リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

科学的成果物の前提となる変数の同定と当該変数をめぐる議論の理解

「科学技術へのクライアントシップ」の節で「前提による議論の拘束」について述べた

が、以下ではこれを「批判的に考える」という文脈の中において,変数という形で具体化してみたい。

小学校理科の伝統的教材として振り子がある.振り子の周期を決める条件を探求する教

材である.振り子の長さ,振れ幅(角度),振り子のおもりの重さをいろいろ変化させて,この3つの条件(以下変数と呼ぶ)のどれが周期を決めているのかをさぐっていくわけだが,その際の定番の実験方法は,この3つの変数のうち、どれか2つ、たとえばおもりの重さと振れ幅を固定して、振り子の長さという一つの変数のみを変化させ、その変数の影響を検出する方法である。いくつかの変数を同時に変化させてしまうと,どの変数が周期に影響するのかがわからなくなってしまうためにこのような方法をとるわけだが、この考えかたを条件制御と言い、小学校理科で重視されている考え方である。条件制御した実験を系統的に実施する(長さの変化,重りの重さの変化,振れ幅の変化をそれぞれ行っていく)ことによって,振り子の周期を決めるのは振り子の長さのみであるということを確認するのが授業の着地点になる.先生によってはそれ以後、高いところから吊って周期の大きな長い振り子を作ってみたり、秒振り子(周期2秒の振り子)を作るなど振り子の知識の活用を行うこともある。授業の焦点は振り子の長さによる周期の操作に移っていくわけだが,この段階ではおもりの重さや振れ幅は周期に影響を与えない変数として注意の対象から外れ、いわば「隠れて」しまう。

 実はこの実験には注意すべき点がある.振り子の等時性(同じ長さの振り子がゆれる周期は、振り子の重さや振れ幅にはよらず一定になる)は「振れ幅が大きくなければ」という条件付きであり,振れ幅が大きくなると,児童による荒い測定でも等時性の破れが観察されるようになる.そこで教科書では振れ幅を30度以上にはしないことが指示されているのである.  

トランスサイエンス問題とは関係のなさそうな振り子の話をしたのは,振り子の等時性には「振れ幅が大きくない」という前提が存在することであり、振れ幅が大きくなってくるやいなや、それまで隠れていた(前提となっていた)振れ幅が周期に影響を与える変数としてにわかに姿を現してくることを示したかったからである。これを実験の観察者の立場から少し揶揄的な言い方で表現してみるとこんなふうになるだろうか.「君は振り子の長さが周期を決めると言うんだね。でも君は10度とか20度とかでの実験しかみせてくれないね。思い切って振れ幅を70度にしてみようじゃないか。ほら周期は10度の時とは違うね。振れ幅が変わると周期も変わるというのが正解じゃないのかい」。

これを一般化して述べてみよう。実験とかシミュレーションにおいては、その実験とかシミュレーションにおいて変化させる変数(独立変数,振り子の場合は振り子の長さ)と実験等の結果(従属変数,振り子の場合は周期)の関連が注目されるのであり、実験の前提となる変数(振り子の場合はおもりの重さ,振れ幅,長たらしいので,以下,前提変数と呼ぶ.パラメーターと呼ばれることも多いが,パラメーターは変数一般を指して使われるので,ここでは前提変数としておく)については、考慮の対象から外される.しかし前提変数の変動がある範囲(この範囲を境界条件と呼ぶ)を超えると,それが実験結果に影響を与えるようになる.

もちろん論文等では冒頭で先行研究を援用して前提変数の設定の妥当性や境界条件について論じておき,研究が妥当な前提の上に行われていることを主張するのが手順となっている.

しかし,教育の場において使われる資料集とか教材とかにおいてはその大部分(といっても私の見聞の範囲内だが)において前提変数の妥当性(その値でいいのか)や境界条件(どこまでその値でいいのか)を児童生徒が吟味することはほとんどない。というよりもそのような吟味は授業の流れを混乱させるとして注意深く回避させるようになっている.振り子の例で言うと30度以内の振れ幅にするというのは、教師の側の注意事項であって児童には30度以内で振りなさいという指示があるのみである(ちょっと余談になるが、小学校教師の理科指導を記述した文科省のウェブサイトはこの記述がなく、それどころか45度で振らすように書いてあってちょっとびっくりした。ちなみに教科書はちゃんと30度以内と書いてある)。

