リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

判断を統合する―善き生のための思慮深さ 序説

日本の科学技術社会論を主導し,その基礎を作りあげた村上陽一郎は「科学者とは何か」(1)の中で「缶ミルクの教訓」と題してアメリカの食品会社の発展途上国支援の失敗を述べている.その会社は善意のキャンペーンとして,飢餓に悩むアフリカの家庭に自社の粉ミルクを配る支援を行った.飢餓で母乳の出ない母親への粉ミルク配布は子どもの栄養状態の改善に役立つという意図の下でこの事業は進められたが,現実には悲惨な結果を招いてしまった.現地では哺乳瓶を洗浄する清潔な水が使えず,哺乳瓶内で細菌が繁殖して,感染症で死亡する赤ちゃんが激増したのである.村上はこの事態を「缶ミルクによってアフリカの飢餓を救えると思いこんだアメリカの食品会社の側,あるいはそのキャンペーンに賛同した人々の間に,総合的な推理と判断とが欠けていたがゆえの悲劇であったという外はない」と批判し,そして「いくつかの領域での基礎的な知識を持ち合わせ,それを統合する健全な推理力,予測力を備えた人間がいたならば,この悲劇は救えたかもしれなかった」としている.村上は同書の中で今後求められる「新しい知識人の資格」を,「常に「メタ」の立場からものごとを眺め,色々な観点を秤量しつつ,総合的に判断を下せる人物」と述べている.これは知識人への言及であって普通の市民にまでこのような資質を求めているわけではない.しかし私はこの村上の記述を呼んだとき,市民に求められる科学リテラシーというのは,まさにこのような資質を育てる教育だと感じた.

 上記の事例は村上も言うように,知識として必要なのは「いくつかの領域の基礎的な知識」であり,決して特別な知識ではない.アフリカの衛生状況,清潔な水が欠如している状況での細菌の繁殖というようなことは中学生,あるいは小学生でも知っているようなごく普通の知識である.しかしそれ自体は普通の知識であってもそれを状況に応じて適用し,起こりうる事態を想像することは決して簡単ではない.

より一般化した問題解決の文脈で言うならば,適切な問題解決のためには,自分の手持ちの知識が問題の文脈を判断するのに十分なものなのか,自分の行っている思考の道筋に批判の余地はないのかといったことを吟味するメタ認知を繰り返しながら.多様な観点から状況を熟考し,観点を統合して判断することが求められる.価値観の対立する問題の場合には自己の価値観を省察し,場合によっては組み替えることも求められるだろう.

このような知はもちろん専門家にも求められるが,私は,このような知を現代社会における「市民の知」として,知識・スキルの体系性を特徴とする「専門家の知」(専門知)とあえて区別して考え,意識化することが必要だと考える.この「市民の知」は「プリ・コラージュの知」と言い換えることもできる.本節ではこのプリコラージュの知とそれを支える条件について見ていこう.

(1)村上陽一郎(1994):科学者とは何か、新潮選書