リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

専門家と市民の界面―欠如モデルの限界と転換 欠如モデル

 

 前章で現代の科学技術の抱える様々な問題を見てきた。共通して言えることは、科学技術は社会に深く組み込まれており、同時に社会を根底から支える存在であるということだ。別の言い方をすれば科学技術は社会を一変させるポテンシャルを持つ存在であり、同時にその方向性を社会によって強く規定されていると存在であるということである。したがって科学技術のステークホルダー(利害関係者)は社会構成員全員、つまりすべての市民である。ここまでは多くの人が合意できるであろう。しかし、では科学技術の方向性を決め、資源を配分し、発生した問題を解決する、つまり科学技術の統治を誰がどのように担うのかというと意見は分かれる。

 序章でも少し書いたが、これまでの支配的な考え方は、科学技術は高度な知識とスキルを必要とするものであり、その開発や運用は専門家しか行いえない。したがって研究開発や現場での運用は専門家が行い、政治家と官僚、産業界が資源配分や制度の運用によってこれを支援し、統制するというものであろう。素人である市民が、専門家による専門的判断とそれに依拠する政府や企業の判断に口をさしはさむことに対しては警戒的である。この種の考え方の中にも様々なニュアンスの違いがあるので、一概に言えない部分もあるが、概括的に言うならば、「科学技術に対して素人である一般の市民に適切な判断を期待することはできない。しかし市民は世論や選挙を通じた一定の影響力を持っており、市民の理解なくして科学技術にかかわる政策や新技術を使用した製品の普及を進めていくことは難しい。したがって政府や産業、専門家は政策の正しさや技術の安全性を市民に理解してもらうように努めるべきである」ということになるだろう。この言い方は穏やかに過ぎるかもしれない。私は原発立地促進のためのキットを作成しているという広告会社の方と話したことがあるが、彼は「主婦をはじめ科学をしらない無知な人たちが原発反対派のデマに乗せられて反対運動をしているために原発の立地が進んでいない。もし中東で戦争が起こって石油が入ってこなくなったら日本は大変なことになるのだから一刻も早く立地を進めなければならない。原発立地を進めるために私たちがこのキットをつくりました」と一種の使命感を持ってキットの構想を語ってくれた。言葉使いは露骨ではあるものの、原発推進側の人々の認識を正直に表現したものであろう。本音としては専門家・産業・政府といった、知識が十分にある身内の中で進めていきたいが、民主主義社会において市民の力は無視できないので、「よく言って聞かせて納得してもらう」、「知らしむべし、よらしむべし」の考え方である。このような考え方、市民には正確な科学的知識がないために科学技術を受容しないのだから、専門家が正確な知識を与えることによって、科学技術を受容するようになるという考え方は欠如モデルと呼ばれている。

しかし欠如モデルはあちこちでほころびを見せていることも事実である。欠如モデルの前提は2つある。一つは「専門家の知識は正しい」であり、もう一つは「知れば知るほど受容する」ことである。まず「専門家の知識は正しい」から考えてみよう。これは、はっきりとした問題設定ができ、予測や主張の正誤とその根拠が明確な場合、たとえばニュートン物理学による天体の運動の予測や建築物の耐震性の分析のような場合には概ねあてはまる。しかし科学技術の受容が問題となるのは、たとえば原発であり、遺伝子組み換え作物であり、有害化学物質の問題である。詳しくはトランスサイエンス問題の章で述べるが、これらは理学・工学の文脈に加え、社会的・経済的文脈が複雑に入り組んでくる問題であり、様々な分野の専門家が関与してくる。それぞれの学問分野の価値観によっても「何が正しいのか」が異なってくる。近々で言えば新型コロナについて感染症の専門家と経済の専門家で言うことが違っていることがその例だろう。理学・工学に限定したとしても、そもそもその系の振る舞いが専門家にも容易に予測しにくく、何が正しいのかよくわからないことも多い。一言で言えば一筋縄ではいかない問題であり、「専門家の知識は正しい」とは簡単に言えないのである。まして福島第一原発の事故や公害病、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病等への対応であらわになった企業と国、研究者の場当たり性、無責任性等を思い浮かべれば、専門家や政府が持っている「正しい」知識を「無知な」市民が受容するというモデルがこれらの事例において全く不適切であることは明らかであろう。

もう一つの「知れば知るほど受容する」はどうであろうか。上述の欠如モデルの妥当性については近年研究が蓄積されてきている。たとえばKahan(2012)のアメリカにおける調査によれば、地球温暖化を深刻なリスクとして認知する程度は科学への理解の程度が進むほど低下することがわかった。それを仔細に分析し、平等や共同体を重んじる価値観を持つ場合、科学への理解が進むほどリスク認知は増大するが、平等に対して懐疑的で階級的・個人主義的価値観を持つ人々では科学への理解が進むほどリスク認知はむしろ減少することを見出した。科学への理解が深まるとリスク認知は二極化する、科学への理解の効果が価値観によって逆向きに働くのである。Kahanはこのことから科学への理解ではなく個人の価値観の違いがリスク認知の違いをもたらしていると結論付けている(1)。

