リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

そっと行う 科学技術へのバランサー

 ここからは、そっと行う(順応的管理)ことについて考えてみよう。そっと行う(順応的管理)ということは、耳を澄ませることと一対である.事態の進行に対して耳を澄ませる(モニタリング)ことにより、成果や副作用を評価して,計画にフィードバックさせていく過程の全体である。計画を大きく変更する場合があるし、場合によっては代替案に乗り換え、当該科学技術から撤退することもありうる。このことが可能であるためには、当該科学技術が修正・撤退の必要性を無視して暴走する自動機械に化してしまわないよう平衡をとる錘(バランサー)を社会に組み込んでおくことが必要となる。

 科学技術研究も他の社会活動と同じく、分野が立ち上がり、拡大していくにしたがって関係者のコミュニティが形成されていく。このコミュニティを維持していくためには、絶えず研究のフロントが前進し、博士論文のタネが生まれて、新規参入してくる若手研究者のポスト(そのためには中堅の研究者が昇進していくポストも必要となる)が継続的に供給されなければならない。

しかし、財政危機による全体のパイの伸び悩みと研究に必要な装置類(第一線の研究を進めていくためには、高額な装置とその絶えざる更新が必要であり、多くの科学研究は装置産業化してきている)の価格高騰、大学(とりわけ国立大学)や国立研究所のポスト削減と非正規化、つまり研究資源がひっ迫してきたことが科学技術分野間の生き残り競争を激化させている。

競争のアリーナは学術界内部にとどまるものではない。研究に必要な資金は学術界の外部(政府や産業界)から供給されるものである以上、メディアを含め、資金供給に影響力がある人々の支持を取り付けていく必要がある。政府や産業界にも科学技術を活用して経済的利得や政治的成果を得たいという思惑が存在するので、その思惑に沿う形で研究成果をアピールし、他の科学技術分野との競争に勝ち抜いていこうとするアピール競争が行われやすい。

このような科学技術内外の構造的要因が存在するため、ある程度の規模に発展した科学技術に対して、その成果を活用して利得を得る方向でのモチベーションは働いても成果の持つリスクに配慮するというモチベーションは働きにくい。何回も例を出すため、食傷ぎみではあろうが、やはり原子力発電に例を取ると高木仁三郎小出裕章といった原子力工学内部から警告を発してきた人々は主流派から疎外され、無視され、嘲弄されてきた。地震学の分野から警告を発した石橋克彦は分野外の人間であるとして、これも無視された。当該科学技術の内部の人間からすればこれらの人々は裏切り者であったり、素人であったりと、要するに当該科学技術の発展を妨害する雑音とみなされたのである。事故や高レベル放射性廃棄物の蓄積などのリスクは意識されてはいるものの、将来の科学技術が克服できるものと楽観視されたり、無視されたりしてきた。そして当該科学技術の正の側面が一方的に強調されてきた。「「人類の福祉」への貢献と同時に「人類に及ぼす害悪の可能性」を可能な限り明らかにする必要があることに対するあらわな無関心」(1)が支配的だったのである。

ちなみに個人的体験になるが、私が高校教員だった時に理科教員の団体で原子力の研究者の方を講師に呼んだことがある。事故時の放射性廃棄物の漏洩のシミュレーションをされている方だったので、興味を抱いた私が、格納容器が破壊されるような事故の場合、周辺地域がどうなるのか質問したところ、「そのような事故は起こりえない。起こりえないことを研究しても無意味だ」と一刀両断されてしまったことがある。小うるさい素人と思われたのかもしれないが、おそらくこの研究者自身がそう信じこんで、自分を納得させていたのだろう。

話をもどそう。内部からの批判が抑圧され、外部からの批判もはねつけられることが懸念され、また実際に起こっている以上、その科学技術は暴走する危険性を抱えていることになり、それを抑制し、バランスをとるバランサーが必要である。かんがえられるものは何だろうか。もっとも大事なのは暴走を抑えることのできる市民の育成、つまり市民の教育であるが、教育については別途述べるので、以下ではそれ以外の要素について触れることとする。   

一つの試みとしては「安全政策を総合的に支えるため の「安全の科学(リスク管理科学:レギュラトリーサイエンス)」(2)のようなリスク・コントロールを研究成果とする科学が考えられる。このような科学が進展し、科学技術政策決定の際の指標を提供できるならば、「「先進技術の社会的影響評価」の制度化」(2)が可能になり、公正取

引委員会が資本主義の健全な発展を支える規制装置であるのと同じように、科学技術の内部に規制機能を組み込めることができるかもしれない。規制の対象となる科学技術分野(たとえば原子力工学や化学工学)やそれを所管する行政から相対的に独立し、それらの分野の内部のヒエラルキーに組み込まれない、独自性を持つ実証科学としての地位を確立し、それに基づく政策提言ができるようになれば、レギュラトリーサイエンスが、いわば恒常的な第3者委員会のような機能を果たすことが期待できるからである。

 しかしレギュラトリーサイエンスに過剰な期待をかけるわけにはいかない。レギュラトリーサイエンスは規制科学とも呼ばれるように、規制の対象となるものが必要となる。規制の対象となる有害事象の存在することがレギュラトリーサイエンスの存立の根拠である。したがって、有害事象を引き起こす可能性のある科学技術から撤退するという、いわばちゃぶ台返しのような根源的批判を提示することはレギュラトリーサイエンス自体を脅かしかねない。結果、技術的改良や意思決定システムの改善によって安全を確保するという問題解決志向の研究(微温的な研究)が生産的な研究として歓迎されることになる可能性が大きい。寿楽幸太は原発事故や化学工場事故等の複雑で高度なシステムを分析した社会科学や人間科学の知見が「工学者や政策担当者、経営者などに親和的な言説へと、いわば「翻訳」された」ことを分析し、そこに「社会科学的批判性の揺らぎ」を指摘しているが(3)、これと同じことがレギュラトリーサイエンスにおいても起こりうる。「ミイラ取りがミイラになる」危険が存在するのである。こうならないためには、レギュラトリーサイエンスの方向性を検討するメタの視点を持つ社会科学の研究(メタ・レギュラトリーサイエンス)も必要になるだろう。

 もう一つのバランサーとしては、科学技術が社会に実装される以前に、そのリスクとベネフィットを自然科学・人文科学・社会科学のバランスのとれた観点から議論し、リスク抑制策を組み込んだり、場合によっては実装を差し止めることを、政府をはじめ広く社会に提言する学術組織が考えられる。この役割は、政府の経済政策に事実上従属している総合科学技術・イノベーション会議のような政府内の組織が担うことはできない。政府から独立し、分野横断的に研究者を組織できる日本学術会議の機能を拡張し、この役割を担ってもらうことが望ましい。原子力発電のように個別科学技術と産業と政府が緊密に結合し、それ自身の利害によって自律的に動く巨大な産官学複合体にたいしてこのような組織はほとんど蟷螂の斧のように見えるかもしれないが、当該科学技術のコントロールの必要性とその方策について社会科学、人文科学を含めた広い見地からの学術的根拠を提供することの意義は大きい。むろんこれは一方的に当該科学技術の外側で議論するという意味ではない。当該科学技術分野を含めさまざまな学問の間の対話の中から方向性を見出すという意味である。専門知を包含しながらもそれを超えた総合知を作り上げていくのである。

 よりラディカルに考えれば「責任」という概念の再考が必要なのかもしれない。ここでいう責任とは、いわゆる「責任」の語意とは少し異なることをさしてつかっている。「責任」とは通常ある行為が他者に被害を与えた際の民事・刑事上の責任というように、事後的なものであるが、ここで言う責任とは事前的な責任、たとえば新規の科学技術の社会実装や化学プラントの立地等の巨大開発が何かしらの被害を起こす可能性がある場合、その行為を「やめる」責任、当該科学技術等から「引き返す」責任、いわば事前責任と「やめる」、「引き返す」ことをしないまま何らかの加害が発生した場合の事後責任をセットとした責任を考えている。製造物責任については限定された形ではあるが事前責任が認められている。それを個別の製造物ではなく、科学技術や地域開発にも拡張し、強化された事後責任と組み合わせるのである。アセスメント(事業の実施を前提としない、撤退も選択肢に入れたアセスメント)と事前の説明責任、仮に被害が予想されているにもかかわらずその行為を行った場合、無過失でも故意でもなくても被害発生前の状況に復帰させる、あるいは被害を賠償する責任、被害が当該科学技術や地域開発に由来するものではない場合、それを証明する責任(挙証責任)の3点セットとでも言えばいいのかもしれない。なんだかボヤっとしていることは論じている私自身も十分承知している。しかし、現在の社会には従来の通念や法では対応しにくい穴がたくさん空いている。海洋のプラスチック汚染のように生態系や種などが主たる被害者となっていて被害者が責任の追及主体にはなれない場合、10万年の未来まで管理が必要な核廃棄物のように権利を侵害される主体(未来世代)がまだ存在していない場合、地球温暖化による島しょ国の居住地喪失のように被害と加害が時間的・空間的に離れていて統一的に権利・義務関係を調整する主体が存在していない場合等である。これらはどれもこれも、これまで論じた「無知」の領域に入るものではない。この行為(プラスチックの製造・廃棄、原子力発電、化石燃料の大量消費)を長年続けていればいずれは困ったことになるだろうと予想されながらも、責任を取る主体も不明のままで漫然と行われ、引き返せないままずるずると今に至っている。その間に発生した利益は生産者と消費者に回収され、外部不経済(取引当事者以外に及ぶコストや危害、市場の外で発生するため、価格に転嫁されない)は、地方、貧困者・地域、開発途上国、自然といった発言力の低い他者に片寄せられてきた。

このようなことが将来繰り返して起こることを防ぐためには、いつその責任が発生するのかわからない事後責任単独よりも、困った事態が起こる前の事前責任、入り口の段階での責任をもっと明確化し、それと対応させた形で事後責任を設定することが必要と考える。つまり「やめる」責任、「引き返す」責任の主体はだれかをはっきりさせ、責任(自然や未来世代への責任を含む)を定義し、どの時点でその責任が発生したかを監視し(そのためには立ち入りなど情報収集の権利が保障される必要がある)、責任が果たされていない場合の責任追及を遅滞なく行う、そのためにも責任追及を行う人々に不当な圧力が加えられないよう保護する、そのような明示的なしくみを社会実装するのである。それは外部不経済を内部化して公正を実現することであり、また潜在的な加害者の事前規制へのインセンティブを高めて予防効果をもたらすことも期待できる。

 以上、欠如モデルから対話と関与のモデルへ転換しなければならない理由を述べてきた。ここからは上述の「現場の知に耳を傾ける」などと一部重複する部分もあるが、科学技術・科学技術政策への市民参画の根拠を考えてみることにしよう。 

(1)柴谷篤弘(1998):反科学論、筑摩書房

(2)日本学術会議(2010):リスクに対応できる社会を目指して、http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-tsoukai-10.pdf

