リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

教科書はなぜ退屈か

中学校や高校の理科の教科書を覚えておられるだろうか。理科の教科書を面白いと思った記憶のある方は少ないのではないだろうか。理科を長く教えてきた私もそうである。教科書の重要性を理解しているつもりではあるが、およそ読んでおもしろいものではない。

その理由はおそらく2つある。一つは教科書に書いてあることを知ることの意味がわからないことである。生物の教科書には細胞分裂の際の染色体のふるまいが事細かに記されている。それに目を輝かせる生徒もなくはないと思うが、「それが何?」と多くの生徒は思っているであろう。「学校の勉強とはそんなもんさ、いちいち意味なんか考えておられん」と割り切っている生徒もいるだろう。実は染色体のふるまいは遺伝病とその診断、育種、出生前診断といった社会的にも大きな意味を持つ文脈の中で研究され、解明され、応用されてきたのだが、そのような文脈は教科書にはほとんど記されていない。

文脈は物語といってもいいだろう。社会が何を問題とし、人々が(科学者、医師、市民、政治家・・)その問題にどのようにかかわったのかという物語は学ぶことの意味を与える。それがないと、染色体の物理的振る舞いに興味を持つ生徒(あまり多くはない)を除く多くの生徒に対して、なぜこの内容を学ぶのかという「学びの意味」がほとんど伝わらないのである。しかし、この「物語」としての科学については「リスクを学ぶ」の章でもう一度取り上げることにし、ここではもう一つの理由に焦点を当ててみよう。

教科書が面白くないと思うもう一つの理由は、いま述べた文脈の問題とも関連するのだが、科学が確立された疑問の余地のない知識体系として扱われていることである。「研究によって絶えず知識が更新される」、「研究者の中でも見解が対立し、論争が行われる」、「科学技術が社会変動を引き起こし、社会変動が科学技術に影響を与える」といった科学技術の最もエキサイティングな部分がほとんど扱われていないのである。新しい発見、新しい技術的達成、科学者間で行われている学説論争、原発や遺伝子診断のような社会的・倫理的な論争といったダイナミックに変化する側面は、コラムとして扱われることがあるが。本文にはほとんど出てこない。

ここで教科書を取り上げたのは、教科書を批判するためではない。理解しやすく興味深い教科書とするために著者・編集者が注ぎこむ膨大な労力には敬意をはらっているし、限られたスペースにてんこ盛りに知識を盛り込まなければならない教科書には限界が存在している。そもそも教科書は一つの資料であって授業を興味深いものにするかどうかは教師の腕だということも承知している。教科書を取り上げたのは、教科書が、私自身も含めて科学教育に携わる教育者・研究者の持っている前提、「確立された知識体系」として科学を扱うことをわかりやすく表現したメディアだからである。この節ではこのことのはらむ問題点とその対極、学校教育の中で「未確立の知識体系として科学を扱う」ことの可能性について考えてみたい。

ただしあらかじめ断っておくが、「確立された知識体系として科学を扱う」ことが良くないと主張したいわけではない。原子論で三態変化(固体、液体、気体の変化)を説明したり、慣性の法則で物体の運動を説明したりといったことについて原子論や慣性の法則をいちいち疑ってみる必要はない。原子論や慣性の法則を不動の前提として扱うことになんら問題はない。しかし、本書の主たる対象であるトランスサイエンス問題についてまで「確立した知識体系として科学を扱う」立場を教育に適用することには問題があると私は考えているのである。