私は、伝統的な理科教材の場合(自由研究とか高校の課題研究のようにどんな実験をするのかということから考える必要があるものは例外)はこれでよいと思う。バックグラウンドを固定して少数の変数間の関係へと事象を単純化する還元論的方法が通常の科学の方法論なのだから,理科教育においてもそれがモデルとなるのは当然である.しかしトランスサイエンス問題を考える場合には、様々な科学的成果物の論理の立て方(上記の条件制御など)と結論を知ることと同様にそれが前提としている前提変数の妥当性を吟味する(正確に言えば妥当性を吟味する議論を知る)ことが効果的な教育になると考える。例を出してみよう

・基本高水という前提変数

 八斗島(群馬県伊勢崎市)という地名はあまり聞きなれないと思うが利根川が山地から平地に出てきて,さらに烏川,神流川を合わせて川幅を大きく広げた場所(正確には合流点よりやや下流)であり,利根川河口から180kmの位置にある.利根川の治水上重要な場所であるため,水位観測所が置かれ,八斗島を流れる洪水流量が利根川の治水政策の基準となっている.

ダム等の洪水調節施設で洪水調節が行われないと仮定した場合の河川の流量を基本高水と呼び,八斗島の場合,利根川流域で最大級の洪水があったカスリーン台風時の基本高水のピーク流量(最大流量)は22000㎥㎥/s(1秒間に17000㎥が流れる)とされている(1).河道ですべてこの流量を流すことはできない(氾濫する)のでこの基本高水を河道とダムで分担することになる.そのうち河道が受け持つ流量は計画高水と呼ばれ,八斗島の場合,16500㎥/sである(1).残りの流量はダムが分担することになり,国土交通省利根川上流域において八ッ場ダムをはじめ多数のダムを建設してきたのは,この計算を基礎としている.

建設省(現国交省)と市民団体が対立した千歳川放水路建設問題の議論の際、「基本高水は河川審議会で決定されたものであり、これは石狩川憲法である」と北海道開発局の担当者から発言があったとされているが(2)、このエピソードが示すように、基本高水は河川計画の根幹となる前提変数であり, 河川工学の専門性はここに集約されているともいえる.

しかし八斗島の基本高水については議論が絶えない。基本高水は流量モデルの改訂や降水量観測、都市化などの流域の状況変化に対応して変更されている。建設省は1980年にそれまでの17000㎥/sの基本高水のピーク流量を22000㎥/sに改訂した。その根拠は「基本高水のピーク流量22,000m3/sは、 もともと観測史上最大のS22.9洪水 (カスリーン台風)の実績降雨から、 河川整備等による氾濫量の減少を考慮して算出」(3)とされている。八斗島より上流部の河川整備が進んだことにより、1947年カスリーンの台風時よりも氾濫が起きにくくなった,つまりそれまで上流であふれていた水が下流まで流れるようになったため、その分、下流への流量が多くなったとするのである。それに対して大熊孝(河川工学)は、流域住民への聞き取り調査から建設省によるカスリーン台風時の氾濫推定は過大であり,氾濫によるとされてきた八斗島より上流部の被害は「赤城山を中心とした降雨によって土石流が多数発生したこと、本川の水位が高くなったことによって内水がはけないで、浸水家屋が出たことにある」と結論している.そして,利根川本川の氾濫はさして大きなものではなかったとし,「国交省の説明では、計算流量と実績流量との差はカスリーン台風当時、八斗島上流で氾濫したことになっているが、もし、これだけの量が上流部で氾濫したとすれば、氾濫水深を2mとしても6000ha 以上の氾濫面積が必要となる。現実にはそのような広大な面積の氾濫は無かった」と国交省の推定を批判している(4).氾濫の想定が間違っていれば基本高水のピーク流量も当然まちがっていることになり,大熊はピーク流量は16,000㎥と試算し,このことを根拠として利根川上流のダム建設の必要性に疑問を呈している.

一方,関良基は,森林の過剰利用が行われていたカスリーン台風時に比して材積量で5.4倍に拡大するなど(1998年時点),森林が著しく回復し,また上流域にダムが5つ建設されているにもかかわらず,基本高水のピーク流量を17000㎥から22,000㎥と増やしていることを疑問視している(5).関はその批判を裏付けるため,1998年洪水について実際の基本高水のピーク流量とその時の雨量を国交省のモデルに入力して計算した基本高水のピーク流量(八斗島)とを比較し,森林保水力の上昇とダムの効果によりピーク流量が27.8%もカットされていることを示した.このことを考慮しないピーク流量設定は誤っており,「基本高水があってダム計画が定まるというより,ダム計画に合わせて基本高水は操作されているのではないか」と,治水上,最も基本的な前提変数である基本高水のピーク流量設定が恣意的に操作されていると考え,大熊と同じく,ダム建設に疑問を投げかけている.

