リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

社会・科学複合体の問題点 民主主義の目詰まり

ベックは現代社会の分析に有用な様々な概念を提示したが、そのうちの一つがサブ政治という概念である(1)。近代社会において経済や科学技術が民主的統制の範囲外となり、政治が科学技術やグローバル経済にかかわる諸セクターが生み出すリスクをコントロールできなくなってきている状況、諸セクターが政治のコントロールを離れて半ば自律的に作動することをさす概念である。議会制民主主義の機能不全を指摘した概念と考えることができるだろう。

議会制民主主義に基づく政治は、議員として選出されてくる人々(立法府) が、社会の安危にかかわる問題、社会の方向性にかかわる問題に対して国民を代表して議論し、その議論の結果である法律が行政府を通じて執行され、国民の福利を向上させる、あるいは少なくとも福利を危険にさらさないように問題をコントロールできることを前提として成り立っている。しかし大学、企業、研究機関(政府自身の研究機関を含む)が日々生み出す科学技術やそれによる新しい人工物がリスクを生みだしているとしてもそれを政治が逐一モニタリングすることはほぼ不可能である。

リスクとして意識されるようになってきたとしても、そのリスクを生み出す産業や科学技術が社会に根を張り、社会―科学複合体が形成され、経済活動の重要な一貫をなすまでに成長すると、政治によるコントロールは難しくなる。プラスチックが自然分解されずに海洋等に蓄積されることが自明であるにもかかわらず政治が有効な規制を打ち出せず、レジ袋の有料化という弥縫策にとどまっているのはその好例であろう。では政府の関与が不可欠ならば、政治がコントロールすることができるかといえば必ずしもそうではない。日本やフランスにおける原発アメリカにおける兵器開発に典型的に見られるように、行政府(狭義の政府)が産業や研究機関と強力な相互依存関係を築き上げている(社会―科学複合体)場合には、政治家や政党にとってその複合体と対決することは政治的なリスクとなるが、複合体の利益に沿うよう行動すれば(複合体の一員、つまり族議員となれば)、複合体からの支援をあてにできる(票と金)。複合体を政治の力により強化すれば、一層の支援が特定の政治家や政党に集中し、政治家・政党が政界内で大きな力を得ることができる。このようなしがらみが一度形成されると、政治家はそのしがらみに足を取られ、民意を実現するのが政治ではなく、複合体の利益を実現するのが政治ということになってしまう。政治が主体となって問題解決を行うことが期待できなくなる。むしろ政治が問題の一部となる。

この傾向は議会制民主主義における政治につきまとう2つの限界、

①政策パッケージによる政治家や政党の選択(投票)

②短期利益が長期利益に優越する傾向

によってさらに強化される。

まず①について述べてみよう。

国立環境研究所気候変動リスク評価研究室の報告書「地球規模の気候リスクに対する人類の選択肢」(2)にはこんな一節がある。「競争的民主主義では、投票を行う際に気候変動リスク管理が争点にならなければ、投票時に有権者は立候補者の気候変動リスクに対する考えを知ることが困難である。そして、他の争点に関して国民の信を得た政治家が、気候変動リスクに関して信を問うこともないまま判断を下す可能性がある。」

これは気候変動リスクに限らず、ほとんどあらゆる問題にあてはまる。議会制民主主義では議会において多数を占める政党が「選挙により信を得た」として政権を握り、政策を具体化していくが、選挙の争点とならなかった問題についての国民多数の意見と政権の政策が食い違うことはしばしば発生する。民意と政策が乖離するのである。科学技術に関する問題でいえば、ほとんどどの世論調査を見ても原発を縮小・廃止という意見が多数であるが、政府が基幹電源として原発を維持するとしているのがその例になるだろう。

自民党にしても立憲民主党にしてもその政策のほとんどを支持するようなコアの支持層がさほど多いわけではなく、各個人は政策ごとに賛否を選択している。このような状況においては「医療、福祉、環境問題などに関わる多様な個別的論点に関心を持つ人々が生まれており、その人々の利害は従来の会社、労働組合といった制度への帰属と対応しなくなっているのである。したがって、政党はそのような諸制度の利害をもとにした政策パッケージによっては、これら分散化した利害を吸収できなくなっている」。これは一面では政党の枠組みに吸収されない市民運動を喚起することにはなっているが、一面では政党が市民の意見を吸収し、市民の代理となって政策を遂行していくという議会制民主主義が機能しにくくなっていることでもある。民主主義が目詰まりを起こしているのである。

②短期利益が長期利益に優越する傾向

ちょうどこの原稿を執筆している2020年8月に、北海道寿都町が核廃棄物最終処分場受け入れに向けた文献調査に応募する方針を表明した。その理由は20億円の交付金により町の財政危機をしのぐことだという。もちろん財政危機を回避することは必要だが、すくなくともメディア報道からは10万年間の長期間にわたって核廃棄物を貯蔵することへの覚悟は伝わってこない。当座の財政危機への対応という短期の視野が10万年の長期保管という長期の視野を圧倒しているように見える。実は核関連施設の受け入れはしばしばこのような短期的視点でなされている。元敦賀市長が1983年に行った講演で「短大は建つわ、高校はできるわ、五十億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これもいま、あのカネで計画しておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の街づくりが出来るんじゃなかろうか」「50年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今は(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか・・・」と述べているのがその端的な例である(4)。短期的でその日暮らし、今が、現世代がひとまず豊かになればよい。未来世代がどうなろうとそれは他人事なのである。もちろんこれはかなり極端な事例ではある。しかし目の前の受益が今は目に見えない未来の受苦よりも優先されること、現在世代のニーズを満たすために未来世代のニーズを顧みないことは、たまり続ける核廃棄物をよそ眼に福島第一原発の事故まで原発を拡大し続けてきた日本の国家政策にもあてはまる。だれが見てもわかりきった問題について先送りし、放射能漏れなどの問題が起こるたびにもぐらたたき的に処理され、組織の改廃など目先を変えることによって乗り切ってきた。「軋轢を解決しようとするのではなく、一時的にそれを避けようとし、そのためにはいかなる方法でも用い、それによってかえって多くの混乱を来るべき将来に蓄積する結果になることをも辞さない」(5)という当座しのぎの対応が繰り返されている。

政治に本来期待されるのは、政治の場でなければできない大局的な合意形成を行い、それに基づいた長期的なビジョンを示すことである。しかし逆に政治が目の前の短期的問題(明日の選挙はそれに左右される)にこだわり、票にはなりにくい長期的問題は先送りするか官僚機構に丸投げしてしまうことが中央政府でも地方政府でも常態化している。政治が決めるべきことを政治が決めていないのである。ここにも民主主義の目詰まりが起きている。

 

(1)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(2)国立環境研究所 、「地球規模の気候リスクに対する人類の選択肢」、https://www.nies.go.jp/ica-rus/report/version2/index.html 

(3)小林傳司(2007):「トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ」、NTT出版ライブラリーレゾナント

(4)内橋 克人(1986):「原発への警鐘」、講談社

(5)オルテガ・イ・ガセット(1995):「大衆の反逆」、筑摩書房

2 組織の慣性―もう決まったことだー

 

 大きな組織には一種の慣性(現在の運動状態を続けようとする性質)がある。慣性はとりわけ巨大な官僚組織、つまり国や都道府県といった行政組織において著しい。科学技術政策もその例外ではない。というよりも、長期にわたる投資や安定した制度が必要であるため、典型的に大きな慣性を持つ政策であるといえるだろう。

慣性には善悪両面がある。ある分野に長期的・計画的に投資を行い、その分野を支えることはたとえば宇宙開発や海洋調査を大きく進展させることになった。その功績はほとんどの人が認めるところだろう。また一方で、何回も使う用語だが「筋の悪い」分野に資金・人材を大量に注ぎ込んでしまったために引き返せなくなってしまったり、過去に決めた方針に引きずられて機動的な意思決定ができず、事態を悪化させてしまうことも起こる。前者の典型的な例は高速増殖炉であり、後者の典型的な例は水俣病であろう。

このような悪い意味での慣性が働いている例を見てみると、そこには「無謬性の神話」と「政策の自己目的化」という共通の特徴があるように思われる。

「無謬性の神話」とは、官(政府)は無謬(誤らない)という前提に立った思考のことである。官僚は自分が決めたことであれ、前任者や上司が決めたことであれ、一度決めた政策の誤りを想定もしないし、議論もしない。誤りが明白になってきてもそれを認めない。大雑把に言うとこういうことである。原子力政策やダム建設などの国土開発、公害病への対応など行政機関の問題点が指摘されている事例のほとんどにあてはまることであるが、とりわけ悲惨な結果がでるのは保健行政の誤りである。ここでは、イギリスにおける変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(VCDJ)について見てみよう(1)(2)。

 VCDJは、クロイツフェルトヤコブ病(進行性認知症、運動失調等を呈し、発症から1年~2年で死亡する致死率100%の神経難病)の一種である。原因は、狂牛病に罹患した牛の神経組織を食べたことによる異常プリオン蛋白の侵入である。イギリスでは狂牛病の牛が爆発的に増加したことから、人間への感染の懸念が広がり、その可能性を検討するサウスウッド委員会が1988年に組織された。サウスウッド委員会が「人間への感染の危険性はありそうにない」という報告を1889年に行ったことで政府は牛肉を介した狂牛病の人間への感染の可能性を否定し、イギリスの牛肉は安全であると宣言した(小林傳司)。しかし現実には100人以上の人々が牛肉から感染したVCDJにより死亡し、1996年には保健相が「発病の原因が狂牛病に感染した牛肉であることを否定できない」と表明して、政府は安全宣言を撤回した。

