リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

対話と関与のモデルへ―耳を澄ませてそっと行う

前節と重複する部分が多いが、この節では社会的判断を行う際の有力な判断基準・行動基準となる予防原則と順応的管理について述べておこう。

 リスク論においては「望ましくない事象」を一般にリスクと呼び、リスクの大きさを(望ましくない事象の生起確率)×(その事象の重大さ)と定義する(益永)。リスク管理においては、リスクをどの程度に抑えるかというリスク管理目標を設定し、「望ましくない事象の生起確率」と「その事象の重大さ」を正確に見積もって、その積であるリスクの大きさを管理目標以下に抑えることが要求される。たとえばイギリスでは鉄道輸送について、許容できる最大限の死亡確率を従業員については年間1000人に一人、一般市民については1万人に一人と設定し、ケガについても200人の軽傷=10人の重傷者=1人の死亡者を等価と考え、対策を進めている(三宅淳巳)。科学技術を社会に実装する場合、ベネフィット(利益)を勘案しながら、リスク管理目標に示されるリスクの大きさを十分に小さくする手段を講じることによって、実装に伴うリスクは社会にとって受容可能になると考えられる。

 しかし、リスク(広義のリスク)には、

・どのような事象がどのような確率で起きるがわかる(狭義のリスク)

・リスクの定量化ができるが、「どのような状態や結果が出現するかはわかっているが,状態や結果の出現確率がわからない状況」

・「どのような状態が生じ,どのような結果が出現するかその可能性すらもわからない状況」

の3種類が考えられ(竹村)、後者2つについては、リスクの定量化はできない。特に前節でもふれた「どのような状態が生じ,どのような結果が出現するかその可能性すらもわからない状況」は無知とよばれ、時に深刻な事態をもたらす。

例を挙げてみよう。1938年に開発されたジエチルスチルベストロール(DES)はエストロゲン類似作用を持ち、流産や早産の予防薬としてアメリカ等で広く処方された。DESには期待される効果が全く認められないということが後に判明したが、それよりも大きな悲劇が誰にも知られることなく進行していた。1966年から69年にかけてマサチューセッツ総合病院若い女性には極めて稀な膣がんの患者が7人も訪れた。患者を調査したハ-バ-ド大学のハワ-ド・ウルフェルダ-は患者の病歴を詳しく検討し、患者の母親が妊娠初期にDESを服用していたことが共通の要因であることを1971年に明らかにした。その後、動物実験で母親へのDES投与が子どもの膣がんを引き起こすことが確認された。妊娠中の母親が服用した合成ホルモン剤が実に20年以上もたってから子どもにがんを引き起こすという思いもよらないことが起こっていたのである。マサチューセッツ総合病院での膣がん患者の集中的な来院がなく、膣がん患者が別々の病院で診断されていたならば、DESの危険性は認識されないままであったと言われている(イバレッタ&スワン)。当該の科学技術が実用化された時点で、専門家も予想できていなかった恐るべき影響の例である。まさに「どのような状態が生じ,どのような結果が出現するかその可能性すらもわからない状況」(無知)である。これはDESという一つの物質の例であるが、複数の物質が相互作用して生体に影響を与える複合影響についてはほとんど検討が進んでおらず、単独で大きな影響がなくても他の物質の存在下で危険になりうる物質が野放しになっている可能性もある。  

「無知」の例は合成化学物質の導入・普及において見られることが多いが、未知のパラメーターが多い漁業資源管理、開発による生態系の変化、発電所からの温排水の挙動、核燃料再処理工場から排出された放射性物質の挙動(再処理工場では通常運転で多量の放射性物質が放出される)など挙げていけばきりがない。これらはいずれも予想されなかった影響が事後的に判明してきたものだが、判明した時にはすでに深刻で、時には人の生命・健康への影響、種の絶滅といった取り返しのつかない不可逆的影響を与えることがある。

このようなことが起きうる以上、新たな科学技術の実装が、その時点では不可知のリスクをもたらす可能性がある(無知)ことを、実装を推進する立場の人たちも含め、社会全体で認識することが必要となる。もちろん、そもそも何が起きるかわからない以上、事前にそれを想定して備えることは不可能ともいえる。しかし、たとえばある物質の人への毒性が許容できる水準以下と判断されたとしても、その物質が非常に安定で環境に長く残留するものならば、影響が長期にわたることになり、導入は慎重に検討する必要がある。環境中の濃度のモニタリングも必要になるだろう。そして肝要なのは、予期しなかった重大な悪影響が人や生態系に生じうる可能性がわかった場合は、厳密な因果関係を立証できていなくても、利用を中止する必要があることだ。このような先制的な予防措置を正当化する原理が予防原則(事前警戒原則)と呼ばれている。