上にも述べたように基本高水のピーク流量は治水計画の根幹となる前提変数である.それについての一定の根拠のある異議申し立てがあることを流域の市民が知っておくことは,公的政策とその代替的選択肢(オルタナティブ)のどちらをとるべきかについて,つまり政策の正当性について市民が議論するきっかけを与え,熟慮・熟議につながるという意味で啓発された市民の育成に有用と考える.

もう一つメタ的なフレーミングの例としても挙げた割引率という前提変数について地球温暖化問題を例として触れておこう.

・割引率という前提変数

経済学では,ある事業とか投資とかの是非を考慮する際に割引率という概念がよく使われる.あまり耳慣れない言葉であるので,少し説明しておこう.今,利率10%でお金を運用すると仮定した場合,現在の100万円は1年後に110万円になる.ということは1年後の110万円は現在の100万円に等しいことになる(実際の計算は少し異なるが,考え方は同じ).このように将来のお金(将来価値)を現在のお金(現在価値)におき直す際には減価する計算を行うことになり,その減価率が割引率と呼ばれる.当然同じ100万円でも1年後に得られる100万円と10年後に得られる100万円では現在価値が異なり,年数が長くなるほど現在価値は減少する.

地球温暖化問題にこの割引率の考え方を適用するとどうなるだろうか.現在時点において二酸化炭素を一定量(一単位)減らす費用が1万円,これにより100年後に10万円分の損害を防ぐことができるとする.割引率を3パーセントとすると,100年後の10万円を現在価値に直すと5000円であり,費用が現在価値を上回る.一方,割引率が1%ならば現在価値は3万7000円となり現在価値が費用を上回る.現在価値を最大化するように行動するのが経済合理的な行動であり、前者ならば対策を行わない,後者ならば対策を行うのが合理的な行動ということになる(以上は山口光恒の「費用便益分析と「スターン.レビュー」」(6)による).以上のような分析の手法を費用便益分析と呼ぶ.もちろんこのような判断を下すためには,未来の損害の大きさを正確に見積もり,それを金額に換算することができるモデルの存在とそれに入力するためのデータが必要であり,困難な点はたくさんあるのだが,それでもこの計算に挑んだ経済学者は存在する.その代表的存在がウィリアム・ノードハウス,ニコラス・スターンである.しかしこの両者の結論はかなり異なっている.大瀧正子の論文(7)によってその違いを見てみよう.ノードハウスは割引率を決める要素として市場利子率を考慮し,割引率を4~6%と想定している.そして「近い将来では排出抑制割合が大きくなるに従い抑制費用が急激に上昇するため,現世代の「負担」の大きさを考えると短期的な排出抑制に費用をかけるよりも,長期継続的に排出削減効果が期待できる温室効果ガス削減の技術開発に重点を置くほうが効率的な「温暖化政策経路(climate-policy ramp)」である」とした.性急に温室効果ガス(二酸化炭素,メタンなど)の排出量を削減することは現世代の大きな負担となり,それよりも技術開発によって長期的に排出量を削減する方が望ましいとしたのである.一方スターンは割引率を1.4%に設定している.「長期にわたる環境投資において,将来世代の「便益」を割引くことがピグー (Pigou (1925) )の「展望能力の欠如(lack oftelescopic faculty)」と考えるので,割引くことを認めることができない」(5)ため市場金利より著しく低い割引率となっている(経済成長による消費の拡大,つまり未来世代が現在世代よりも豊かになることを考慮するため0%にはしていない).これは地球温暖化対策による被害の軽減の現在価値を上げることになる.したがってスターンのモデルにおいては,地球温暖化に対して取るべき対応はノードハウスとは異なっており,「温室効果ガス排出の累積的な被害は長期的に甚大であるが,早期に削減すれば長期的に被害を回避するための費用は低く抑えられ,温暖化対策の便益は費用を凌駕する」と強力な対策を早期に行うことによって費用よりも便益が大きくなるとするのである.

