リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

科学技術へのクライアントシップ

私は「自然と共同体に開かれた学び」(2015年)という本の中で次のように述べたことがある。「安部首相は2014年9月22日のコロンビア大学での演説で,原発の再稼働について「100%の安全が確保されない限り行わない」(165)と述べている。安部首相自身が原発の安全性について専門的判断を行えるわけではないので、これも首相自身が何度も述べているように、原子力規制委員会に「100%安全かそうでないか」の判断をゆだねているわけだが(もちろん100%安全という答えしか期待していない)、ここには科学者・技術者がこの問いに答えることができるという前提がある。ゴジラモスラの例とはずいぶん違うように見えるかもしれないが、根っこは同じ、つまり科学技術とか科学者・技術者を、「ゴジラを倒す兵器」とか「100%安全」というボタンを押し、研究費という料金を投入すると、期待する答えが転がり出てくる自動販売機のように考えているのである。」

安倍氏が特別だったわけではない。科学技術の専門家を自販機のようにとらえるこの態度は市民の間に広く見られ。コロナ禍を経てむしろ強まっているように思える。

このような態度は信頼とは言えないだろう。役に立つ答えが得られる間はひたすらありがたがるが、答えが得られなかったり、時間がかかったりすれば容易にいらだちへ、そして不信へと変質する。これは決して健全な態度とは言えない。前の章で専門家と市民の関係性が抱えている問題、その問題を解決していくために専門家と科学技術システムが変わる必要があることを述べたが、市民の側も上記のような盲従と不信の連鎖をもたらす自販機的科学技術観を改める必要がある。では市民の科学技術観はどうあるべきであろうか。

私は、専門家の知見を適切に評価し利用する責任は科学技術の専門家の側に第一義的に存在するが、我々市民の側にもあるとする科学技術観が適正であると考えており。その責任を「科学技術へのクライアントシップ」と呼びたい。クライアントとは顧客を意味する。トランスサイエンス問題の場合、顧客は市民社会であり、科学技術の専門家は市民社会の要請に応えて問題解決のための知見を提供する。クライアントシップとは科学技術やその専門家に対する顧客としての市民の側の責任である。

科学技術の専門家の社会に対する責任については論じられることが多いが、市民の側の責任について論じられることはあまりない。そのためこのような概念について違和感を感じる方が多いかもしれない。しかし科学技術社会論の人々が積み重ねてきた議論の多くは、、あたかも大人と幼児の関係のようなパターナリスティクな専門家と市民の関係性への批判であることを考えていただきたい。幼児は火や水の危険を知らない。だから大人の側には、幼児を見守り、危険な行為を制止したり、危険なものを取り上げたりする責任が発生する。これは大人が一方的に責任を負う片務的な関係である。これまで再三述べてきたように、トランスサイエンス問題にかかわる社会の意思決定は最終的には市民が行うべきものであり、その責任も市民の側にある。したがって市民と科学技術あるいは科学技術の専門家との関係は幼児と大人のような片務的な関係であってはならないことは当然である。責任を分有することは当然ではないだろうか。

では「科学技術へのクライアントシップ」として具体的にはどのような内容が考えられるだろうか。この点を次に考えてみたい。

テレビのある番組で。主婦目線で意見することをアピールポイントにしている女性芸人が、新型コロナについて

ー専門家の話はごちゃごちゃしていてわからない。行政や各個人がどうすれば新型コロナを防ぐことができるのか、短くわかりやすく教えてほしいー

といらだちをあらわにしながら専門家を批判しているのを目にしたことがある。収束したかと思えばまた蔓延するといういたちごっこの状況の中でのことである。別の番組では、元政治家のタレントが

―専門家によって言うことが違うのでは、誰の言うことを信じればいいのかわからない。誰かが責任を持って専門家の意見をとりまとめるべきだー

と発言していた。

もっともな議論に聞こえるが、このような議論には大きな陥穽がある。たしかに日常生活の中で、あるいは政治家や組織のリーダーが結論の前にあれこれと前提をあげたり、「わからない」「かもしれない」として判断を保留したりすれば「わけのわからない」人、「リーダーシップのない人」、「自分の言葉に責任を取りたくない人」とみなされてしまうだろう。また人によって言うことが違ったり(部長はAと言い、課長はBと言う)、方針が短い期間で二転三転すれば組織は混乱する。

