リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

不適切な前提を置いている立論に対しては、それについて批判的に検討しておくか、または排除する

フレーミングは「価値観の選択の問題」とすぐ上で述べたが,明らかに不適切な前提をもとにした立論の場合、それを教育の場に持ち込むと事実認識を誤らせかねない。現実世界から事実を切り取ってくるフレーミングは価値観によって異なってくるので、価値観と事実を明確に切り分けることは難しいが、だれの目から見ても不適切と思われる前提はありうる.もちろん虚偽の場合は論外だが,多くの場合,先行研究から都合のよい部分だけを切り取って,それを前提として立論されることが多い.たとえば原発について経済学者の池田信夫は「原発事故で過去50年に出た死者はチェルノブイリ事故の60人だけだが、WHOによれば、世界で毎年700万人が大気汚染で死んでおり、石炭火力がその1割としても70万人だ。中国だけで毎年36万人が石炭で死んでいるという推定もあり、石炭こそ最悪のエネルギーなのだ。つまり直接コストでみると火力は原子力といい勝負だが、環境・安全性などの社会的コストを考えると、原子力が圧倒的に安い(再生可能エネルギーはコストでは問題にならない)」(1)と論じている。出典が記されていないが、おそらくこれはチェルノブイリ・フォーラム(国際原子力機関が主催したチェルノブイリ事故の国際会議)で報告された急性放射線障害と小児甲状腺がん死者(小児甲状腺がんは「大部分が放射性ヨウ素の取り込みに起因する」と評価された)(2)を根拠としているのであろう。

チェルノブイリ原発事故による死者数の見積もりは、対象集団の規模をどうとるかによって異なってくる.そのため,チェルノブイリ・フォーラム、世界保健機関,国際ガン研究機関(世界保健機関の一機関であるが独自に推定を行っている)といった推定を行った機関ごとにそれぞれ推定死者数は異なってくる(3)。しかしいずれの場合でもがん死を死者数に組み入れている。原発事故では核爆弾と異なり、死者数はガンによる死亡が圧倒的に多い(たとえばチェルノブイリ・フォーラムでは死者は約4000人と推定しており,大部分はがんによる)。実験的にも疫学的にも放射線が発がんの要因であることは確定されており、池田がそれを知らないことは考えにくく、意図的にがんによる死亡を除外していることが疑われる.またもし知らないとすればそもそもチェルノブイリ原発事故の被害を論じる資格はない。このような明らかに不適切な前提をもとにした立論を教室の中に持ち込むのは議論の前提となる事実認識を誤らせることになるので有害である.ただしデータそのものは虚偽ではなくても,データを一部しか提示しないことによって誤った結論を導くことができる例として使うことはできるかもしれない.

 

(1)池田信夫(2016):原子力の価値、評価を妨げるものは何か,https://www.gepr.org/contents/20161215%E2%88%9201/

(2)The Chernobyl Forum: 2003–2005 (2006):Chernobyl’s Legacy: Health, Environmental and Socio-Economic Impacts and Recommendations to the Governments of Belarus, the Russian Federation and Ukraine,http://www.agriculturedefensecoalition.org/sites/default/files/file/nuclear/14Q_200

3_2005_IAEA_Publications_Chernobyl_Legacy_Second_Revised_Edition.pdf

(3)今中哲二(2006):チェルノブイリ事故による死者の数,原子力資料情報室通信,386,8-11