経緯からするとサウスウッド委員会の報告に責を求めるのが妥当なように思える。しかし、サウスウッド委員会は感染の可能性を否定したわけではない、「人間の健康に何らかの影響を与えるとはほとんど考えられない。しかしながらこういった見積もりの評価が誤っていれば、結果は大変深刻なものとなるであろう」と感染の可能性を留保しているのである。政府への情報源はサウスウッド委員会だけではなかった。政府自身がその後組織した海綿状脳症諮問委員会は1990年に「現在の知識の下では人にリスクを及ぼさないと明確に述べることは妥当ではなく、またゼロ・リスクを主張することも適切ではない」と政府に伝えている。同年、委員会は主席医療担当官あてに作成した牛肉の安全性に関する文書でくず肉の危険性を示唆する文言を盛り込んだ。しかし農漁業食糧省(MAFF)の反対により、この「最も感情を刺激する可能性のある」文言は削除され、その後もMAFFは人間への感染の可能性を明確に否定し続け、イギリスの牛肉は安全であり、それは科学的な証拠に基づいていると、一貫してゼロリスクを主張しつづけた。 

もちろん、肉にはかならず末梢神経が含まれているのだから、牛肉を使う限り、リスクを完全に排除することはできないだろう。MAFFとしては牛肉を介したVCDJの発生を認めることがイギリスの畜産業の壊滅につながることを懸念したことは理解できる。しかしリスクの存在を認め、国民にもそれを誠実に伝え、脳除去の手法の改善など可能な限りのリスク低減策をこうじることはできたはずである。事実大臣自ら脳除去の手法への疑念をMAFF内では提起していたことも明らかになっている。 

しかし政府は、一度ゼロリスクを宣言してしまったために、リスク低減の規制の導入がゼロリスクへの疑念と政府への不信をかきたてることを恐れ、つまり政府の無謬性にこだわって、国民にも伝えず、ほとんど無策のまま時を過ごしてしまった。多数の死者を出し、政治的危機にまで発展してようやく感染の可能性を認めたのである。早いうちに誤りを認め、政策を変更していれば、犠牲者を減らし、畜産業への打撃も最小限に抑えることができたのではないかと思われる。VCDJは「無謬性の神話」が政策変更の余地をなくしてしまい。結果として大きな禍をもたらした典型的な事例といえるだろう。問題に対処すべき規制当局が問題の一部となってしまったのである。

「政策の自己目的化」は一度決めた政策について、政策遂行が目的と化し、政策の有効性とか政策の目的が後景に退いてしまう、つまり本末転倒が起こることを指す。

典型的なのが原子力、巨大ダム、兵器といった人工物やテクノロジーの開発の際に見られる。いったん開発目標が決まると、巨額の追加費用が発生したり、大きな事故が起こってスケジュールが大幅に遅延したり、行く手に大きなリスク(たとえば暴走する原子炉、核戦争)があっても、当初の目標を変えることなく突き進む。私企業の場合ならばコストと利潤のバランスという一種の歯止めがあるが(だから東芝原発から撤退しようとしている)、国家の場合はそのような歯止めはない。ラベッツは、超音速輸送を例として「ある技術革新が、技術的観点からは危険が大きく、採算がとれるかどうかも疑わしく、誰にとってもてはなはだ有害であり、法的・政治的にも問題がある、とわかっていても、その技術革新が国家威信に貢献し、重要産業における雇用と士気を維持する上で重要ならば、国家から膨大な資金を受げ取ることもある」、「プロジェクトの費用と利益を計算する際に、法律的に責任を問うことのできないあらゆる費用-特に自然環境や人間環境の悪化が無視される。」と述べ、そのようなテクノロジーを「暴走するテクノロジー」と呼んだ(3)。これは政策遂行のためにどのような犠牲も厭わないという意味で政策の自己目的化の極端な例だといえよう。私は日本でいえば高速炉や核燃料再処理がこれにあたると考える。

 

「無謬性の神話」と「政策の自己目的化」は単独ではなくしばしば対で現れ、相互強化する。政策の結果が政策の目的から乖離してきたり、副作用が出てきた場合、政策そのものには誤りはない(無謬)のだから、解離や副作用を人や資金の追加投入によって克服しようとすることは正しいことだし、場合によっては隠蔽や虚偽も正当化される。何しろ政策は正しいのだから。

しかしそうやって深みにはまっていくといつしか政策遂行自体が目的となっていき、政策は柔軟性を失い、政策本来の目的は政策を正当化するための添え物、刺し身のツマのような存在となっていく。外部からの批判、内部からの告発も行われるが、それを封じ込め、築き上げてきたものを失わないようにするため、ますます無謬性の神話が強化されていく。

この悪循環が続くと、政策は「裸の王様」化していき、その破綻があらわになってくるのである。

 

最後に、この節で述べてきたこと、つまり科学技術における責任なき支配、想像力の縮減、組織の慣性といった官僚機構や産業は自らその宿痾に抗して政策変更を行うことができるのだろうかということを考えてみよう。結論から言えば、外部からの強制、つまり強力な政治や世論の力が作用することなしに官庁や産業みずからが政策変更に乗り出すことはおそらくほとんど期待できないと私は考える。その理由は3つある。

①利権共同体の権力 これはすでに何回も述べていることであるが、政策を進めていく官庁や政策遂行から利益を得ている産業、研究機関などが国費の使用、研究費の調達、天下りの確保といった組織の利益につながる強い人的・資金的ネットワークを築いており、利権を脅かす政策変更には頑強に抵抗する。

②先送りによるリスク回避 官庁や大企業のような大きな組織の内部では「政治的・組織的文脈においては継続的関与は、撤退よりもより容易でより危険が少ないように見える。たとえそれが実際にはより困難で、より危険であったとしても」(4)という力学がはたらく。政策変更を提起することは、たとえそれが組織の長期的利益につながるものであったとしても組織内での摩擦を引きおこし、担当者にとっては大きな個人的リスクとなる。個人にとってはその在任期間中に政策変更の提起を行わず、先送りにすることがリスク回避策となる。

③官僚による界面の支配 これはあまり論じられていることではないので、少し詳しく論じてみよう。新型コロナ政策に見られるように、政治が意思決定を行う際には、専門家(主として研究者)の意見を踏まえることが求められている。しかし専門家はそれぞれの分野の知見を踏まえた政策提言はできても異なった分野間の意見調整はできない。そもそも専門家は自らの専門分野で答えることのできる問いを設定し、それに応答する定式化されたプロセスを構築することでその問いに答えているからである。エネルギー問題のように、因果関係が複雑に入り組み、多様な専門分野、多数のアクター間の相互作用が交錯する問題(悪構造の問題)については、専門家の意見を踏まえながらも政治がその時々のかじ取りをしていくほかない。しかし政治の扱う課題が外交、経済、医療、教育。環境等々と多岐にわたる以上、問題の交通整理を行い、意思決定をサポートするスタッフが必ず必要になる。アメリカの場合、それは民間から任用される補佐官であり、日本(に限らずほとんどの国においても)ではキャリア官僚である。

これ自体は必然的なことであるが、そこに官僚の権力が生まれる。官僚は専門家と政治を取り持つ存在である。事務局という立場で議論を整理するが、多くの場合、それは整理という語感から連想されるような中立的なものではない。議論の背後で落としどころに向けた絵を描いているのである。有限の時間内で議論を収束させるために行っているのではあるが、落としどころには官僚の所属組織やその組織の関連業界の意向が働き、その利害が反映することがまれではない。原子力委員会事務局は、2012年に、使用済み核燃料の処理のコスト試算を行ったが、その際、直接処分をすると、再処理事業にこれまでかけてきたコストが無駄になるからという論理で,そのコスト、つまり再処理事業に費やしてきたコストを直接処分にかかるコストとして計上するという操作を行って,直接処分のコストが再処理のコストよりも高くなるという資産を行った(2012年の算出、これはあまりにも露骨な操作であったために、委員に指摘され再計算した結果、直接処分のコストが再処理を下回ると、算出結果が逆転した)(5)。この類のことはエネルギー政策の分野では多数見られるが、他の分野でも同様であろうことは想像に難くない。しかし官僚は黒子であり、その存在が見えない。政策選択を実質的に左右する存在であるにもかかわらず、責任はとらない。責任をとらずに自在に政策を動かす見えない権力が作動し、官僚と業界の利益を脅かすような政策変更を阻んでいるのである。

コロナについても同じ力学が働いているのではないか。感染症の専門家が集まる専門家会議では、専門家の意見がまとまりやすく、その根拠も明確である。政府がそれを無視することは大きな政治的リスクとなる。しかし現在の新型コロナウイルス感染症対策分科会のように経済学者やメディア、知事など多様なメンバーが関与し、それぞれが根拠を持つ異なる立場からの立論が交錯するということになると、どの立場を選択してもそれなりに根拠を持つことになり、政策の正当化が可能である。官僚の黒子としての力はむしろ大きくなるのではないだろうか。多様な意見を政策に反映することはかならず必要であるが、それが有効にはたらくためには、官僚によるコントロールに陥ることをを警戒する必要がある。むろん実務担当者としての官僚の意見を聞くことは必要であろう。しかしそれは顔の見えない黒子としてではなく、実務担当者の立場としての参与であり、最終的な決断と責任は政治にあることを明確にしておかねばならない。

 