しかし科学技術の世界では様相が異なる。たとえばウイルスの感染性を調べる研究で、実験条件(つまり論文の前提)を詳細に記述していない論文が学術雑誌に投稿されても、それが掲載されることはありえない。追試してその研究の正確さを確かめることができないからである。また実験結果から一定の推論・議論はできても、あまりに射程の長い議論(実証性が不確かな議論)はできない。空理空論とみなされるからである。つまり科学技術の世界では前提を詳細に述べること、研究結果から言えないことは(言いたくてもあえて)言わないことが専門家(研究者)の誠実さを示し、このような規範を守ることで専門家の信頼性が確保される。専門家が自らの世界で誠実であるためには、長々と前提を並べ立て、言えないことは「わからない」と答えるしかないのである。

また研究現場においては、わからないこと、専門家の見解が一致していないことを研究している(そうでなければ研究の最低条件である新規性がないことになる)のだから、そもそも見解の一致はよっぽど基礎的なこと(例えばマスクが新型コロナの感染予防に有効だということ、しかしこれさえエビデンスがないとした専門家も新型コロナ蔓延初期には存在していた)でなければ期待できない。見解を一致させようと学会や権威者が調整するなどということは不可能であるし、無理やり行おうとすれば、メンデル遺伝学を政府が否定し、遺伝学の研究が大きく立ち遅れることになったソ連の過ちを繰り返すことになる。科学技術が進歩していくためには、自由に仮説を立て、検証し、他者の研究を批判的に検討することが不可欠である。科学技術は自由な相互批判によって栄え、権威と秘密主義の下で衰える。

「多くの誤謬の中に真理が点在している」(2)というのが研究の実態だが、実験や観測という真理の検証手段を活用した相互批判がエラー修正機構として機能し、誤りを正していく。多数の研究者によって検証され、合意された概念は信頼性が高く、後代の研究者がその上に立って更に研究を進めていく強固な基盤となる。逆説的だが「権威を信用するな」という科学技術のありかたが科学技術を権威たらしめているのであって、「人によって言うことがちがう」ことが正常な姿である。藤垣裕子は、福島第1原発事故の際に混乱を恐れて「学者集団の密室のなかでは意見が違っていても、学者集団の外へ見解がでていくときは「公式見解」でなくてはならないという考え方」(3)にこだわり、研究者の意見の多様性を市民に伝えようとしなかった学術会議上層部の姿勢を批判しているが、見解が多様であることは科学技術の強みであって欠点ではない。むしろ意見の違いを率直に公開することが専門家の責任であろう。

見解が変化していくことも同様に考えることができる。専門家はそれぞれに自己の信じる仮説をもとに研究を進めていくが、対立する別の仮説の方に確からしさを感じれば、そちらに乗り換えてしまうということは当然あり得る。いわゆるパラダイム転換はその顕著な例である。「君子豹変」もまた科学技術の正常な姿である。

常世界と科学技術の世界の認識のギャップを埋めるために、専門家に「わかりやすく単純に解説しろ」、「人によって違うことを言うな」、「見解をくるくる変えるな」ということを要求するのは、むしろ専門家やそれに依拠する行政・政治の柔軟な対応を妨げたり、専門家の意見に依拠していることを「専門家のお墨付き」として政治家や官僚の責任を覆い隠す盾として使われたり、盲従の対極として極端な不信(反科学技術)に走る人が出てくるなど世の中をミスリーディングしてしまう危険がある。

ここは専門家ではなく市民が歩み寄るべきであろう。上記のような科学技術の特性(可変性、学説の多様性、前提の厳密性)を認識し、このような特性があるがゆえに科学技術は漸近的に真理に接近し、またより有用でリスクの少ない技術を達成することができると考えるべきである。「だから専門家は信頼できない」と考えるのではなく「だから専門家は信頼できる」と考えるのである。手放しで信用するのではなく、かといって不信に陥るわけでもない、一言でいえば「節度ある信頼」である。それが結局は専門家・政治家・官僚の誠実な対応を引き出すことにつながる。