このように異なった結論を見せられるとスターンとノードハウスのどちらが正しいのかと問いたくなる.しかしこれはあまり生産的な問いではない.そもそも経済モデルに入力するたくさんの前提変数の値には不確実性が伴い,それに立脚する未来予測も不確実性が大きい.これらを予言のように見て実務的な意思決定を行うことは誤りであって,意思決定の参考となるツールという程度に考えておくのが穏当だろう.むしろスターンとノードハウスでなぜほぼ真逆の政策が提言されているのか,その理由を問うことの方がより生産的な問いになりうる.それが上に述べてきたように割引率なのである.

割引率に注目して考えてみると,スターンの上記の考え方は伝統的な経済学をはみ出していることに気づく.経済学の常識にてらして考えれば,ノードハウスの割引率の設定が標準的なものと言える.市場で行われる活動には様々なものがあり,地球温暖化について特例的に市場金利から大きく乖離して割引率を低くすれば,地球温暖化対策にかかわる投資の現在価値が過大に評価され,収益率が低い地球温暖化防止投資に巨額の資金が流れて他の活動が圧迫され,経済全体の生産性が低くなる.これは現在世代の犠牲が大きすぎる.多くの経済学者はこのように考えるであろう.しかしスターンは将来世代の被害を現在世代の現在価値に割り引いて設定するのは将来世代の福利を不当に損なうことであり,倫理的に許容しがたいと考えた.経済学の枠を超え,倫理に踏み込んだ考察をおこなったのである.割引率は単なる数値でしかないが,その設定にはこのように現在世代と将来世代の福利のバランスをどう考えるかというフレーミングの問題が潜んでいる.

基本高水の項で,基本高水という治水政策の根幹となる前提変数について異議申し立てがあることを流域の市民が知っておくことが,政策の正当性について市民が議論するきっかけを与え,熟慮・熟議につながると述べた.割引率についても同じことがいえる.地球温暖化問題について異なった政策アプローチがありうるのであり,その違いの要因が割引率にあること.割引率を考えることは現在世代と将来世代の福利のバランスという理念の問題に帰着することを知るのは,市民が政策的に地球温暖化問題を議論し,熟慮・熟議する際の一つの出発点となるだろう.

 

以上,2つの前提変数について述べた.前提変数には他にも重要なものとして安全率があるが,これについては「対話と関与のモデルー耳を澄ませてそっと行う」の節で述べたので,ここでは繰り返さない.しかし,建築物の耐震性能や食品の安全性を議論する時などに使われる安全率は工学や生物学の理論から出てきたものではなく,専門家が経験的に「ここまで余裕を取っておけば安全だろう」といういわば相場感覚で決めたものであり,リスク回避に投じることのできる資源(資金,時間等)との見合いで決められるものであることを改めて指摘しておこう.市民の要求次第で上げたり下げたりすることは可能なのであり,たとえば原発の耐震性をめぐる議論も,科学用語に彩られているとはいえ,その本質はきわめて政治的(悪い意味で使っているわけではない)なのである.

トランスサイエンス問題を教育の場に持ち込む際に問題をめぐる議論をフォローするだけでなく,議論のよって立つ前提となる変数に着目し,その妥当性を考えることが市民の思考の幅を広げ,実質的な議論ができる市民の育成につながると考える.

 

(1)国土交通省(2006):利根川水系河川整備基本方針中の基本高水等に関する資料,https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/tone-2.pdf

(2)大熊孝(2004):脱ダムを阻む「基本高水」  

 さまよい続ける日本の治水計画,世界,2004年10月号,123-131

(3)国土交通省(2005):第21回河川整備基本方針検討小委員会資料,https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonhoushin/051003/pdf/s2-1.pdf

(4)大熊孝(2008):意見書,http://www.yamba.sakura.ne.jp/shiryo/ikensho/ikensho_ookuma.pdf

八ッ場ダム公金支出差し止め請求にかかわり水戸地裁に提出された意見書

(5)関良基(2018):利根川の緑のダム機能と基本高水問題,経済地理学年報,64,102-112

(6)山口光恒(2008):日経BP 山口光恒の『地球温暖化 日本の戦略』 連載第 10 回

費用便益分析と「スターン・レビュー」【前編】,http://m-yamaguchi.jp/others2/bp_10.pdf

(7)大瀧正子(2008):地球温暖化問題の経済分析における将来世代の厚生評価の問題点,立命館国際研究,21-2,121―139