リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

メタ的なフレーミング

「科学の社会化」の章でスチュワート・リチャーズの「科学・哲学・社会」の中の「巨大増殖炉計画はプルトニウムの頻繁な輸送を必要とするが、それは偶発的事故とテロリストの攻撃という当然の危険を伴うのである。そのために列車と原子炉用地の警戒のために大部隊の憲兵が必要になるであろう。これは原子力と個人的自由との非両立性という恐れをやがて起こすであろう」(1)という記述を紹介し、「プルトニウムという物質の持つ性質、それを利用する核燃料サイクルという科学技術体系そのものが権力の再配分の原因となる。集権化をもたらすのである」と述べた。

高速増殖炉というトランスサイエンス問題について意思決定する際には,高速増殖炉固有の問題を超えた、社会そのものの方向性にかかわる価値観の選択、高度に中央集権化された社会を選ぶのか、分権化された社会を選ぶのかという権力の再配分にかかわる意思決定を行っているのである.したがってこの問題を扱う場合にはそのような意味での価値観選択とそれに基づいたフレーミング、いわばメタ的な価値観選択・フレーミング(以下,メタ的なフレーミングと略す)を同時に行っているのだという意識を市民が持つ必要があり,教育者もそのことを意識しておかねばならない.

「権力の再配分」というメタ的なフレーミングは様々なトランスサイエンス問題に通底するフレーミングとして活用することができる。たとえば1960年代から70年代にかけて,主に発展途上国において稲や小麦の新品種の導入により大きな収量の増加がもたらされた農業改革,いわゆる「緑の革命」を「権力の再配分」というフレーミングで吟味するならば、種子や農法の選択における農民の意思決定の権能を特許や国際機関の資金援助というツールを使って種子会社や肥料会社、農薬会社が吸収していくプロセス,企業が権力を拡大したプロセスとみなすこともできる。緑の革命は収量の向上といった農業や食糧問題の範囲の中にとどまるものではなく,種子企業等の企業への農民の依存,あるいは種子や肥料を大量に購入して経営規模を拡大できる上層農家とそれができない下層農家への農民層の分解という社会の変化を伴うものだったのである.遺伝子組み換え作物の開発と普及はこの延長線上に存在する。

医学・生命科学の領域で言うならば「自己決定権」もメタ的なフレーミングとして考えることができる.「自己決定権」は,広く言うならば次のようなものとして理解することができる.

「主に「国家による干渉を受けずに個人が私的な事柄を自分で決定する権利」として理解され,実質的に保障される権利は,もっぱら私事,すなわち避妊や中絶,結婚や離婚,自己の生命や身体,容姿や趣味・嗜好といった,「プライバシーの領域に関わる事柄を決定する権利」として捉えられている」(2).医学・生命科学の領域で言うならば自己決定権は治療に対するインフォームド・コンセント,死後の自己の臓器の他者への移植の容認.人工妊娠中絶の権利といった様々な文脈で現れる.

これらは,現在の日本においては自己決定権の及ぶ範囲と認識されていると言えるだろう.しかし,たとえば人工妊娠中絶においては,「自己決定権」をめぐって深刻な対立が起きている.妊婦の血液で診断できる新型出生前診断の登場により,出生前にダウン症など一部の遺伝性の障害の診断ができるようになったため,診断で陽性と判定された妊婦のほとんどが中絶を選択するという事態となっており(3).遺伝性疾患の人々やその家族及び支援者から障害者の生の価値を否定するものだという批判がなされているのである(4).多くの人々はこの批判は傾聴に値するものだと考えるだろう.しかしこのような異論は新しい技術によりもたらされた「自己決定権」の力に圧倒されているのが現状である. 

将来的に遺伝子診断技術が進展すれば,体外受精を行った後,受精によってできたいくつかの胚の中から遺伝的障害を持つ可能性のある胚を排除して「正常な」胚を選ぶ,あるいは親の希望に沿った胚を選んで母体に戻すことさえもできるようになるだろう.ここまでくると現段階ではかなり多くの人が違和感をおぼえることになると思われる.しかし,体外受精が行われたときその是非について多くの議論がなされたにもかかわらず,現在は全く当たり前に行われているように、新しい技術が登場し、それを選択する人々が多くなれば、それが「自然な」こととして受け入れられることは十分予想できる。そのとき障害をもって生まれた人とその親に注がれる視線は「避けようと思えば避けられたはずの障害を避けなかった人たち」、「自己責任で障害を引き受けた人たち」、「あえて社会に負担をかける人達」という視線に変質してしまわないだろうか。全く同じことが尊厳死安楽死脳死と臓器移植等生命にかかわる様々なトランスサイエンス問題についても言える。「自己決定権」は「他者の意図を押し付けられることのない各人の自由な選択」という含意からあふれ出して、生命の選別がごく当たり前の社会に道を開く可能性を持っているのである。

メタ的なフレーミングの候補としては、リスク論の基礎ともなっている「期待効用」や開発プロジェクト等の便益評価に用いられる「割引率」なども考えられる。

ここまでメタ的なフレーミングについて述べたが,メタ的なフレーミングを明示的に扱わなくてもよい、あるいはメタ的なフレーミングを想定しなくてもよいトランスサイエンス問題も多いだろう。しかし教育者は個別のトランスサイエンス問題の背後にメタ的なフレーミングが存在する可能性を意識し、必要に応じて学習者にその存在を気づかせる指導が求められると考える。

(1)スチュワート・リチャーズ(1985)、:科学・哲学・社会」:岩坪昭夫訳、紀伊国屋書店

(2)金井直美(2011):自己決定の限界と可能性-自己決定の主体と能力をめぐる考察,政治学研究論集,33,147-169

(3)日本経済新聞2014年6月27日の記事「新出生前診断 染色体異常、確定者の97%が中絶」,https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2703S_X20C14A6CC1000/

(4)利光恵子(2021):受精卵のゲノム編集と優生思想,科学技術社会論研究,(19),32―40