高津(2004)は予防原則は具体的には次の諸原則の集合体であるとしている。

  • 規制排除の禁止:重大な害悪のリスクを有する行為に関する科学的不確実性を理由にして 規制を妨げてはならない。
  • 情報の開示:人々を潜在的なリスクにさらす者は、不確実性を考慮し、関連する情報をその影響下にある人々に開示しなければならない。
  • 安全性の限界点の設定:有害な影響が見いだされず、また予測もされない水準以下に、行為を制限する安全性の限界点が規制に含まれなければならない。
  • 最善の技術の利用:重大な害悪をもたらす不確実な可能性のある行為の支持者が、その行為による測定可能なリスクがないことを証明できなければ、その行為に対して最善の利用可能な技術が要求されなければならない。
  • 行為の禁止:重大な害悪をもたらす不確実な可能性を有する行為の支持者が、その行為による測定可能なリスクがないことを証明しなければ、その行為は禁止されなければならない。

 予防原則は行為(たとえば新規技術の導入や大規模開発)について事前規制(予防)をするだけではなく、モニタリングや事後の規制・禁止も含むものであり、事前事後のプロセス全体に適用されるものである。わかりやすい表現でいうならば、予防原則の要諦は、何かを行おうとする際、その行為が世の中にどのように影響を及ぼしていくのか目を凝らし、耳を澄ませることであると言えよう。

 一方、予防原則はリスクのあるものを何でも禁止しようというものではない。新型コロナのワクチンのように、副反応が出ることはあっても世の中全体への利得がリスクを大きく上回るであろう新技術に対してその利用を阻害することは適当ではない。またリスクを口実にした貿易障壁など予防原則が恣意的に運用される可能性も存在する、そこで予防原則の運用にあたっては、利得も考慮し、次の原則が提案されている(欧州共同体委員会)。

①均衡性

②無差別

③一貫性

④行動すること、又は、行動しないことの便益と費用の検討、

⑤新しい科学的知見の検討

①の「釣り合い」とは、「想定される措置は、適切な保護の水準を達成することを可能とするものでなければならない。予防原則に基づく措置は、望まれる保護の水準と均衡性を欠くものであってはならず、まずは存在しない、ゼロ・リスクをめざすものであってはならない。」というものである。ただし、「全面的な禁止が、潜在的リスクへの唯一の可能な対応となりうる場合もある。」とされている。②無差別というのは、「客観的根拠がない限り、同様な状況は、異なるように取り扱われるべきではなく、異なる状況は、同様に取り扱われるべきではない」である。③一貫性というのは「措置は、同様な状況においてすでにとられている措置、又は、同様のアプローチを用いている措置と一貫しているべきである。」である。 ④、⑤は字義とおりである。

ここで注目したいのは「⑤新しい科学的知見の検討」である。ここでは「措置は、新しい科学的データを考慮するよう定期的に再検討されなければならない。科学研究の結果により、リスク評価を完全に行い、必要な場合、その結論に基づいて措置を再検討することができるべきである」とされている。つまり何らかの措置をとるという判断をした場合、それは最終的な判断ではなく、事後においても情報を収集し、新しい情報に応じて措置を見直していくことが必要だということだ。これはより一般的に言えば、引き返して新しいやり方ができる余地を残し、措置の結果を見極めながら進んでいくこと、つまり「そっと行う」ということである。この「そっと行う」措置、状況の変化に応じて措置を変化させることは順応的管理と呼ばれている。予防措置と順応的管理は相反するもののように言われることがあるが、順応的管理は既成事実を作っていくことではない。とりかえしがつかないところまで行かずに随時微調整し、ダメそうなら引き返すこと、あきらめることもある。藤垣裕子は順応的管理を「見試し」という江戸時代の河川管理方法(水門調節、放水路管理など何か新しい手法を行う場合に、ひとまずやってみて数年様子を見ながら利害関係者間で話し合い、折り合いをつけていく方法)と酷似していることに注目しているが、順応的管理はまさにこの「見試し」である。

予防原則は「耳を澄ます」こと、順応的管理を「そっと行う」ことと考えれば、これら2つは相反するものではなく、むしろ対として考えることができる。何かこれまでの経験になかったことを行う場合、人は何か変なことが起こらないかよく耳を澄まし、変なことがおこったらすぐ引き返して別な方法で行えるようそっと行うであろう。新しい科学技術の導入とか新たな開発行為を行う場合もそれと同様である。

では予防原則と順応的管理を原理とした社会と科学技術の関係を作り上げていくためにどのようなことが必要なのだろうか。以下ではそれを考えていくことにしよう。

 

引用文献

益永茂樹(2013):リスク評価―選択の基準、『科学技術からみたリスク』、1-10、岩波書店

三宅淳巳(2013):産業災害とリスク、『科学技術からみたリスク』、83-108、岩波書店

竹村和久(2006):リスク社会における判断と意思決定、認知科学、13(1)、17-31

ドロレス・イバレッタ&ジャンナ・H・スワン(2005):DES物語:出生前曝露の長期的影響、『レイトレッスンズー14の事例から学ぶ予防原則』、155-170、七つ森書房

高津融男(2004):予防原則は政策の指針として役立たないのか?、京都女子大学現代社会研究、7号、163-175

欧州共同体委員会(2000):予防原則に関する欧州委員会コミュニケーション文書、高村ゆかり訳  http://www.env.go.jp/policy/report/h16-03/mat03.pdf