リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

科学教育は科学技術の生み出すリスクを扱うことができるのか

(1)科学教育は科学の系統性に沿って基礎(ここでは初歩という意味で使っている)から積み上げる教育ではないのか?科学の系統性を飛び越えて原発だとか遺伝子組み換えのような高度な科学技術の生み出すリスクを扱うことなどできるのか?

 確かに科学には一定の系統性が存在する。原子・分子の存在を知らずして化学反応を正確に理解することはできないし、原子核を知らずして核反応を理解することはできない。しかし、基礎から積み上げていくことに科学技術の学びを限定するという考え方には大きな難点がある。科学技術と社会の界面において問題が持ち上がってくるのは、リスクの大きさや種類がはっきりしない先端的な科学技術の社会実装の場面であることが多い。科学技術の系統性に沿って、基礎から知識を積みあげていかなければならないとしたら、先端まで達するには膨大な時間を必要とする。ほとんどの市民にとってそんなことは不可能であって意思決定は専門家に丸投げするほかなくなる。それは民主主義社会にとって明らかに不適切な意思決定である。そうだとすればここでは発想の転換が必要となるだろう。市民にとって必要なのは個別的知識というよりも総合的判断力であり、自分たちが意思決定の主体であるという自覚と主体性であると考えるのである。基礎から積み上げる学習がなくなるわけではないが,それは既存の知識体系を内化することを目的とするわけではなく,科学技術に関わる意思決定に必要になるから学習するのである.そこでは教育の意義が変容している。ある事柄について「どれほど知っているか」ではなく、その事柄について意思決定するためには「何を学ばなければならないかを知っている」、そして「学んだことを意思決定にどう活用するか考える」ことの方が重要となる。そしてこのような意味を持つ教育を行おうと思えば、それは初歩から高等へ、易から難へと続く知の階段を昇るというよりも、むしろ科学技術と社会の界面に生じる具体的な問題(トランスサイエンス問題)を対象とし、問題についての意思決定を行う行為の中に知識習得が埋め込まれるという形の教育になるであろう。知識は意思決定に先立って一般的な知識として学ばれるのではなく、ある具体的な問題についての意思決定に必要な資源として意思決定の文脈の中で選択され、学習されていく。使うことによって知識を学ぶのである。

これはスポーツの試合とそのスポーツに必要なスキルとの関係を考えればわかりやすいかもしれない。探求活動が盛んなある高校の教師が探求をバスケットにたとえていた。バスケットにはドリブルやパスが要素として含まれている。それらの要素的スキルをしっかり練習することによってバスケットが上達するというのが普通の考え方である。探求活動を始めた当初はこの考え方に立ち、探求に必要なスキル、アンケートの仕方とかインタビューの方法とかを探究活動に先立って学ばせていたが、いざ探究活動を行うとそれらのスキルが活用できていない、そこで考え方を変え、いきなり探求活動を行わせ、早く多数回の探求を回すこと、つまりバスケットでいえば試合をたくさん行うことによって探求活動の成果が上がるようになったというのである。スキルは探求の中で学んでいく。「探求から基礎に降りていく学び」が成立しているのである。同じことが、科学技術と社会の界面に生じる具体的な問題を学ぶ際にも言える。意思決定を行う経験の文脈の中でその決定の基礎となる知識が学ばれていくのである。このような学習の形態であっても基礎的知識を学ぶことができる、むしろいわゆる生きた知識(活用できる知識)となることは前章で取り上げた三島や吉野川第10堰、あるいは原発立地や福島第一原発の事故後の市民による放射線とその健康影響についての学習といった事例がよく示している。