リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

「文明社会の野蛮人」と科学教育

科学論研究者の小林信一は、スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットの「文明社会の野蛮人」(科学技術の産物をあたかも自然物であるかのようにみなし、科学技術の成果は享受するが、科学技術を生み出す努力やプロセスには無関心な人々)という概念を援用して若者の科学技術離れを説明する研究を行った。小林は高校生調査の因子分析から「文明社会の野蛮人」の特徴を抽出している(1)

                      

―安定志向で、社会的関心は弱いが、人と付き合うのは好き、機械いじり、工作、パソ

コン操作、理科の実験などはあまり好きではなく、文章の読み書きも苦手、自然もそれ

ほど好きでない。そして、世の中を動かすのは、科学技術より政治経済だと思っている。

このように科学技術のプロセスに関してはあまり縁はないが、科学技術の提供するアメニティが向上していくことは歓迎するー

 

小林の示す人間像は示唆的である。現代人の生活は科学技術の基盤の上に載っている。我々は、6,000メートル以上の大深度から採掘され、巨大タンカーで12,000キロメートル(中東原油)を運ばれる石油による発電に電力の多くを頼っている。地球の上空約2万kmの軌道に沿って配置された95機(2018年4月現在)の測位衛星によるGPSに依存して行動している。我々の日常生活は高度の科学技術と巨大な社会資本、つまり社会に実装された巨大な科学技術システムにより支えられているのである。しかしそれを意識することはほとんどない。科学技術は自然物のように我々の日常世界の中に埋め込まれており、その成果が普遍的に享受されていても、それが機能するプロセスや生成されるプロセスに関心が向けられることはあまりない(プロセスへの無関心)。まれに関心が向けられることはあっても、その目も眩むような専門性と、国家や巨大企業を背景とする権力性に圧倒され、「専門家にしかわからない」、「専門家に任せればよい」という一種の思考停止に陥り、日常のあれやこれやに紛れていつしか関心も薄れてしまうというのが多くの人の実態であろう。

プロセスへの無関心は、社会を支える様々なシステムの科学技術的側面に限定されたことではない。各システムがどのような原則で運営され、他のシステムとどう相互依存しているかといったことについては、システム内部での関心事項にとどまることが多い。システムは高度の専門性を持つ専門家により運用されているため、市民(専門家も自分の専門以外の部分では市民である)は専門家をとりあえず信頼してシステム運用をまかせる他なく、システムについて知識を得たり、システムについての決定に参与していくという動機付けは乏しくなる。だれかが電気を作ってくれるなら、電気について知らなくても電気を利用することはできるのである。大災害等でシステムが崩壊し、生活を脅かされるなどの事態が生じないかぎり、システム外の人々はシステム内部のプロセスに関心を向けることはほとんどなく、一方的なシステムの消費者・享受者にとどまっている。

システムが人々のニーズを的確に反映し、公正に運営されるならば、大きな問題は発生しないのかもしれない。しかし福島第一原発の事故や薬害エイズ事件が示すように、システムの破綻は起こりうるし、それが社会の基幹をなす大きなシステムであればあるほど一般の市民に対する被害は大きくなる。福島第一原発の事故の際、首相官邸の描いた最悪シナリオでは、首都圏3000万人を避難させる必要性があるとされていた(2)。もちろんこんなことは不可能であり、これは日本破滅のシナリオに他ならない。たった一つの発電所の事故がGDP世界第3位の大国を破滅させる可能性があったのである。しかしこのような巨大事故があり、高い放射能レベルに阻まれて事故の詳細の分析が進んでいないにもかかわらず、原発再稼働は進み、首相官邸経済産業省原発輸出つまり「国内で売れないなら海外に」という輸出戦略の旗を振っている(もっともこれはことごとく失敗しているが)。

