リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 5 第三段階 教材作成

第3段階(教育実践)

 第3段階は教育実践の場である.ここでは教師は地域の事情や個々の学習者の学習状況を考慮して補足することはあるにしても,トランスサイエンス問題を直接教えることは最小限にとどめるのが望ましい.トランスサイエンス問題の内容及びトランスサイエンス問題を理解するための基礎となる科学的知識自体はカリキュラムと紐づいた資料や経験の組み合わせ(印刷物、動画、専門家どうしの討論の中継、現場見学,当事者の講演やインタビュー等)によって極力提供し、教師を教授者の役割から解放し、「学習者相互及び学習者と専門家を含むトランスサイエンス問題のステークホルダーとが議論する際のコーディネートを行う」ことに集中してもらうのである。コーディネーターは単なる司会ではなく、以下の使命がある。

①寛容と信頼と責任の雰囲気の醸成

 率直で建設的な議論を行うためには、議論の参加者の間で他者への権威主義的・攻撃的・冷笑的な態度を控え、参加者が相互を尊重し、他者の考えを否定しない寛容の雰囲気を保つ必要がある。教師は議論のオーガナイザーとして寛容の雰囲気の醸成を行うことが求められる。これはトランスサイエンス問題に限らず、議論一般に求められることであるが、トランスサイエンス問題を議論する際に特に求められる雰囲気もある。それはトランスサイエンス問題という高度な専門知が関与する問題であっても、市民は自分の頭で考えることができ、行きつ戻りつしながらも、専門家も交えて皆でじっくり話し合うこと(熟議)により正解に近いものを探していける、意思決定ができるという信頼、ハンガーフォードの語を借りるならばいわば市民的公共圏への信頼である。それは裏を返せば専門家に責任を押し付けることなく市民も意思決定の責任を分かち持つという責任の感覚である。

教師はこの寛容と信頼と責任の雰囲気を議論に参加するもの全員で作っていかなければならないことを強調し、調整していくことが求められる。

②ゆさぶり この議論は正解にたどりつくことを目的とした議論ではない。議論を通してトランスサイエンス問題を考えを深めていくことが目的である。考えを深めるためのコーディネートには、ときには積極的に議論に介入し、議論を揺さぶることも求められる。議論がある特定のステークホルダーの論理に偏する形で進んでしまったり、議論を深めることなく立場の違いを追認するだけの議論(みんなちがってみんないい)に収束してしまいそうだったりという場合はその議論をゆさぶってやるのである。。たとえば大規模開発に地元住民の受容は大切だというがその地元とは何だろうか?自然保護と開発の対立を考える際、その自然とは何をさすだろうか?水田や人工林といった人の手が加わることによって成り立つ「自然」は自然なのだろうかといった疑問を投入することによって固縮しがちな思考をゆさぶり、ステークホルダーの論理の背景にある価値観を学習者に気づかせたり、学習者が自身の価値観や自明のものと思っていて意識していない前提に気づくのを助けるのである。もちろんこれはおしつけとは異なる。「自分の頭」で考えてみる、「自分の頭」で考えたことを他者との議論の中で吟味することを促すためにゆさぶるのである。

③トランスサイエンス問題のメタ科学的側面への注目 トランスサイエンス問題の教育において科学的知識を扱うことは当然である。しかし科学的知識を身に着けることがトランスサイエンス問題の教育の主たる目的ではない。トランスサイエンス問題について専門家の補佐を得ながらも自分の頭で考え、意思決定を行うことができる市民を育成することがトランスサイエンス問題の教育の眼目である。そのためには、教師は、学習者がトランスサイエンス問題についての議論のメタ科学的側面(「科学技術へのクライアントシップ」の節で述べた「科学が知識生産システムとして持っている特性」)に注意を向け、その観点からトランスサイエンス問題についてアプローチすることを促す役割を果たすことが求められる.