リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

硬い」科学観・科学者観の変革-ゴジラとシンゴジラ

ゴジラは日本の代表的なSF映画であり、世界的にもキングコングと並ぶ2大スターである。ゴジラは科学技術と社会の関係を考える上でも興味深い。ゴジラが登場した第1作では古生物学者の山根博士が権威者として登場し、政府の顧問としてゴジラについての議論をリードする。そして戦車も戦闘機も歯が立たないゴジラを芹沢博士が開発したオキシジェン・デストロイヤーが海中深く葬る。

ゴジラ第1作と対照的に、シンゴジラにおいて内閣の会議に召集された科学者たちは要領を得ない一般論を延々と述べるだけで総理に愛想をつかされる。不毛な会議で時間を費消している間にゴジラは進化していき、第4形態に進化したゴジラに対しては自衛隊の攻撃は全く無効で東京中心部が焼き払われ、総理をはじめとする内閣中枢もゴジラの攻撃により壊滅する。国連はゴジラへの核攻撃を決断する。事態を打開したのは内閣官房副長官が指揮する巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)である。霞が関のはぐれもの、学会の異端児が結集したプロジェクトチームである巨災対ゴジラ細胞研究者の牧教授の遺した解析表を分析し、血液凝固剤注入作戦を立案・実行する。ゴジラは凍結されるがそれは暫定的なものであり、破壊神としてのゴジラの脅威は去ったわけではない。むしろ何かいっそう禍禍しいものの出現を示唆して映画は終わる。

ゴジラ第1作とシンゴジラはその構造として既存の戦力では対応できない緊急事態を「機械仕掛けの神」のように降臨する科学者達が解決することでは共通しているが、科学に対して与える印象は大きく異なっている。ゴジラ第1作においては科学や科学者が政治や軍事から独立し、その専門知識によって政治や軍事を“正しい方向”に導き、危機を解決する権威として扱われている。山根博士は映画の最後に―原水爆実験が続く限り、ふたたびゴジラは現れるだろうーと予言はするが、東京を破壊したゴジラは科学技術(オキシジェン・デストロイヤー)により滅ぼされるのであり、危機は去る。一方、シンゴジラにおいてはゴジラは凍結されただけであり、科学技術(血液凝固剤)による解決は暫定的で怪獣退治のカタルシスは存在しない。不安と禍禍しいものの気配が色濃く残ったままである。

この2作の違いはゴジラが象徴する原子力に対する社会の評価の違いを反映していると思われる。ゴジラ第1作はビキニ環礁で行われていた水爆実験とそれによる日本漁船の被害を背景としており、反原水爆のメッセージを含んではいるが、同時に「科学技術が作り上げたリスクは科学技術によりコントロールできる」というメッセージも感じられる。シンゴジラは、科学技術がつくりだしたものでありながら、科学技術によりコントロールできない原子力リスクへの不安を背景としており、冷温停止はしたものの大量の放射性物質を地下水に放出し続け、内部状態がほとんど分かっていない未知の領域にとどまり続けている福島第一原発の現状の寓意である。

原子力に対する社会の見方はこの2極、すなわち

  • 原子炉のふるまいとそれがもたらすリスクはこれまでの研究によっておおむね解明されており、リスク対処の方策も確立されている。高度な知識を駆使する科学技術者に管理をまかせることによって原子力リスクはコントロール可能であるという楽観と
  • 科学技術者の専門知識は高度であっても限定された不完全なものであり、原子力という神の火を所詮コントロールできないのではないか、いつかさらに大きな破局がもたらされるのではないかという悲観

の2極を揺れ動きながら、数多の原子力災害の経験を経て徐々に後者に接近してきたといえるだろう。

原子力リスクに対するこの二様の考え方はどちらかが決定的に正しくてどちらかが決定的に誤っているというわけではない。おそらく原子力の歴史が終わってみないとわからない決定不能な問題である(もっとも原子力の歴史が終わっても膨大な核廃棄物は残るが・・)。 

しかし学校において原子力を扱う場合には、前者の側に圧倒的に比重が置かれてきた。それには、学校教育を通して国民を原子力受容へと啓蒙したい経済産業省や電力会社の思惑の影響があることはもちろんだが、ここで指摘したいのは、前者の考え方の基調であり、学校における科学教育の根本ともなっている「硬い科学観」(1)、つまり「科学はいつでも厳密で正しい答えをもたらす」科学観の変革の必要性である。藤垣は次のように述べている。「現在の公共的意思決定の特性は、科学者でさえ、答えを出せないところで意思決定しなくてはならないことである。このような特徴を考慮すると、テクノクラティックモデルが基礎とする「硬い」科学モデル、つまりいつでも確実で厳密な答えが出せるという科学モデルには、問題があることが示唆される」。トランスサイエンス問題はまさにこのような公共的意思決定の問題である。意思決定に直接かかわる人々は、当該問題にかかわる科学技術情報が暫定的なもの、研究の進展や問題を取り巻く条件によって変わりうるものであり、「正しい」指示を自動的に与えてくれるものではないことを十分承知の上で決断しなくてはならない。そして決断が暫定的な情報に依拠している事、したがって事態の推移に伴って変わりうるものであり、時に決定を翻すこともありうることを明示する必要がある。

意思決定に影響を受ける側、つまり市民の側にも上記のような意思決定の特性を受容する科学技術観、藤垣の言う「「硬い科学」モデル」になぞらえて言えば「「やわらかい科学」モデル」が必要とされる。民主制においては公共的意思決定は市民の支持に依存するからである。

では以上のことを踏まえて、トランスサイエンス問題を学校教育で扱う手法について私の考え方を述べてみたい。

(1)藤垣裕子(2003):専門知と公共性 科学技術社会論の構築へ向けて、東京大学出版会