科学技術にかかわる問題が生まれたり大きくなってきて、組織の慣性に抗した政策選択が必要となってきた場合、政策変更は、菅直人血友病患者のエイズ問題で厚労省を指揮したように、あるいはドイツのメルケル首相が原発全廃を決断したように、政策から利益を引き出している利権共同体(官庁、産業、政治家)の外部者の決断と介入によってなされるであろう。つまり民主主義の出番である。では科学技術にかかわる民主主義の現状はどうなっているのろうか。ここにも問題が発生している。次にそれを見てみよう。

 

(1)パトリック・ズバネンバーグ、エリック・ミルストーン(2005):「「狂牛病」1980年代から2000年にかけて;安全の強調がいかに予防を妨げたか」、『レイトレッスンズー14の事例から学ぶ予防原則』、283-302、七つ森書房

(2)小林傳司(2007):「トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ」、NTT出版ライブラリーレゾナント

(3)ジェローム・ラベッツ(1977):「批判的科学―産業化科学の批判のために」、中山茂訳、秀潤社

(4)William Walker(2000), Entrapment in large technology systems: institutional commitment and power relations, Research Policy29,833–846

(5)吉澤剛・中島貴子・本堂毅(2012):「科学技術の不定性と社会的意思決定 ――リスク・不確実性・多義性・無知」、科学82(7)、788-792

社会・科学複合体の問題点 責任なき支配その1 ー皆の責任だ だから私の責任ではないー

丸山真男は「軍国支配者の精神形態」の中で、極東軍事裁判における軍幹部、官僚、政治家の証言を分析し、指導者たちが、それぞれのセクターの利害を背景としながら、妥協とあいまいな集団的意思決定を行い、誰一人として責任意識を持たないまま、流れに飲まれるようにして開戦をはじめとする重要事項がなんとなく決定されていく「無責任の体系」を活写している(1)。

日本社会の権力構造を研究したカルフ・ウォルフレンは、1990年(終戦後45年)こんな文章を書いている。「今日もっとも力のあるグループは一部の省庁の高官、政治派閥、それに官僚と結びついた財界人の一群である。」「個々のグループはどれも究極的な責任は負わない。」「ヒエラルキー、あるいは互いに重なり合ういくつかのヒエラルキーの複合体がある。だが頂点がない。いわば先端のないピラミッドだといえる。究極的な政策決定権をもつ最高機関が存在しないのである」(2)、丸山の指摘した、だれも明確な責任を負わないままに、いつの間にか国の形が決められていく、いわば「責任なき支配」は、戦後半世紀が経過してもその本質が何ら変わらないまま存続しているように見える。

もう一つ、今度は原子力についての評論を見てみよう(3)。

 

―甘さの背景にはもたれあい体質がある。電力会社と政府の規制当局者、一部の学者が原発推進の国策の下でむすびあい、現状を追認する。しかもだれかが決定的な判断を下すことは巧妙に避ける。役所は学者に「安全性の判断」をゆだねる 学者は安全のハードルをそこそこの高さにとどめ、基準を超える対応は事業者の自主対応にまかせる。事業者は規制当局のお達しに従ったまでという。外部から無責任にも映る「原子力村」の行動様式だー

 

科学技術政策についてもまったく同じ構造で動いているのがわかる。誰も最後の責任をとらず、明確な責任の意識もないまま利害関係者の「村」の中で物事が決められていく、意思決定はされているが、その意思決定の責任者が存在しないのである。

科学技術がかかわる場合には、このような「責任なき支配」の状況を一層混沌とさせるような事情が存在する。それは、たとえば、ある化学物質が一定の濃度以下では安全だとされ、認可されても、複数の化学物質が関与するいわゆる「複合汚染」が安全かどうかはわからないことが示すように、科学技術が作り出すリスクは複雑な因果関係の網の目を通して人間や環境に影響を与えており、その因果関係を解きほぐすのが容易でないこと、そしてそのような因果関係の見えにくさは、しばしば因果関係がないものとして考えられてしまうことである。科学者は一般に因果関係の推定に対して慎重な態度をとる。因果関係の誤った肯定は科学者個人やその研究への信頼を揺るがしかねないからである。しかし因果の証拠が確定しないことは因果が存在しない証拠とはならない。にもかかわらず前者が後者と(しばしば意図的に)同一視される。誤った肯定を犯すまいとして誤った否定に陥ってしまうのである。そのため汚染者やそれを見逃した行政の責任は先延ばしされ、後で因果関係が確定しても、「その時点での予測はできなかった」として責任は免除されてしまうことになる。

また因果関係の複雑さは関与する関係者の多様化をもたらす。農薬の使用基準を守っているゴルフ場からの農薬で下流の飲料用水源が汚染された(と疑われる)場合、だれが責任を問われるのだろうか。ゴルフ場の経営者か、農薬の製造元や販売店か、使用基準を決めた農水省環境省か、はたまた基準を決めるにあたって専門的知見を提供した研究者なのか、検出が遅れた場合は自治体の環境部局にも責任はあるのか、それとも誰にも責任はなく、水源の使用者は自然災害のように汚染を甘受しなければならないのか、ゴルフ場の経営者に無過失責任を問うことは可能かもしれないが、それ以外の関係者の責任を問うことは難しい。まして官僚機構や企業組織の中に埋め込まれている個人に責任を求めることは至難の業であろう。農薬が汚染源である以上、集団的決定とはいえ、関係者は何らかの責任を持つはずではある。しかしその責任はあまりに分散しすぎており、間接的過ぎて問うことはできないのである。科学技術とその政策における責任についてはこのようなややこしい事情があるため、「責任なき支配」は日本だけの話ではなく、どこの国の科学技術政策にも見られるグローバルな特徴となっている。

責任なき支配には以下のような諸特性がともなっている。

1 想像力の縮滅-見たくないものは見たくないー

 スリーマイルアイランド原発の事故の後 ,日本原子力研究所の中に環境放射能安全委員会が設置された。委員会は原発事故の際に放出される放射性物質の拡散シミュレーターの基本システムを6年間かけて開発(現在のSPEEDIの原型)した。完成後、委員長がこのシステムを使った避難訓練の実施を提案したところ、「そんなことはとんでもない 。出来るはず が無い」「普段から発電所の人達がこの原子炉は絶対に安全だとそう言ってやっとのことで ,ここで稼働している。もしここで事故があったと,たとえ演習にしてもそこで事故が あったということを言ったならば,大変なパニックになってしまって ,もう原子力発電は してほしくないということになる。ただでさえ反対運動があるくらいだから,そんなことを やれるはずが無い」と拒否されたという(4)。封建時代の「民は由らしむべし、知らしむべからず」(民は依存させればよいのであって、その理由を知らせる必要はない)を彷彿とさせるエピソードである。これは原発関係者の警戒心、原発関係者だけで固まって他の人々を寄せ付けない閉鎖性を如実に表すエピソードだが、同種のことは対市民だけにとどまっていない。地震学者の石橋克彦が地震時の原発炉心溶融事故の危険性を論文で提起したとき、原発関連の研究者は「原子力学会では聞いたことのない人」と評したり、「石橋論文は保健物理学会放射線影響学会、原子力学会でとりあげられたことはない」などと発言したりしていたという(5)。金属学者の伊野博満が中性子による原子炉圧力容器材料の脆化する温度の上昇予測の根拠となる反応速度式に誤りがあるのを発見し、指摘したところ、式を求めた論文の著者自身が誤りがあったことを認めているのにもかかわらず、原子力安全保安院の見解は、特段の根拠も示さず、「脆化予測式の内部構成にかかわらず、直ちに規制の見直しの必要はないものと考えます」、「さらに議論を行う必要はないものと考えます」というものであったという(6)。

地震により起こる現象で地震学者が非専門家であるはずがない。また井野の指摘について言えば、脆性破壊は低温下で金属が粘りを失って小さな力で破壊されることを指し、脆化温度の上昇は圧力容器の破壊につながる危険性を秘めている。このような重大な指摘を受けているにもかかわらず対応しようとしない保安院に対して、井野は「監視試験の規定に不備があることをすんなり認めるわけにはいかないという自らの立場や、身内の学者のミスをかばうことの方が、原発をきちっと管理することよりも大事であるようだ」と痛烈に批判している(6)。

最初に挙げたエピソードと同じく、原子力の利権共同体(いわゆる原子力村)以外の人々の意見を脅威と考え、躍起になって排除しようとする閉鎖性の表れであろうが、私にはそれだけとは思われない。脆性破壊が大きな規模で起これば、原子炉の炉心がむき出しになる。それがいかに恐るべきことであるかは原発の関係者ならば皆理解しているはずである。その基礎となる式が誤っていることが指摘されたのだから、誰よりも原発関係者がそれを深刻に受け止め、正しい基礎の上に原発を再設計しようとするはずである。原発を推進するためもそれこそが合理的対応であろう。にもかかわらずそれを拒否するのは、単に仲間内のかばい合いという矮小なことにとどまらないように思われるのである。ここにはもっと根本的な問題がある、つまり放置しておくことがもたらすかもしれない事態の深刻さを直視する想像力がそもそも欠けていて、あるいは共同体の中で生きていくためにそれを抑圧して「見たくないものは見たくない」→「見たくないものは存在しない」ということになってしまっているのではないだろうか。実はこの想像力こそが専門家に求められる重要な任務であるにもかかわらずである。だから目の前で誤りを指摘されているそのことをどう収拾するかということだけにこだわってしまうのである。

