リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

対話と関与のモデルへートランスサイエンスと社会的判断ー

核物理学者のアルヴィン・ワインバーグは「Science and Trans-Science」(1)という論文の中で「科学に問うことはできるが科学によって答えることができない問題」を「Trans-Scientific Questions」(トランスサイエンス的問題)と呼び、次のような例をあげた(5つ挙げているが、この節の問題意識に適合する2例を述べる)

 

・低レベル放射線の生物への影響 放射線が生物に起こす突然変異率が放射線の量に比例するとした場合、150ミリレムの放射線被曝は0.5%の突然変異率の上昇を起こすはずだが、それを実験的に確かめようとすれば80億匹のマウスを必要とすることになり、実験は不可能となる。同様なことが微量物質の環境への影響についても言える。

・きわめて稀な事象 破滅的な原子炉事故や巨大地震によるダムの崩壊のような場合、モデルに基づく計算はなされているが、どのような不具合が起こるかすべての場合をつくしているかの保障がなく、また稀な事象であるがゆえに、不具合のおこる確率を直接決定することができないといった事情があるため、計算がなされていてもきわめて疑わしい。

 

これらは科学の俎上に上げることはできるが、科学によって決定的な解答を得ることができない。科学の確固たる基礎の上に技術を確立し、社会実装していくというのが多くの人が抱く科学と社会の関係であるが、それが成り立っていない。リスク等に関する論争があったとしても「どこまでが科学的論争で、どこからが社会的な論争であるというような明確な境界線を引くことはできない」(2)。したがってこれらの問題に関する意思決定を行う場合、社会は、科学を考慮に入れながらも科学を超えた判断(社会的判断)をせざるを得ないのである。

社会的判断が必要な場合は上述のような科学に不確実性がある場合だけではない。私の知っている範囲に限っても少なくとも3つが考えられる。

1 無知 

リスク論でいう「無知」(どのような状態が生じ,どのような結果が出現するかその可能性すらもわからない状況)(3)、つまり科学者も含め誰もが予想しなかったリスクが出現してくる状況(たとえばフロンによるオゾン層破壊はフロンの開発・実用化の際にだれも予想していなかった)の場合がありうる。もちろん「無知」の状況においても、何らかのリスクの指摘がなされるまでは、判断自体が行われない。しかしリスクの指摘があり次第、その指摘があいまいだったり、一般的な指摘にとどまっていたとしても、社会の側で何らかの対応を検討し実行していく必要がある。科学による詳しい解明を待っているわけにはいかないのである。

2 確率的影響をもたらすリスクの容認基準の決定

福島第一原発の事故以降、放射線とその健康影響に関心が集まっているが、中でも、「いったい年間どのくらいの量の放射線を受けると危険なのか」、つまり安全と危険の境界線はどこかということに人々の関心は集中している。しかし、放射線の場合、「一定量放射線を受けると、皮膚障害などの影響が必ず現れる」確定的影響ならばこのような境界線を引くことができるが、がん(白血病などを含む)の発病確率を上げる確率的影響には境界線を引くことはできないとされている。メディアでしばしば取り上げられる年間20mSv(避難指示解除の基準)とか年間1mSv(公衆、つまり一般人の線量限度)は安全と危険の境界線ではなく、交通事故など他のリスクとのバランスも考慮したうえでの受忍限度(容認できる限度)である。具体的に言えば、たとえば年間1mSvというのは年2万人に一人のがん死亡リスク、20 mSvは年1000人に一人のがん死亡リスクに当たる。この程度のリスクならば社会的に受容可能というのがICRP(国際放射線防護委員会)の判断であり、日本政府もこの基準を採用している(ただし福島の原発事故被災地域では、避難指示解除基準が20mSvであるため、公衆の線量限度も事実上20mSvとなっている)。