ことは原発に限らない。現在、安全性審査が進んでいる青森県六ケ所村の核燃料再処理工場は原発とはけた違いの量の大量の放射性物質を扱う上、化学プラントという性質上、爆発などの事故が起きやすく、原発における原子炉格納容器のようなバリアーがないだけに原発以上に破滅的な事故を起こす危険性が高い、その他、核開発をはじめとする軍事科学、石炭火力発電所の新増設や発展途上国への輸出、生態系にどんな影響を与えるかわからない化学物質の新規創出など日本を含む世界の大国の多くが破滅的なリスクの生産を一向に止めようとしていない。

しかしリスクの生産に携わる人々、たとえば電力会社、化学工業、経済産業省原子力工学や化学工学の研究者といった人々は利権に凝り固まった邪悪な人々というわけではない。もしそうならば話はむしろ簡単である。「悪い奴ら」に責任をとらせればよい。しかし、むしろほとんどの場合、これらの人々は有能であるだけでなく誠実でもある。「世のため、人のため」に懸命に働いている。問題は個人の資質というよりも「システムの悪」(3)である。システム内部の人々は、このような大規模で制御が非常に難しく個人的なリスク回避が難しいリスクのもたらす恐るべき未来が垣間見えたとしても、システムそのものを否定したり根本的改変を企図するにはいたらない。システムはかれらの存在理由であり、現実的に言えば飯のタネでもあるからだ。リスクは技術的対処のできる問題として矮小化され、技術が次々に付加されて、システムはさらに巨大化していく。

システムが巨大化すれば、リスクに携わるそれぞれの現場は他の現場をも見通して行動することが難しくなり、決定権者の方でも、システムを一望して適切な決定を下すことは難しくなる。福島の事故の際に原子力安全委員会も東電首脳もほとんど機能しなかったことにこの事情をよく見て取ることができる。

福島の事故は10万人にも及ぶ人々に避難を強いた巨大事故である。しかしこの事故を引き起こした東電の経営責任者は刑事責任を免れている(2020年 月現在で東京高裁に控訴中、一審判決は無罪)。この事故よりはるかに小さな規模の事故でも、多くの事故で刑事責任が認められているのに、このようなことがまかりとおるのは不当なようにも思える。しかし、現在の司法が彼らの刑事責任を認めることは困難であろう。巨大になりすぎた原発のシステムがどのような条件の時にどのような状態になり、何が起こるかというのを、あらゆる場合において的確に把握するなどいうことは人間の能力を超えており、能力を超えたことについては、人間は責任をとれないからである。だれも責任をとらず、だれも責任をとれないにもかかわらず、原発は再稼働し、再処理工場は動き始める。「あらゆる領域の多種多様な決定、悪意やエゴイズムよりもむしろ近視眼でもって特徴づけられる数々の決定」(3)がルーティンとして積み重ねられ、破滅の予感を持ちながらも歯止めがかからない。「この先に滝があるのがわかっているのに、流れに身を任せるしかなすすべを知らない船の漕ぎ手のような状況」(5)のまま、進んでいるというのが現実であろう。政治・経済・科学技術、領域によっては軍事やメディアを抱え込んだ巨大なシステムはそれ自身の慣性で突き進んでいくのであり、システム内部からそれを正すことは難しい。

内部から正せない以上、システムの大きな方向性に対して、システム外部の人々(市民)が、その決定への参加を求め、決定に実質的に参与することが、システムの暴走を防ぐための唯一の道であろう。科学技術を統治する「強力かつ独立した大衆」(4)が求められるのである。

そのための仕組みづくりも求められるが、何よりも必要なのは、市民が自分たちの生活を支えるシステムの内部プロセスに関心を持ち、システムを見えにくくしている専門性の壁を乗り越え、専門家の知見を学び、自分の意見を形成しようとする意欲を持ち、専門家や他の市民とのコミュニケーション能力を身につけることである。専門家によって支えられる社会、各人が高度な専門性を身につけることを要請される知識基盤社会であればあるほど、専門家を統制し、社会のあるべき姿を専門家任せにしないで、自分で考えることができる市民の育成が求められる。科学技術について言えば、専門家の協力を得ながら、科学技術システムを統治できる市民の育成が求められるのである。