 このような想像力の欠如が大きな悲劇をもたらした事例として水俣病をあげることができる。

周知のように水俣病は新日本窒素(後のチッソ、以下新日窒と略)水俣工場の排水中の有機水銀によって引き起こされた有機水銀中毒で、1956年5月に患者の発生が公式に確認されている。その年の11月には熊本大学研究班が、原因は重金属の中毒であり、汚染源として新日窒の排水が最も疑われるという結論を出し、1958年6月には参議院社会労働委員会で厚生省環境衛生部長が水俣病の原因は新日窒の排水であるという公式見解を示し、1959年7月には熊本大学研究班が有機水銀が原因と発表している。この時点で、厚生省や熊本大学の見解をうけて新日窒が排水から重金属を取り除く措置をとっていたら、すでに患者は出ていたものの、水俣病はあれほどの悲劇には至らなかったであろう。しかし新日窒は、科学的証明がなされていないとして熊本大学研究班や厚生省の見解を否定し続け、有機水銀除去にはほとんど効果がないと試運転時にすでにわかっていたサイクレーター設置と排水口の付け替えを行ったのみで、排水を出し続けた。サイクレーターが有機水銀を除去する効果がないことは ,新日窒は認識していたにもかかわらず、このようないわば詐欺的な措置しか取ろうとしなかった 。企業を指導する権限がある通産省も新日窒を擁護する態度をとり続けた。新日窒が独占的なシェアを占めていたオクタノールがプラスチックの加工に不可欠であり、新日窒の工場が止まることによる化学工業への打撃を恐れていたからである。省内部では操業停止になることを避けるよう大臣官房から経済企画庁水質課に出向していた課長補佐に指示を出し、また厚生省からの新日窒への指導要請を「原因は不明」として拒否し、各省庁連絡会議の席上で、有機水銀説を批判する研究者の小冊子を配布し,有機水銀説を否定した(連絡会議で異論が出ると政府として動けない)。池田通産相閣議有機水銀水俣工場から流出しているというのは早計である旨の発言を行っている(7)。結局、有機水銀を排出しない完全循環が実施されたのは1966年、国が有機水銀を規制対象としたのは1969年と熊本大学の発表から10年が経過していた。

 水俣病は恐るべき病である。田中静子という5歳の少女は、ご飯をこぼしたり、皿を落としたりすることから始まって、やがて歩けなくなり、しゃべれなくなり、目が見えなくなり、入院したが「ずっと目も見えないままで、ものも言えないし、手も足も曲がってしまって、身体もエビが曲がったようにしとったんです。そして昼も夜もずっと泣いて泣き続けて亡くなったんです。話せば淡々としてしまうんですけど、静子は本当に苦しんで苦しんで死んだんです」(静子の姉の話)。佐々木清登の父は症状が悪化して入院後、手も足も宙に突きあげてゴウゴウゴウと声を上げて苦しみ、その状態で苦しみ続け、口から泡を吹いて亡くなったという(8)。

 新日窒や通産省で働いていた人々は水俣病に対する自分(自分たちではなく)の責任をどう考えていたのだろうか。漁協の抗議や熊本大学有機水銀説、さらには国の機関である厚生省すら名指しで新日窒の工場排水が原因となっているとしている中で何らかの責任は感じていただろう。そのことは水俣病対策市民会議など様々な集会での元従業員の発言や新日窒労働組合の「水俣病を自らの問題として取り組んでこなかったことを恥とする」という恥宣言、国と患者の和解交渉で国側の責任者を務め「水俣の仕事はどうしてもやりたくなかった。自分に嘘をつかなきゃいけない部分が多すぎるんだ」と家族に漏らし自殺した厚生省の官僚の言動(9)からもうかがうことができる。しかし有機水銀が猫に水俣病と同様の症状をおこすことを発見した(猫400号)実験を行った工場附属病院の細川医師が技術部と話し合って、「一例だから」ということで、会社の立場への配慮からそれを伏せてしまった事、アルデヒド製造実験を担当した職員が有機水銀説が正しいと考え、職場でも話していたにもかかわらず、結局自分の立場が悪くなることを恐れ、幹部に伝えることはなかった事、熊本大学の研究を受けて、取締役の一部も、このまま垂れ流しにするのはまずいと認識していた事、通産省から出向していた上記の課長補佐も、人間の命は重いというのはわかるが ,自分の立場では排水を止められなかったと述べている事など、重要な立場にあった多くの人々は、有機水銀水俣病を引き起こしていることにある程度の確信を持っていながら、結局それぞれの個人が行動を起こすことはなかった(7)。組織に縛られているこれらの人々を責めるのは酷かもしれない。しかし水俣病に苦しめられている患者の苦しみを考え、あえて言うならば、これらの人々は有機水銀排出が水俣病の原因であると公言するような行動が自分の立場に与える影響を想像することはできても、患者の恐るべき苦しみを自分に責任のあることとして受けとめ想像することはできなかったと言わざるを得ない。見たくないものを見ないですませようとしていたのである。会社や官庁という組織の中で責任が分散し、わがことととして水俣病を受け止めることができなかったのである。

(1)丸山真男(1949):「軍国支配者の精神形態」、杉田敦編「丸山真男セレクション」(平凡社)所収、131-184

(2)カルフ・ウォルフレン(1994):「日本 権力構造の謎」、篠原勝訳、早川書房

(3)滝順一(2011):「地震原発をめぐる問題点7-フクシマ後への教訓(今を読み解く) 2011年5月1日日本経済新聞朝刊

(4)近藤次郎(1988): 「市民のための科学教育」, 科学教育研究12(1), 1-6 

(5)大久保真紀(2012):「戦う地震学者、ものいう金属学者-3.11以前から原発推進という国策に挑んできた人たち」、論座https://webronza.asahi.com/national/articles/2012092000007.html

(6)井野博満(2013):「原発の経年劣化-中性子照射脆化を中心に(前編)」、金属83(2)、49-56

(7)平岡義和(2013):「組織的無責任 と して の 原発事故 一 水 俣病事件 と の 対比 を 通 じ て 一」、環境社会学研究19(0)、4-19

(8)栗原彬編(2000):「証言 水俣病」、岩波書店

(9)田村元彦(2014):「ある官僚の死」、西南学院史紀要9、21-32

 

 

社会・科学複合体の問題点 先送りの論理と技術楽観論ーそのうち何とかなるだろうー

 ここでは、原子力を例に科学技術と社会の関係を不健全なものにしている先送りの論理と技術楽観論について述べてみたい。

 この節を執筆する少し前に原子力規制委員会青森県六ヵ所村の再処理工場の安全審査を終了し、この夏(2020年)にも認可する方針であることが報じられた。これを受けて、梶山経済産業大臣核燃料サイクル政策の推進を表明している。しかし使用済み核燃料を再処理して、ウランとプルトニウムを取り出し(MOX燃料)、それを高速炉(高速中性子による核分裂反応を利用する炉)の燃料として利用するという核燃料サイクル政策が破綻していることは多くの研究者やメディアによって指摘されている。話が複雑になるので、プルトニウム核兵器への転用の懸念については省略し、原発との関係に絞って述べる。

 MOX燃料を利用する高速増殖炉(高速炉の一種、核反応により燃料のプルトニウム以上の量のプルトニウムを生産するため増殖炉と呼ばれる)の原型炉、つまり開発段階の炉である「もんじゅ」は、核燃料サイクルの要であるが、繰り返されてきた事故のため廃炉になるので、使用済み核燃料を再処理してもMOX燃料の行き場がない状態になっている。使用済み核燃料は行き場を失ったまま、原発の燃料プールと再処理工場の貯蔵プールにたまり続けている。

 政府や電力会社は、やむをえず、MOX燃料を軽水炉(現在の形式の原子炉)の燃料にするという理屈をつけて再処理工場を稼働させようとしているが、MOX燃料は、ウラン燃料に比べて制御棒の効きが悪い、融点が低下し、燃料が溶けやすくなるなどの安全上の問題点がある。さらに再処理工場自体が通常運転でも大量の放射性物質を放出し、また再処理工場でいったん事故が起きると、福島第一原発の事故とは比較にならない膨大な量の放射性物質がまき散らされる(使用済み燃料の5%の破損により日本全体で190万人ががんで死亡すると計算されている)(1)ことになるという重大な問題点を抱えている。このことは政府も電力会社もよくわかっている。

 しかし核燃料サイクルが重大な問題を持っているからといって、それを転換するわけにはいかない事情がある。青森県と六ケ所村は、2010年に、再処理事業を担当する日本原燃と、「再処理が困難となった場合、使用済み燃料の施設外への搬出を含む措置を講じるもの」という覚書を結んでおり、核燃料サイクル政策を放棄すると、再処理工場から各原発へ燃料が送り返されることになる可能性が高い。その場合には、そうでなくても逼迫している原発の燃料プールが満杯となり、原発を停止せざるを得ない。いわゆる「返送リスク」(2)である。原発を稼働し続けるためには、核燃料サイクル政策を進めていくというポーズをとらざるを得ないのである。こうやってずるずると先延ばししているうちにも、コストだけは累積し続け、再処理の総事業費は13.9兆円にまで膨らんでいる(3)。破滅への道を走りつづけるチキンレースの様相を呈しているのである。しかも、このチキンレースは当事者だけが破滅するわけではない。もし再処理工場が稼働して大規模な事故が起これば、日本を破滅させるチキンレースである。