 

ではこの「節度ある信頼」という態度を市民が獲得するために教育に何ができるのだろうか.伊勢田哲治は科学を次のように定義している

「以下の所与の制約条件の下で、もっとも信頼できる手法を用いて情報を生産するような集団的知的営み

 (a)その探求の目的に由来する制約

 (b)その研究対象について現在利用可能な研究手法に由来する制約」

科学は「もっとも信頼できる手法」を使って情報を生産しているのだから,知識(情報)生産システムとしてもっとも信頼できる.このことは前提として押さえておかなければならない.民間療法や宗教の言説とは異なるのである(民間療法が間違っていて科学が正しいという意味ではない.知識を確定する手法が異なるのである).

しかし科学は上記のような一定の制約の下で行われている営みである.間違わないわけではないし,意見が一つにまとまるとも限らない. 

私はこのような制約面も含めて科学が知識生産システムとして持っている特性(これには科学技術と社会の関係も含まれる)を市民が知ることが「節度ある信頼」を築く基盤となると考えるのである.具体的には次の事項を学校教育(具体的には中等教育ないし大学の教養教育ということになるだろう)の中で扱うべきと考える.

 

a.可変性・可謬性

科学技術は絶えず変化しており、その結論は暫定的である。新しい事実が発見されたり、新しいモデルや新しい技術の登場によって変革されていく。これは科学技術の専門家が誤ることもありうるということでもあるが、常に進歩の余地があるということでもある。

b.多様性・累積的進歩・真理への漸近性

専門家の意見、特に科学技術の先端で活動している専門家の意見(学説)は多様である。しかし実験や観測に立脚した相互批判という妥当性の判定手段があるため、それによって検証された学説が生き残っていく。技術の場合は事故が「検証」となることも多い。生き残った妥当性が高い意見(学説)が基盤となって科学技術は次のステージへ進んでいくことができる(累積的進歩)。したがって意見(学説)の多様性は、科学技術が真理や技術的成功へと漸近的に接近していくことを可能にする資源となっている。

c.前提の厳密性・前提による議論の拘束

科学技術の立論には厳密な前提条件があり、その範囲内では成立するが、その条件に当てはまらない場合は成立するかどうかは不可知である。したがってある学説なり技術なりをもとにして議論を行う際にはその学説や技術の前提条件が成立しているかどうかを合意したうえで議論する必要がある。その合意がない議論は不毛である。

d.公開性・選択肢の提示・あいまいさの許容

多様性と可変性という科学技術の特性を踏まえれば、科学技術の専門家を政策や市民

の行動に対して当為(○○すべき)とか「正しい結論」とかを示す存在とみなすべきではない。専門家に対して統一された公式見解を発信することを求めるのではなく、厳しい意見の対立も含めすべてを公にすること、様々な選択肢、医療に例えればセカンドオピニオンも含めて市民が吟味できるよう積極的に説明することを求めることが専門家に対する市民の権利であり責任である。そして「幅のある助言をして、あとは国民に選択してもらう」(2)のが専門家の責任である。

政策や個人の行動の選択肢が複数あることに伴う曖昧さ(許容できる放射線量をどの値に設定すべきか、感染症の蔓延を防ぐために個人の行動はどこまで制限されるべきかなど)は、それを縮減しようとすると当該問題の本質を見失う類の曖昧さであり、市民やメディア(市民と専門家をつなぐ媒体となる)は、分かりやすさを求めて「危険か安全か」、「どちらの選択肢が良いのか」というような性急な答えを求めるべきではない。このような曖昧さは専門家の誠実さのあらわれとしてとらえるべきである。

e.責任・自己決定・自己信頼

  市民は専門家に対して,複数の選択肢とその選択肢に伴う利益,危険,不確実性を明確にするよう求め,示される選択肢を比較考量したうえで,最終的な意思決定は個々の市民が行う。現実の政策決定は政治が行うことが多いが、その場合も個々の市民の意思決定が極力反映されるべきであり、専門家・利害関係者・官僚・政治家の閉じたサークルの中で行われるべきではない。