EvansとDurantはイギリスにおける調査で科学についての知識が豊富な人々は一般的には科学への支持が高いが、ヒト胚の利用など倫理的検討が必要な研究に対してはむしろ支持しなくなることを示している(Evans and Durant,1995)(2)。

 2000年にイギリス政府とウェルカム財団が行った科学技術に対する知識や態度の調査(Office of Science and Technology and the Wellcome Trust、2000)では、クラスター分析によって市民をいくつかのグループに分類している。それによると、科学技術に関心をもち、メディアから科学技術に関する情報を積極的に取り入れている人々の場合でも、科学や科学者・技術者、政府の科学技術に関する政策を強く信頼するグループ、科学や科学者・技術者を信頼していても、政府の政策には懐疑的なグループ、科学や科学者・技術者、政府の政策のいずれに対しても懐疑的なグループといくつかのグループに分かれる結果となっており、市民の科学技術への考え方の違いは関心や情報の程度と比例しているわけではない(3)。

 日本でも、たとえば西條の調査(2009)では、科学知識得点と科学重視因子には相関はない、つまり科学の知識があるからと言って科学の価値を高く評価するわけではないことが示されている。西條はこの結果を、欠如モデルは誤りであることを示唆する結果であると解釈している(4)。

岸川ら(2012)は17項目のリスク要因に対する危険度認知を調査している。その結果によれば、学歴の高い層が低い層に比べて、自分や自分の家族に対してより危険度が高いと認識しているのは、原子力発電所SARS、核廃棄物、大気中の発がん物質、喫煙、環境ホルモンダイオキシンであった。学歴の高い層が低い層に比べて全般的にリスクを高めに見積もる傾向があったことは割り引いて考える必要があるが、一般的には学歴の高い層が、低い層より科学的リテラシーが高いと思われるので、これも欠如モデルが成り立っていないこと示す研究と思われる(5)。

土屋ら(2008)は市民、原子力の専門家、バイオ技術の専門家の科学技術観やリスク認知を調査しているが、遺伝子組み換え食物と原子力では市民のリスク認知が異なっており、遺伝子組み換え食物についてはよく知っている市民ほど安全と答える割合が高く,原子力発電はよく知っているほど危険と答える割合が高いという結果が得られている。これは、原子力発電の場合,市民は知れば知るほど危険と考えるようになることを意味し、欠如モデルとは逆の結果となる(6)。

中谷内ら(2018)のように欠如モデルを支持する結果が得られている調査も存在する(科学技術に関する知識が乏しい方が科学技術にかかわる危険への不安が高くなる傾向が存在する)が、この研究においても知識不足は不安の大きさの要因としてはごく小さなものであり、「科学的リテラシーは不安のごく一部を説明するに過ぎない」とされている(7)。

以上みてきたように、市民の科学技術への理解が進むほど科学技術を受容するようになるとは言えず、分野によってはむしろ理解が進むほど危険と考えるようにすらなることがわかる。欠如モデルは成り立っていないのである。もちろん、そうだからと言って、専門家がその知識を市民と共有する努力を怠ってはならないのは当然である。民主主義社会では、科学技術の進展のためには市民にそのリスクを知らせないほうがよいという「よらしむべし、知らしむべからず」という立場は成り立たないからである。

欠如モデルがうまくいかないとなれば、別のモデルに置き換える必要が出てくる。それは科学技術の方向性、たどるべき道の決定を専門家や政府、企業が独占せず、市民との対話の下に決めていくという「科学技術への公衆の関与」モデルであろう。「科学者や技術者が行っていることを公衆に理解させるトップダウンの一方向の過程から公衆との真の対話へと移行する事が必要」(8)(イギリス上院「科学と社会」委員会レポート)なのである。次章からはそのモデルの構築に必要な諸条件を見ていこう。

 

(1)Kahan,D.M., Peters,E., Wittlin M., Slovic,P., Ouellette,L.L., Braman,D., Mandel,G.(2012): The polarizing impact of science literacy and numeracy on perceived  

climate change risks, Nature Climate Change volume 2, 732–735

(2)Office of Science and Technology and the Wellcome Trust(2000):Science and the Public

A Review of Science Communication and Public Attitudes to Science in Britain, https://wellcome.org/sites/default/files/wtd003419_0.pdf

(3)Evans,G., Durant D.(2009): The relationship between knowledge and attitudes in the public understanding of science in Britain, Public Understanding of Science,4,57-74

(4)西條美紀(2009): 科学技術リテラシーの実態調査と 社会的活動傾向別教育プログラムの開発、https://www.jst.go.jp/ristex/funding/files/fin_saijo.pdf

(5)岸川洋紀・村山留美子・中畝菜穂子・内山巌雄(2012):日本人のリスク認知と個人の属性情報との関連、日本リスク研究学会誌 22(2)、111 – 116

(6)土屋智子・小杉素子・谷口武俊(2008):社会的論争を招く技術に対する専門家と市民のリスク認知の違いとその背景要因、日本リスク研究学会誌 18(2)、77-85

(7)中谷内一也・長谷 和久・横山 広美(2018):科学的基礎知識とハザードへの不安との関係、心理学研究、89 (2), 171-178.

(8)House of Lords (2001):Science and Society: Select Committee Report

https://www.theyworkforyou.com/lords/?id=2001-02-16a.405.0&p=13115