 そもそもこのチキンレースはどのように始まったのだろうか。話は1940年代にさかのぼる。高速増殖炉は早くも1940年代に構想されているのである。当初はアメリカのみで研究が行われていたが、ソ連が40年代末、イギリス、フランスでも50年代に開発が始まった。日本でも1956年の原子力利用長期計画の中ですでに取り上げられている。1967年の計画では、原子力発電の発電コストについて「重油専焼火力発電に比し、はるかに有利となっていく」とし、高速増殖炉については「高速増殖炉は核燃料問題を基本的に解決する炉型であり、将来の原子力発電の主流となるべきものであるので、その実用化のための技術開発を強力に進める必要がある」。さらに高速増殖炉及び新型転換炉(後に開発が放棄され、高速増殖炉開発に一本化される)の開発が「産業基盤の強化と科学技術水準の高度化に大きな効果が期待される」としている(4)。高速増殖炉にきわめて大きな期待がかけられていることがわかる。

 その当時は、高速増殖炉は1980年代前半に実用化するとされていた。しかし高速増殖炉は、核分裂反応の速度が大きくなって冷却材の温度が上昇するとさらに分裂反応の速度が大きくなるという不安定性(軽水炉は冷却材の温度が上昇すると、核分裂速度は小さくなる)を持ち、暴走しやすいこと、また冷却材に金属ナトリウムを使用するため、ナトリウム漏れが起こると水と爆発的に反応すること、中性子の量が非常に多いため、燃料や燃料被覆、構造材の劣化が進行しやすいことといった。軽水炉よりはるかに難しい条件で作動しなければならないため、開発過程での事故が絶えず、開発は難航した。高速増殖炉開発に取り組んでいた各国はこの問題を解決できず、アメリカ、イギリス、ドイツは開発から撤退した。原発大国であるフランスも実質的には撤退している。ロシア、中国、インドは開発を続けているが、上記の問題を何とかコントロールできるような技術的ブレークスルーが起こっているわけではない。

 日本では原型炉のもんじゅは1985年に着工したが、1995年にナトリウム漏洩・火災事故が起こっている。開発は遅延に遅延を重ね、原子力利用長期計画が改訂されるたびに、実用化の日程は先送りされた。結局もんじゅの実用化の目途は立たず、2016年に廃炉が決まった。この間、着工以来、1兆円以上の国費が投じられてきたが、結局、この30年間で稼働できた期間は250日にとどまる。

 では現在の政府の原子力利用計画では高速増殖炉の記載はどうなっているのだろうか。原子力利用長期計画のような詳細な計画は福島第一原発の事故を機に策定されなくなったので、かわりに原子力関係閣僚会議の高速炉開発戦略ロードマップ(2019年)を見てみよう(5)。ロードマップでは「高速炉開発は中長期的には資源の有効利用と我が国のエネルギーの自立に大きく寄与する可能性がある」、「高レベル放射性廃棄物の減容化・有害度低減に対する寄与の観点も重要」とし、結局「高速炉の本格的利用が期待されるタイミングは21世紀後半のいずれかのタイミングとなる可能性がある」と、福島第一原発の事故を受け、歯切れは悪くなっているが、開発の方針は継続されている。ちなみに「高レベル放射性廃棄物の減容化・有害度低減」というのは使用済み核燃料を再処理し、高速炉で燃やすことによって容積を小さくし、半減期の長い核種(長寿命核種)を半減期の短い核種に転換することをさす。しかし再処理を前提とするので、再処理に伴い、放射能を帯びた廃液や吸着剤がゴミとして発生し、さらに巨大な再処理工場そのものがいずれはゴミとなることを考えれば全く減容にはならないし、そもそも複雑な化学処理の行程中に残渣が発生してしまうので、再処理で長寿命核種を完全に回収することはできない。むしろ環境中にばらまいてしまうことになりかねない。

 ロードマップでは、さらにこんなことも述べられている。「市場メカニズムが適切に働かない場合には・・・適切な規模の市場補完的な制度措置が必要」、「開発資金調達のメカニズムの構築も重要」であるとも述べている、意味が分かりにくいが、おそらく今後とも巨額の国費を費やしていくぞ!という決意表明なのであろう。つまり1967年と2019年では基本は変わらず、このロードマップ通りに進めていくならば、約100年間!、膨大な国費を使って破滅的なリスクを伴う技術体系の研究開発が進められることになる。

 このような、危険というかむしろ無謀ではないかと思われる科学技術体系の開発が、確たる見通しも立たないまま進められてきた主な要因は、前にも述べたように、政官産の巨大なステークホルダーの存在、直接的には開発主体となってきた官僚機構の慣性、つまりシステムの問題であろう。しかし、システムの背景には、より根源的な原因として、システムを支えるメンタリティ、先送りの論理と技術楽観主義がある。

 原子力利用長期計画や原子力政策大綱、「原子力利用に関する基本的考え方」といった政府の原子力政策の基本を示す文書は、長期にわたり、次のような一貫した論理で貫かれている。

原子力を推進すべき理由

 経済成長に伴い、エネルギー需要は増えていく。ところが日本のエネルギーは海外からの化石燃料に多くを依存しており、日本経済は中東など資源供給国の政治情勢や燃料価格の上昇に対して脆弱である。原子力は準国産エネルギーであり、また発電原価が安いことから、安全保障上も産業の国際競争力向上のためにも有利である。高速増殖炉、さらには核融合が実用化されれば、日本のエネルギー事情は劇的に改善する。

② 他国の動向 

 世界のエネルギー需要が増大する中で原子力発電は有力なエネルギー源であり、他国は原子力利用の拡大と原子力にかかわる科学技術の開発を精力的に進めている。原子力産業の国際競争力を高めるうえでも、日本はそれに立ち遅れてはならない。

③ 原子力の抱えている問題

 スリーマイルアイランズ原発事故、チェルノブイリ原発事故など深刻な事故があり、また使用済み核燃料の処分や他国からの懸念が強いプルトニウム在庫の積み上がりなど原子力は解決が難しい問題を抱えていることは確かである。しかし原子力の持っている高い公益性を踏まえれば、安全性に十分留意しつつ原子力を利用することは日本にとって今後とも必要である。

④ 問題への対応

 問題に対応するためには、軽水炉の円滑な運用、使用済み核燃料の処分や再処理・高速炉・核融合についての研究の促進とそのための基盤の整備、原子力分野の人材養成、さらに国民の理解を得る取り組みが必要である。

 

 ただし論調の若干の変化もある。①については、1994年の原子力利用長期計画以降、二酸化炭素排出量の削減も利点として挙げられている。②については、チェルノブイリ原発の事故以降のヨーロッパでの原発の退潮を受けて、取り上げられる国の構成は先進国から中国、ロシア、インドなどに変化してきている。

 ある一つの時点での計画を取ってみれば、妥当な議論にも思えるが、問題は数十年にわたってほとんど同じ趣旨の議論が繰り返され。その間、核燃料再処理にせよ高速(増殖)炉の開発にせよ、膨大な国費が投じられているにもかかわらず、実質的な進展がほとんどみられないことである。

 「開発が期待される」、「研究開発を着実に進める」、「可能にすることも考えられる」等の文言が繰り返され、将来の技術開発により問題が解決されるとしている。エネルギー政策の研究者であるウィリアム・ウォーカーはイギリスの核燃料再処理施設(ソープ再処理工場)をめぐる意思決定を分析して、新技術に対する過度な期待があったことを指摘しているが(6)、日本の原子力政策も全く同じ罠に陥ってしまっている。「どんな目標でも、その問題について十分に研究すれば、いつでもその手段をみつけられるという、科学の道具主義的見解」(7)、つまり技術楽観論を背景とした「いつか技術革新が起こって問題を解決してくれる」という先送りの論理で延々と時間を稼ぎ、結局そのようなことは起こらないまま現在に至っている。 

 もちろん技術革新が起こらなかったわけではない。たとえば「もんじゅ」において冷却材の挙動を調べるシミュレーション技術や原子炉の炉心材料の開発など一定の技術革新の蓄積は見られた。炉そのものは、1985年に着工し、1991年に試運転にこぎつけたことからわかるようにむしろ順調に建設・稼働したのである。しかし炉を運転することはできても、それとペアになるべき事故の危険性を抑制する技術の革新が遅々として進まなかった。跛行的に技術の実装が進んでしまったのである。安全性については植木等の歌のように「そのうち何とかなるだろう」で来てしまった。イノベーションは起こらなかったのだ。

 この先送りの論理と技術楽観主義は、挑戦してみなければ技術革新は起こらないという意味で悪いことばかりではないようにも見える。自動車も飛行機もまずは動力源や駆動技術が実用化され、その後は悲惨な事故を繰り返しながらも安全機構や公害対策を進歩させてきた。このような歴史的先例があるからこそ、原発、そして核燃料サイクルや高速炉推進の議論には一定の説得力がある。石原慎太郎吉本隆明などは、原発を廃止することは原始時代に戻ることだとか、サルに戻ることだとかかなり極端な発言をしたが、潜在的には同様の感情を持っている日本人は多いだろう。私も電力会社の人と原発の議論になった時に同様の趣旨の反論を聞かされたことがある。人間がある程度の犠牲を払いながらもここまで進歩させてきた科学技術の成果を無にするのか、「原始時代に戻れ」というかのような感傷的で素朴な論は受け入れられないというのだ。