(3)寿楽幸太(2020):原子力と社会-「政策の構造的無知」にどう切り込むかー

、『科学技術社会論の挑戦2 科学技術と社会―具体的課題群』、106-126、東京大学出版会,149-168

 

          

耳を澄ませる 見せかけの知との対峙

経済学者のフリードリヒ・ハイエクは、賢明なエリートが社会を俯瞰的に把握し、設計し、指導することができるという前提に立つ設計主義・計画主義を「進歩を続ける理論的知識が、今後あらゆる分野において複雑な相互関係を確証可能な事実へと還元してくれる妄想」として批判した。また彼は「見せかけの知」と題するノーベル賞受賞記念講演で「経済学者が政策をもっと成功裏に導くことに失敗したのは、輝かしい成功を収める自然科学の歩みをできるかぎり厳密に模倣しようとするその性向と密接に結びついているように思われます。しかしそれはわれわれの専門領域においては完全な失敗へと導きかねない企てです」と述べ、厳密な条件統制を行うことができる物理化学を模して経済をコントロールしようとする経済学を厳しく批判した。「物理化学の偉大かつ急速な進展が起こったのは、相対的に少ない変数を持つ関数として観察される現象を解明する法則にもとづいて説明と予測を行うことができた分野」であること、一方経済学のような社会科学は「本質的に複雑な構造、すなわちその特性が相対的に多数の変数を含むモデルによってのみ明らかにできる」ことを前提しなければならず、またそのような変数を観測・測定しつくすことはできないために「現実世界で生じるさまざまな現象の可能的原因として許容される事実を、きわめて恣意的に制限してしまう」ことを指摘し、「科学が到達すると私たちが予測できることには厳然たる限界が存在する」、「科学的方法が到達できる以上のものを科学にーつまり、科学的原理にしたがった意図的統制にーゆだねることは嘆かわしい結果をもたらす恐れがある」と結論している。経済学がいかに華麗な数学的体系と経済政策への影響力を持っていたとしても、複雑な経済システムの各要素間の関係と相互作用をすべて観測することなどできない以上、物理化学を模倣して社会をあたかも一つの実験系のように扱ってコントロール可能であるかのように理論化し、社会にもそう見せかけようとしている多くの経済学(学派)は、ハイエクにとって似非自然科学であり、「見せかけの知」なのである。

 ハイエクは経済学を批判しているが、複雑な系を扱う工学もまた「科学的方法が到達できる以上のものを科学にーつまり、科学的原理にしたがった意図的統制にーゆだねる」という意味で「見せかけの知」と化している場合がある。原子力工学はその典型であろう。

福島第一原発の事故を経験してわかったことは、原子炉という複雑で巨大なシステムが外部から攪乱を受けた際の、システム内部要素の複雑で緊密な(タイト・カップリング、ある要素またはサブシステムの変動が他の要素やサブシステムに波及していき、その波及を遮断することが困難)相互作用は、少なくとも事故の進展の途上では、原子力工学の専門家にもほとんど理解できないということである。事故後の後付けの調査で大筋のストーリーはわかってきたが、細部のこと(たとえば水蒸気爆発が起こる危険性はなかったのか、地震動で配管はどうふるまったのか)は事故後10年以上たっている現在でもいまだにほとんどわかっていない。原子力工学には膨大な研究資源(研究者、研究費)が投じられ、巨大な研究分野に成長したが、結局、事故の進展をコントロールするどころか、どのように事故が進展しているのか、いくのかという理解すらできないことが明らかになった。精緻で巨大な理論はある条件の範囲内ではそれなりに有効なものではあるが、そのよって立つ条件を超えた現実に直面した時無力だった、つまり原発をコントロールできると対社会的に喧伝しておきながら、実はコントロールできない「見せかけの知」だったのである。

では原子力安全の研究が不十分だったから、裏を返せばもっと研究をすすめれば、原子力工学は「見せかけの知」ではなくなり、原子炉が安全なもの、もう福島のような大きな事故を起こさないものになるのだろうか。おそらくならないだろう。 

これまでにも触れてきたように人間の認識には限界が存在する。「無知」という領域がある。「無知」を要因とする事故、発生を予測できない事故はそもそも起こってみないとわからない。巨大で危険なシステムのリスク管理に使われる確率論的リスク評価の中心的な技術体系であるフォールトツリー分析やイベントツリー分析は、システムに悪影響を与える事象を想定し、それがいかなる経路を通って事故に至るかを分析する手法である。したがって「いかなる事故イベントを想定するかが分析の限界となる」(神里達博))2)。つまり想定されていない事象が発端となる事故は防止できないという認識論的限界が存在するのである。またたとえ既知の領域であってもコストを無限にかけることができない以上、あまりに低確率(だと認識された場合)の事象は切り捨てざるを得ない。その場合、当該の事象が事故にまで発展することは防ぎえない。

おそらくどんな極端な原発推進論者でもチェルノブイリや福島のようなレベル7の事故を許容できる範囲内の事故と考える者はいないはずである。じかし上記のような人間の知の限界がある以上、たとえ低頻度であってもレベル7の事故は今後も起こりうる。現に原子力規制委員会は「原子力規制委員会としましては、福島第一原発の事故を踏まえて策定された新規制基準 に適合する原子力施設につきましては、同様の規模の重大事故が発生する可能性は極めて 低く抑えられていると判断させていただいております。 他方で、原子力災害対策を考える上では、確率がゼロではない限り、事前にできる限りの対策をするということで、二つ目の丸にございますように、こうした厳しい安全対策が講じられても、なお予期されない事態によって重大事故に至る可能性があることを意図的に仮定して、様々な事態に対処できるような緊急時対応をあらかじめ定めておく必要があるという考え方に基づきまして、災害対策の強化をさせていただいているところでございます。」と述べている(3)。回りくどい言い方のため、長く引用せざるを得なかったが、要は福島クラスの事故は起こりうることを認めているのである。改めて確認しよう。研究とそれに基づく安全確保策によって残存リスクは低減できるだろうがリスクそのものが消滅することはない。これは人間の知に限界がある、認識論的限界が存在することに起因している。原子力事故を行政と業界の癒着とか、官産学の利権共同体とか人間社会のもろもろの事情に帰する議論はよく見られる。それはそれで重大な問題だが「認識論的事故」という原理的問題とは関係がない。清潔で有能で誠実な官僚や経営者や研究者がそろっていたとしても起こりうることは起こりうるのである。過度にこのような人的要因を強調することは適切ではない。要は原子力を破滅的な事故が起こらぬようコントロールすることはおそらく「科学的方法が到達できる以上のものを科学にーつまり、科学的原理にしたがった意図的統制にーゆだねる」ことになり、これは「見せかけの知」であるということだ。原発推進側はまずはこのことを率直に認め、それにもかかわらず推進するのだということを主張する必要がある。

もう一つ付言しておこう。ベックは「住民の大半や原発反対者が問題にするのは、大災害をもたらすかもしれない核エネルギーの潜在能力そのものである。目下事故の確率が極めて低いと考えられていても、一つの事故がすなわち破滅を意味すると考えられる場合には、その危険性は高すぎる。」と述べている(4)。ベックのこの立場、「住民の大半や原発反対者」の立場は原発のリスク低減とは別次元の立場であることを明確に認識しておく必要がある。。これは大半のリスク論者とは異なる立場であり、破滅的リスクと他のリスクとの比較考量そのものを拒否する立ち場である。リスクの低減ではなくリスクの消滅を求めている。コントロールできないリスクへの門を閉じることを要求しているのであり、無知ゆえにゼロリスクを求めているわけではない。行政や事業者、メディア、研究者はそのニュアンスの違いに耳を澄ませ、リスクの低減をどこまで行うかという裾切りの議論には乗ってこないこのような立場もまた道理の通ったものであることを認める必要がある。

 

(1)フリードリッヒ・ハイエク(2010):ハイエク全集第2期第4巻 哲学論集、長谷川みゆき他訳

(2)神里達博(2020):リスク論、『科学技術社会論の挑戦2 科学技術と社会―具体的課題群』、106-126、東京大学出版会

(3)北海道庁総務部原子力安全対策課:平成29年度第1回 原子力防災に関する連絡会議 会議録 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/gat/bousai/H29-01kaigiroku.pdf

(4)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

耳を澄ませるために

 

耳を澄ませるために 現場の知に耳を傾ける

 野生のシカやウマは群れを作る。その理由の一つは群れを作ることにより、たくさんの目や耳を持つことができ、警戒監視機能が向上することである。そして大きな群れでは小さな群れよりも捕食者検出率は高いとされている。いわゆる「多くの目」効果である。

 かなり荒っぽい比喩だが、何かリスクが存在する場合、それを検出するには多数の目や耳、つまり多くの人々の知見が集められ、活用されることが望ましい。

もちろんシカやウマの集団とは異なり、人間がリスクに対峙する場合、様々なリスクに対して、多くの場合、それに対応する専門家、たとえば化学物質に対しては化学物質の専門家が、原子力にたいしては原子力の専門家が存在し、それぞれのリスクに対応する組織も存在する場合が多い。高度な能力を持つ見張り役がいるのである。

それにもかかわらず、できるだけ多くの人の知見を取り入れる必要があると主張するのには、いくつかの理由がある。たとえば、それが市民の権利として考えられるからであり、民主主義社会の能力を高めるからである。しかし、それらは後の節の宿題として残すことにし、ここでは前節で触れた「無知」との関係に絞って述べてみよう。

巨大開発や遺伝子組み換え生物の導入といったことに対して、「何が起こるかわからないではないか」という「無知」への憂慮はしばしば反科学と解釈され、「ゼロリスクという誤った期待を持っている」とか「根拠のない心配をしている」、「感情的な判断をしている」とみなされ、憂慮を表明する人たちに科学的根拠を示せという要求がなされる。しかしこれまで述べてきた前例がある以上、「無知」を憂慮することは反科学ではないし、科学をよく知らないから過剰な心配をしているわけでもない。小林傳司は科学技術にかかわる問題についての市民の意見を分析し、「市民の意見というのは、決して感情的判断ではなく、ある種の歴史的経験主義といったものに基づいているように思えるのである。食品添加物が引き合いに出されているように、「かつて専門家や行政が安全と言っていたものが、後になって危険性を持つことが判明した事例がある」と市民は考えるのである。そして、「遺伝子治療に関しても、専門家は安全性を確認していると述べている」が、これも食品添加物と同じようになる可能性があるのではないか、と推論するのである。そして「遺伝子治療は命に関わるものである以上、後で予期せぬ問題が生じたという事態は困る」ので、「安全性のチェックを強化してほしい」と考えるわけである。」と述べている(1)。科学の進展の様子を見ていても、未知が既知になることばかりではない。放射線の影響とか、有機塩素化合物の毒性だとか、ひとまず確定(既知)だと思われていたことが、後でデータが蓄積されるにつれて不確かになっていく、つまり既知が未知に変わっていくことはむしろよくあることである。したがって「無知」が存在するかもしれないことを憂慮することは、愚かなことではなく、そこに何か根源的な不確実性が存在していることへの直感的な理解があると考えた方がよい。過去に政府や専門家が安全性を強調しながら結果的に失敗してきたことを経験している以上、次も失敗するのではないかという懸念を抱くことはむしろ合理的ですらある。このような理解や懸念を素人の誤解や過剰な心配とみなして政府や産業や専門家が躍起になって啓発しても不安はなくならない。「無知」の領域が存在していること、「無知」への憂慮は正当なものであることをいったんは認めなければ話は始まらないのである。