そのためにはどのような科学教育が必要だろうか? おそらく伝統的な理科教育とはかなり様相の異なる教育が求められるだろう。伝統的な理科教育(大学教育も含める)では「科学を知る」ことを重視してきた。科学の高度化に対応するために学校教育の期間を延伸したり、知識教授の密度を高める(より多くの知識を扱う)ことによって、より広く高度な知識を身につけ、先端的な知との距離を小さくするという考え方で対応してきたのである。その背景には、基礎を一つ一つ積み上げながら学ぶのが学校教育であり、実社会での意思決定に必要となる総合とか学際とかはその基礎の上に立ってこそ可能であるという考え方が存在する。

 この考え方は一見、もっとものように思えるが、少し突き詰めて考えると、こんな疑問が浮かんでくる。毎日、膨大な知識が生産され、知の前線が日々、進歩していく中で、一体基礎とは何をさすのだろうか。もし一つ一つ基礎を積み上げていかなければ総合ができないのだとしたら、大学院でも、あるいは社会人となっても、いつまでたっても総合などできないのではないか。しかし、現実には、職業人としても、また主権者としても、様々な意思決定を迫られる機会はたくさんあり、その多くは教科とか学問という形でまとめられた個別の知の体系に収まらない、総合的なものである。

例をあげてみよう。原子力発電・遺伝子操作などの抱えるリスクとベネフィットについて判断し、その是非を意思決定していくのは究極的には国民一人一人である。専門家は意思決定についての援助をするのであって、意思決定そのものはあくまで国民(実際には国民の負託を受けた政治家が判断を下すことが多い)の責任である。その際、エネルギー安全保障、遺伝子工学など意思決定に必要な様々な事柄をすべて知悉しなければ、意思決定ができないのであろうか。もしそうだとすれば、そのようなことは不可能であり、結局は専門家集団に丸投げをするほかはなくなる。

むしろこう考えるべきであろう。意思決定者としての国民にとって必要な資質は、個別的知識というよりも総合的な判断力であり、自己が意思決定の責任を担うという自覚と主体性を持つことである。知識ではなく知恵が求められるのだと。

このような能力を伝統的な手法である科学的知識の基礎からの積み上げだけで獲得できるだろうか。おそらく無理であろう。具体的な地域の課題や社会的に重要な問題に取り組み、地域の人々の意見を聞いたり、直接体験の中から課題の困難さを実感したりという伝統的理科の枠を超えた総合的・問題解決的経験とそれを保証する教育の仕組み、そしてそれらの背景となる知、「科学技術を統治する市民を育てる教育のための教育学」とでも言うべき知が必要となる。本書はこの知をめぐる私の論考である。

 第1章では巨大な科学技術システムの実装による社会の変化、社会との相互作用による科学の変化、いわば社会の科学化と科学の社会化が現代社会で進行していることとそのリスクを扱う。

 第2章では、「野蛮人化」する市民の問題について述べると共に、専門家もまた「野蛮人化」していること、どちらの野蛮人化も現代の科学技術システムの特性に根ざした構造的な問題であることを扱う。

 第3章では「市民が科学技術に肯定的な態度をとらないのは、正確な知識に欠けているためであり、正しい科学知識を吸収すれば肯定的態度に変化する」といういわゆる欠如モデルを対話と関与のモデルへと変換すべきことを述べる。

第4章では、以上の議論を受けて、市民に必要とされる科学リテラシーの再構築とそれを担う新しい種類の専門性(専門家と市民を媒介する専門性)について述べる。

(1)小林信一(1991):「文明社会の野蛮人仮設の検討―科学技術と文化・社会の相関をめぐってー、研究・技術・計画、6巻4号、pp247-260

(2)福島原発事故独立検証委員会(2012):福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書、ディスカヴァー・トゥエンティワン

(3)ジャンピエール・デュピュイ、ツナミの小形而上学

(4)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(5)西谷修(2011):大洪水の翌日を生きる デュピュイ『ツナミの小形而上学』によせて、ジャンピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』(嶋崎正樹訳)、127-150、岩波書店