないだろう。しかしたとえばLGBTの人々とその権利を擁護する人々が弛むことなく権利を主張し続けてきたことが,おそらく2010年代に臨界点に達し,世論が劇的に変化し,いわゆるLGBT理解増進法が2023年に成立したように,権利と義務の射程を拡張した論理を構築し,主張し続けることがいずれは現実を変えてゆくこともあるうることである.

では,この関与の論理,基本的人権を普遍的に保障することは当事者だけでなく,すべての人々の責任であり権利であるとする論理を現実化するとしたら,具体的にはどのような方法というかアプローチがありうるのだろうか.次にこのことを考えてみたい.

(2) 関与の論理その2 知のエンパワメントー熟議の前提を構築するー

民主主義は単に民意の代表者を選び、その代表者に社会や組織の意思決定を委任するだけのものではない。社会や組織を構成する各人が社会や組織で生起する様々な問題に対してその意思を表明し、話し合い、話し合いを集約し、全体としての意思決定を行っていくプロセスである。このプロセスを丁寧に行っていくことがいわゆる熟議民主主義であり、熟議が欠けていれば民主主義がいわば期限付き独裁に堕してしまう。

熟議には前提となる条件がある。ハーバマスが中心となって確立され、熟議民主主義のいわば標準理論となっている討議理論において理想的論議の要件とされているのは「論議に参加する能力を行使するすべての主体を例外なく含みこむ」こと,「すべての参加者に対して論議への寄与をなし自らの論証を妥当に導くための平等なチャンスを保障」すること,「誰もがディスクルスに参加する権利及び平等にディスクルスに寄与する権利を,たとえどんなにささやかで目に見えないような抑圧にもさらされることなく.(それ故)平等に行使しうるためのコミュニケーションの条件」である(ディスクルスは討議をさす).(ハーバーマス(54)。つまり何かの問題,たとえば開発とかリスクを伴う科学技術の導入が持ち上がり,それに関連して共同体が何らかの意思決定を行う場合,共同体に属するすべての市民が討議のプロセスに包摂され,平等に主張を展開できること、討議が権力などによる抑圧や制限から自由に行われなければならないということである。このような要件が満たされる討議を経た合意が正当性を持ちうる。もちろんハーバマス自身も認めているようにこれは討議の理想的形態ではあり,現実の討議においては「近似的なところで満足せねばならない」のではあるが,少なくとも討議の参加者がこの理想に向けて接近する責任と権利を持っていることは明らかであろう・

当該の問題について特定の集団が情報を独占的に所持・運用し,集団外の人々にその情報が利用できない状況であれば,このような討議は実現しないことは自明である.しかし現実には原子力発電所や軍事基地に典型的に見られるように事故隠し,テロ対策や企業秘密・国家秘密を理由とした情報提供の拒否,不十分な情報提供は日常茶飯事のごとくなされている.そもそも国や軍,企業は住民等の関係者との話しあいが円満に進むことを望んではいるものの,条件闘争による多少の変更はあっても,討議の帰着点は動かさない.関係する市民にはひたすら受け入れを迫る「ご理解ください」式の一方的なコミュニケーションを行うことがほとんどである.これでは帰着点が思惑と違ってきそうな場合,コミュニケーションを歪曲(大事なことを知らせないあるいは隠す、コミュニケーションの主題を一方的に限定してそれ以外のコミュニケーションに応じない、補償の問題にすりかえる)するインセンティブが働くのが当然であり,歪曲しないと考えるのはむしろ素朴にすぎるとすら言える.しかし情報の不均衡が存在するとコミュニケーションが歪曲されているということ自体に気づきようがない。熟議という批判的コミュニケーション空間は成立しなくなる。熟議を行うためには情報の不均衡(情報は解釈され、問題解決に向けて再編成される必要があるので、むしろ知の不均衡といった方がよいかもしれない)という拘束を克服する状況を積極的に創出する必要がある。

知の不均衡を克服するということは、具体的には,まずはある問題に当事者として関与する(可能性のある)市民が当該の問題についての情報にアクセスできる権利を他の当事者と同じ程度に確保できることであるが,それだけでは十分ではない.同時にそれらの情報を当該問題についての意思決定に有効に活用し,他の当事者にその意思決定と根拠について説明し,場合によっては反対したり有効な抗弁を行うことができる知的力量を備える必要がある.しかしそのような力量を構築することは容易なことではない.私はそこに直接の当事者ではない外部の人々が問題に関与することの根拠を見出すことができると考える.ある特定の主張の実現のために介入するのではなく,当事者,それも専門的知識を持つ機会がなく,いってみれば知的にも権力の付置の上でも不利な立場にある人々が当該問題を理解し,その理解を活用して主張を行うことができる知的力量の構築を援助するのである.たとえばある巨大開発の話が持ち上がった際に外部の市民(専門家も含む)が開発反対の主張を持って乗り込むのではなく(もちろんそれも必要なこともあるだろうが),地域がそれによってどう変わるのか,生態系や人々の暮らしがどのような影響を受けるのかの理解とそれを活用する力量を学習会や交流などを通して地域の人々が育てていくのを助けること,いわば知のエンパワメントを行うのである.少しややこしい議論をしてしまったかもしれないが,要はしっかり知ったうえで選ぶ,いわば政策上のインフォームド・コンセントである.