「無知」の領域が存在していることを認めるならば、科学技術にかかわる問題について、専門家や政府の外側に広く知見や意見を求め、関与者を拡大することは当然のことになる。「多くの目」効果が期待できるからである。しかしそもそも専門家が予見しえないリスクを非専門家が指摘できるのだろうか。科学技術の方法論に踏み込んで考えてみよう。

 小惑星探査衛星のはやぶさ2号は地球から約3億km離れた小惑星りゅうぐうからサンプルを採取し、地球に帰還した。これはJAXAはやぶさ2プロジェクトの偉業である。3億km離れた探査機を直径わずか900mのりゅうぐうに着陸させ、サンプルリターンを行うというのは驚くべき精密さである。このような偉業を見たとき、科学技術の素晴らしい成果に驚嘆するとともに、科学技術により何もかもが分明になり、コントロールできるという感覚が生まれることが理解できる。何も宇宙科学に限らず、気象学や分子生物学、あるいは飛行機とか原子炉の設計のような工学であっても、専門家のなしとげる成果には驚嘆すべきものがあり、とうてい素人が容喙できるようなものではないと思える。しかし、このような成果は、実は科学技術が扱いやすいもの、つまり計算が可能で、応答が予測しやすい事物を対象としているという面によるところが大きいことを見逃してはいけない。小惑星探査機の例で言うならば、宇宙において圧倒的に大きな力は太陽や惑星の引力であり、それに加えて太陽風や光の圧力である。引力は計算でき、太陽風や光の圧力は探査機のエンジン推力により補正できる。非常に巨大なスケールではあるが何が起こるか、それに対してどうしなければならないかは計算可能である。

ところが自然現象の多くはそうではない。わずか634mのスカイツリーから紙を落としたとしよう。紙がどこに落ちるか正確な位置を求めることはできない。紙の行方を決めるのは重力だけではなく紙の周りを流れる空気の流れであり、後者が無視できない効果をもたらす。乱流の中の物体がどうふるまうかは、たとえ計算しようとしても、計算量がたちまち莫大なものになり発散してしまうのである。あえてわかりやすい例をあげたが、同じように正確な予測ができない例は生態系や生体中における物質間の相互作用、地震による地盤の破壊(どこでいつ壊れるのか)など枚挙にいとまがない。要するに「よくわからない」のである。

しかし「よくわからない」から諦めるかというと、そういうわけにもいかない。薬や食品添加物として有望な物質が見つかったり、地域の経済的発展に役立ちそうな開発計画が持ちあがれば、その可能性を追究したくなるのは当然である。

ではどうすればよいのだろうか。一つには安全率を取りながら実用化するという手があるだろう。たとえば食品添加物の場合、有望な物質が見つかれば、動物実験を行い、無毒性量(各種毒性試験において有害な影響が認められない一日当たり最大投与量)を確定し、ヒトと動物の種の違い、ヒトの個体差を考慮し、安全係数(通常100)で無毒性量を割ってヒトの一日許容摂取量とする(2)。安全係数、つまり余裕の大きさを使って安全を確保しようとするのである。同様の考え方は化学物質や土木構造物、薬(薬の場合は治療に有効な量と有害な量との割り算で算出する)等、様々な場面で使われている。

シミュレーションという手もある。システムが多数の要素で構成され、要素間に複雑な相互作用が働いている場合は、それらを模擬したモデルをコンピューター上に設定し、モデルがどうふるまうかを経時的にシミュレーションするのである。気候変動、核融合、自動車や飛行機の設計など様々な場面で使われている。

AIという手もあるのかもしれないが、筆者はよくわからないので、ここでは略しておく。

さて、では安全率やシミュレーションでリスクを防ぎきることができるかというと、そうは言えない。安全率の設定というのは、実はかなりあいまいである。食品等で通常使われている100という安全係数も確たる根拠があるわけではない。人の食べるものなので、かなり厳しい100という数字を選択しているわけで、言ってみれば専門家の相場感覚である。相場感覚を超えるような事象は想定されていないし、また摂取する物質間の相互作用も考慮されていない。ちなみに飛行機のような安全性と軽量化のせめぎあいの激しい分野では安全率は1.5程度(予想される最大荷重に対して機体が分解しない限界荷重の比)と低く抑えられている。飛行機の場合は安全率を低くとるぶん、メンテナンスの徹底と部品管理で安全を担保しようとしているのである。対象が違えば、それぞれの専門家の相場感覚は異なってくることがわかる。

シミュレーションにしても研究者は予想のためのモデルを立て、それに従ってシミュレーションを行うが、そのモデルが正しい(概ね正しいといったほうがよいだろう)かどうかは結局は現実とすり合わせてみないとわからない。気象モデルなどは過去の気象の変化の経緯をモデルがうまく模擬しているかシミュレーションで確かめている。現実とすり合わせてみてうまくいかないようだったら、モデルを再考するのである。気象モデルのように先生役になってくれる現実がたくさんあれば、モデルを修正する機会はあるが、大規模プラントの事故のような早々起こるものではない事象においては先生役は数少ない。「起こってみなければわからないことがたくさんある」というのが実態であろう。

 安全率やシミュレーションが信頼できないということを言おうとしているのではない。安全率もシミュレーションもそれぞれに有用ではある。しかし、それをやみくもに信頼して絶対視してはいけないというごく当たりまえのことを言いたいのである。

 リスクが現実化することを防ぐためには、特定の方法に頼りきるのではなく、多様な方法を併用する必要がある。その一つの方法として専門家以外の人、とりわけリスクに直面する現場の人からの情報(現場の知)を丁寧に聞き取る方法がある。例を挙げてみよう。

 吉野川宮崎県高千穂町土呂久鉱山では硫砒鉄鉱を焼いて亜砒酸の製造を始め、周辺地域で砒素中毒になる人が相次いだ。1962年に鉱山は操業を止めたが、地域の砒素被害を知っていた地元の岩戸小学校の教師が児童の健康への影響を心配し、健康調査をしたところ、1913年から1971年までの間になくなった人の平均年齢が39歳と極めて低年齢であることがわかった。教師集団の中心となって調査を行っていた斎藤正健は世帯ごとの死亡者と病名を克明に調査し、「土呂久鉱山周辺被害(死亡)地図」をまとめあげた(3)。この調査は「素人の調査で専門性がない」と否定され、県による健康診断でも病気の広がりが著しく過小評価され、一時、もみけされかけたが、教師たちのこの調査がきっかけとなって、土呂久の住民が裁判闘争に乗り出し、公害被害が社会問題化して最高裁での和解に至ったのである。土呂久の住民は操業当初から鉱山の亜非砒酸製造の煙が有毒であり、それが集落に病をもたらしていることを認識し、行政にもそれを訴えていたが、全く取り合ってもらえず、社会に知られることもなかった。その問題を丁寧に調べ、住民の話に耳を傾ける教師の存在がなかったなら、寒村の業病というような形で葬りさられていたのではないだろうか。

 一般に汚染や災害について住民は何かしらを知っていることが多い。水俣では水俣病確認以前からチッソの排水口に船を持っていくと、船底に付着した貝類が落ちて(死んで)船底がきれいになることが知られていた。何か毒が出ていることは経験的に知られていたのである。新潟水俣病の場合も阿賀野川の流域漁民は、患者の確認される20年以上前から「昭電の毒水」の存在を認識していた。富山県神通川流域でも1955年に婦中町の医師荻野昇が住民調査の結果、鉱毒説を発表し、報道されて、イタイイタイ病が社会から認識される30年も前から、住民は、原因はわからないながらも、この病気の存在を認識していた。ちなみに荻野医師の鉱毒説は当時の富山県医学界から一蹴されている(4)。

2018年の岡山県真備町で起こった洪水では200人以上が死亡する被害を出したが、洪水に襲われた地域は古くから住んでいる住民にとっては水害が起こることが必至と思われている地域だった。氾濫を起こした小田川は勾配がきわめて小さく、増水時には高梁川からの逆流が頻繁に起こることが多く、治水上の問題点として指摘されていた(5)。付け替え工事の要望もなされていた、それにもかかわらず小田川周辺の低地は住宅地として開発され、結果として大きな災害に至ってしまったのである。

土石流の起こる谷には、蛇、竜などの字が使われていることがある。土石流がのたうちまわる蛇や竜にたとえられるためで、地名の中に過去の災害の記憶を残しているのである。

たとえば長野県の南木曽町には、蛇抜沢や押出沢という地名で土石流の起こる谷が記され、土石流災害で亡くなった人の霊を慰めるため、「蛇ぬけの水は黒い 蛇ぬけの前にはきな臭い匂いがする」(6)等の土石流の予兆も言い伝えを記した碑が立てられている。逆に宅地開発などが進められている地域では、地名が忌まわしいとして改名されたり、良い意味の漢字に読み替えられるなど、過去の災害を隠そうとすることが多い。その場合、何も知らずに移り住んできた人々は土石流に何も知らず、その脅威に対して無防備になってしまうだろう。

 このように、現場の知はその地域の人々の間で共有されるにとどまり、政策に必ずしも反映されない場合が多い。とりわけ行政が進めようとしている政策と反する知見の場合は専門家ぐるみで知見が否定され、無視されることがしばしば見られる。しかし上述の例でも分かるように、現場の知が政策に生かされていれば犠牲者が無いかあるいは少なくて済み、実は行政や企業のコストもはるかに少なかったはずである。これは、専門家や政策担当者だけでなく、関連があるとみなすことができるあらゆる関係者、とりわけ地域住民や住民の声を集約することができる立場の人々(教師や医師、市民団体等)の声に早い段階から耳を傾け、対話することが必要となることを示している。

 

耳を澄ませる 対話により枠組みを組み替える

対話を行う際、大事なのは、対話の当事者が、対話によって自らの枠組みを組み替えることができる柔軟性である。物事をとらえる枠組みは立場によって、人によって異なる。原発の問題一つとってみても、推進側の電力会社や経産省と受け入れる側の住民とでは見える風景が異なる。住民の中でも建設業と水産業では重要と思う事柄が異なる。立地自治体と周辺の自治体とではまた異なってくるだろう。さらには専門家であっても研究対象や背景となる学問によって枠組みは異なる。このような人による、立場による枠組みの違いは当然のことであるのに、開発を進めようとする、あるいは新規技術の導入を進めようとする側からはこれを厄介視し、推進側の枠組みに議論を絞って強行突破しようとすることが多い。島根原発2号機設置の際の公聴会で、1号機設置の際に住民に示されたシミュレーションよりはるかに広い範囲で温排水が広がり、漁業被害が出ていることを漁民が訴えた際に、温排水の問題は対象外として議論しないと門前払いの答弁を通産省が行い、公聴会が紛糾したことがあった(7)が、これなどは典型である。内容を絞って「ここは○○を議論する場だから、その他のことは議論させない」というスタンスは都合の悪いことを議論させない勝手な設定と受けとられ、混乱と紛糾を招き、不信感を増幅させてしまった。現実に漁業被害が出ている事は重要な情報であり、本来ならば、そのような情報(現場の知)は、既存の枠組みを、より豊かなものへと組み替える機会ととらえるべきであるのに、推進側の枠組みを一切変えないで押し通そうとしたのである。