 しかし私に言わせれば、原発核燃料サイクルを進めようとする主張こそが感傷的で素朴(素朴というのは良い意味でつかわれることも多いので、ナイーブという方が良いかもしれない)な論である。人間は一度達成した成果を放棄することを、たとえ放棄した方が得だということがわかっていても拒否する傾向にあることが心理学の実験からわかっている。これは人間手段としても同様であろう。軽水炉核燃料サイクル、高速炉といった原子力技術の体系は、膨大な費用をかけて開発され、高度な技術的蓄積が達成されている分野である。日本はこの分野に遅れて参入したが、他の先進国が停滞する中で、今やフランスと並ぶ原発大国となっている。日本は原発技術という巨大な山に他をリードして登ってきたのだ。その山を下りて別の山を登りなおすのは、せっかく大きなものを獲得したのに、それを放棄することであり、(特に関係者には)耐え難いことに違いない。しかし、再処理工場だけでも10兆円以上の投資が必要になると見込まれている(これまでの原発関連の開発計画の費用見積もりが著しく過小であったことを考えれば、実際に必要な費用はこれを上回ることは確実である)。費用面だけでも核燃料サイクルが破綻していることは明らかである。これは関係者もよくわかっているが、声を出すものがいない。原子力は裸の王様になっているのである。そして何よりも、日本を破滅させかねない巨大事故を起こす危険をはらんでいる。冷静に考えれば、これまでの技術的達成にこだわって、問題があっても先送りし、「そのうち何とかなるだろう」という技術楽観論にしがみつくことこそ、せっかく登った山を下りることをいやがる感傷的で素朴な議論であると私は考える。

 突然だが人類による水銀の利用を考えてみよう。水銀の塗料などへの利用は古代から行われ、近代以降も電池、蛍光灯、体温計などに広く利用されてきた。しかし水俣病に見られるように、その有害性も明らかであり、元素であるため分解もできず、環境中に拡散してしまえば回収するてだてもない。いわば水銀を利用する技術は有害性をコントロールできない「筋(すじ)の悪い」技術であり、それゆえ水銀使用の廃止・低減が行われ、人類は水銀利用技術から撤退しつつある。。

 原子力技術も同じことではないだろうか。夢の技術と讃えられたときもあったが、今になってみれば10万年もの長期間漏洩しないように隔離しておかなければならない膨大な有毒物質を生み出す「筋の悪い」技術体系であったことは明らかである。基礎科学についても技術にしても、原発の研究開発に費やした費用は莫大だったが、安全性や環境への有害性低減を飛躍的に改善するイノベーションは結局起こらなかった。欧州環境庁が環境問題を分析した「レイトレッスンズ」では「社会が受け入れがたいリスクだと判断した特定の分野や技術の方向の革新を相当切り詰めるか終わりにする必要があるだろう」と述べられている(8)。冷静に考えれば原子力技術ほどこれによく該当するものはない。

 また原子力技術を放棄するからと言って、吉本隆明が言うように「サルに戻る」ことを意味するわけではない。「レイトレッスンズ」はこうも述べている。「ある一つの選択肢を切ると別の分野の革新を育て、強める助けになることが実際に起きる。またその核心を先導している国々の経済に新たな競争力を与えることにもなる」。日本学術会議の提言によれば、「我が国には、全電力需要だけでなくエネルギー消費量全体にも匹敵する量の再生可能エネルギーが存在する」(9)。原発技術を放棄すれば、その維持と革新に投じられて来た資源を再生可能エネルギーへの投資と研究開発に投じることができるのであり、日本のエネルギー消費が今後漸減することを踏まえれば、この方向に踏み出すことがむしろ現実的である。

 もちろん原発だけが「筋が悪い」わけではない。攻撃用ミサイルの進歩に全く追いつけないのに配備が進行している迎撃ミサイルや海洋への蓄積が問題となっているプラスチックなども「筋が悪い」技術と言える。我々の社会は19世紀以来の科学技術の目覚ましい発展とそれが社会にもたらした巨大な便益に印象付けられ、科学技術にかかわる問題について、いつかは解決策が見いだされると考え、先送りとその背景となる技術楽観主義に走りがちであった。科学教育もこれを助長する傾向があった。しかしこれは、リスクを直視することを避ける知的怠慢に他ならない。リスクが現実のものとなった時、知的怠慢は一気に反科学技術という反動を招きかねない。これは科学技術にとっても社会にとっても科学教育にとっても不幸な事態である。

 社会が知的怠慢に陥ることを防ぎ、科学技術に市民の統制(シビリアン・コントロール)を利かせること、そのような資質を持った市民の育成を行うことは科学教育のもっとも重要な使命の一つであると私は考える。

 

(1)小出 裕章(2006);六ヶ所再処理工場に伴う被曝-平常時と事故時 、http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/kouen/aomori06.pdf

(2)原子力発電・核燃料サイクル技術等検討小委員会(2012):「使用済み燃料の返送リスクについて」;http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/hatukaku/siryo/siryo15/siryo1-5.pdf

(3)使用済燃料再処理機構(2019):再処理等の事業費についてhttp://www.nuro.or.jp/pdf/20170703_1_3.pdf

(4)原子力委員会(1967):原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画、

http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/tyoki1967/chokei.htm#sb101

(5)原子力関係閣僚会議(2019):戦略ロードマップ、

http://www.aec.go.jp/jicst/NC/tyoki/tyoki1967/chokei.htm#sb101

(6)William Walker(2000), Entrapment in large technology systems: institutional commitment and power relations, Research Policy29,833–846

(7)ジョン・ザイマン (1988):「科学と社会を結ぶ教育とは」、竹内敬人・中島 秀人 訳、 産業図書

(8)欧州環境庁レイトレッスンズ編集チーム(2005):「事例から学ぶ12の遅ればせの教訓」、『レイトレッスンズー14の事例から学ぶ予防原則』、303-348、七つ森書房

(9)日本学術会議 東日本大震災復興支援委員会・エネルギー供給問題検討分科会(2017):再生可能エネルギーの 利用拡大に向けて http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-h140926-1.pdf

社会・科学複合体の問題点 研究者社会を席捲するアカデミック・キャピタリズムー私にはきめられない 決める力もないー

スローターは大学をめぐる研究環境の変化が大学教員の意識や大学内の権力構造に与えた影響を研究し、1980年代以降、外部資金獲得が大学及び大学教員を動かす主要な動因となってきたことを指摘し、「大学および大学教員の,外部資金を獲得しようとする市場努力ないし市場類似努力」をアカデミック・キャピタリズムと呼んだ(1)。ややショッキングな表現ではあるが、科学技術の国家と資本への従属に対応して大学(同様のことは国立研究所など他の研究組織でも起こっている)組織内部、研究者の共同体内部で起きる変化をこの語はよくとらえている。

研究資金は競争を通じて勝ち取られるものであり、そこにはある種の疑似的な市場が成立し、勝者と敗者が現れる。勝者は単に研究資金を獲得するだけではない。研究資金の獲得は組織の内外での地位と威信を高め、ポスドク(任期付き研究員)の雇用による研究室の拡大をもたらす。研究の担い手を多数持つ研究室はそれだけ業績をあげやすく、資金供給者との関係も深まって、資金獲得競争上、ますます有利となり、それがさらに勝者(研究室主宰者)の地位と威信の上昇をもたらす。いわゆるマタイ効果(成功者はますます成功する)である。

大学もこのような「稼いでくれる」研究者は大学の威信の向上やオーバーヘッド収入(研究費の一定部分を間接経費として大学が得ることができる)の拡大につながり、優遇する。

名の売れた研究者になれば所属組織や学会の幹部になったり、審議会委員など国の科学政策に影響を与えるポストを獲得できるかもしれない。研究資金は組織や研究共同体内部での出世を駆動するエンジンのような役割を果たすのである。

競争はそもそもこういうものであり、このようなインセンティブによって業績が上がり、社会貢献ができる。これの何が問題なのかという意見もあるだろう(むしろこのような意見の方が多いかもしれない)。しかしアカデミック・キャピタリズムを抑制なく発動すれば、上記のような構造はほとんど必然的に金森の指摘した科学の変質をもたらす。研究資金を獲得し続けていくこと、それをてこに組織や研究共同体内部で職を得たり上昇していくことが主要な目的となり、そのためにも資本や国家の要求に密接によりそうことが必要となるのである。

自由で独立した探求という、実態からは離れていたにせよ、それなりに研究者を律していた理想像は崩壊し、社会―科学システム(産学複合体、産官学複合体(今後の日本では軍産学複合体も可能性としてはありうる。)の上部で研究の大きな方向性が定められることになる。

少し余談になるが、国立大学教員としての私の経験から言えば、大学が純粋に学術上の必要から要求する基礎科学の経費であっても、ある程度大きな装置(といっても数千万円程度)であれば、学内審査が行われ、文科省の審査で通りそうかどうか、つまり文科官僚に取り上げてもらえそうかどうかということを考えながら予算要求が行われる。文科省文科省財務省に取り上げてもらえそうかどうかを考えながら審査を行うそうである。では財務省は何を気にしているかということまでは分からないが、おそらくメディアとか時の政権の意向なのだろう。研究者が主導権を持つはずの基礎科学でさえ政府の意向を忖度しながら、お金の使い方、すなわち研究の方向性を決めていくのである。

話を戻そう。産学複合体に研究共同体が組み込まれると、共同体内部の構造も変質する。権力や資本と密接な関係にある指導的科学者が上部に位置するピラミッド構造は一種の研究企業のようになっており、そこで働く研究者は自律性を制約され、自分の仕事の方向性を自分で決めることができない研究労働者になる。原子力研究者で原子力発電の危険性を主張する研究者(たとえば京都大学小出裕章や都立大を辞して原子力資料情報室を立ち上げた高木仁三郎)や東大の宇井純のように公害に対する化学工学の責任を主張した研究者は科学技術のヒエラルキーから弾かれていく。ここに挙げた人たちは、覚悟を決めて自らヒエラルキーから外れ、それによって自らの志を守った人たちである。しかしほとんどの研究者は自分や家族の生活を守るために沈黙せざるを得ないだろう。