なにも外部の人に頼らなくても,行政や企業の行う各種の説明会等はその試みの一つであって、この部分の充実や情報公開を進めることができれば良いのではないかという意見もあるだろう.しかし受け入れを求める側と求められる側という二元構造に閉じたコミュニケーションでは.たとえば受け入れを求める側がゼロオプション(事業や新規技術の導入を行わない)や受け入れを求める側のコストが大きい選択肢を提示することは考えにくく,ゆがめられたコミュニケーションになりやすい.これではエンパワメントとはならない.

やはり外部の第三者が関与することにより知の非対称性を正し、市民の知のエンパワメントを助ける役割を果たしてもらうことがむしろ現実的ではないかと考える.繰り返しになるが,これはある問題,たとえば開発案件が持ち込まれる地域の人々とかある科学技術に影響を受ける人々(たとえば着床前診断の広範な導入に対するダウン症の患者や家族)に特定の主張の賛同者になるように説得するというものではない.ハーバマスの言う理想的議論の要件を充足するために,関係する市民が問題への理解とその理解を活用する力量を育てるのを支援するのである.このような前提に立つならば,外部の第三者が関与することは,「余計なおせっかい」ではなくむしろ公正や正義の実現に資するものであると考える.

(3)関与の論理その3 つながりのエンパワメントー社会的・政治的な力量構築を支援する

 現代の正義論の基礎を据えた倫理学・政治哲学者のロールズは正義の原則として、すべての人々が自由に対する平等な権利を持つことを第一の原理とし、その権利を前提としたうえで、社会的または経済的な不平等の存在は、それらの不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすること、その不平等がすべての人に達成の機会が与えられている職務や地位に伴うものであることといった条件下でのみ許容されるべきことを第2の原理としている(ロールズ(55)

ロールズの原理に従うならば、社会的・経済的な格差自体は容認できても、その格差が容認されるのは、たとえば感染症の特効薬を開発した研究者が病の治癒という大きな利益を社会にもたらし、そのことで大きな経済的褒章を与えられる例のように、不遇な立場にある人々に利益が及ぶ場合である。不遇な人々(発言力の大きくない人々)に汚染のようなあからさまな不利益が押し付けられ、一方で社会的または経済的な発言力の大きな人々がその汚染から利益を得るというようなことはあからさまに正義に反することとなる。

しかし現実に起きている事態はこの原則と真逆であることが多い。水俣でも四日市でも公害被害は漁民に集中した。産業廃棄物が運び込まれるのは山間の村や海辺の漁村であって、高級住宅地に産業廃棄物が山積みになることはない。ウランの微粒子を肺の中にため込んで肺がんになるのは、ウラン採掘から高額な収入を得ている鉱山会社の経営者ではなく、経営者に比べ圧倒的な低賃金で生活をしのいでいる鉱山労働者であり、鉱山周辺の住民である。問題は企業にだけあるわけではない。先に見たように水俣病有機水銀説を批判し、チッソを擁護したのは通産省、つまり政府である。企業と権力が一体となって社会的・政治的発言力の弱い人々に公害被害を集中させたのである。ほとんどスキャンダルともいうべきこのような事態が日本やアメリカ、カナダのような民主主義を標榜する国家の国内でも行われてきた。

このような事態が正義と人権を踏みにじっていることは、当の企業や政府に所属する人々が鬼畜のような非人間的な輩であることにより引き起こされているわけではない。先に述べたように個人としては恐るべき事態が起こっている事を憂慮し、責任を感じている人も多かったのである。しかし彼らはそれを認めて指摘するなどの行動を起こすことが自分たちの所属する共同体(組織)の利益を損ね、ひいては自分の地位が脅かされることになるのを恐れて行動することができなかった。このことを非難するのはたやすいが、自己の不利益につながる行動をそれが正義だからという理由で起こすことができる人は限られている。内部告発者を保護する法制は形式的には整備されてきたが、報復的に解雇や降格などの不利益な処分を受けてしまった事例は枚挙に暇がない。既存の企業や行政組織の内部から、それらの組織が引き起こす(可能性のある)不正義をただす動きが起きることが難しければ、外部からの働きかけで是正する以外にない。