公聴会は意見を聞く、つまり対話の場である。対話は、複数の枠組みの交流によって、より妥当な(より多くの人に認められる)枠組みを構築できるという認識(信念といった方がよいかもしれない)と、対話によって自らの枠組みを相対化し、乗り越えていく(脱構築)ことを許容する柔軟性があるからこそ実り多いものとなりうる。対話の主体が変化し得るから対話になるのであって、変化する気がないのならそれは対話ではない。公聴会が「単なる形式」と揶揄されるもやむを得ないだろう。

このことは個別の開発計画や新技術の導入にとどまらない。「○○が不足している、○○がどれだけ必要だ。だから××を推進する必要がある」というような不動の大前提とそれに基づく長期計画を立て、それには一切触らないで、そこからすべてを演繹する手法がエネルギー政策や産業政策には典型的にみられる。この前提を背後に持っているから、政策の基調は変えない(変わらない)。結局は対話ではなく、「日本全体のためにご理解下さい。ついては○○させていただきます」というような戦術的な駆け引きになってしまうことになる。上(前提)から下(前提を実現させるための現場での対話)への流れしかないのである。これでは現場の知などくみ取れる余地はない。経産省国交省の官僚が公聴会などに出てきても木で鼻をくくったような答弁をして住民を憤激させるということはよくあるが、上から下への流れしかないから、彼らはそうせざるを得ないのである。住民の意見をくみ取るようなことを本省は期待していないのだから。

本来は、たとえ局地的な話し合いであっても、そこからくみ取った知見を前提に反映させてゆく、下から上への流れもなければならない。前提自体も問いなおしていく熟議に発展させられることができれば、対話は実に実り多いものになる。それこそがあるべきサイエンス・コミュニケーションであり、協働はそこから始まるのである。

関連して言うならば、このような対話が成り立つためには、対話をマネジメントする主体は事業を推進する官庁ではないほうがよいだろう。当該官庁の利害を超越することは、当の官庁にはできないし、できたとしても信用されにくい。国で言えば環境省、地方で言えば環境部局のような別の官庁が行司役として入り、考えうるすべての関係者を組み入れた議論を行うことが望ましい。本来ならば環境アセスメントはそのような考え方の上に立っているはずである。そして省どうし、部局どうしの間のように対等者どうしで折り合えない場合は、アメリカの連邦政府の「環境の質に関する委員会」(Council on Environmental Quality)のようにより上位の権限を持つ官庁が裁定する形にすればよい。

 

耳を澄ませる 吟味し続ける

対話の内容の中には、発がん性とか事故の際の汚染とか、災害の危険性のような自然科学的・工学的内容だけでなく、社会的・経済的・倫理的な内容も組み入れるべきである。。平川秀幸は、ヨーロッパで行われた遺伝子組み換え作物GMO)に対する大規模な社会調査から抽出された「一般市民がGMOに抱く主要な疑問」を紹介しているが、それによれば「GMOの使用で利益を得るのは誰なのか」。「規制当局はGMO開発を進める大企業を効果的に規制するのに十分な権力と能力を持っているのか」。「予期されなかった被害が生じたときには、誰が責任を負うのか、どうやって責任を取るのか」といった自然科学・工学だけでは答えようがない疑問が多くを占めている(8)。科学で決定的な答えは出せない。まさにトランスサイエンス問題である。

このような疑問には自然科学内部での論争のように決定的な結論は出しにくい(多分出せない)。遺伝子工学によって多収量のコメの品種が開発され、それが発展途上国の食糧不安の解消につながったとしても、農家の種子企業への依存による自律性の喪失や在来品種の消滅につながるとしたら、それを承服できないとする人々は多いだろう。むろん食料不足というような差し迫った危機を克服することのほうが重要だと思う人も貧しい都市生活者の中には多いだろう。しかしいずれにしろこれが正しいという絶対的な結論がない以上、ひとまずの結論が出たとしてもそれはあくまでも暫定的な結論であることを関与するすべての人が意識し、継続的に吟味していく必要がある。「もう決まったことだ」という結論の固定化(つまり事象を見る枠組みの固定化)は継続的吟味を拒否することであり、むしろ有害である。

そしてそれぞれの立場の人からの主張をそれぞれに根拠があることを認め、結論を出すというのは「リンゴとミカンを比較する」というようなある種強引なことを行っているのだという自覚を持つ必要がある。リンゴをミカン何個分というように換算することはできるが、それはあくまでも換算であってリンゴはミカンにはなりえない。このしごく当たり前なことをしっかり皆が意識していないと、費用便益分析というような「客観的」手法に惑わされる。手法が悪いわけではないが、手法の根底には「リンゴとミカンを比較する」という前提が含まれていることを意識する必要があるのだ。

上述の考え方は、新技術の導入やある地域の開発を進めたいと思っている側にとっては、実にイライラする、先の見えないと思われる考え方だろう。議論の進展次第で、最初の結論がひっくり返ってしまったり、大きな遅延が起こる可能性もある。しかし誠実な対話の中でそういう結論になれば、それはそれで受け入れるしかないのではないか。それを恐れて強引な権力的行政を行ったり、金で地域の切り崩しを行ったりすることは、結局は問題をこじれさせ、関係者間の不信と猜疑を引き起こす。誠実な対話の中からしか信頼は生まれないのである。

 

(1)小林傳司2007):「トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ」、NTT出版ライブラリーレゾナント

(2)食品安全委員会(2016): 食品の安全性に関する用語集 (第 5.1 版)yougoshu_fsc_5.1_201604.pdf

(3)アジア砒素ネットワーク(2005):TOROKU 土呂久、pamphlet-toroku.pdf (asia-arsenic.jp)(土呂久公害についてのパンフレット)

(4)政野 淳子(2013):四大公害病 - 水俣病新潟水俣病イタイイタイ病四日市公害 、中央公論

(5)内田 和子(2011); 岡山県小田川流域における水害予防組合の活動, 水利科学,  55 巻,3 号,  40-55

(6)長野県庁(2019):地図から読み取れる防災情報、https://www.pref.nagano.lg.jp/sabo/manabu/chizu-yomitoku-1.html

(7)内橋 克人(1986):「原発への警鐘」、講談社

(8)平川秀幸(2011):リスクコミュニケーション論、大阪大学出版会

対話と関与のモデルへ―耳を澄ませてそっと行う

前節と重複する部分が多いが、この節では社会的判断を行う際の有力な判断基準・行動基準となる予防原則と順応的管理について述べておこう。

 リスク論においては「望ましくない事象」を一般にリスクと呼び、リスクの大きさを(望ましくない事象の生起確率)×(その事象の重大さ)と定義する(益永)。リスク管理においては、リスクをどの程度に抑えるかというリスク管理目標を設定し、「望ましくない事象の生起確率」と「その事象の重大さ」を正確に見積もって、その積であるリスクの大きさを管理目標以下に抑えることが要求される。たとえばイギリスでは鉄道輸送について、許容できる最大限の死亡確率を従業員については年間1000人に一人、一般市民については1万人に一人と設定し、ケガについても200人の軽傷=10人の重傷者=1人の死亡者を等価と考え、対策を進めている(三宅淳巳)。科学技術を社会に実装する場合、ベネフィット(利益)を勘案しながら、リスク管理目標に示されるリスクの大きさを十分に小さくする手段を講じることによって、実装に伴うリスクは社会にとって受容可能になると考えられる。

 しかし、リスク(広義のリスク)には、

・どのような事象がどのような確率で起きるがわかる(狭義のリスク)

・リスクの定量化ができるが、「どのような状態や結果が出現するかはわかっているが,状態や結果の出現確率がわからない状況」

・「どのような状態が生じ,どのような結果が出現するかその可能性すらもわからない状況」

の3種類が考えられ(竹村)、後者2つについては、リスクの定量化はできない。特に前節でもふれた「どのような状態が生じ,どのような結果が出現するかその可能性すらもわからない状況」は無知とよばれ、時に深刻な事態をもたらす。

例を挙げてみよう。1938年に開発されたジエチルスチルベストロール(DES)はエストロゲン類似作用を持ち、流産や早産の予防薬としてアメリカ等で広く処方された。DESには期待される効果が全く認められないということが後に判明したが、それよりも大きな悲劇が誰にも知られることなく進行していた。1966年から69年にかけてマサチューセッツ総合病院若い女性には極めて稀な膣がんの患者が7人も訪れた。患者を調査したハ-バ-ド大学のハワ-ド・ウルフェルダ-は患者の病歴を詳しく検討し、患者の母親が妊娠初期にDESを服用していたことが共通の要因であることを1971年に明らかにした。その後、動物実験で母親へのDES投与が子どもの膣がんを引き起こすことが確認された。妊娠中の母親が服用した合成ホルモン剤が実に20年以上もたってから子どもにがんを引き起こすという思いもよらないことが起こっていたのである。マサチューセッツ総合病院での膣がん患者の集中的な来院がなく、膣がん患者が別々の病院で診断されていたならば、DESの危険性は認識されないままであったと言われている(イバレッタ&スワン)。当該の科学技術が実用化された時点で、専門家も予想できていなかった恐るべき影響の例である。まさに「どのような状態が生じ,どのような結果が出現するかその可能性すらもわからない状況」(無知)である。これはDESという一つの物質の例であるが、複数の物質が相互作用して生体に影響を与える複合影響についてはほとんど検討が進んでおらず、単独で大きな影響がなくても他の物質の存在下で危険になりうる物質が野放しになっている可能性もある。  

「無知」の例は合成化学物質の導入・普及において見られることが多いが、未知のパラメーターが多い漁業資源管理、開発による生態系の変化、発電所からの温排水の挙動、核燃料再処理工場から排出された放射性物質の挙動(再処理工場では通常運転で多量の放射性物質が放出される)など挙げていけばきりがない。これらはいずれも予想されなかった影響が事後的に判明してきたものだが、判明した時にはすでに深刻で、時には人の生命・健康への影響、種の絶滅といった取り返しのつかない不可逆的影響を与えることがある。

このようなことが起きうる以上、新たな科学技術の実装が、その時点では不可知のリスクをもたらす可能性がある(無知)ことを、実装を推進する立場の人たちも含め、社会全体で認識することが必要となる。もちろん、そもそも何が起きるかわからない以上、事前にそれを想定して備えることは不可能ともいえる。しかし、たとえばある物質の人への毒性が許容できる水準以下と判断されたとしても、その物質が非常に安定で環境に長く残留するものならば、影響が長期にわたることになり、導入は慎重に検討する必要がある。環境中の濃度のモニタリングも必要になるだろう。そして肝要なのは、予期しなかった重大な悪影響が人や生態系に生じうる可能性がわかった場合は、厳密な因果関係を立証できていなくても、利用を中止する必要があることだ。このような先制的な予防措置を正当化する原理が予防原則(事前警戒原則)と呼ばれている。

