リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

「何のための科学技術なのか」という問い

科学技術は何のためにあり、科学者・技術者のミッションは何だろうか?

このことについては、科学技術が一つの独立した社会的営為として認識され、科学者・技術者という職業が成立して以来、無数の論考があり、無数の議論がある。ここではその内容自体には立ち入らない。しかし「科学はその応用にあたって、個人、社会、環境、人体の健康に有害となりうるもので、人類の存続さえ危うくする恐れがあること、そして科学の貢献は平和と発展、世界の安全という大義にとって不可欠なものであることを考慮し」、「科学研究の遂行と、その研究によって生じる知識の利用は、貧困の軽減などの人類の福祉を常に目的とし、人間の尊厳と諸権利、そして世界環境を尊重するものであり、しかも今日の世代と未来の世代に対する責任を十分に考慮するものでなければならない」(「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」)(1)、「事業の倫理的、人道的、科学的、社会的又は生態学的な価値について自由に、かつ、公然と意見を表明すること。科学技術の発展が人類の福祉、尊厳及び人権を損なう場合又は「軍民両用」に当たる場合には、科学研究者は、良心に従って当該事業から身を引く権利を有し、並びにこれらの懸念について自由に意見を表明し、及び報告する権利及び責任を有する(ユネスコが採択した「科学研究者の責任及び権利に関する勧告」)(2)が示すように、少なくとも科学者・技術者共同体内部においては、科学技術のミッションは人類全体の福利の向上であること、科学技術の発展が人類の福利を損なう場合があり、その場合、科学者・技術者は自律的にその可能性を判断し、行動する責任と権利を持つことが合意されつつあることは確かだろう。

科学技術の発展と人類の福利が一致すると判断される場合(たとえば難病に対する治療法の発見)には、科学者・技術者はその職務の意義について疑問を持つことなく邁進できる。

この2つの間に矛盾が起きる時こそ、科学者・技術者の姿勢が問われる。これは決して科学技術の指導層だけの問題ではない。一人一人の科学者・技術者がこの矛盾に向き合い、自らの問題として自律的に判断し、行動することが求められる。

しかし、科学者・技術者はその所属組織を取り巻く政治経済構造や権力関係に、現実には大きな影響を受けている。その影響は組織や自己の利害に都合の良い方向に判断・行動をゆがめる方向に働きやすい。たとえば「このプロジェクトを進めるか否かは上の人の判断であって自分はそれに従うまでだ」、「いま私のしていることは、一部の人には不利益を与えてしまうかもしれないが、社会全体を考えれば、正しいことだ」と判断の責任を上位者や組織にゆだねて判断の責任を回避したり、科学技術の負の側面を合理化するといったことである。

 極端な事例を出すならば、「科学の社会化」の章で述べたフリッツ・ハーバーは毒ガス開発について、「戦争をこれによって早く終結することができれば、無数の人命を救うことができる」(3)と毒ガス開発を合理化していたという。原爆など破壊力の大きな兵器が開発されるたびに同様の言説が繰り返されている。

 もちろん個別の科学者・技術者に組織や政治経済システムの持っている責任を転嫁させろと言っているわけではない。それはむしろ個人の倫理にシステムの責任を還元してしまい、責任の矮小化につながるだろう。しかしだからといって個々の科学者・技術者に責任がないわけではない。その責任は行為の責任(何をなすべきか)でもあるが、まずは「認識の責任」(状況から何を読み取るべきか、そこから何を考えるべきか)として立ち現れてくる。自己の携わる仕事の意味を、その仕事が生み出す利潤とか研究成果というような組織(企業、学会、大学等)の基準にもっぱら依拠して判断するのではなく、仕事が何を世の中にもたらすのか、それによって悲惨な思いをする人はいないのかといった広い視野、長期の視野で考える責任である。自己の所属する国家や組織の利益を公益とみなすことを自動的に行わず、その利益とひきかえに不利益を被る可能性のある人々や地域や自然の存在を慮る責任である。「何のための科学か」ということを自己利益の合理化という欺瞞性をはぎとって問い続け、考え続ける責任、内面化する責任である。

そのような「認識の責任」への自覚は一般的・抽象的な「科学者・技術者の責任」の議論からは生まれにくいだろう。水俣とか福島第一原発とか出生前診断障碍者差別の問題とか個別具体的なトランスサイエンス問題の経緯を知ること、とりわけその問題にかかわった人々の苦悩や悲しみ、問題を乗り越えようとする努力、言うならば「人々の物語」を知ることが「認識の責任」につながると私は考える。その物語を知ることが、それを通じて、学ぶ者の内面に根付いた「認識の責任」への切実な自覚を喚起し、「何のための科学か」という問いを内面化する効果的な経験となると考えるからである。それは科学者・技術者にとって科学技術の内容を学ぶことと同等の重要性を持つ、むしろ科学者・技術者への志を固める段階では内容以上の重要性を持つと筆者は考える。トランスサイエンス問題を科学教育の主要な対象として取り込む根拠の一つがそこにあるのである。

 

少し前置きが長くなったが、次章からは、科学教育(主として初等中等教育だが大学の教養教育も射程に入る)におけるトランスサイエンス問題の扱いについての筆者の考えを述べていく。

(1)科学と科学的知識の利用に関する世界宣言(1999)、国際連合教育科学文化機関・国際科学会議共催による世界科学会議で採択、https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/siryo/attach/1298594.htm

(2)科学及び科学研究者に関する勧告(2017)第39回ユネスコ総会採択https://www.mext.go.jp/unesco/009/1411026.htm

(3)宮田親平(2007):毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者、朝日選書