リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

コミュニケーションとメタ認知への支援 1

ではコミュニケーションとメタ認知への支援としてどんなものが考えられるだろうか。

やや項目が多く羅列的になってはしまうが、以下の4つを順次述べていきたい。

  • オルタナティブによる専門知の集約と市民による選択
  • 対抗的公共圏の創造  
  • 価値観明確化と省察
  • 人々の物語を知る  
  • 専門知と市民を媒介する専門家の存在

 

(1)オルタナティブによる専門知の集約と市民による選択

市民がトランスサイエンス問題を議論し.個人的・集団的意思決定を行う時のことを考えてみよう。たとえば原子力発電には経済性,エネルギー安全保障,安全性,世代間の平等,地域間の衡平など様々な公共善(社会全体にとっての共通の利益)が存在する。原子力発電について意思決定していくことは,これらの公共善のどれを重視し,政策として具体化していくのかという問題,つまりどのようなオルタナティブ(様々な代替的選択肢)が存在し.その中からどれを選ぶのか(ということはどれを捨てるのかということでもある)ということを公共圏(公共善について市民が対等に議論する場)で議論し、個人的・集団的に決断していく問題である。

このトランスサイエンス問題における選択の問題を考えるため,関連した教育実践として内田隆の「未来のエネルギー政策を題材としたシナリオワークショップ」を見てみよう。シナリオワークショップとは参加型テクノロジーアセスメントの一手法で、予想される未来の姿をいくつかのシナリオとして提示し、評価フェーズ、ビジョンフェーズ、現実フェーズ、行動計画フェーズの各段階を経ながら、望ましいと思われるシナリオを参加者が選択していくものである。内田は日本学術会議の「エネルギー政策の選択肢に係わる調査報告書」を元として原発について即時廃止シナリオから中心的エネルギー源として位置づけるシナリオまで5つのシナリオを設定し、生徒に討論とシナリオ選択をさせていく授業を行った。この授業では原子力政策について授業前後に自由記述のアンケートを取っているが、たとえば、ある生徒は授業前には記述なしだったが、授業後に「今後、原子力発電を増やすのか、減らしていくのかを考えていくうちに、今までは減らしていくべきだと思っていたけれど、いろいろな資料や友人の意見を聞くにつれて、そのまま現状維持という意見に自分の意見がかわってきたので、関心を持って考えたりすることがとても大切だと思った」とコミュニケーション によって意見が変化してきたことを述べている。また別の生徒は授業前には「どうせ思った通りにならないと思うし、エネルギー政策って節電くらいしかわからない」としていたが授業後には「前回はどうせって思ったけど、今は自分の意見も将来のことにつながるかもしれないって思うと、今はどうせとか、よくわからないとか言ってなげだすのはだめだと思った。わからなくても真剣に向き合うことが大切だと思った」と原子力政策に対する向き合い方についての認知(メタ認知)の変化が見られる。

ここで注目したいのはいくつかのオルタナティブ(代替的選択肢)の提示とそれをめぐる議論(グループでの議論、クラス全体での議論)を通じた意見の変化(もちろん変化しなくてもよい)という授業方略がとられていることである。トランスサイエンス問題なのだからオルタナティブがあるのが当然とも言えるが、当然とも思われるこの方略には大きな意義があると私は考える。それには二つの理由がある。

オルタナティブによる論点整理

 トランスサイエンス問題は考えるべき論点が多岐にわたり、議論を容易に整理できないことがほとんどである。アメリカの大統領に対して日々行われるブリーフィングでは、担当補佐官から、取りうる政策の選択肢(オルタナティブ)とその利点・欠点が提示され、それらを勘案しながら大統領の意思決定が行われていく。状況を容易に一望できないにもかかわらず、意思決定をしなければならない場合、選択肢を専門家が用意することによって状況を構成する論点(文脈)を簡明に整理し、意思決定支援を行うのである。同様の構図が市民教育にもあてはまると考えられる。

また「科学技術へのクライアントシップ」の章で「「意思決定を行う経験の文脈の中でその決定の基礎となる知識が学ばれていくのである。このような学習の形態であっても基礎的知識を学ぶことができる、むしろいわゆる生きた知識(活用できる知識)となる」と述べたようにオルタナティブをめぐる議論の中で、その議論で使われる知識の習得を行うことも期待できる。

②意思決定者としての市民の役割の強調 

オルタナティブが提示され、その中からとるべき道を選ぶという構成は、トランスサイエンス問題についての意思決定が専門家とか行政で決定されて降りてくるものではなく、オルタナティブの提示は専門家が行うが、意思決定は市民が行うという考え方を暗に示すことになる。上述の内田の論文で、事前に未記入だった生徒が事後では「自分の意見を伝えずに政策が可決されて納得いかない結果になったら嫌だから。伝えなくて後悔するより伝えてから後悔する方がマシ」と述べているが、これは授業を通して、原発政策の意思決定に参加する市民の権利や役割を意識するようになったことを示唆している。

内田 隆(2014): 未来のエネルギー政策を題材としたシナリオワークショップ, 理科教育学研究,55 (4),425-436