この問題は科学の不確実性とも関連はしているが、基本的に別問題と考えた方がよい。リスクの算出は科学に依存しているが、そのリスクを容認できるかどうかは科学ではなく社会が決めている。原発の安全性にかけるコストや原発の利得や石油危機など他のリスクとの見合いで容認しているのであって社会的判断の問題である。丸川珠代環境相が1mSvの基準について「何の科学的根拠もなく」と発言したのはおそらくこの辺の事情を官僚に説明され、誤解した結果だと思われるが、リスクを容認する基準を決めるのが科学ではなく社会だという意味では、半分正しいとも言える。 

このような問題は原発に限られたことではない。国土交通省は都市水害を防ぐために高規格堤防(スーパー堤防)の建設を淀川河口、荒川下流などで進めている。これらの堤防がどの程度の洪水に耐えられるのか、それは何年に一度の洪水なのか、生態系にどのような影響を与えるのかということはある程度科学的に答えることができる。しかし何年に一度の洪水なら耐えられるということは、逆に言えばそれを超える洪水ならば被害がありうるということを容認することである。またコストや生態系の変化といったことと堤防建設によるベネフィットとの比較したうえでの決断となり、いずれも科学的判断の問題ではなく社会的判断の問題である。

3 異なるフレーミングの調整

 上の節で述べたことは、フレーミングとも関連している。社会的判断は多くの場合、フレーミングの調整の問題でもある。「ある問題をどんな視点から何に注目して何と関連付けながらとらえるかという、問題の立て方、切り取り方、枠づけ方」をフレーミングと呼ぶ(4)。フレーミング次第で見える風景は異なってくる。例を見てみよう。平川は遺伝子組み換え作物についての議論を取り上げている(4)。遺伝子組み換えは、それがもたらす健康へのリスクという視点で切り取ると、食品リスクの問題とフレームできるが、栽培時に他の作物に与える影響という視点で切り取ると、それは環境リスクの問題としてフレームできる。さらに作物の種子を開発企業が独占し、農家、特に零細農家が収奪を受けるという視点から切り取ると、経済的・社会的平等の問題としてフレームできる。これらはそれぞれが独立のフレームである。それぞれにおいて、たとえば食品リスクのフレームにおいて実質的同等性(遺伝子組み換え作物が既存の非遺伝子組換え農作物と比べ、栄養成分等に差異がなく、導入された遺伝子により新たに作られるタンパク質の安全性が確認されれば、その作物は安全と判断できるとする考え方)の概念を使って科学的判断ができたとしても、どのフレームを重視するのか、すべてのフレームをクリアしなければ科学技術の実装ができないのかどうかといったことは科学的に判断できない。社会的判断の問題である。

以上、科学的判断だけでは決定できず、社会的判断が必要となる例を述べたが、これらのことが示すのは、社会的判断は、判断を決定的に根拠づけるような情報がない状況の中で下す判断であり、価値観選択を含む判断だということである。このような判断は官庁が専門家の意見を聴取し、利害関係者の調整を行いながら落としどころを決めていくという方法がもっともふつうに行われている。しかし前章の「社会科学複合体の問題点―」で指摘したようにこの方法は「官僚は黒子であり、その存在が見えない。政策選択を実質的に左右する存在であるにもかかわらず、責任はとらない。責任をとらずに自在に政策を動かす見えない権力が作動し、官僚と業界の利益を脅かすような政策変更を阻んでいる」という問題点がある。科学技術社会論の研究者はこのような閉じた場での判断を社会に開かれた場(公共圏)へと開いていくことによって社会的判断をより妥当なものにしていくことを論じているが、ここではその議論は後ほどおこなうことにし、科学を考慮しなければならないが科学によって決められない問題には上述のようにいくつかのカテゴリーがあることを確認するにとどめておく。

(1)Alvin M. Weinberg,A.M.(1972): Science and Trans-Science, Minerva,10(2),209-222

(2)中島貴子(202):論争する科学ーレギュラトリー論争を中心にー、『科学論の現在』、172-203、勁草書房

(3)竹村和久(2006):リスク社会における判断と意思決定、認知科学、13(1)、17-31

(4)平川秀幸(2011):リスクガバナンスの考え方 リスクコミュニケーションを中心に、『リスクコミュニケーション論』、1ー58、大阪大学出版会