ピラミッドの高い位置にある指導的研究者も研究の自由を必ずしも持っているわけではない。研究のネタは科学自身からしか出てこないので、それを見つけ、その可能性を売り込む段階において研究者の自律性は大きい。しかし、それが萌芽期を過ぎ、産業化段階となってプロジェクトとして動き出すと研究者の自律性は後退する。プロジェクトを動かすシステムがそれ自身の慣性で動き続ける。大きな資金が投入されることによって関係者との間に固着した利害関係ができあがり、研究の方向性に問題があることがわかってきても、簡単には止められないのである。   

たとえば高速増殖炉である。高速増殖炉は開発当初から大きな問題が指摘され、筋(すじ)が悪い、このまま進めていくと危ないと指摘され、実際、研究開発の段階で多くの事故を起こし、開発が一向に進んでこなかった。ところが国の科学技術計画の中で常に重点項目として指定され(たとえば第3期科学技術基本計画では「国家基幹技術」と指定されている)、巨額の研究費が注ぎ込まれてきたのは、宇宙開発と原子力を2枚看板として科学技術政策を進めてきた科学技術庁(現文科省)、原子力立国を掲げて軽水炉から高速増殖炉への置き換えを計画してきた経済産業省、使用済み核燃料の処分を核燃料サイクルの形で先送りすることができる電力業界、「総合エネルギー戦略」という形で官と産を取りまとめてきた自民党といった政官産の巨大なステークホルダーが絡みあいながら研究者を取り込み、高速増殖炉開発を後押ししてきたからに他ならない。同様のことは、高コストで14機しか売れず、ほとんど開発当事者の英仏以外に普及しなかった超音速旅客機コンコルド、ねらいとしたコスト削減が実現せず、一方で機体事故率40%と史上最も危険な有人宇宙船となったスペーシャトルなどについても言える。指導的科学者・技術者であっても国や大企業が大規模に資金を投入してくる場合、「大型事業の指導者ではなく使用人である場合が多く、一般的には意思決定に際してわき役にとどまる」(吉岡斉 科学技術批判のための現代史研究)のである。この意味で指導的研究者もまた産学複合体や産官学複合体の中の一つの小さな歯車にすぎない、

このような事情の中で、大学は、自律的でそれゆえ世間の風向きとは無縁でいられた「象牙の塔」とはもはや言い難い。特に理工学系においては、外部からの研究資金を燃料として回り続ける研究企業の集合体の様相を呈している。それらの研究企業はその研究を通して産学複合体に組み込まれ、研究企業の現場を回している研究者はもちろん、研究企業のリーダーも、一度回り始めた研究プロジェクトについて、その方向性を左右する力には乏しいのが実態である。

プロジェクトが良好に進捗する場合、このことに大きな問題はないかもしれない。しかしプロジェクトがそもそも筋(すじ)の悪いもの(これは事後的、つまりやってみなけれ

ばわからないことが多い)である場合、研究者は微妙な状況に置かれる。離脱することは可能であろう。しかし、それは、国や産業からの研究資金の流れが止まり、それにより駆動していた研究室(研究企業)が機能停止する危険を覚悟の上でのことである。それができる研究者は稀であろう。

離脱まではいかなくとも、多少の軌道修正はできるかもしれない。有害廃棄物が出てくる工程があれば、その廃棄物を処理する技術を開発したり、危険が予想される場合にはそれを抑制する技術を開発したりという具合に、根本の科学技術は変えないで、末端の技術的改善によって、のりきろうとする、いわゆるエンドオブパイプ・テクノロジ ーである。しかしこれはコストがかさみ、根本が変わらないので、問題の解決には至らないことが多い。原発の安全を確保するために、原子炉緊急停止系、非常用炉心冷却といった大規模な安全装置を付加して、外付けで安全を確保しようとして、結局福島やチェルノブイリに見られる大きな失敗をしてしまった原発技術はその好例である。

居直りあるいは思考停止という可能性もある。自分の組み込まれている利益共同体(産学や官産学複合体)に自己同一化し、その利益共同体の利益を公益と思い込み、主張する。福島第一原発の事故の際に、プルトニウムの毒性は食塩より低いとテレビでいってのけた原子力工学の研究者がいたが、ここまでくると、学問とか研究とか大学とかの存在意義、公費が投入されることへの意味も問われかねない。本当の意味での有用性、すべての人々の福利を改善するという目的が後景に退いてしまい。もっぱら特定の領域に形成された利益共同体の利益(もっとはっきり言えば利権)が主要関心事となってしまっているのである。

以上述べたことは極論かもしれない。深宇宙観測や考古学のように産業応用とほぼ無縁であっても大きな研究資金が投じられている分野もあるし、科研費という学術上の意義が重視される外部資金がかなり大きな資金源となっている事情もあるからだ。しかし全体として研究者が資本や国家に取り込まれ、その歯車の一つと化している状況は否みがたい。

これらのことから言えることは、アカデミック・キャピタリズムが大学や研究機関を広く覆っている現在、産業応用や国益増進への錦の御旗が掲げられ、研究に大きな資金が投入され、国や資本が動き出してしまえば、その方向性が間違っていても、具体的には大きなリスクを社会に与えたり、できもしない目標にいつまでもしがみついて巨額の資金が無駄に使われたりということがあっても、研究者がそれを転換するような影響を与えることは、原爆開発にかかわった研究者が原爆投下に反対しても一顧だにされなかったように、非常に難しいということである。もちろん研究者でなく、官僚、政治家、産業指導者が研究プロジェクトの破棄を含む軌道修正を適切に決定できるのなら、それでもよいだろう。しかし後で述べるようにそのようなことは期待しがたい。

少し次章、次々章を先取りしていうならば、期待をかけるべきは、国家でも資本でもない「地域」と「公共」に軸足を持つアクターとしての市民、NPO、当該分野に利害関係のない研究者(対抗的専門家になりうる研究者)の連帯だと私は考える。どのような期待をかけるのか、どうすればその期待を実現できるのかについての私の考えはしばらく後で述べることとし、以下では社会・科学複合体の持つ問題点についてさらに述べてみたい。

社会・科学複合体の問題点 国家と資本(産業)の論理による科学技術の公益性の独占―知は奴隷なりー

科学史研究者の古川安は科学の産業化について次のように述べている。

 

1920年ころから科学は急速に産業の「奴婢」になったというアメリカの経営史家ノーブルの指摘は誇張はあるものの、ポイントをついている。時期のずれこそあれ、こうした傾向はどの科学技術の先進国にも共通したものとなった。産業科学の興隆とともに、良きにつけ悪しきにつけ、科学そのものが質的にもスタイルにおいても産業化・商業化されてきたという。科学が産業の性格を変えたように、産業もまた科学の性格を変えたのである。科学研究はもはや人間の知識の拡大にどれだけ貢献したか。「真理の探究」にどれだけ寄与したかという古典的な価値基準よりも、産業にどれだけ奉仕したか、企業にどれだけ利潤をもたらしたか、どれだけ「儲け」につながるかという価値基準から評価される傾向すら生まれるようになったー

 

科学技術の成果に対する評価をもっぱら経済的価値で判断しようとするこの傾向は、逆に言えば、科学技術が産業に対して持つ重要性を示しているともいえる。ある一つの企業あるいはある一国の産業の競争力は資源の豊富さ、マーケットへの近さなど様々な要因があるが、知識経済(経済活動が知識への依存度を高め、モノやサービスの生産における知識集約度の高い経済)(グローバル知識経済へのシフト -グローバル知識経済のメカニズムと知識の集積モデル- 菅原 秀幸 ウェブ)化が進むにつれて、知識創造の典型というべき科学技術の重要性が大きくなってくる。

特に競争の激しい既存市場(レッド・オーシャン 血で血を洗う競争の激しい領域)の枠外にブルー・オーシャン(青い海、競合相手のいない領域)を作りだすような技術革新、たとえばGAFAのようなオンラインプラットフォーム、GPS、クリスパー・キャス・ナインに代表されるゲノム編集にかかわる技術などは企業や個人に莫大な利潤をもたらし、短期間に巨大な産業を成立させるインパクトを持つ。しかもこれらの技術は大企業の中央研究所のような、特定の企業に囲い込まれた応用研究の場から生み出されたものよりは、むしろ学会、大学といった基礎科学と強く連結されたアカデミズムの場に由来し、社会実装の段階になって、そこから研究者自身がベンチャー企業の経営者の形でスピンアウトしてきたり、大企業が技術を買い取り、販路を開くケースが多い。科学技術とそれを担う人々への産業からの期待・要求が大きくなるのは当然といえるだろう。

産業と並ぶ科学技術の資金供給者である国家による科学技術への要求は、軍事という独自の要素が絡むだけに、産業によるそれよりも、より直截で強烈である。原子核物理学は原水爆へ、ロボット工学は軍事ロボットへ、VR工学は軍事シミュレーターへと直ちに展開されていく。ロケット工学のように軍事的要請によって立ち上がってきた学問分野すら存在するほどである。

産業政策も科学技術への要求・介入を強めている。

80年代以降、日本、西欧、アメリカの産業政策は、新自由主義的傾向を強め、かつての日本の通産省のような政府による強力な産業への介入は経済発展にとってむしろ有害という認識が広まった。「政府の役割はむしろ会社法制、競争政策を始めとした市場制度の整備や不要な規制の緩和撤廃にあるべきである」(産業構造審議会)、つまり「市場経済の番人」に政府の役割を限定しようとする考え方が主流となり、鉄道、通信、郵政といった政府事業も次々に民営化されていった。