高津(2004)は予防原則は具体的には次の諸原則の集合体であるとしている。

  • 規制排除の禁止:重大な害悪のリスクを有する行為に関する科学的不確実性を理由にして 規制を妨げてはならない。
  • 情報の開示:人々を潜在的なリスクにさらす者は、不確実性を考慮し、関連する情報をその影響下にある人々に開示しなければならない。
  • 安全性の限界点の設定:有害な影響が見いだされず、また予測もされない水準以下に、行為を制限する安全性の限界点が規制に含まれなければならない。
  • 最善の技術の利用:重大な害悪をもたらす不確実な可能性のある行為の支持者が、その行為による測定可能なリスクがないことを証明できなければ、その行為に対して最善の利用可能な技術が要求されなければならない。
  • 行為の禁止:重大な害悪をもたらす不確実な可能性を有する行為の支持者が、その行為による測定可能なリスクがないことを証明しなければ、その行為は禁止されなければならない。

 予防原則は行為(たとえば新規技術の導入や大規模開発)について事前規制(予防)をするだけではなく、モニタリングや事後の規制・禁止も含むものであり、事前事後のプロセス全体に適用されるものである。わかりやすい表現でいうならば、予防原則の要諦は、何かを行おうとする際、その行為が世の中にどのように影響を及ぼしていくのか目を凝らし、耳を澄ませることであると言えよう。

 一方、予防原則はリスクのあるものを何でも禁止しようというものではない。新型コロナのワクチンのように、副反応が出ることはあっても世の中全体への利得がリスクを大きく上回るであろう新技術に対してその利用を阻害することは適当ではない。またリスクを口実にした貿易障壁など予防原則が恣意的に運用される可能性も存在する、そこで予防原則の運用にあたっては、利得も考慮し、次の原則が提案されている(欧州共同体委員会)。

①均衡性

②無差別

③一貫性

④行動すること、又は、行動しないことの便益と費用の検討、

⑤新しい科学的知見の検討

①の「釣り合い」とは、「想定される措置は、適切な保護の水準を達成することを可能とするものでなければならない。予防原則に基づく措置は、望まれる保護の水準と均衡性を欠くものであってはならず、まずは存在しない、ゼロ・リスクをめざすものであってはならない。」というものである。ただし、「全面的な禁止が、潜在的リスクへの唯一の可能な対応となりうる場合もある。」とされている。②無差別というのは、「客観的根拠がない限り、同様な状況は、異なるように取り扱われるべきではなく、異なる状況は、同様に取り扱われるべきではない」である。③一貫性というのは「措置は、同様な状況においてすでにとられている措置、又は、同様のアプローチを用いている措置と一貫しているべきである。」である。 ④、⑤は字義とおりである。

ここで注目したいのは「⑤新しい科学的知見の検討」である。ここでは「措置は、新しい科学的データを考慮するよう定期的に再検討されなければならない。科学研究の結果により、リスク評価を完全に行い、必要な場合、その結論に基づいて措置を再検討することができるべきである」とされている。つまり何らかの措置をとるという判断をした場合、それは最終的な判断ではなく、事後においても情報を収集し、新しい情報に応じて措置を見直していくことが必要だということだ。これはより一般的に言えば、引き返して新しいやり方ができる余地を残し、措置の結果を見極めながら進んでいくこと、つまり「そっと行う」ということである。この「そっと行う」措置、状況の変化に応じて措置を変化させることは順応的管理と呼ばれている。予防措置と順応的管理は相反するもののように言われることがあるが、順応的管理は既成事実を作っていくことではない。とりかえしがつかないところまで行かずに随時微調整し、ダメそうなら引き返すこと、あきらめることもある。藤垣裕子は順応的管理を「見試し」という江戸時代の河川管理方法(水門調節、放水路管理など何か新しい手法を行う場合に、ひとまずやってみて数年様子を見ながら利害関係者間で話し合い、折り合いをつけていく方法)と酷似していることに注目しているが、順応的管理はまさにこの「見試し」である。

予防原則は「耳を澄ます」こと、順応的管理を「そっと行う」ことと考えれば、これら2つは相反するものではなく、むしろ対として考えることができる。何かこれまでの経験になかったことを行う場合、人は何か変なことが起こらないかよく耳を澄まし、変なことがおこったらすぐ引き返して別な方法で行えるようそっと行うであろう。新しい科学技術の導入とか新たな開発行為を行う場合もそれと同様である。

では予防原則と順応的管理を原理とした社会と科学技術の関係を作り上げていくためにどのようなことが必要なのだろうか。以下ではそれを考えていくことにしよう。

 

引用文献

益永茂樹(2013):リスク評価―選択の基準、『科学技術からみたリスク』、1-10、岩波書店

三宅淳巳(2013):産業災害とリスク、『科学技術からみたリスク』、83-108、岩波書店

竹村和久(2006):リスク社会における判断と意思決定、認知科学、13(1)、17-31

ドロレス・イバレッタ&ジャンナ・H・スワン(2005):DES物語:出生前曝露の長期的影響、『レイトレッスンズー14の事例から学ぶ予防原則』、155-170、七つ森書房

高津融男(2004):予防原則は政策の指針として役立たないのか?、京都女子大学現代社会研究、7号、163-175

欧州共同体委員会(2000):予防原則に関する欧州委員会コミュニケーション文書、高村ゆかり訳  http://www.env.go.jp/policy/report/h16-03/mat03.pdf

対話と関与のモデルへートランスサイエンスと社会的判断ー

核物理学者のアルヴィン・ワインバーグは「Science and Trans-Science」(1)という論文の中で「科学に問うことはできるが科学によって答えることができない問題」を「Trans-Scientific Questions」(トランスサイエンス的問題)と呼び、次のような例をあげた(5つ挙げているが、この節の問題意識に適合する2例を述べる)

 

・低レベル放射線の生物への影響 放射線が生物に起こす突然変異率が放射線の量に比例するとした場合、150ミリレムの放射線被曝は0.5%の突然変異率の上昇を起こすはずだが、それを実験的に確かめようとすれば80億匹のマウスを必要とすることになり、実験は不可能となる。同様なことが微量物質の環境への影響についても言える。

・きわめて稀な事象 破滅的な原子炉事故や巨大地震によるダムの崩壊のような場合、モデルに基づく計算はなされているが、どのような不具合が起こるかすべての場合をつくしているかの保障がなく、また稀な事象であるがゆえに、不具合のおこる確率を直接決定することができないといった事情があるため、計算がなされていてもきわめて疑わしい。

 

これらは科学の俎上に上げることはできるが、科学によって決定的な解答を得ることができない。科学の確固たる基礎の上に技術を確立し、社会実装していくというのが多くの人が抱く科学と社会の関係であるが、それが成り立っていない。リスク等に関する論争があったとしても「どこまでが科学的論争で、どこからが社会的な論争であるというような明確な境界線を引くことはできない」(2)。したがってこれらの問題に関する意思決定を行う場合、社会は、科学を考慮に入れながらも科学を超えた判断(社会的判断)をせざるを得ないのである。

社会的判断が必要な場合は上述のような科学に不確実性がある場合だけではない。私の知っている範囲に限っても少なくとも3つが考えられる。

1 無知 

リスク論でいう「無知」(どのような状態が生じ,どのような結果が出現するかその可能性すらもわからない状況)(3)、つまり科学者も含め誰もが予想しなかったリスクが出現してくる状況(たとえばフロンによるオゾン層破壊はフロンの開発・実用化の際にだれも予想していなかった)の場合がありうる。もちろん「無知」の状況においても、何らかのリスクの指摘がなされるまでは、判断自体が行われない。しかしリスクの指摘があり次第、その指摘があいまいだったり、一般的な指摘にとどまっていたとしても、社会の側で何らかの対応を検討し実行していく必要がある。科学による詳しい解明を待っているわけにはいかないのである。

2 確率的影響をもたらすリスクの容認基準の決定

福島第一原発の事故以降、放射線とその健康影響に関心が集まっているが、中でも、「いったい年間どのくらいの量の放射線を受けると危険なのか」、つまり安全と危険の境界線はどこかということに人々の関心は集中している。しかし、放射線の場合、「一定量放射線を受けると、皮膚障害などの影響が必ず現れる」確定的影響ならばこのような境界線を引くことができるが、がん(白血病などを含む)の発病確率を上げる確率的影響には境界線を引くことはできないとされている。メディアでしばしば取り上げられる年間20mSv(避難指示解除の基準)とか年間1mSv(公衆、つまり一般人の線量限度)は安全と危険の境界線ではなく、交通事故など他のリスクとのバランスも考慮したうえでの受忍限度(容認できる限度)である。具体的に言えば、たとえば年間1mSvというのは年2万人に一人のがん死亡リスク、20 mSvは年1000人に一人のがん死亡リスクに当たる。この程度のリスクならば社会的に受容可能というのがICRP(国際放射線防護委員会)の判断であり、日本政府もこの基準を採用している(ただし福島の原発事故被災地域では、避難指示解除基準が20mSvであるため、公衆の線量限度も事実上20mSvとなっている)。

この問題は科学の不確実性とも関連はしているが、基本的に別問題と考えた方がよい。リスクの算出は科学に依存しているが、そのリスクを容認できるかどうかは科学ではなく社会が決めている。原発の安全性にかけるコストや原発の利得や石油危機など他のリスクとの見合いで容認しているのであって社会的判断の問題である。丸川珠代環境相が1mSvの基準について「何の科学的根拠もなく」と発言したのはおそらくこの辺の事情を官僚に説明され、誤解した結果だと思われるが、リスクを容認する基準を決めるのが科学ではなく社会だという意味では、半分正しいとも言える。 

このような問題は原発に限られたことではない。国土交通省は都市水害を防ぐために高規格堤防(スーパー堤防)の建設を淀川河口、荒川下流などで進めている。これらの堤防がどの程度の洪水に耐えられるのか、それは何年に一度の洪水なのか、生態系にどのような影響を与えるのかということはある程度科学的に答えることができる。しかし何年に一度の洪水なら耐えられるということは、逆に言えばそれを超える洪水ならば被害がありうるということを容認することである。またコストや生態系の変化といったことと堤防建設によるベネフィットとの比較したうえでの決断となり、いずれも科学的判断の問題ではなく社会的判断の問題である。

