リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

教師の役割転換 公共圏のコーディネーターとしての教師の役割とそれを支えるしくみ 1

教師への支援の必要性についてもう少し述べてみたい.一般的に言って政府見解(ここでは、各種基本計画・方針など政府から公的に発信された言説一般を政府の見解と考えておく)が教育を通じて国民へと下りてくるという構造は好ましくない。しかし現実には、教育、特に初等中等教育の場では、政府見解は、他の言説とは一線を画され、実質的に「権威ある「正しい」言説」とみなされることが多い。文科省教育委員会という行政ルートから降りてくるということが背景にあることはもちろんだが、トランスサイエンス問題を扱う際の、いわば安全策が政府見解であることも大きいと私は考える。教師は授業のため教材研究を行い、授業の中で何を扱うか(教育内容)、どんな順序でどのように扱うか(教育方法)を設定する。この際、ガイドラインとなるのは教科書や既存の教材,先行する教育実践だが,トランスサイエンス問題についてはそのようなリソースは極めて乏しい.またトランスサイエンス問題には対立点を含む様々な言説があるが.授業で取り上げる言説については、「なぜその言説を選択したのか」の理由を教育者は説明する(説明責任)、少なくとも説明を考えておく責任がある。もっと端的に言えば、「偏向ではないか」、「なぜこの考え方を取り上げ、そちらの考え方は取り上げないのか」といった潜在的・顕在的クレームにどう返答するのか備える必要がある。そんな時便利なのが政府見解である。政府という権威ある情報源が知るべき情報を整理し,情報の中立性や信頼性を保証しているということで教材を探すしんどさを軽減できるし,説明責任は政府につけかえることができるからである。東日本大震災前にほぼ原発推進一色の原発副読本がさしたる抵抗なく教育現場に受容されたのは、教育現場が副読本は政府(文科省資源エネルギー庁)見解と受け取ったことが大きいと思われる。

こう書くと教育現場や教師の責任逃れを指摘しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。教育の中で取り上げるべき様々な問題があり、一つの問題についても数多の言説がある。その中で各問題について有力な言説は何か、言説間で何が相違点で何が一致点なのかといったことについて的確に判断することを個別の教師に求めるのは無理がある。何かのよりどころを求めるのは当然であろう。

問題は教師のスタンスにあるのではない。教師が適切な支援を得られないまま、トランスサイエンス問題を扱わなければならない現在の教室のしくみを問題と考えなければならない。

ではこの状況を何かしら改善していくことはできるだろうか。上述のシナリオワークショップやコンセンサス会議を模した教育実践などトランスサイエンス問題を扱った教育実践は行われているが,共通するのは教師の役割を教授者からコーディネーターへと変換していく志向性である。私はその志向性をさらに進め、

①互いに対抗する言説(オルタナティブ)の内容の伝達と,それぞれの言説の相違点,共通点を示す役割をその問題の専門家どうしの対話にゆだね、教師の役割を,伝えるべきトランスサイエンス問題の選択と,生徒が専門家同士の対話に対するメタ的な視点を獲得することへの支援に特化させていく

②教育現場や市民啓発の場と科学の専門家をつなぐ「媒介の専門家」(小林傳司の論述

(1)からヒントを得てこの言葉を使っているが、小林の使い方よりも狭い意味、教育・啓発の場における専門家と教師・児童生徒、専門家と市民をつなぐという意味で使っている)により設定される専門家どうしの対話の場で教育実践や市民啓発の場に提示するオルタナティブを選択し,事前の論点整理を行う

というしくみを作ることが有効ではないかと考えている。

(1)小林 傳司(2010):社会のなかの科学知とコミュニケーション, 科学哲学、4,33-45,