リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

開かれた公共圏としての教室とコーディネーターとしての教師

資源エネルギー庁文部科学省が共同で発行した「チャレンジ!原子力ワールド」という中学生用向け副読本(1)がある.2010年発行なので,福島第一原子力発電所事故の直前の発行といってもよい.この副読本では放射性物質の危険性に触れてはいるものの,そのすぐ後で「万一、事故発生という事態になっても周辺環境への放射性物質の放出を防止できるよう、何重にもわたる安全設計を行っています.」等と原発の必要性と安全性が力説されている.津波に対しても「大きな津波が遠くからおそってきたとしても、発電所の機能がそこなわれないよう設計しています」と記述されている.事故後,この副読本は現実とあまりに乖離した原発宣伝だとして批判され,回収された.事故とその影響の巨大さを考えれば,文科省経産省は,学校教育を政府の原発宣伝の場としてきたという批判を甘受するべきであろう.

しかしここで強調したいのは,この副読本の記述の妥当性の問題ではない.確かに第一原発事故後の現在から見ればこの言説は端的に間違っていたが、それ以上に問題なのは、次の2つの点にあると私は考える.

①「正しい」言説の提示と権威づけ 

トランスサイエンス問題において「正しい」言説はありえない.「正しい」言説はありえないからトランスサイエンス問題になっているのだと言ってもよい.原発は典型的なトランスサイエンス問題であり,安全性についても,コストについても,エネルギー源としての持続可能性についても競合する多様な見解がある.にもかかわらず,「放射性物質の危険性の問題はあるにしても,原発は基本的に安全であり,エネルギー安全保証と地球温暖化対応のために原発は不可欠である」という言説が「正しい」言説として提示されている。ある中学校の事例紹介がなされ,その中で、ディベート中の意見という形で原発への批判があることが触れられてはいるものの,それは刺身のツマにとどまっており,全体として国の政策である原発推進論をほぼそのままなぞった形になっている.

資源エネルギー庁経済産業省)と文科省が発行したという体裁をとることによって権威付けが行われていることにも問題がある.文科省としては検定のような明白な権威づけをしたものではなく,教育現場の参考となる資料を提示しただけだというスタンスなのかもしれないが,教育現場はそのようにはとらえない.文科省の考え方がこの副読本に示されていると考えることがむしろ自然であろう.なにしろ文科省が発行しているのだから. 

文科省は政府の一部ではあるが,政府の政策を教育内容として学校に下ろしてくることには極めて慎重になるべきだと私は考えている.「民主的に選ばれた政治家によって統治され,国民の信任を受けた政府の見解を学校で教えることの何がいけないのか,これこそ民主的なことではないか」と考える人もいるだろう.その方が多いかもしれない.しかし私はそうは思わない.民主主義社会の政策形成は,問題を考えるのに必要な情報をもとに,他者の思惑にできるだけ制約されない自由な議論が行われることが前提となっている.この前提に立つ教育こそ民主主義の健全性を保つ教育である.しかし教育が政府の政策を教育内容に翻訳して権力サイドの情報をもっぱら流すようになってしまえば,教育は権力サイドの言説を強化し,そのことによって権力を強化し,それがまた権力サイドの言説を強化する正のフィードバック回路の一部となってしまう.それが典型的に見られるのは政権の偉大さと正当性を教化する使命を持った独裁国家の学校である.

権力のプロパガンダである独裁国家の学校を理想だと思う人はほとんどいないだろう.そうであるならば.民主主義国家の学校は「公正・中立」な「正しい」考え方(それはしばしば政府の考え方である)を教える場ではなく.「制度的な「政治空間」(他にも市場やメディ アという公共圏もある )においてなされる「決定」に対して 、異議申し立て 、疑義、問題提起、反省・再考の促し、対案の提案を行う」(2)多様な対抗的言説(オルタナティブ)に対しても開かれた議論のアリーナ,公共圏となることこそが望ましい.

オルタナティブの貧困

副読本では学習のまとめとして原子力発電を増やすべきか減らしていくべきかディベートを行うことになっている。しかし少なくともこの副読本を扱うだけでは生産的なディベートは成立しないだろう。一つの理由は、地球温暖化対応、エネルギー安全保障、安全性、核燃料サイクルなどそれぞれにかなりの分量の説明がなされているが、ほぼ一方的な原発推進の言説に満ちており、普通に読めば原発は必要で今後増やしていくべきという結論にしかならないことである.

