リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

社会・科学複合体の問題点 研究者社会を席捲するアカデミック・キャピタリズムー私にはきめられない 決める力もないー

スローターは大学をめぐる研究環境の変化が大学教員の意識や大学内の権力構造に与えた影響を研究し、1980年代以降、外部資金獲得が大学及び大学教員を動かす主要な動因となってきたことを指摘し、「大学および大学教員の,外部資金を獲得しようとする市場努力ないし市場類似努力」をアカデミック・キャピタリズムと呼んだ(1)。ややショッキングな表現ではあるが、科学技術の国家と資本への従属に対応して大学(同様のことは国立研究所など他の研究組織でも起こっている)組織内部、研究者の共同体内部で起きる変化をこの語はよくとらえている。

研究資金は競争を通じて勝ち取られるものであり、そこにはある種の疑似的な市場が成立し、勝者と敗者が現れる。勝者は単に研究資金を獲得するだけではない。研究資金の獲得は組織の内外での地位と威信を高め、ポスドク(任期付き研究員)の雇用による研究室の拡大をもたらす。研究の担い手を多数持つ研究室はそれだけ業績をあげやすく、資金供給者との関係も深まって、資金獲得競争上、ますます有利となり、それがさらに勝者(研究室主宰者)の地位と威信の上昇をもたらす。いわゆるマタイ効果(成功者はますます成功する)である。

大学もこのような「稼いでくれる」研究者は大学の威信の向上やオーバーヘッド収入(研究費の一定部分を間接経費として大学が得ることができる)の拡大につながり、優遇する。

名の売れた研究者になれば所属組織や学会の幹部になったり、審議会委員など国の科学政策に影響を与えるポストを獲得できるかもしれない。研究資金は組織や研究共同体内部での出世を駆動するエンジンのような役割を果たすのである。

競争はそもそもこういうものであり、このようなインセンティブによって業績が上がり、社会貢献ができる。これの何が問題なのかという意見もあるだろう(むしろこのような意見の方が多いかもしれない)。しかしアカデミック・キャピタリズムを抑制なく発動すれば、上記のような構造はほとんど必然的に金森の指摘した科学の変質をもたらす。研究資金を獲得し続けていくこと、それをてこに組織や研究共同体内部で職を得たり上昇していくことが主要な目的となり、そのためにも資本や国家の要求に密接によりそうことが必要となるのである。

自由で独立した探求という、実態からは離れていたにせよ、それなりに研究者を律していた理想像は崩壊し、社会―科学システム(産学複合体、産官学複合体(今後の日本では軍産学複合体も可能性としてはありうる。)の上部で研究の大きな方向性が定められることになる。

少し余談になるが、国立大学教員としての私の経験から言えば、大学が純粋に学術上の必要から要求する基礎科学の経費であっても、ある程度大きな装置(といっても数千万円程度)であれば、学内審査が行われ、文科省の審査で通りそうかどうか、つまり文科官僚に取り上げてもらえそうかどうかということを考えながら予算要求が行われる。文科省文科省財務省に取り上げてもらえそうかどうかを考えながら審査を行うそうである。では財務省は何を気にしているかということまでは分からないが、おそらくメディアとか時の政権の意向なのだろう。研究者が主導権を持つはずの基礎科学でさえ政府の意向を忖度しながら、お金の使い方、すなわち研究の方向性を決めていくのである。

話を戻そう。産学複合体に研究共同体が組み込まれると、共同体内部の構造も変質する。権力や資本と密接な関係にある指導的科学者が上部に位置するピラミッド構造は一種の研究企業のようになっており、そこで働く研究者は自律性を制約され、自分の仕事の方向性を自分で決めることができない研究労働者になる。原子力研究者で原子力発電の危険性を主張する研究者(たとえば京都大学小出裕章や都立大を辞して原子力資料情報室を立ち上げた高木仁三郎)や東大の宇井純のように公害に対する化学工学の責任を主張した研究者は科学技術のヒエラルキーから弾かれていく。ここに挙げた人たちは、覚悟を決めて自らヒエラルキーから外れ、それによって自らの志を守った人たちである。しかしほとんどの研究者は自分や家族の生活を守るために沈黙せざるを得ないだろう。

ピラミッドの高い位置にある指導的研究者も研究の自由を必ずしも持っているわけではない。研究のネタは科学自身からしか出てこないので、それを見つけ、その可能性を売り込む段階において研究者の自律性は大きい。しかし、それが萌芽期を過ぎ、産業化段階となってプロジェクトとして動き出すと研究者の自律性は後退する。プロジェクトを動かすシステムがそれ自身の慣性で動き続ける。大きな資金が投入されることによって関係者との間に固着した利害関係ができあがり、研究の方向性に問題があることがわかってきても、簡単には止められないのである。   