しかし、科学技術政策の場合、新自由主義は科学技術への政府の直接的な介入の傾向をむしろ強めている。新自由主義の根幹はあらゆる領域における市場原理の貫徹、つまり競争とその競争の結果に応じた報酬である。市場の中では競争の勝者は事後的に決まるが、科学技術の場合、特に基礎研究の場合、そこから何が生まれるかは、やってみなければわからないというところがあるにもかかわらず、事前に資金を割り当てる必要がある。そこで、資金配分は誰かがある基準を作り、それによって判定することになる。そこに政府の、具体的には官僚や政治家、そしてそれと密接な関係にある経済人や指導的科学者・技術者の裁量の余地が生まれる。公正な競争という外被にくるまれた大きな権力が発生するのである。基準としてもっとも重視されるのは、社会に与えるインパクト、もっと端的に言えば当該科学技術の経済的波及効果(どれだけ大きな市場を生むか)であるが、これは考慮に入れるパラメーター次第というところがあり、相当自在な解釈が可能である。つまりそこに権力が生まれる。

しかも国家による基準はそれだけではない。国益というさらに自在な解釈が可能な要因がからんでくる。極言すれば、「国益」を言い立てれば、理屈はあとからついてくる。「エネルギー自給」とか「資源の有効利用」と言い立てて累計1兆円以上の国費をつぎ込んだ挙句、撤退を余儀なくされた高速増殖炉の開発などはこの典型であろう。

国家による科学技術統制をさらに強めているのが財政難である。財政がひっ迫する中、国は大学や研究機関、特に国立大学の運営費交付金を削減する一方で、競争的資金を拡大している。いきおい各大学は資金を握っている省庁、特に文科省内閣府、総合科学技術・イノベーション会議の意向を気に掛け、「どんな研究に金がつくのか」を絶えずリサーチしている。競争的資金には科研費のような広く基礎科学に助成するものもあるが、特定の分野に使途を限定したものが多く、これは政府が実質的に科学研究の方向性を決めていることと等しい。

ラベッツはイギリスの状況について「政策決定によって特に優遇されることになったプロジェクトや、重点的に投資されるようになった分野に、科学者は引きつけられる。これは彼らの事前の興味や考え方に関わりない。この考え方は、「科学政策」についてのあらゆる議論の暗黙の仮定となっている。」(批判的科学)と述べている。これはむしろ現在の日本にこそあてはまる指摘だろう。

先に引用した村上の言にあるように、国家や産業界が「何か「利用できることはないか」、「搾取可能な知識」はないか、と探索の目を光らせ」、それに呼応して科学技術の専門家たちは「自分たちの研究成果が、外部のセクターに高値で売れるのではないか、とこちらも探索の目を光らせる」状況は、以上に見てきたような知識経済化、新自由主義、財政難といった要因によりますます強まる傾向にある。国家と産業界を科学技術研究の主要なクライアントとするこの関係性は、膨大な資金を必要とする科学技術研究にとってほとんど必然的なものではあるが、同時に科学技術の方向性が産業と国家の要求によって一方的に決められていく危険をはらんでいる。

産業や国家が科学技術に要求を行うこと自体は正当なことであろう。資金を提供する以上、その資金の有効利用を求めるのは当然だからである。しかし問題は、国家の軍事的・政治的・経済的優位性と企業の市場における競争優位性への科学技術の貢献が、その貢献がいかなる変化を社会や個々の市民に(たとえば原発事故で故郷を追い出された市民に、原爆で死んでいった市民に)もたらすかという文脈抜きで肯定され、要求され、科学者・技術者自身もその要求に乗っていることである。国家と産業の優位性を追求する論理に科学技術が縛り付けられ、それがもたらすリスクや不公正に目を向けられない。科学技術の社会への実装によって大きな利益を得る人や機関・団体・企業はたしかに存在する。しかしそれによってひどい目にあう人がいたとしても、国益や産業の利益という「公共性」が顕示されると、それが「公益」ということになり、その前で、個々の市民の利害は捨象され、市民は共通の利害を持つ「国民」化される。ひとまとめにされて同意と協力が求められる。国家と資本(産業)の論理が公益性を独占するのである。

世界科学会議は「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」(ブダペスト宣言)で人類の知の知平を拡大する「知識のための科学」(science for knowledge)に加えて、「社会のための科学」(science for society)も科学の使命とした。しかし、現実の科学技術の現場では、「社会のため」ということが、ほとんど何の留保もなく「国家のため」、「産業のため」に読み替えられている。「実際に科学のコントロールの主導権を手中に収め続けたのは,市民ではなく資本や国家」(「塚原東吾」「日本のSTSと科学批判」科学技術社会論研究15号27-37)である

そのことについて問題視する言説が科学技術にかかわる人々の内外にあったとしても、「国際競争に乗り遅れる」、「他国の軍事的・経済的脅威に対処できない」という強力な競争の論理(葵の紋所のような!)がローラーのようにその言説を押しつぶし、科学と社会の関係を均してしまうのである。

フランシス・ベーコンをもじって言うならば、「知は奴隷なり」である。

科学の変質過程-3つのモデル

近代細菌学の基礎を築いたことで知られるルイ・パスツールは「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」と語ったという。この言葉は、戦争にまで至った当時のフランスとプロイセン(現ドイツ)の対立を反映している。彼は好戦的であったというわけではないが、フランスの科学力がドイツに劣っていたことをフランスがプロイセンに敗北した原因の一つとして考えており、科学の振興に国力を注ぐことを強く訴えた。アンモニア合成の業績でノーベル賞を受賞したドイツのフリッツ・ハーバーも戦時には科学者が軍に協力することを当然と考え、毒ガス開発の指揮を取った。近代の国民国家の成立と、国民国家うしの覇権をかけた国力増進の競争が進行するにつれ、科学は国家及び国家を支える産業(富国強兵!)によってからめとられていく。科学技術を不可欠の要素として取り込んだ政治経済体制が確立し、そのもとで科学の軍事化・産業化が進んでいくことになる。同時に見逃せないのは、科学の側もその成果を喧伝することによって社会からの支援をとりつける、もっとあからさまに言えば研究費と人件費を確保してその営みを回していく、それ自体が一種の産業になっていることである。そこには「科学研究は、専門家の共同体の内部に閉じ込められた活動ではなく、その共同体の外部の様々なセクターが、共同体の中を覗き込み、何か「利用できることはないか」、「搾取可能な知識」はないか、と探索の目を光らせる一方、専門家の共同体の方でも、自分たちの研究成果が、外部のセクターに高値で売れるのではないか、とこちらも探索の目を光らせる」(村上陽一郎、科学・技術と社会)という科学技術と国家、産業の相互依存関係が成立している。

 このことは科学技術を論ずる多くの論者により指摘されているが、その中からとりわけ厳しい指摘を行っている金森修の分析を見てみよう(科学思想史の哲学)。金森は古典的な科学観、科学者観である「実証性、客観性、普遍性、公益性を備えたものとしての科学」、「自然界の秘密を探るために一生を真摯な研究に捧げる孤高の人間としての科学者」が近代初期に一定の妥当性をもったものとして社会に浸透していったが、現代においてこのような科学観、科学者観を保持することは難しくなったことを指摘している。金森は、科学、科学者の変容を3つのモデルで説明している。一つはマンハッタンモデルである。マンハッタン計画アメリカの原爆開発計画)は、政府が科学技術の目標設定をし、それに沿って多数の科学者を動員した大プロジェクトである。これは国家が科学をリードすること、つまり国家による科学政策が科学の大きな動因となることの契機となった。科学政策は資金を科学の特定分野に引き寄せる名分となるため、科学は政治や科学の他分野に対して折衝的で闘争的な姿勢を取らざるを得なくなった。ここにおいて科学はいくぶんか政治化する。「国家からの独立性・自立性規範にヒビが入」るのである。

そして1970年代以降、急激に発展した生命工学に典型的に見られる「生命工学モデル」がそれに続く。知識が莫大な富をもたらすことが関係者の共通認識となることにより、知識の公開性規範がゆらぐ。特許権の保護のため研究成果が秘匿され、大学教員がベンチャービジネスを起業することが珍しくなくなってくる。「科学的知識を起源とする一連の事象の一種の商品化、商業化」が進行するのである。

そして「放射能汚染モデル」である。原子力発電を継続・拡大することに利益関心を持つ関連企業や省庁の複合体と科学者が一体となり、「本来なら企業や関連省庁よりは客観性や中立性を担保されているはずの科学者集団自体が。複雑極まりない利権構造や権力性の中に組み込まれる」。その結果、「科学技術が大枠での公共性からほんの少しでも逸脱し始める時、それは公の仮面をかろうじて装着しながらも、事実上は特定の利益集団の保護に集中するという様相を呈する」。科学のおそらくもっとも重要な規範であるはずの客観性規範が脅かされるというのである。

もちろん、金森も科学界全体が以上のような状況に置かれているとしているわけではない。むしろ多くの科学、科学者は古典的規範に則って作動し、行動していると考えている。しかし「一部の科学は既に変質し始めている」ことをきちんと認識し、その意味を見据えることが必要だと考えているのである。

 これら3つのモデルに示される科学や科学者の「変質」はもちろん科学や科学者だけの問題ではない。社会と科学の界面に起きる問題であり、科学と科学者を包みこみ、リスク社会化の動因となっている産業・政治・官僚・科学・軍事、場合によってはメディアといった様々なセクターの複合体に起きている問題である。この複合体は産学複合体とか産官学複合体とか呼ばれているものであるが、問題によって、関与するセクターは様々であるので、以下ではやや曖昧な言い方になるが社会・科学複合体と呼ぶことにし、そこに起きている問題について述べていくこととする。