そのため市民は問題を自分(たち)自身の問題として引き受け、自分(たち)のこと

は自分(たち)で決めるべきであり、決定について自分(たち)でその責任を引き受けることができるという覚悟と自己信頼を持つことが必要である。このことを実現するために、市民は専門的言明の持つ有効性と限界を理解し、専門家が負うことのできない責任を要求しない。いわば専門家とその知(科学知)という適切に利用しさえすればきわめて有効に機能してくれる資源を節度を持って利用することが要求される。そしてこのような基本的態度を基盤にして専門家との相互信頼を築くことが目標とすべき市民と専門家との関係性であり、トランサイエンス問題を扱う教育はこの目標に向けて構築されるべきである。

 

一見してわかるようにこれらの知識(認識)は「科学技術の知識」というよりも「科学技術についての知識」である。科学の知識体系に内在するものではなく、科学という営為を外側から見たときに見て取れる特性、つまりメタ科学である。理科教育の用語でいえばNature of Scienceと呼ばれている。学問の分野でいえば自然科学ではなく科学哲学とか科学論。科学技術社会論にあたる。

私は、これらの知識(認識)は学校教育で扱うべきと考えるが、現在(というよりも理科が学校で教えられるようになって以来)の理科教育の内容・手法とは必ずしも整合的ではないことは認めざるを得ない。

学校における理科教育の基本は「確立された科学」を教えることにある。学習指導要領に則って、易から難、単純から複雑へと科学的知識は系統的に教授され、知識相互に矛盾はない。最終的に大学入試につながる科学知のはしごを児童生徒は上っていくのである。

科学知の獲得は、典型的には教師からの課題の提示、実験・観察による課題の探究、考察とまとめ(課題の解決)、振り返りといった流れで行われる。「地震」単元のように模擬実験によらざるを得ない単元もあり、実際には(特に高校では)講義による知識教授が多いのだが、とはいえこの流れは理科の授業が踏むべき型であることを多くの(おそらくほとんどの)理科教師は意識している。実際、公開される研究授業の多くはこの形式をとっている。

この形式の授業は児童生徒をいわば「小さな科学者」とみなし、科学者の行う科学実践(研究実践)を模擬的に行うものであるといってよいだろう。ただし科学者の行う科学実践とは決定的に異なる点がある。「失敗」しないことである。「失敗」(教科書に記載されている理論に反する結果になる)にならないよう、教師側の設定する条件の中で行われる実践であり、大概の場合、「成功」(教科書に記載されている理論通りになる)する。たまに「失敗」することもあるが、その場合、児童生徒も教師も正しい結果を導けなかった理由を考え、反省する。正しいのはあくまで教科書に記載されている科学的事実であり、科学理論であり、正解は決まっている。理科教育はこのような枠組みの中で行われるのである。こう書くと批判がましく聞こえるかもしれないが、そうではない。理科の授業で「探求」を行ったとして、もしも正解にたどり着けなかった探求をそのままにしておくと間違った知識(たとえば気体の膨張を気体分子の熱運動の速度が大きくなることによってではなく気体分子の大きさ自体が大きくなるとして説明してしまう)が定着してしまうことになりかねない。正解が一意に決まり、知識相互に矛盾のない系統的理科を提供することはやはり必要で、そのために明治以来無数の理科教師がそのための教育実践を積み重ね、そこから現在の理科教材や教授法が編み上げられてきた。現在の方法はそれなりの合理性を持っているのである。

とはいえ、このような教授方法が上に上げた5つの事項を扱うにはあまり適当でないことはたしかだろう。

正直言ってうまく整合させるよい手法を思いついているわけではないが、いくつか考えているものはある。

・科学・工学の方法を学ぶ

・科学技術にかかわる言説の進化史を学ぶ

・リスクについて学ぶ

これは章を改めて紹介したい。

(1)伊勢田哲治(2011):科学の拡大と科学哲学の使い道,菊地誠・松永和紀伊勢田哲治平川秀幸飯田泰之+YNODOS編「もうダマされないための「科学」講義」,66-100

(2)金森修(2015):科学思想史の哲学、岩波書店

(3)藤垣裕子(2003):専門知と公共性 科学技術社会論の構築へ向けて、東京大学出版会