たとえば高速増殖炉である。高速増殖炉は開発当初から大きな問題が指摘され、筋(すじ)が悪い、このまま進めていくと危ないと指摘され、実際、研究開発の段階で多くの事故を起こし、開発が一向に進んでこなかった。ところが国の科学技術計画の中で常に重点項目として指定され(たとえば第3期科学技術基本計画では「国家基幹技術」と指定されている)、巨額の研究費が注ぎ込まれてきたのは、宇宙開発と原子力を2枚看板として科学技術政策を進めてきた科学技術庁(現文科省)、原子力立国を掲げて軽水炉から高速増殖炉への置き換えを計画してきた経済産業省、使用済み核燃料の処分を核燃料サイクルの形で先送りすることができる電力業界、「総合エネルギー戦略」という形で官と産を取りまとめてきた自民党といった政官産の巨大なステークホルダーが絡みあいながら研究者を取り込み、高速増殖炉開発を後押ししてきたからに他ならない。同様のことは、高コストで14機しか売れず、ほとんど開発当事者の英仏以外に普及しなかった超音速旅客機コンコルド、ねらいとしたコスト削減が実現せず、一方で機体事故率40%と史上最も危険な有人宇宙船となったスペーシャトルなどについても言える。指導的科学者・技術者であっても国や大企業が大規模に資金を投入してくる場合、「大型事業の指導者ではなく使用人である場合が多く、一般的には意思決定に際してわき役にとどまる」(吉岡斉 科学技術批判のための現代史研究)のである。この意味で指導的研究者もまた産学複合体や産官学複合体の中の一つの小さな歯車にすぎない、

このような事情の中で、大学は、自律的でそれゆえ世間の風向きとは無縁でいられた「象牙の塔」とはもはや言い難い。特に理工学系においては、外部からの研究資金を燃料として回り続ける研究企業の集合体の様相を呈している。それらの研究企業はその研究を通して産学複合体に組み込まれ、研究企業の現場を回している研究者はもちろん、研究企業のリーダーも、一度回り始めた研究プロジェクトについて、その方向性を左右する力には乏しいのが実態である。

プロジェクトが良好に進捗する場合、このことに大きな問題はないかもしれない。しかしプロジェクトがそもそも筋(すじ)の悪いもの(これは事後的、つまりやってみなけれ

ばわからないことが多い)である場合、研究者は微妙な状況に置かれる。離脱することは可能であろう。しかし、それは、国や産業からの研究資金の流れが止まり、それにより駆動していた研究室(研究企業)が機能停止する危険を覚悟の上でのことである。それができる研究者は稀であろう。

離脱まではいかなくとも、多少の軌道修正はできるかもしれない。有害廃棄物が出てくる工程があれば、その廃棄物を処理する技術を開発したり、危険が予想される場合にはそれを抑制する技術を開発したりという具合に、根本の科学技術は変えないで、末端の技術的改善によって、のりきろうとする、いわゆるエンドオブパイプ・テクノロジ ーである。しかしこれはコストがかさみ、根本が変わらないので、問題の解決には至らないことが多い。原発の安全を確保するために、原子炉緊急停止系、非常用炉心冷却といった大規模な安全装置を付加して、外付けで安全を確保しようとして、結局福島やチェルノブイリに見られる大きな失敗をしてしまった原発技術はその好例である。

居直りあるいは思考停止という可能性もある。自分の組み込まれている利益共同体(産学や官産学複合体)に自己同一化し、その利益共同体の利益を公益と思い込み、主張する。福島第一原発の事故の際に、プルトニウムの毒性は食塩より低いとテレビでいってのけた原子力工学の研究者がいたが、ここまでくると、学問とか研究とか大学とかの存在意義、公費が投入されることへの意味も問われかねない。本当の意味での有用性、すべての人々の福利を改善するという目的が後景に退いてしまい。もっぱら特定の領域に形成された利益共同体の利益(もっとはっきり言えば利権)が主要関心事となってしまっているのである。

以上述べたことは極論かもしれない。深宇宙観測や考古学のように産業応用とほぼ無縁であっても大きな研究資金が投じられている分野もあるし、科研費という学術上の意義が重視される外部資金がかなり大きな資金源となっている事情もあるからだ。しかし全体として研究者が資本や国家に取り込まれ、その歯車の一つと化している状況は否みがたい。

これらのことから言えることは、アカデミック・キャピタリズムが大学や研究機関を広く覆っている現在、産業応用や国益増進への錦の御旗が掲げられ、研究に大きな資金が投入され、国や資本が動き出してしまえば、その方向性が間違っていても、具体的には大きなリスクを社会に与えたり、できもしない目標にいつまでもしがみついて巨額の資金が無駄に使われたりということがあっても、研究者がそれを転換するような影響を与えることは、原爆開発にかかわった研究者が原爆投下に反対しても一顧だにされなかったように、非常に難しいということである。もちろん研究者でなく、官僚、政治家、産業指導者が研究プロジェクトの破棄を含む軌道修正を適切に決定できるのなら、それでもよいだろう。しかし後で述べるようにそのようなことは期待しがたい。

少し次章、次々章を先取りしていうならば、期待をかけるべきは、国家でも資本でもない「地域」と「公共」に軸足を持つアクターとしての市民、NPO、当該分野に利害関係のない研究者(対抗的専門家になりうる研究者)の連帯だと私は考える。どのような期待をかけるのか、どうすればその期待を実現できるのかについての私の考えはしばらく後で述べることとし、以下では社会・科学複合体の持つ問題点についてさらに述べてみたい。