リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 3 第一段階

以下,各段階について具体的に述べていく.

第一段階(論点整理)

 この段階では何か特定のトランスサイエンス問題について、どのようなオルタナティブがありうるのか、その中からどのオルタナティブを選択するべきか、その根拠は何か、ということについて当該の問題の専門家が議論し、何が合意できるのか、何が合意できないのか、合意できない場合、それぞれの専門家の立論の前提が変化することで合意が可能となるのかならないのかといったことを詰めていく。たとえば近年,出生前診断の普及に伴い,胎児が遺伝性の疾患を持つと診断された場合の人工妊娠中絶が増えている.このことについて国家などの権力が優生学的にそれを利用することについてはほとんどの専門家がこれに反対するという点で合意できるだろう.一方で出生前診断で胎児に障害が発見された場合,女性が自発的に人工妊娠中絶を行うことは出産に関する女性の権利(リプロダクティブ・ライツ)だと考え,胎児条項として法にそれを明記すべきとする専門家がいる.一方,出生前診断で胎児の遺伝病が判明した場合の選択的中絶は当該疾患の人々の生の価値を脅かすものであって女性個人の自己決定権であるリプロダクティブ・ライツに含めることはできないという専門家がいる.人工妊娠中絶できる条件として母体保護法第14条第1項の「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」という規定が援用され,いわば拡張解釈で実質的に選択的中絶が行われている現状に問題を認めつつも,法に胎児条項として明文化することは,国が、胎児の障害を中絶の「適応」と認めることであり,優生政策そのものであるとして,胎児条項には反対し,当面現状のままで政策変更をすべきではないとする専門家もいる.まずは合意できることとできないこと(合意できないと合意できたこと)がここで線引きされる.

 次の段階として,胎児の状況によってこの合意の境界線は動きうるのかどうか議論する.議論の分析にしばしば使われるモデルであるトゥールミンモデルにおける限定詞(主張の限界)についての議論に移っていくわけである.上記の例で言うならば,胎児条項を支持する場合でも,妊娠後期(22週以降)の胎児は母体外で生存が可能であり,この時期の中絶は新生児の殺害と線引きができなくなるとしてリプロダクティブ・ライツに含めないという見解もありうる.一方選択的中絶はリプロダクティブ・ライツに含めることはできないという見解であっても脊髄性筋萎縮症1型のような重篤な呼吸不全を伴い,ほとんどが乳児期に死亡するような,子どもにとって極めて過酷な経緯をたどる病気の場合には選択的中絶を認めるかもしれない.さらには遺伝子治療のようなゲームチェンジャーが登場すると境界は劇的に動きうる.中絶につながるという理由で出生前診断に反対している専門家の場合は,治療の可能性が開かれることでむしろ出生前診断の肯定へと変化する可能性もある(もちろん遺伝子治療の是非自体についても意見は分かれるので,この場合,議論が複雑化してしまうが・・).

このように個別事例に即した議論あるいは仮想的にはなってしまうが前提が変化した場合の議論を行うことは,むやみに議論を煩雑化してしまうように思われるかもしれないがそうではない.具体的な状況に即して合意の境界線は動きうるのであり,専門家各人の立場も可変的なものである.そのことがはっきりするのはこのような境界線の議論を行うことによってであり,初等中等教育や市民教育のカリキュラムの作成にあたっても示唆するとろが大きいと私は考えている.

なお,わかりやすくするために大きく2つの段階に分けたが,実際の議論をこの2段階で行うとは限らない.境界線的な個別事例から議論が始まるかもしれない.概念上2つの段階にわけたが,合意できること,合意できないこと,立論の前提が変化することで合意が可能となることが要素として入っていればそれでよい.