リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

科学者・技術者を育てることがおろそかになる?その1

(2)市民教育という側面が強調されすぎれば,科学者・技術者を育てることがおろそかになるのではないか。科学教育の重点を市民教育に振り向けることが科学者・技術者の養成に悪影響を与え、結果として科学技術の質の低下、ひいては国際競争力の低下と日本の貧困化を招いてしまうのではないか?

 まず現実問題として、科学教育が科学技術の進歩を担う科学技術者の養成を重要な任務の一つとすることは確かである。市民教育を第一義とする科学教育改革であっても、この機能を損なうことは当の市民の賛同を得られないであろう。

 結論から言うならば、科学技術と社会の界面に発生する問題(トランスサイエンス問題)を科学教育の主要な対象として取り込み、それについて市民が意思決定することを重要な科学リテラシーと考える科学教育、市民教育を第一義とし、将来の科学者・技術者のための基礎教育をそこから派生するオプションと位置付ける科学教育が将来の科学者・技術者の養成にとってむしろプラスの影響を与えるであろうと筆者は考える。その理由は3つある。

  1. 知識爆発の加速

 現代社会の顕著な特徴は知識の爆発的な成長である。科学技術・学術政策研究所の推計によれば、自然科学に限定しても2018年の世界の論文数は160万件であり、その数は年々増えている(1)。知識は生産され、加工され、流通され、商品化されて社会を変容させていく。わかりやすい例はスマートフォン(スマホ)やSNSのテクノロジーであろう。ロシア・ウクライナ戦争では市民個人がスマホで撮影した動画がSNSを通じて世界中に配信され、ロシアによる無差別攻撃の実態を即時に明らかにし、ロシアの情報統制を食い破っている。チュニジアリビア、エジプトなどの独裁政権が倒れる端緒(ビロード革命)を作ったのもスマホSNSである。

知識爆発に対応するためにはどのような教育が必要であり、どのような試みがなされているのだろうか。大学の専門教育の事例になり、市民教育の話題からは外れてしまうが、分かりやすい例なので、医学教育に見てみよう。医師は医学の急速な進歩に対応し。生涯にわたって絶え間なく知識を更新していかなければならず、その基盤となる中核的な知識と知識更新を支える人格特性である主体的な学びの姿勢を医学部の教育で培う必要がある。

しかし医学教育の具体的な場面を考えてみるとこの2つは簡単に両立できるものではない。講義形式の授業は多くの知識を短時間で系統的に教授することはできるが、学生の主体的な学びを呼び起こすのは難しい。一方、主体的な学びを促すようなグループワークやケーススタディでは知識を落ちなく網羅的に扱うことは難しい。

講義ではしっかりと基礎知識を教え、主体的な学びは臨床実習等の実習系授業でその知識を実地に応用することにより育成する、つまり役割分担するという形も考えられ、実際、伝統的な医学教育はこのような形で行われてきたが、このような方法では医療現場での問題解決能力を育てることは難しいと考えられるようになってきた。高校のもっとも優秀な層が医学部に進学してくるはずなのに、学生は教えられた知識を医療現場で活用できず、講義で教えたはずの知識でも容易に剥落してしまうという実態があるからだ。

これは日本だけの問題ではなく、世界的な課題であるわけだが、この課題に対応するためカナダのマクマスター大学で開発され、日本を含め世界中の医学部で採用されている教育手法がPBL(Problem Based Learning)である。PBLは「「現実の臨床場面を描写した症例シナリオを少人数グループ(学生6~7名)で討論し、患者の問題を解決するために必要な知識、考え方を学生自らが見出し、自己学習することによって医学を習得していく」(2)という形の教育である。PBLは基礎知識と実践を分離するのではなく、医療実践(学生が医療実践を本当に行うわけではないが、取り上げられるのは実際の症例であり、そこで考慮に入れるべきことには患者の生活の質や医療倫理も含まれてくる)の文脈の中に知識を位置づけることによって、実践に活用できる生きた知識を身に着けさせようとするこころみである。

これはかなり大胆なこころみのように見える。PBLの授業では、通常の授業のように学生の学ぶべき知識を教師が選んでおき、それを順序だてて学ぶわけではない。取り上げられる症例の診断・治療の方針は学生が個人で、そしてグループで考察していき、その考察の過程のなかで必要な知識を獲得していく。時間もかかるし、取り上げることのできる症例の数は限られている、考察の過程は学生によって異なるので、どのような知識を獲得するかを教師がコントロールすることは講義に比べて難しくなる。これは教える側にとってはかなり不安ななことではある。しかし、それにもかかわらずPBLが広く世界の大学で行われているのは教える側の不安を打ち消すに足るだけの成果が上げられているためであろう。私はPBLに対し、「医学知識をバランスよく教えられるのか、偏りが生まれてしまうのではないか」と疑問を持ち、自分の勤務する三重大学の医学部のPBL導入の責任者に問うてみたことがある。回答は明快であった。