3 異なるフレーミングの調整

 上の節で述べたことは、フレーミングとも関連している。社会的判断は多くの場合、フレーミングの調整の問題でもある。「ある問題をどんな視点から何に注目して何と関連付けながらとらえるかという、問題の立て方、切り取り方、枠づけ方」をフレーミングと呼ぶ(4)。フレーミング次第で見える風景は異なってくる。例を見てみよう。平川は遺伝子組み換え作物についての議論を取り上げている(4)。遺伝子組み換えは、それがもたらす健康へのリスクという視点で切り取ると、食品リスクの問題とフレームできるが、栽培時に他の作物に与える影響という視点で切り取ると、それは環境リスクの問題としてフレームできる。さらに作物の種子を開発企業が独占し、農家、特に零細農家が収奪を受けるという視点から切り取ると、経済的・社会的平等の問題としてフレームできる。これらはそれぞれが独立のフレームである。それぞれにおいて、たとえば食品リスクのフレームにおいて実質的同等性(遺伝子組み換え作物が既存の非遺伝子組換え農作物と比べ、栄養成分等に差異がなく、導入された遺伝子により新たに作られるタンパク質の安全性が確認されれば、その作物は安全と判断できるとする考え方)の概念を使って科学的判断ができたとしても、どのフレームを重視するのか、すべてのフレームをクリアしなければ科学技術の実装ができないのかどうかといったことは科学的に判断できない。社会的判断の問題である。

以上、科学的判断だけでは決定できず、社会的判断が必要となる例を述べたが、これらのことが示すのは、社会的判断は、判断を決定的に根拠づけるような情報がない状況の中で下す判断であり、価値観選択を含む判断だということである。このような判断は官庁が専門家の意見を聴取し、利害関係者の調整を行いながら落としどころを決めていくという方法がもっともふつうに行われている。しかし前章の「社会科学複合体の問題点―」で指摘したようにこの方法は「官僚は黒子であり、その存在が見えない。政策選択を実質的に左右する存在であるにもかかわらず、責任はとらない。責任をとらずに自在に政策を動かす見えない権力が作動し、官僚と業界の利益を脅かすような政策変更を阻んでいる」という問題点がある。科学技術社会論の研究者はこのような閉じた場での判断を社会に開かれた場(公共圏)へと開いていくことによって社会的判断をより妥当なものにしていくことを論じているが、ここではその議論は後ほどおこなうことにし、科学を考慮しなければならないが科学によって決められない問題には上述のようにいくつかのカテゴリーがあることを確認するにとどめておく。

(1)Alvin M. Weinberg,A.M.(1972): Science and Trans-Science, Minerva,10(2),209-222

(2)中島貴子(202):論争する科学ーレギュラトリー論争を中心にー、『科学論の現在』、172-203、勁草書房

(3)竹村和久(2006):リスク社会における判断と意思決定、認知科学、13(1)、17-31

(4)平川秀幸(2011):リスクガバナンスの考え方 リスクコミュニケーションを中心に、『リスクコミュニケーション論』、1ー58、大阪大学出版会

 

専門家と市民の界面―欠如モデルの限界と転換 欠如モデル

 

 前章で現代の科学技術の抱える様々な問題を見てきた。共通して言えることは、科学技術は社会に深く組み込まれており、同時に社会を根底から支える存在であるということだ。別の言い方をすれば科学技術は社会を一変させるポテンシャルを持つ存在であり、同時にその方向性を社会によって強く規定されていると存在であるということである。したがって科学技術のステークホルダー(利害関係者)は社会構成員全員、つまりすべての市民である。ここまでは多くの人が合意できるであろう。しかし、では科学技術の方向性を決め、資源を配分し、発生した問題を解決する、つまり科学技術の統治を誰がどのように担うのかというと意見は分かれる。

 序章でも少し書いたが、これまでの支配的な考え方は、科学技術は高度な知識とスキルを必要とするものであり、その開発や運用は専門家しか行いえない。したがって研究開発や現場での運用は専門家が行い、政治家と官僚、産業界が資源配分や制度の運用によってこれを支援し、統制するというものであろう。素人である市民が、専門家による専門的判断とそれに依拠する政府や企業の判断に口をさしはさむことに対しては警戒的である。この種の考え方の中にも様々なニュアンスの違いがあるので、一概に言えない部分もあるが、概括的に言うならば、「科学技術に対して素人である一般の市民に適切な判断を期待することはできない。しかし市民は世論や選挙を通じた一定の影響力を持っており、市民の理解なくして科学技術にかかわる政策や新技術を使用した製品の普及を進めていくことは難しい。したがって政府や産業、専門家は政策の正しさや技術の安全性を市民に理解してもらうように努めるべきである」ということになるだろう。この言い方は穏やかに過ぎるかもしれない。私は原発立地促進のためのキットを作成しているという広告会社の方と話したことがあるが、彼は「主婦をはじめ科学をしらない無知な人たちが原発反対派のデマに乗せられて反対運動をしているために原発の立地が進んでいない。もし中東で戦争が起こって石油が入ってこなくなったら日本は大変なことになるのだから一刻も早く立地を進めなければならない。原発立地を進めるために私たちがこのキットをつくりました」と一種の使命感を持ってキットの構想を語ってくれた。言葉使いは露骨ではあるものの、原発推進側の人々の認識を正直に表現したものであろう。本音としては専門家・産業・政府といった、知識が十分にある身内の中で進めていきたいが、民主主義社会において市民の力は無視できないので、「よく言って聞かせて納得してもらう」、「知らしむべし、よらしむべし」の考え方である。このような考え方、市民には正確な科学的知識がないために科学技術を受容しないのだから、専門家が正確な知識を与えることによって、科学技術を受容するようになるという考え方は欠如モデルと呼ばれている。

しかし欠如モデルはあちこちでほころびを見せていることも事実である。欠如モデルの前提は2つある。一つは「専門家の知識は正しい」であり、もう一つは「知れば知るほど受容する」ことである。まず「専門家の知識は正しい」から考えてみよう。これは、はっきりとした問題設定ができ、予測や主張の正誤とその根拠が明確な場合、たとえばニュートン物理学による天体の運動の予測や建築物の耐震性の分析のような場合には概ねあてはまる。しかし科学技術の受容が問題となるのは、たとえば原発であり、遺伝子組み換え作物であり、有害化学物質の問題である。詳しくはトランスサイエンス問題の章で述べるが、これらは理学・工学の文脈に加え、社会的・経済的文脈が複雑に入り組んでくる問題であり、様々な分野の専門家が関与してくる。それぞれの学問分野の価値観によっても「何が正しいのか」が異なってくる。近々で言えば新型コロナについて感染症の専門家と経済の専門家で言うことが違っていることがその例だろう。理学・工学に限定したとしても、そもそもその系の振る舞いが専門家にも容易に予測しにくく、何が正しいのかよくわからないことも多い。一言で言えば一筋縄ではいかない問題であり、「専門家の知識は正しい」とは簡単に言えないのである。まして福島第一原発の事故や公害病、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病等への対応であらわになった企業と国、研究者の場当たり性、無責任性等を思い浮かべれば、専門家や政府が持っている「正しい」知識を「無知な」市民が受容するというモデルがこれらの事例において全く不適切であることは明らかであろう。

もう一つの「知れば知るほど受容する」はどうであろうか。上述の欠如モデルの妥当性については近年研究が蓄積されてきている。たとえばKahan(2012)のアメリカにおける調査によれば、地球温暖化を深刻なリスクとして認知する程度は科学への理解の程度が進むほど低下することがわかった。それを仔細に分析し、平等や共同体を重んじる価値観を持つ場合、科学への理解が進むほどリスク認知は増大するが、平等に対して懐疑的で階級的・個人主義的価値観を持つ人々では科学への理解が進むほどリスク認知はむしろ減少することを見出した。科学への理解が深まるとリスク認知は二極化する、科学への理解の効果が価値観によって逆向きに働くのである。Kahanはこのことから科学への理解ではなく個人の価値観の違いがリスク認知の違いをもたらしていると結論付けている(1)。

EvansとDurantはイギリスにおける調査で科学についての知識が豊富な人々は一般的には科学への支持が高いが、ヒト胚の利用など倫理的検討が必要な研究に対してはむしろ支持しなくなることを示している(Evans and Durant,1995)(2)。

 2000年にイギリス政府とウェルカム財団が行った科学技術に対する知識や態度の調査(Office of Science and Technology and the Wellcome Trust、2000)では、クラスター分析によって市民をいくつかのグループに分類している。それによると、科学技術に関心をもち、メディアから科学技術に関する情報を積極的に取り入れている人々の場合でも、科学や科学者・技術者、政府の科学技術に関する政策を強く信頼するグループ、科学や科学者・技術者を信頼していても、政府の政策には懐疑的なグループ、科学や科学者・技術者、政府の政策のいずれに対しても懐疑的なグループといくつかのグループに分かれる結果となっており、市民の科学技術への考え方の違いは関心や情報の程度と比例しているわけではない(3)。

 日本でも、たとえば西條の調査(2009)では、科学知識得点と科学重視因子には相関はない、つまり科学の知識があるからと言って科学の価値を高く評価するわけではないことが示されている。西條はこの結果を、欠如モデルは誤りであることを示唆する結果であると解釈している(4)。

岸川ら(2012)は17項目のリスク要因に対する危険度認知を調査している。その結果によれば、学歴の高い層が低い層に比べて、自分や自分の家族に対してより危険度が高いと認識しているのは、原子力発電所SARS、核廃棄物、大気中の発がん物質、喫煙、環境ホルモンダイオキシンであった。学歴の高い層が低い層に比べて全般的にリスクを高めに見積もる傾向があったことは割り引いて考える必要があるが、一般的には学歴の高い層が、低い層より科学的リテラシーが高いと思われるので、これも欠如モデルが成り立っていないこと示す研究と思われる(5)。

土屋ら(2008)は市民、原子力の専門家、バイオ技術の専門家の科学技術観やリスク認知を調査しているが、遺伝子組み換え食物と原子力では市民のリスク認知が異なっており、遺伝子組み換え食物についてはよく知っている市民ほど安全と答える割合が高く,原子力発電はよく知っているほど危険と答える割合が高いという結果が得られている。これは、原子力発電の場合,市民は知れば知るほど危険と考えるようになることを意味し、欠如モデルとは逆の結果となる(6)。

中谷内ら(2018)のように欠如モデルを支持する結果が得られている調査も存在する(科学技術に関する知識が乏しい方が科学技術にかかわる危険への不安が高くなる傾向が存在する)が、この研究においても知識不足は不安の大きさの要因としてはごく小さなものであり、「科学的リテラシーは不安のごく一部を説明するに過ぎない」とされている(7)。

以上みてきたように、市民の科学技術への理解が進むほど科学技術を受容するようになるとは言えず、分野によってはむしろ理解が進むほど危険と考えるようにすらなることがわかる。欠如モデルは成り立っていないのである。もちろん、そうだからと言って、専門家がその知識を市民と共有する努力を怠ってはならないのは当然である。民主主義社会では、科学技術の進展のためには市民にそのリスクを知らせないほうがよいという「よらしむべし、知らしむべからず」という立場は成り立たないからである。

欠如モデルがうまくいかないとなれば、別のモデルに置き換える必要が出てくる。それは科学技術の方向性、たどるべき道の決定を専門家や政府、企業が独占せず、市民との対話の下に決めていくという「科学技術への公衆の関与」モデルであろう。「科学者や技術者が行っていることを公衆に理解させるトップダウンの一方向の過程から公衆との真の対話へと移行する事が必要」(8)(イギリス上院「科学と社会」委員会レポート)なのである。次章からはそのモデルの構築に必要な諸条件を見ていこう。

 

(1)Kahan,D.M., Peters,E., Wittlin M., Slovic,P., Ouellette,L.L., Braman,D., Mandel,G.(2012): The polarizing impact of science literacy and numeracy on perceived  

climate change risks, Nature Climate Change volume 2, 732–735

(2)Office of Science and Technology and the Wellcome Trust(2000):Science and the Public

A Review of Science Communication and Public Attitudes to Science in Britain, https://wellcome.org/sites/default/files/wtd003419_0.pdf

(3)Evans,G., Durant D.(2009): The relationship between knowledge and attitudes in the public understanding of science in Britain, Public Understanding of Science,4,57-74

(4)西條美紀(2009): 科学技術リテラシーの実態調査と 社会的活動傾向別教育プログラムの開発、https://www.jst.go.jp/ristex/funding/files/fin_saijo.pdf

(5)岸川洋紀・村山留美子・中畝菜穂子・内山巌雄(2012):日本人のリスク認知と個人の属性情報との関連、日本リスク研究学会誌 22(2)、111 – 116

(6)土屋智子・小杉素子・谷口武俊(2008):社会的論争を招く技術に対する専門家と市民のリスク認知の違いとその背景要因、日本リスク研究学会誌 18(2)、77-85

(7)中谷内一也・長谷 和久・横山 広美(2018):科学的基礎知識とハザードへの不安との関係、心理学研究、89 (2), 171-178.

(8)House of Lords (2001):Science and Society: Select Committee Report

https://www.theyworkforyou.com/lords/?id=2001-02-16a.405.0&p=13115

社会―科学システムの問題点―資本主義の古典的悪徳― 貧困と汚染どちらを取るんだ?

 

1960年代の日本は水俣有機水銀汚染、四日市の大気汚染など多数の死者がでる重大な公害が相次いで起こった。近代化に伴うあらゆる公害が見られる「公害先進国」だったのである。当時の日本企業は高度経済成長に伴い、設備投資は年率20%増以上と拡張に拡張を重ねたが、公害防止投資はほとんど行わず、設備規模の拡大はそのまま公害被害の急増へとつながっていった。政府も自治体も大気や水の汚染を経済が発展することに伴うやむを得ないコストとみなし、明らかな健康被害にすら、因果性がはっきりしないとしてその補償や汚染の規制に消極的な態度をとっていた。ようやく1967年に公害対策基本法が成立し、環境基準が設定されて対策に乗り出したが、経済界の圧力により、もっとも汚染がはげしい地区の現状に合わせた骨抜きの基準となり、公害を抑制することはできなかった(1)。その流れを転換させたのは公害被害者自身の運動であり、それに共感する市民の力である。

80年代以降、「日本は公害を克服した」、「日本は環境先進国」という言説が流通し、国際的にも発信された。これを、政府や産業界が公害被害の惨状に顧みて積極的に公害対策に乗り出し、公害を克服していった美しい物語として考えるのはおそらく当を得ていない。四大公害のいずれにおいても、企業は利潤極大化のため公害防止コストを最小にすることに執着し、政府や自治体も被害者ではなく企業の利害の代弁者としてふるまっていた。その態度を変えさせたのは、公害被害の実態を告発する過程で研究者や法曹関係者、メディアの関与を獲得し、法的にも学問的にも巨大企業と真っ向から対決する力量を身につけた被害者と市民運動者の連帯である。それは水俣四日市にとどまるものではない。 

静岡県三島では四日市の被害実態を知って市民運動が国、県、企業が一体となって推進していた石油化学コンビナート計画を白紙に戻させ、市民の理解を得ずに力づくで開発を行うことの不可能性を政府や企業に知らしめた。

四大公害裁判ですべて被害者が勝訴したことは、公害を放置することがむしろ企業利益を損ない、場合によっては企業の存亡にかかわるものであるという認識を企業側に与えた。

革新自治体が全国に広がったのも、革新自治体が政府の規制より高い環境基準を企業に要求し、公害に対して厳しい態度をとり、これが市民の支持を得たことが一因であり、自民党に深刻な危機感を与えた。政府や企業はこのような被害者・市民の運動、市民の意識との綱引きの中で公害防止投資や規制を行うことが長期的に自らの利益であると気付いたために態度を変えていったのである。

しかし綱引きは終わっているわけではない。原子力、産業廃棄物処理、石炭火力発電所などにおいて新しい形で企業と社会の間でのコスト負担の綱引きが起きている。企業は環境コストや周辺住民の健康への悪影響といったコストをできるだけ引き受けず、社会の側に転嫁することによって生産物(製品やサービス)の価格を安くし、利益を最大化しようとする。そのために政治的影響力を行使し、政府からの規制を回避しようとする。

この構造、資本主義の古典的悪徳ともいうべきものは高度成長時代、というよりも明治以来変わっていないのである。それどころかむしろ悪質化している面すらある。ベックは「産業社会は、産業社会によって解き放たれた危険を経済的に利用する。それによって産業社会がさらに危険社会の危険状況と政治の潜在的可能性をも作りだす」(2)と述べているが、日本においてこの構造が典型的に現れているのは、原子力発電所であろう。原発廃炉はビッグビジネスとして注目されている。どう廃炉すればいいのか見当もついていない福島第一原発はともかく、廃炉が決まっている、または近々に迫っている原子炉は多く、数兆円規模の市場が生まれると見込まれている。しかも廃炉は長期間にわたるので、一度受注してしまえば30年から40年は安定した収入が見込める。その市場を原子力メーカーやゼネコンが狙っているわけだが、このような巨大な市場が生まれるのは廃炉がきわめて危険で難しい作業であるからに他ならない。このような危険な代物を生み出したのはそもそも原子力メーカーであり、危険なものを生み出してもうけ、その処理でまたもうけているのである。廃炉そのものは社会にとってコスト以外の何物でもない。そのコストを利益の根源へと転化するのは、品のない言い方をすれば、火を放っておいて、消火に見返りを要求するといういわゆるマッチポンプの論理ではないのか。

国際的にみればこの論理が最も顕著なのは兵器産業である。ソビエト連邦アフガニスタン侵略(1979年)に対抗するためのアメリカの軍事援助(イスラム戦士の訓練や武器供与)、その中から生まれてきたテロ組織による9.11同時多発テロ後のアフガン戦争、イラク戦争はひとつながりの因果で結ばれたプロセスであり、その過程で膨大な利益がアメリカ政府から兵器産業に流れ込み、その一部は政治資金として政治家に還流されている。その意図があったかどうかは推測の域を出ないが、結果としてアメリカの兵器産業はアフガニスタンや中東の不安定化によって商機をつかみ、戦争が次の戦争を呼び込むことによって利益を手にしたのである。

話を公害に戻そう。連綿と続く資本主義のこの古典的悪徳に由来する健康・環境への危害を抑制することは社会にとって有益であり、長い目で見れば企業や産業にとっても利益であることは四大公害裁判の経緯に照らしても明らかであろう。そのためにはどのような論理が公害を合理化してきたのか、その論理について理解することが、それに対する対抗論理を構築するためにも必要である、そのことについて以下見ていこう。

(1)あれかこれか

 企業活動が引き起こす、または引き起こす可能性のある危害を政府の規制などにより抑制することは必要だが、それには費用がかかる。その費用と抑制により得られる便益を比較し、費用が便益を上回るようなら規制を緩める、あるいは遅らせることが必要であるという論理が主張されることがある。あれかこれかを迫るのである。

典型的な主張としては汚染物質等の規制が企業経営を厳しくし、それによって雇用が失われる、雇用を守るためには規制緩和が必要だという、雇用か汚染かの2者択一を迫る主張であろう。たとえばアメリカのレーガン政権下(1980年代)、自動車メーカーは排ガス規制により自動車価格が上昇し、車への需要が減退して工場を閉鎖せざるを得なくなると主張し、政権もそれに呼応して「大気汚染防止プログラムこそ,過剰規制が 経済の活力を奪っている代表的な分野」だとして規制基準を緩和していった(3)。日本でも、多くの公害問題(ほとんどといってよいかもしれない)で経済か公害防止かという論理は語られ、公害被害者を孤立させたり、公害問題の解決を遅らせてきたが、現在進行中の喫緊の問題でいえば。アスベストであろう。1972年には世界保健機関アスベストの発がん性を公式に認め、80年代からヨーロッパを中心に使用禁止の動きが広がったにもかかわらず、1992年に社会党が立案したアスベスト規制法案は、「日本石綿協会」の「今後は健康障害は起こり得ない」との主張に乗った自民党の反対のため廃案になった。その後も、社会党は法案の再提出を目指していたが、今度は労働者の健康を守るべき労働組合が、法制化に反対する「石綿業にたずさわる者の連絡協議会」を結成し、「石綿は管理して使用できる。規制法制定は、関連産業に働く者の生活基盤をも奪いかねない」などと主張して社会党は法案提出を見送った(4)。その後も規制は徐々に強められていったものの、アスベストそのものは使われ続けてきた。現在年間1500人程度がアスベスト被曝に由来する肺がんや中皮腫で死亡していると見られており、この数字はこれからさらに上昇するとされている。今後はアスベストを多量に使用した建物の解体が急増することから、それに伴う飛散による被害が懸念されるにもかかわらず、専門家が求める石綿の曝露・飛散防止対策の強化は、解体費用の高騰、解体の長期化を恐れる建設業界の反対で見送られている。地域住民や消費者、労働者の健康や環境を出発点とせず、業界と担当官庁の間でコストとの見合いで「実現可能性」が見積もられ、それをもとに規制政策が立案されている。既視感があるほど繰り返されてきたことが今またアスベストで起きているのである。かつて四日市公害訴訟の際、津地裁四日市支部は「身体に危険のあることを知りうる汚染物質の排出については、企業は経済性を度外視して、世界最高の技術、知識を動員して防止措置を講ずべきであり、そのような措置を怠れば過失は免れないと解すべきである」(5)との判決を下した。1972年のことである。それから半世紀がたとうとしているが、採算性の枠内で「可能な措置」を講じていくという行政と産業の姿勢はほとんど変わっていないと言わざるを得ない。あれかこれかの論理での言い逃れを許すべきではない。少なくとも生命・健康にかかわる問題についてはコストを度外視して取り組む責任があるし、それが技術的に不可能だとするなら、そのような技術には退場してもらうほかない。

(2)科学的証拠はあるのか

  汚染物質放出などの企業の行為の法的責任を問うためには、企業の行為とそれによる損害の間に因果関係がなければならないし、行為が人的・物的被害をもたらすことの予見可能性も要求される。しかしこのわかりやすい理屈は、公害病に典型的に見られるように、汚染等の放置、ひいては環境や人々の健康・生命への危害をもたらす論理としても機能してきた。

排出された物質がどこに移動するのか、反応してどんな物質に変化するのかといった、物質の生態系の中での挙動を精度よく追跡することは非常に難しい。何か被害が出たとしても、たとえば四日市ぜんそくのように、他の原因で起こりうる被害については、汚染が原因なのか、別のもの(たとえばタバコ)が原因なのかを個々の被害者について立証するのは困難である。複数の原因企業がある場合は、どの患者がどの工場からの汚染で病気となったのかということを特定することはほぼ不可能であろう。要するに汚染物質と病気との因果関係を立証するのが難しいのである。

社会経済的な条件で言えば、企業の行為により被害を受けた個人が因果関係を突き止めるような専門的調査を行うことは知識の面から言っても費用の面から言ってもきわめて難しい。イタイイタイ病訴訟の際に、三井金属鉱業カドミウムが人間の骨中に蓄積するのか、カドミウムが人体にどのように作用するのかの定量的な解明を求めたが、疾患がおきるしくみの解明まで被害者側が行わなければならないとしたら、被害者の救済はほとんど不可能であろう。企業は資金の上でも専門的知見の上でも権力との関係の上でも被害者にたいして隔絶した優位に立っているのであり、力関係において明白な差が存在する。このような条件下で、厳密な因果関係が立証されるまで企業の責任を認めないこと(刑法になぞらえて言えば推定無罪)、また因果関係が判明したとしても予見可能性の低さ故に責任の一部またはすべてを免罪するようなことは事実上、被害を放置し、救済を拒否することに他ならない。実際、多くの公害病ではこのことが起こり、甚大な被害が起きている。

このことに日本の国家機構は全く無策であったわけではない。特に司法は、上記のような明白な不正義に直面し、それまで支配的であった法理である相隣関係法理(隣接する土地所有者同士の相互的な権利行使の調整原理)では被害―加害において因果関係の厳密な解明を求めたり、一定の予見可能性を求めるために公害に対して適切に対応できないことを認め、それを修正していった。たとえばイタイイタイ病公害訴訟や四日市公害訴訟では疫学に基づく因果関係の立証を立証手段として認めた。疫学は、集団を対象として疾病の原因を特定していく学問であり、個人の疾病の原因まで特定することは要求されない。また必ずしも疾病の起こるしくみが詳細に解明されない段階でも、原因の特定が可能である。従って、立証手段として疫学を認めることは、企業の排出する汚染物質による加害が統計的に明らかになればそれで十分であり、各個人の汚染物質への曝露の量や経路,種類といった因果の鎖を一つひとつたどらなくても、企業の責任を認定できることになる。汚染地域への一定年数の居住や汚染に関係すると考えられる疾患の罹患など一定の要件を満たせば被害者の救済が可能になるのである。

四日市公害の場合、大気汚染公害であるため、汚染物質の到達経路がつかみにくく、総体としての大気汚染は明らかであっても、個々の企業の汚染への寄与は明白ではない。実際、被告企業は理論計算などを提示して、自社の排煙がぜんそく等の大気汚染による疾患とは無関係であるあるいは関連性が薄いことを主張した。しかし、津地裁四日市支部判決(5)では企業の主張を退け、共同不法行為による損害賠償責任を認定した。つまり「工場に訴えに行ったら、『うちじゃない』また次の会社に行ったら 『うちじゃない』 次の会社に行っても『うちじゃない』そういったら、いったいどこやと、ねえ、私その ときに非常に残念に思ったことはねえ、『うちじゃない』ということはねえ 『俺じゃない、おまえだ』ということといっしょや。罪を人になすり合いするその根性にねえ、本 当に私は頭にかちんときた。『よしそうかおまえらそんな気持ちか』と。そいで、今度は、行政に行った。『こんな、俺しらん、工場のいうとることは俺はしらん。』 。『 国の規制をちゃんとまもっとる工場が操業しとんのやから 俺はしらん』と、 ほんとにいったいどこへ行ったらええのや。 (四日市公害被害者の談話)」(6)といったことは通用しなくなったのである。

予見可能性についても、たとえば水俣病訴訟熊本地裁判決(1973年)では「被告は、予見の対象を特定の原因物質の生成のみに限定し、その不可予見性の観点に立って被告には何ら注意義務がなかった、と主張するもののようであるが、このような考え方をおしすすめると、環境が汚染破壊され、住民の生命・健康に危害が及んだ段階で初めてその危険性が実証されるわけであり、それまでは危険性のある廃水の放流も許容されざるを得ず、その必然的結果として、住民の生命・健康を侵害することもやむを得ないこととされ、住民をいわば人体実験に供することにもなるから、明らかに不当といわなければならない」(7)として、特定の原因物質が一定のメカニズムによってある特定の病気を引き起こすということを予見できたかという意味での予見可能性を求めることは「住民をいわば人体実験に供することになる」とし、人体に対するなんらかの危険性が予見されることをもって予見可能性の要件を満たすとしている(7)。

このように激甚な公害とそれによる大きな被害の発生を受けて、それに対応する法理が創造され、それらの法理は西淀川公害訴訟などその後の裁判でもおおむね引き継がれ、確立していく。

しかし、公害訴訟を通して確立されてきたこれらの法理は被害を受けた、あるいは受ける可能性のある当事者が裁判に訴えてはじめて適用されるものである。民事裁判は個別の紛争を解決するためのものであり、判例としての影響力を持つとはいえ、効力そのものは各事案に限定される。また個別の事案ごとに当事者適格が吟味される。たとえば高速増殖炉もんじゅの原子炉設置許可の無効確認訴訟判決で最高裁もんじゅから59km圏内の住民に対して当事者適格を認めたが、逆に言えば、その外に居住している住民が原発の危険性を訴えて運転差し止めを求めても、そもそも当事者ではないという理由で門前払いされる可能性がある。

裁判官は法律の専門家ではあっても環境や健康の専門家ではないため、判断に高度な専門性が要求される原発のような案件では、事故の起きる可能性や程度といったことについては、特に行政訴訟の場合、行政の専門的裁量の範囲内として判断を避け、各事案についての法的手続きに瑕疵があったのかなかったのかといった形式的要件のみで判断する傾向も見られる(8)。

しかしこれらをもって司法が責任を果たしていないと考えるのは誤りであろう。上にも述べたように、司法(民事)はそもそも普遍的正義の追求ではなく個別の紛争の解決を求めるものであり、そこでは裁判に訴えることができるのは紛争の当事者に限定されるという原則(当事者適格)がある。また司法の判断は法に基づいで行われるものであって、解釈できる範囲には限界がある。そして何よりも行政庁が関与する場合、行政庁が下した専門的判断の妥当性を科学技術の素人である裁判官が二次的に判断を加えることについては議論があり、多くの行政法学者はこのような方式(実体的判断代置方式)は妥当でないとしていることがある(8)。司法には多数の制約があるのだ。

むろん上記の公害訴訟にあるように司法が新たな法理を創造して問題に対処する場合もある。しかし公害病の場合は、公害が住民の健康・生命にとうてい看過できない侵害を直接的に与え、直ちに被害者の救済が必要であることが誰の目にもあきらかであったという時代的背景があったことも忘れるべきではない。現代では、放射能ダイオキシンアスベストといった直ちに被害が見えにくい汚染や温暖化による自然災害の激化といったあまりにも因果関係が錯綜しているようなものが問題となっている。この場合、ボールは個別の事案に向き合う司法よりもより普遍的な対応が可能な立法や行政、広く言えば社会の側にあると考えるべきだろう。つまり科学と社会の関係を現代に見合った形で整理する法(行政規則も含む)の創出やそれを支える世論や人々の意識の変化が求められていると考えるのが妥当であろう。たとえば企業等の行為や製品が地域住民、消費者、労働者の利益への脅威をもたらす、とりわけ生命健康を脅かしている可能性がある場合は、厳密な因果関係の検証や被害の起こるしくみの解明がなされる前でもそれを公表し、操業や製造の差し止めを行う責任と権限を行政が持つべきであろう。そのことによって、仮に行政が何も手を打たない場合、不作為の責任を追及することができるようにもなる。一見中立的に見える「待って様子を見よう」という行政の姿勢が大きな悲劇をもたらしてきた歴史的教訓を忘れるべきではない。何もしないことは中立的行動ではない。何もしないということを決定したということなのだ。確実に決定できないことを長く論争し、その間、有効な措置がとられないまま。被害を拡大してきた「分析による麻痺」という轍を踏まないことである。それには、行政が行った規制措置が間違っていた場合でも関係者の責任を問わず、間違っていた場合の補償を支援する仕組みを整える必要がある。

ここまで原子力産業、化学産業、商社といった様々な業界に触れてきたが、それぞれの業界は強力な利益集団であり、様々な経路を通じて政治を動かす力を持っている。官僚に対しても政治家や幹部官僚を通じた人事操作、再就職先の確保などを通じて陰に陽に影響力を及ぼしている。福島第一原発の事故後に指摘された「規制当局が電力業者の虜となっていた」ことはこのような事情が背景となっている。したがって業界に負担を強いるような政策は、たとえそれが長い目で見て社会の利益に結びつくものであっても、その実施には大きな困難が伴う。政治家にとっても行政官にとってもリスクを伴う行為であり、それを乗り越える決断が必要となるのである。リスクを乗り越えて動くためには、たとえば公正取引委員会食品安全委員会のように、

①法により与えられた明確な使命

②規制される側の情報に依存せず(規制される側は水俣病におけるチッソ、PCB汚染におけるモンサントのようにしばしばデータの隠蔽を行う)、調査を自ら行い、自律的判断をすることができる専門性

③判断過程における政治の影響からの独立

といった特性を持つ環境政策組織が、国レベルでも自治体レベルでも必要となると考える。

社会の側、消費者の側も単純な市場原理で動くのではなく、環境や生命・健康、労働者の生活を守るの必要な費用を価格に上乗せすることを当然だと考え、それらの費用による価格の上昇について寛容であるべきだろう。そのことによって市場原理を適正に働かせ、環境ダンピングや労働ダンピングを市場の力によって抑制することができるのである。

 

(1)宮本憲一(2017):日本の公害問題の歴史的教訓、滋賀大学環境総合研究センター研究年報14(1)、3-19

(2)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(3)小林健一(2009):アメリカの環境・燃費規制と自動車工業(2)――レーガン政策とビッグスリーの車種戦略――、東京経大学会誌(経済学)262号、229-246

(4)朝日新聞Digital:連合、石綿規制法案に反対「雇用不安」理由に94年、http://www.asahi.com/special/asbestos/TKY200508040494.html

(5)環境庁(1973):公害白書から津地裁四日市支部判決を引用した

(6)四日市公害再生市民塾:四日市公害と人権、、http://yokkaichi-kougai.exp.jp/contents1/guide/4_5nen/contents/hobo_guidebook.pdf

(7)吉村良一(2000):公害における過失責任・無過失責任、立命館法学2000年3・4号下巻(271・272号)、1703-1734から水俣病訴訟判決を引用

(8)小林傳司(2007):「トランス・サイエンスの時代―科学技術と社会をつなぐ」、NTT出版ライブラリーレゾナント