もう一つの理由は「オルタナティブの貧困」とでもいうべきであろう.ディベートを行う以上,双方の主張の根拠資料が提示され,「非現実的ではないか」,「コストがかかりすぎるのではないか」,「地域間の公正を阻害するのではないか」等のように双方が相手の主張を吟味し,その過程を通して,何が対立点なのか,何が合意できる点なのかが明確になっていく必要がある.

特に大事なのは,原発依存度の削減または原発廃止をしていくことと,地球温暖化対応しながら必要な総エネルギー供給を確保していくこととが両立できるのかできないのかという,原発に対するオルタナティブなエネルギー政策のポイントとなる問いとそれをめぐる定量的な議論である.

しかし,原発については,原発推進の根拠となる資料がある程度提示されているが,代替手法については、具体的なオルタナティブ省エネルギーも含め,どんな発電を使えば原発をどの程度代替できるのか,それはどのように進められていくの)が示されないまま,様々な発電方法の利点と欠点が列挙されているのみである。たとえば風力発電については,その発電原理を紹介し,その後

風力発電の特徴

・自然のエネルギーを利用するので、石油などのように資源がなくなる心配がありません。

・電気を作るときに二酸化炭素を出しません。

・たくさん発電するためには広大な風力発電機の設置面積が必要です。」

とその特性を述べているが、これだけである.記述は少なくかつ定性的で、これでは上記の議論は行いようがない。

もちろん紙幅の問題はあるし、この副読本だけでエネルギー教育を行うわけではない。しかし、そもそもこの副読本の目的は,「自分たちの国でどのようなエネルギーをどう使うのかについて私たち一人ひとりが考える必要があります。将来、みなさんが大人になったときに、「あなたはどういう選択をしますか」という判断を求められる機会が必ずやって来ます」と副読本自体の中に述べられているように、市民に政府のエネルギー政策を理解してもらうのではなく、エネルギー政策に関する市民の意思決定(あなたはどういう選択をしますか)の基礎を培うことにあるはずだ。別の言い方で言えば,選択を可能とする公共圏を教室の中に創造することである.そうだとすれば,副読本に見られる,このオルタナティブの貧困または排除というべき風景は,「あなたはどういう選択をしますか」という自らの問いに応える誠実さの欠如と考えるほかないだろう.

 

 以上、長々と特定の書籍の批判を行ったのは、この副読本が、教室を公共圏としようとする際の格好の反面教師となるためである。教室を公共圏とするためには、「「正しい」言説の提示と権威づけ」、「オルタナティブの貧困」ではない方法で様々な言説が語られなくてならない。その実現のために教師を、児童生徒を、あるいは初等中等教育の枠を超えて市民を支援する必要があるだろう。

その必要に対応するものとしてすぐ思いつくのは,教室に提供される言説をより多様に、より豊富なものとし、言説の提供者についても多様化を進めることである。しかしこの方向性を単純に推し進めることは、提供される側の負担が重くなりすぎるという難点がある。判断のポイントを把握できないまま、多量の情報を浴びせかけられると、人間は判断自体を放棄したくなる。そうならないために教師(市民の学習の組織者まで広げて考えれば教育者とした方がいいかもしれない)は論点を精選し、言説間の共通点・相違点を整理するゲートキーパーの役割を果たす必要があるが、そのようなことを行うためには、そもそもトランスサイエンス問題にかなり精通しておいてもらう必要がある、それもまた現実的ではない。言説の多様化・豊富化はゲートキーパーとしての教師への支援を伴って行われるのでなければ、かえって混乱をもたらすことになりかねない。ではその支援をどのように行えばよいのだろうか.そのヒントは教師(市民の学習の組織者まで広げて考えれば教育者とした方がいいかもしれない)の役割の転換と専門知を媒介する専門家の教育への関与にあると私は考えている。以下、それを述べてみよう

(1)中学生のためのエネルギー副読本「チャレンジ! 原子力ワールド」企画制作委員会

(2010):文部科学省経済産業省資源エネルギー庁

平川 秀幸(2004):科学技術論と社会学とのコラボレーションに向けての論点提起, フォーラム現代社会学, 3, 70-72