「医学部の教授陣にもそういう懸念はあった。強い反対意見も示された。現在でも反対意見がなくなったわけではない。しかし、医学を大学で全部教えることはもうできないというのは医学部関係者の共通認識であり、学生が、常に進歩していく医学を自分の力で身に着けられるように育てていくことは、個別の医学知識を獲得するよりも重要である。医学教育もそのような方向で変わってゆかなければならないのであって、その方向性そのものには選択の余地がない」

「医師の身につけるべき知識・スキルは膨大であり、しかも進歩が急速であるため、卒業前教育で十分な水準に達するのは不可能である。必要最低水準の知識・スキルをすべてカリキュラム内で扱うのも不可能。大量の知識を浴びせかけるような講義一辺倒の教育では、結局、知識・スキルは身につかない。国家試験対策でその場しのぎの勉強しかやってこない学生は考える力が身につかず、最悪の医師になってしまう。発想を転換し、学生の興味関心により、多少の知識の凸凹ができても、自ら考え、学習していく力を身につけさせることに教育の重点を置くべきである。」

実際の効果としても「系統的に臨床医学の知識を講義するよりも学生の動機づけは大幅に高まり、知識の定着も良くなった。」、「講義型の授業では、底辺の学生のレベルが非常に低くなるのに対して、PBLではグループディスカッションがあるため、学生は勉強せざるを得ず、底上げになっている。ただし伸びる学生は非常に伸びるため、学生間の差はむしろ大きくなってしまった」

というのである。

ここから言えることは、多くの医学知識か主体的に学ぶ姿勢かという二者択一の問いを立てるのは適切なことではなかったということである。実践に対して有用で必要に応じて絶えず更新されていく「生きた知識」は、医療実践の文脈、つまり、病気が診断され、治療され、患者の生活の質が改善されていく文脈,そしてそれを医療者が協働して実現していく文脈という、医師にとって知識の意味を切実に感じ取ることができる文脈の中でこそより確実に習得されうる。一見すると効率的な知識教授の時間を奪ってしまうかに見えるPBLが実は主体的な学びを通して知識を、医学部卒業後も医学の進歩に追いついていく学びへの構えを、そして知識を更新する方法を獲得する場になっているのである。

長々と医学教育のことを述べてきたのは、医師という医学を背景とした学問的専門職の教育と同様のことが市民教育の枠組みの中での将来の科学者・技術者の教育に対しても言えるのではないかと考えるからである。逆説的に思えるかもしれないが、医学部PBLにみられるように、急激に知識が増大する知識爆発に対応するためには、初期教育の段階においてたくさんの知識を知ることの重要性はむしろ低くなる。状況に応じて知識を更新する学びへの構えを持つこと、その更新の方法を知っていること、つまり「いかに学ぶかを知ること」、「学び続けることを知ること」、「より深く知ることが必要な時に知ること」、「他者とともに学ぶことを知ること」「知識を問題解決の資源として使うこと」が重要になる(3)のであって、これは医師だけではなくて科学者・技術者一般の教育にも言えることであろう。その際、重要になるのが科学技術を使用する文脈である。

将来の医師が医療実践の文脈の中で効果的に学べるように、トランスサイエンス問題は科学技術を学ぶ上での有用で豊饒な文脈を提供してくれるのではないか。

たとえば水俣病など公害について考える際には、汚染源からの汚染物質はどのように環境中に拡散していくのか、それが生態系にどのように影響を与え、人間にどう跳ね返ってくるのか、被害を受けるのは誰なのか、どうすれば汚染や被害を極小化できるのか(できたのか)、法や倫理の側面も含め、問題を扱うことが必要となる。多様な観点から現象を吟味し、まだよくわかっていないこともあることを承知の上で公的な意思決定(どんな規制をするのか、誰を被害者として認定するのか,汚染者の責任をどう問うていくのか)をしていかなければならない。従来の科学教育の常識からすればこのような問題を扱うことは、複雑すぎて整理しにくく、混乱をもたらす危険があると考えられるだろう。基礎的知識の十分な習得後に取り組むべき課題と考えるのが普通だと思われる。しかしこのような科学技術が現実と切り結ぶ文脈であるからこそ、そこに真正性を感じることができ、学びの意味が切実さを持ってたちあらわれて来る。トランスサイエンス問題を科学教育の中に持ち込むことは、一見、将来の科学者・技術者の教育にとっては余分な要素を持ち込むことのように見えるかもしれないが、科学教育にこのような真正性、、学びへの切実感を持ち込むこと、それを動因として主体的な学びの姿勢を獲得していくことが期待できると考える。また医療実践の文脈の中で医学生が医師の仕事の何たるかを知りるように、科学者・技術者の仕事の実相を知るよすがともなりうるであろう。

(1)文部科学省科学技術・学術政策研究所,2021、科学技術指標2021、調査資料-311

(2)小田康友・増子貞彦、2006、医学教育の現在と佐賀大学医学部の挑戦―PBLの理念と課題、佐賀大学高等教育開発センター大学教育年報2、60 -66

(3)Aikenhead ,G., Orpwood, G., Fensham,P.(2011): Scientific Literacy for a Knowledge Society. In C. Linder, L. Ostman, D.A. Roberts, P-O. Wickman, G. Erickson, & A. MacKinnon (Eds.), Exploring the landscape of scientific literacy (28-44). New York: