リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

政治と科学 不適切な一体化は起こっていないか

政治と科学 不適切な一体化は起こっていないか

イギリスのビジネス・イノベーション・技能省は2010年に「政府への科学的助言に関する原則」を公表しており,その中で科学的助言を行う科学者と政府の関係を次のように述べている。「助言者は、広範な要因にもとづいて決定を下すという政府の民主主義的任務を尊重し、科学は政府が政策策定の際に考慮すべき根拠の一部に過ぎないことを認識しなくてはならない」という助言者の義務と「政府は、特にその政策決定が科学的助言と相反する場合には、その決定の理由について公式に説明し、その科学的根拠を正確に示さなくてはならない」という政府の義務である(1)。政策決定に際しては科学的助言を行う専門家の意見を尊重しなければならないが、政策決定自体は政府の責任においてなされるべきである。しかし政府が専門家の助言と異なる決定をした場合にはその決定の根拠を公的に説明する義務があるというのである。ここには「科学の社会化」の章で述べた変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(VCDJ)の発生を許してしまった政治と科学の不適切な関係性への反省がある.

経緯については既に述べたので略すが,要するに科学が畜産・食肉産業への政治的配慮の中に取り込まれてしまい,政治決断の権威付けに使われてしまった.政治と科学が不適切な一体化をしてしまったのである.そしてこれが政治と科学に対する「信頼の危機」(2)を招いたのである.

このような事態の再来を防ぐため政治と科学を切り分け,どこまでが科学でどこからが政治になるのかを明確に線引きしようとする意図が上述の原則の中に示されている.

科学技術にかかわる政策決定をする場合、政策の正当性を担保するため科学技術の専門家の意見(専門知)が必ず必要となる。しかし政策決定は様々なステークホルダーの利害を勘案しながらなされるものであり、このような場合、政策の正しさを主張するため専門知を利用する、つまりあらかじめ結論を決めておいて専門知をその裏付けとして利用しようという誘惑が政治の側(政策を担当する官僚や政治家)に生じることは避けられない。もちろんその結論が明確に専門知に反する場合、専門家がそれに乗ってくることはないだろう。しかし科学には先にも述べたように不確実性があり、また意見の不一致がある。要するに揺れているのであってその揺れの範囲の中に政治側が求めたい結論がある場合、権力構造やステークホルダーへの配慮(そんな規制をしたら業界がつぶれてしまいます、社会的影響が大きすぎます・・・・・・)の中で今度は専門家がその結論に同調する誘惑にさらされることになる。これには研究資金の供給者の利害への忖度、企業研究者の場合は雇用者への忖度も含まれる。政治の側も、自分たちが望む政策に裏付けを与えてくれる知見が与えられれば、その知見の得られた条件を無視して過剰に一般化し、根拠のない確信をもつことになりやすい。正のフィードバックが起きるのである.これが長期にわたって続くと原子力に典型的にみられる政官財学複合体が成立し、複合体の利益に反する専門家は排除され、周辺化されることになる。

結果的に科学が政治に従属し、科学と政治の不適切な一体化が起こり、科学の名の下で政治が恣意的な判断を行うことになる。それは科学にとっても政治にとっても不幸なことであろう。

ただし科学と政治がまったくコミュニケーションを行わないというのもまた不適切である。社会的に実行不能な政策には意味がないので、実行可能性を探る段階ではコミュニケーションが必須となり、場合によっては専門家が政策決定に実質的に踏み込んでいく場合もある。新型コロナの専門家会議はまさにその例であろう。分野によっても異なるが、科学と政策の重複は多かれ少なかれ起こりうるのである。しかしそれは一体化ではなく「科学的助言者はそのような両者の役割領域の境界の複雑な構造を念頭に置きながら政府側との距離感を測り、自らの独立性を確保すると同時に政府側とのコミユニケーション・相互作用を維持する必要がある」(3)のである。

この章の冒頭で「市民の意思決定の質を高める努力が絶えず行われなければならない」と述べたが,市民の意思決定は,このような政治と科学の関係性を踏まえて行われなければならない.具体的には政治と科学の不適切な一体化が起こりうることを前提に,科学の独立性が確保されているかどうか,政治と科学の間にどのようなコミュニケーションが行われているのか,政治による意思決定が依拠する科学的根拠は何かといったことを専門家の適切な支援を受けながら監視し,判断できる能力を市民が備える必要がある。したがって市民教育の中では,科学に対する基本的信頼は保持しつつも、トランスサイエンス問題には科学と政治の不適切な一体化が起こりうるという認識,それを防ぐためには、政治が「科学に基づいて下した」とする決定を鵜吞みにせず、政治と科学のコミュニケーションを広範な市民が精査する必要があるという認識を持つ市民を育てる必要がある。そこには「誰が決定による利益を享受し,誰が不利益を被るのか」という社会的背景へのまなざしも含まれる。

ただしこのような認識を持つ市民が育ったとしても、精査が実際に機能するには条件がある。上にも触れたが「専門家の適切な支援」である。ここでいう専門家は必ずしも科学者だけを意味しない。むしろ科学と政治のコミュニケーションを丁寧に腑分けする、科学と政治の関係をメタ的に分析し、市民に提示することができる専門家、市民と政治と科学の対話を媒介する専門家,サイエンス・コミュニケーターである.

サイエンス・コミュニケーターというと科学を市民に分かりやすく解説する専門家というイメージが強いが,サイエンス・コミュニケーションについて文科省科学技術・学術審議会の科学技術社会連携委員会は「今後の科学コミュニケーションのあり方について」という文書で「科学コミュニケーションは、正確な科学技術情報を 提供し、科学技術の楽しさ、科学技術の正の側面を伝えるだけではなく、科学技術の持つ負の側面も正しく伝え議論を促すことや、広く公共に資する人道主義 に基づいた社会課題の解決や利害の調整に関わることも、より一層求められる ようになっている。そして、そのような社会課題の解決や利害の調整においては、 当然ながら、従来の科学コミュニケーションが想定していた役割では対応出来ない複雑な意思決定のプロセスが存在する。従って、時には利害の対立を科学コミュニケーションが正面から扱わざるを得ない状況が発生する」とし,科学コミュニケーションの機能を科学と社会の調整をになうものとして大きく拡大している.科学コミュニケーターに対しては「中立な立場で議論を収れん(コンバージェンス)させ、又は収れんに向けより活発に建設的な議論を進め、各ステークホルダーがその結果を自らのものとして受け止められるようにするための対話・調整機能を果たすことが求められる」という「対話・調整機能」,「対話・調整機能を果たした上で、社会課題に関する議論を建設的な方向に導き、研究開発者と多様なステークホルダーや一般市民が「共に創る」ことにより科学技術イノベーションへと発展させていく」という「コーディネーション機能」を果たすことを求めている(4).

これらの知見を教育の場に取り入れるとしたら,科学の内容の啓発という意味で教育者をサポートするだけでなく, 科学的見解と世の中の意見や政策の布置を示し(マッピング),どのような選択肢がありうるのか,どの選択肢を残し,どれをすてるべきかの話し合いを,学習者と科学者、教育者と科学者の対話も含めてコーディネートできる専門家であろう.今は一部のSTS研究者を除いてこのような専門家はほとんどいないので,理学部等大学で行われる科学教育あるいは後期中等教育のスペクトルをこのような媒介の専門性を含むものへと広げることも必要になると私は考える.

 

 

(1)独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター政策ユニット(2012):政策形成における科学と政府の役割及び 責任に係る原則の確立に向けて中の付録 政策形成における科学と政府の役割及び責任に係る原則の確立に向けて「ビジネス・イノベーション・技能省(BIS)「政府への科学的助言に関する原則」(2010年3月24日)の内容」より引用

(2)平川秀幸(2011):信頼に値する専門知システムはいかにして可能か―専門知の民主化/民主制の専門家という回路,科学81(9),896―903

(3)有本建男・佐藤靖・松尾敬子・吉川弘之(2016):科学的助言 21世紀の科学技術と政策形成、東京大学出版会

(4)文部科学省文科省科学技術・学術審議会科学技術社会連携委員会(2019):今後の科学コミュニケーションのあり方について,https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu2/092/houkoku/__icsFiles/afieldfile/2019/03/14/1413643_1.pdf