リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

科学教育の歴史と現在

まず科学教育の明治以降の歴史を簡単に振り返ることから始めてみよう。よく知られているように第2次世界大戦までの政府の政策の眼目は富国強兵である。富国のためにも強兵のためにも欧米から科学技術を移入して近代軍隊と近代産業を立ち上げ、強化すると共に、軍隊と産業を担う科学技術人材を育成することが必要である。それを制度的に担ったのが帝国大学士官学校であり、それにつながる高等学校、中学校(現在の高等学校)の学校理科である。これらのエリート教育の系統においては、科学教育は軍事と産業に奉仕するという明確な方向付けの下、科学技術の専門家を養成すること及び科学技術に適性のある生徒,学生を選抜し,選抜した学生を教育することが科学教育の主要な機能であったと言ってよい。一方、小学校の理科は初期には自然科学を学ぶことをその目的とし,その意味で中学校以降のエリート教育との連続性が見られたが、明治中期以降、「理科ハ自然科学ノ各分野ノ初歩ヲ教エルノデワナク,人生二緊密二関係ガアリ,児童ガ日目撃スル天然物及ビ現象二関ス 知識ヲ得サセルコト」(小学校令に規定された理科教育の目的)とあるように日常生活との関連性が重視され、自然科学を教える中学校以上の科学教育と必ずしも整合的とは言えなくなる。これは発達段階への配慮の他、中学校(男子のみ)への進学率が第2次世界大戦直前の昭和15年の段階でも7%であり、教育内容面での小学校教育との接続が大きな問題ではなかったこと、「「理科教育振興」と「皇国民錬成の徹底」という方針との間のジレンマ」(1),つまり理非を超えた超越的権威を認めない自然科学のまなざし(科学的態度)が自然科学の領域を超え出て天皇制国家秩序にも向けられることに対する支配層の危惧など様々な要因が働いていたと思われる。しかし第2次世界大戦が始まると小学校は国民学校となり、「科学ノ進歩ガ国運ノ興隆二貢献スル所以ヲ理会セシメルト共二,皇国ノ使命二鑑ミ,文化創造ノ任務ヲ自覚セシムベシ」(国民学校令)と富国強兵がストレートに持ち込まれるようになる。

第2次大戦後、教育内容の国家基準が廃され(文部省は学習指導要領は作成したが試案とされ、その採用は自治体に任されていた),国家の発展に有用な科学技術の専門家を育てるという科学教育の目的は後景に退いた。学習指導要領自体も児童生徒の日常生活への有用性という側面が強調されており、教育現場でも、地域産業や民主主義を支える市民を育成するという科学教育の目的が意識されるようになった。アメリカの進歩主義教育に影響を受け、日常生活や地域社会の改善を目的とした生活単元学習・問題解決学習と呼ばれる理念の下で作成されたカリキュラムが全国の自治体や学校で独自に作成され、実施された。

しかしこれは長くは続かない。市民に有用な理科という視点はよいとしても、それが日常生活や農工業など地域産業に役立つ科学的知識ということに限定的に解釈されてしまうと理科が関連性の明確でない雑然とした知識の集積になってしまう危険性がある。日常生活や地域の中から問題を見出し、それを解決しようとする過程を通して理科や社会科を学んでいく問題解決学習は、優れた教育的力量を持っている教師が指導すればすばらしい成果を上げるが(戦後教育の金字塔と呼ばれる「やまびこ学校」は教科教育の実践とはみなされていないが、まさにこのような実践だったと私は考えている)、それをすべての教師に期待することは難しい。活動しているだけで満足してしまい、教育が成立していないのではないかという「這いまわる理科」批判が広がった.進歩主義教育が社会主義と近いのではないかと警戒されたという側面もある。教育現場にも保護者にも地域にも戦後教育改革への疑念が芽生えてきたのである。

教育界の外部からも戦後の教育改革への批判が噴出する.朝鮮戦争の特需で息を吹き返した日本の産業は、産業を支える科学者・技術者(工業高校卒業者のような初級技術者を含む)を大量に育成するための教育を求めるようになり、財界(主として日経連)は戦後教育を修正し.科学技術人材を育成する教育を充実することを求める提言を数次にわたり政府に提出した。政府もそれに応え、中央教育審議会は「戦後わが国の教育は,その改革が急激に行われたため,科学技術教育の面からみて,教員組織・施設・設備等においてはなはだ不備があり,その内容も各学校段階間に関連性を欠き,多くの問題を包蔵しており,進歩した科学技術の要請する科学者・技術者を養成することは,質においても量においても望み難い現状である。このことは諸外国において,膨大な経費を投じ画期的な科学者・技術者の養成計画を樹立し,真剣に科学技術教育の振興をはかっている今日,深く反省されなければならないところである」(2)との認識を示し、「数学(算数)・理科および技術に関する教科においては,内容を精選して基本的・原理的事項が系統的にじゅうぶん学習されるようにする」(2)と科学技術者養成に結びつく初等中等科学教育の内容の系統化に取り組むことを明示した。以後、指導要領は概ね10年に1回の間隔で改訂されていくことになるが、科学技術立国に向け、科学技術のフロントを広げていくことができる科学技術の専門家養成のための基礎教育という科学教育の位置づけは変化していない。