では歴史的にそのような働きかけは誰がどのようにして起こしてきたのであろうか。公害とか巨大開発に伴う地域の荒廃とか不正義が発生してきた歴史を顧みればそこには共通のパターンを見て取ることができる。多くの場合、最初、不正義を押し付けられた人々の対応は忍従である。被害を行政や加害企業等に訴えても相手にされない、あるいは多少の代価とひきかえに沈黙する。やがて被害者の間で状況を共有し、連帯して対処しようとする動きがあらわれてくる。しかし被害者は因果関連を究明する専門的スキルを持っていないのが普通である。そこには必ず専門家の支援と啓発が必要となる。それが前節で述べた知のエンパワメント(の一部)である。

しかしそれだけでは十分ではない。水俣では水俣病患者の公式確認の数か月後には熊本大学研究班がチッソの排水が最も疑われるという結論を出していた(1957年)。同年,熊本県食品衛生法を適用することによる水俣湾の魚介類摂取禁止を計画したが、照会を受けた厚生省の回答が、水俣湾の魚介類すべてが有毒化している証拠はないので食品衛生法を適用できないというものであったため、県は適用を断念した。厚生省のこの見解は他の食中毒事例と比較して異例であり,その背景には「法的な禁止措置をとれば、水俣湾の魚介類を汚染している工場排水に当然目が向けられることになるからである」(水俣病研究会)(56)ことが指摘されている。またその当の厚生省も1958年には水俣病の原因はチッソの排水であるという公式見解を示していた。しかし通産省チッソの操業が止まることを恐れ、有機水銀排出を規制対象とすることをみとめなかった。水俣市でも、市税はチッソに依存しており、チッソが操業を停止すれば5万人の市民に影響が出るとして市長がチッソの操業継続(つまり排水継続)を県に要請するなど権力側は一貫してチッソを擁護し、被害者に敵対し続けた。このように水俣チッソの排水によって水俣病が起こることが早くから分かっていたにもかかわらず,有機水銀を含んだ排水は止まることなく,被害は拡大していった(以上の経緯は水俣病研究会「水俣病事件資料集-1926-1968」による).

そこには,4大公害裁判の他地域と比しても企業の影響力が強く,解決に向けた被害者の社会的・政治的な影響力がきわめて微弱であったという事情がある.もちろんこれは被害者の罪ではなく,企業とその企業の責任を糊塗し続けた行政の責任である.しかし水俣病の歴史の初期に被害者が社会的・政治的な力をつけ,市民としての権利を行使することができていたら,水俣の悲劇の規模はずっと小さかったであろうという思いは禁じ得ない.もし有機水銀汚染が東京湾で起こっていたらということを考えてみてほしい、工場排水との因果関連が確定していなくても,その疑いが起こっただけで国、自治体は規制に動いたであろう。権力基盤を脅かすような激烈な社会的・政治的運動が起こったであろうからである。このことは知的エンパワメントの次の段階または並行して、市民が社会と政治を動かす力を身につけること,つまり社会的・政治的エンパワメントが必要となることを示している。

社会的・政治的エンパワメントは市民自身の主体性においてなされるべきことは言うまでもない.しかし上にも見た水俣に典型的に見られるように公害とか巨大開発とかの被害者は多くの場合,社会的・政治的な力を持っていない.再び水俣の例でいえば,漁協や水俣病患者家庭互助会はチッソが有毒物質を排出していることは初期のころから良く知っており,交渉や抗議行動を繰り返し行ってきた.しかし,それらは知事や市長らによる調停につながりはしたが,生活苦もあり,わずかな補償,見舞い金で妥協せざるを得なかった.むしろ補償によって有毒物質を排出することを漁民や被害者にみとめさせたのだとすら言える.

事態が動き始めたきっかけは1967年の新潟水俣病被害者による提訴である.新潟では患者発生の報道の2か月後には支援組織が立ち上がり(新潟県民主団体水俣病対策会議),その組織に所属する弁護士の支援の下,裁判が起こされたのだが,そのことが水俣の患者と市民を刺激した.「それが(水俣がそんなときに、)新潟から裁判を出した。熊本の人たちもびっくりしちゃって。自分たちはわずか 30 万円の見舞金で事件落着に同意したけど新潟が立ち上がったと。我々も考えようじゃないかということで、裁判を提起したのが熊本の第一次訴訟」(新潟水俣病訴訟第一次訴訟患者側弁護士坂東克彦の談話)(57),患者と接触した千場弁護士が青年法律家協会の弁護士に呼びかけ,水俣病法律問題研究会を作り、研究会が患者から提訴の依頼を受けて,水俣病訴訟弁護団が結成され,水俣病第一次訴訟。

弁護団は被害者と密接に連携し,周到な戦略と論理で法廷に臨んだ.たとえば汚悪水論である.弁護団は原因物質の特定とそれが水俣病を起こすことの詳細な因果関係の立証を迫るチッソに対して,「工場排水が被害を与えたこと自体が不法行為であり,詳細な因果関連の立証までは必要ない」とする汚悪水論を展開した.第一次訴訟弁護団長の馬奈木 昭雄は,工場長を生け簀に魚を入れた船に乗せ,船を工場排水の流れてくる場所に乗り入れると,生け簀魚がたちまち死んでいく様子を見せて,工場排水は毒だ,と迫る漁民の論理を汚悪水論を典型的に示すエピソードとして紹介している(土肥勲嗣)(58)

熊本地裁は厳密な因果関係が立証されない限り企業の責任は問えないというチッソの主張を立ち退け,「被告は、予見の対象を特定の原因物質の生成のみに限定し、その不可予見性の観点に立って被告には何ら注意義務がなかった、と主張するもののようであるが、このような考え方をおしすすめると、環境が汚染破壊され、住民の生命・健康に危害が及んだ段階で初めてその危険性が実証されるわけであり、それまでは危険性のある廃水の放流も許容されざるを得ず、その必然的結果として、住民の生命・健康を侵害することもやむを得ないこととされ、住民をいわば人体実験に供することにもなるから、明らかに不当といわなければならない」と汚悪水論の論理を採用した(吉村良一)(59)

また弁護団は被害者の生活の中に裁判を取り込む戦略を取った.被害者の協力を得て,裁判官を被害者の家一軒一軒に連れて行き,直接被害の実態を見せたのである.こんな例がある.45°の湯を入れた湯呑を裁判官に持つことができるかどうか試してみるよう促す.裁判官は持つどころか持ち上げることすらできない,ところが患者は平気で持ってみせる.疑いようのない神経障害が起きているのである.またこんな例もある.患者が入浴しようとベッドから風呂場に歩こうとするが家族が介助してもどうしてもできない,二人でベッドサイドで泣き崩れるのを会社の代理人が「もうやめましょう,こんな残酷なことは」と止めた.しかし「こんな残酷なこと」が毎日繰り返されているのであり,裁判官は人間としてこの残酷な事実を受けとめざるを得ない.映画「MINAMATA」のモデルとなった写真家ユージン・スミスの撮影した胎児性患者の写真も患者の家族と弁護団が相談した結果,スミスに撮影を依頼したものである(土肥勲嗣)(58).被害者は弁護団と一体となって勝訴を勝ち取ったのである. 

企業との対決の場は法廷だけではない.世論も重要な対決の場となる.熊本市に「水俣病患者と水俣病市民会議への無条件かつ徹底的な支援」を目的とした「水俣病を告発する会」が1969年に熊本で結成され,水俣病裁判支援ニュース「告発」という機関紙を通じて全国に水俣病の実態を伝えた.彼らは「金儲けのために人を殺した者は,それ相応のつぐないをせねばならぬ」という「復讐法の倫理」を掲げ,「苦界浄土」を著した石牟礼道子のアイデアにより,被害者の抗議行動に際して黒い「怨」旗や「死民」と書かれたゼッケンを提供した.それは前近代的な,しかしそれだけに強烈に感情に訴えるシンボルであり,社会に水俣で起こっている非道を訴える大きな力があった.熊本告発の機関紙『告発』は最高発行部数 1 万 9,000 部に達し,東京,京都など全国各地に「水俣病を告発する会」が設立され,「共闘した政治的なネットワークとして機能し」た.「告発する会」の戦略は被害者と共に「加害企業や行政との直接交渉によって社会にインパクトを与え,それによって運動への社会的支持を拡大し,その支持を後ろ盾に加害企業や行政を動かそうとするもの」(平井京之介)(60)であり,それは見事に功を奏し,政府もチッソもその非を認め,補償など一連の措置を取らざるを得なくなった.水俣病被害者は水俣においては無視され,抑圧される存在であったが,このように世論に注目されることによって,その被害の惨状が全国に憤激と共感を呼び,被害者にある種の文化資本を与え.それがチッソと国への交渉に際して大きな力となっていったのである.

以上,水俣を例に市民の社会的・政治的な力量構築について述べた.市民がその権利を行使するためには,法律等によって権利を与えられているだけでは十分ではない.社会的・政治的な影響力を持たない人々は権利を行使するための資源を持っていないし,権利があることすら知らない場合が多い.その状況を変えるのは,第一義的には市民自身が社会的・政治的な力量を自らの内に構築することではあるが,その力量を構築するためには法曹,医療,メディア等様々な外部の人々とつながり,支援を受けること,その前段として,つながる道をつける支援が提供されることが必要となる.それは「つながりのエンパワメント」とでも呼ぶべきものであり,それが外部者の関与の根拠の一つであると私は考える.