過去、高等学校においては理科Ⅰ、理科総合などの市民教育を視野においた科目が行われたことがあり、また現行学習指導要領(2018年告示)の「科学と人間生活」では「これからの科学と人間生活との関わり方について科学的に考察し表現する」(3)ことになっているなど教師の解釈次第で科学と社会のかかわりについて深く追求できる可能性を備えている科目も存在する。中学校の理科にも「科学技術と人間」「自然と人間」という科学技術について扱う単元が存在する。その意味では市民が科学と社会のかかわりを考えるための科学教育という視点が存在していないわけではない。しかし中学校ではこれらの単元は入試に出題されることも少なく、「おまけ」的に扱われることが多い。高校においては物理、化学、生物、地学の名を冠した科目、親学問とでも言うべき学問体系が存在していてその初歩という位置づけになっている科目が本流とみなされており、そうでない科目は「学問的な質が低いと思われ」「それが学校の名声に影響すると思われている」ため履修率は低くなっている(4)。これらの科目は「理科系科目の苦手な中学生や高校生に理科を教える方策」、「やさしい理科」と考えられているのである(5)。松山圭子はこの現状を「教える側が くやさしい科学〉 はしょせん くやさしい科学〉 だという程度の意識ならば、 STS 教育(科学・技術・社会の関係を扱う教育)は二流の教育になる」(5)と批判している。「市民のための科学教育はどうあるべきか」という問題意識の下に原発、遺伝子組み換えなどのトランスサイエンス問題に関する意思決定を扱う良質の実践も存在する(たとえば内田隆は原発を素材とした参加型テクノロジーアセスメントを高校の教室で再現する実践を行っている(6))が、散発的なものにとどまっており、その影響力は乏しいと言わざるを得ない。

このような基調の中にある科学教育においては、科学教育の中で市民教育は二義的なものにならざるを得ない。市民の位置づけは科学技術人材をそこからくみ出すプールであり、山頂(優秀な科学技術の専門家)を支える裾野である。小学校から大学へと続く科学教育の経路の中で科学技術の専門家となることがメインゴールであり、非専門家となることはサブゴール、脇道となる。高校で理系、文系の区分けをする学校が多いが、文系は文系科目が得意な生徒の集団(もちろんそのような生徒もいるが)というよりも理科・数学が得意でない生徒の集団、いわば理系を積極的に選択しなかった残余の生徒と考える意識が生徒にも教師にも根強いのは教育のこの構造に由来している。近年の理科・数学エリート校(SSH,スーパーサイエンスハイスクール)への人的・財政的テコ入れ等の理科・数学教育強化政策は端的に言うと高校段階からの理数系英才教育であり、この構造をさらに強化している。

ただ公平を期して言うならば。このような構造に利点がないわけではない。高等教育が初等中等教育の基礎に立つ以上、初等中等教育が科学技術の専門家をリクルートする役割を持っていることは確かである。自然科学という知的営みの持つプロセスの厳密さ、論理の明晰さを追体験することが経済、政治など社会生活の他の領域にも転移可能である(たとえば寺田虎彦の随筆はそのことをよく示している)こと、つまり知的スキルの習熟という意味合いもあるだろう。またなによりも国民すべてが専門家になりうる可能性を与えるという点では教育の機会均等の理念の現実化であることも確かである。すくなくとも中学校以上ではエリートを育て、小学校では体制に従順な民衆を育てるというエリートと民衆を画然と区別した戦前の教育よりははるかに民主的である。科学教育協議会など日本の戦後の民間教育運動が「理科は自然科学を教える教科である」ことにこだわり、文部省(文科省)の教育政策を差別・選別の教育だとして批判してきたのは、この戦前の愚民化政策の再来を警戒しているからに他ならない。

だがこの章の始めにも述べた「民主主義の目詰まり」を洗い流し、科学技術の生み出すリスクをそのリスクを生み出すセクターの意図にのみ委ねないで(それはしばしば当該セクターの利益を守る方向にゆがめられる)、市民が主体的・民主的にコントロールする、つまり科学技術を統治する(正確に言えば科学技術の専門家と共同して統治するので共治とするべきだが、共治という用語は一般的ではないので統治とする)ためには、このことを主たる目的に据えた市民教育が科学教育の主流となる(mainstreaming)ことが不可欠と私は考える。市民教育の性質上、それはすべての市民にとって必要であり、そして科学技術の専門家もその専門以外の分野においては市民である以上、科学技術の専門家のための基礎教育は市民教育という幹から派出する枝であり、幹はあくまでも市民教育である。

ではこのような教育は具体的にはどんな内容となるのであろうか。次にこのことを論じてみたいが、その前に上のような主張に読者の皆さんが感じるであろう疑問について筆者なりの回答を述べておきたい。

(1)三石初雄(1978):国民学校低学年理科における教育内容・方法及び自然観の検討--教師用書「自然の観察」の分析を通して, 人文学報13号, 159-192

(2)中央教育審議会(1957):科学技術教育の振興方策について(答申) (第14回答申(昭和32年11月11日)),https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/571101.htm

(3)文部科学省(2018):高等学校学習指導要領理科「科学と人間生活」.https://erid.nier.go.jp/files/COFS/h30h/chap2-5.htm

(4)科学技術振興機構(2015):科学技術リテラシーに関する課題研究報告書

https://www.jst.go.jp/sis/archive/items/literacy_01.pdf

(5)松山圭子(1999 ):大学教養教育としてのSTS教育,青森公立大学紀要,5(1),18-26

(6)内田隆(2015):未来のエネルギー政策を題材としたシナリオワークショップ ~参加型テクノロジーアセスメントの手法を利用した理科教材の開発と実践~,理科教育学研究 55(3) 425-436