リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

疫学の考え方

1850年ごろのロンドンではコレラがしばしば流行し、多くの死者が出ていた。当時はコレラが細菌で引き起こされるということは知られておらず、瘴気(悪い空気)が原因であると考えられていた。ジョン・スノーは当時ロンドンに在住していた医師であるが、飲み水が原因ではないかという疑いを持っていた。折からスノーは1854年ソーホー地区におけるコレラ大流行に遭遇し、住民への聞き取り調査によって特定の井戸(ブロード・ストリートの井戸)の水を飲んだ住民に限定してコレラが発生していることを突き止めた。そして井戸を管理していた教区当局を説得してコレラの発生を収束させることに成功した。スノーはその後も研究を続け,同じ地区に住んでいる人でも給水会社によってコレラ死亡者が大きく異なることを発見し,空気ではなく水がコレラの原因であることをさらに確かなものにした.

スノーは細菌によってコレラが引き起こされることを発見したわけではない。その意味で井戸の水を飲むことによってコレラが発生する理由を説明することはできなかったが、水の中にコレラを発生させる因子があるという因果関係を突き止めることはできた。これが疫学の始まりであると言われている(1)。このように疫学は人間集団で発生する伝染病の頻度や分布の調査の中から、その病気の原因や その予防法を探る学問として出発し、その後、がん、生活習慣病公害病、事故などの様々な有害事象とその原因を研究する学問として発展してきた。その法的な到達点の一つが疫学的因果関係論である.「科学の社会化」の章で一度触れてはあるが,もう一度触れておこう.

イタイイタイ病第一次訴訟第一審判決では,「本病患者が前記のように神通川を中心とし東方の熊野川と西方の井田川に挟まれた扇状地に限局して多発する理由を疫学的見地からみれば、 カドミウムに求めるほかない」と疫学上の因果関係を全面的に認め,カドミウム摂取によってイタイイタイ病が引き起こされる詳細な病理学的根拠を求める被告企業(三井金属)に対して「病理機序が細部にわたってくまなく明確になれば疾患の原因が一

層明白になるとしても、 反対に、 病理横序が不明であるからといって疾患の原因が確定し得ないわけのものではない」とその主張を立ち退けた(2 ).控訴審判決においてはさらに明確に「臨床医学や病理学の側面からの検討のみによっては因果関係の解明が十分達せられない場合においても、疫学を活用していわゆる疫学的因果関係が証明された場合には、法的因果関係が存在するものと解するのが相当である」と疫学的因果関係の証明をもって法的因果関係が成立するものとした(3).イタイイタイ病判決は他の公害病裁判にも影響を与え,たとえば四日市公害訴訟第一次判決では「原告らが磯津地区に居住して、大気汚染に暴露されている等、磯津地区集団のもつ特性をそなえている以上、大気汚染以外の罹患等の因子の影響が強く、大気汚染の有無にかかわらず、罹患または症状増悪をみたであろうと認められるような特段の事情がない限り、大気汚染の影響を認めてよい」と喫煙等様々な原因で起こりうる一般的な疾患である呼吸器疾患のようなものであっても疫学的因果関係を認めるなど疫学的因果関係論の射程が拡大している(3).

一般にトランスサイエンス問題においては,たとえば地球温暖化問題にせよ重金属など有害物質による汚染にせよ,有害事象とその原因についてはかなりはっきりしていても,明確な因果関係はよくわからないことが多い.詳しい分析によって因果関係を解明するまで待っていると人の健康や生命.生態系に回復不能な損害を与える可能性がある,ある物質が致死的なものであるとわかれば,その物質でなぜ死ぬのかということなど考えるよりもまずはそれを避けることを考えるだろう.それと同じで有害事象とその原因との間に疫学的因果関係が推定できる場合には,原因と特定されたものの使用を禁止したり,避けたり,無害化しようとすることが賢明な考え方である.

その意味で市民が疫学の考え方を知っておき,それをトランスサイエンス問題についての議論に利用したり,意思決定に活かすことは望ましいことであり,理科教育や社会科教育に疫学の考えかたを導入することが望まれる.疫学というやや耳慣れない用語を聞くと全く新しい難解なものを勉強しなければいけないにように聞こえるかもしれないが,その手法の多く,たとえばデータの散らばりの表現,データの相関,母集団と標本調査,仮説の検定と有意水準といったものは中学校や高校の数学で必修となっており,新しくもないし,それほど難解でもない.ただ現在の学校教育の枠組みでは,これらの扱いは数学の枠内で汎用的な統計的手法を身に着けるために行われるものであり,因果関係を推論し,それによって意思決定(政策)を導くことが目的ではない.トランスサイエンス問題を扱う場合には事象(その多くは有害事象)とそれをもたらす原因との間の因果関係が問題となるので,統計学というよりは疫学と表現するのが適切と考える.

なお疫学を市民教育の場で扱うのは,上に述べたように統計的手法を身に着けることが目的ではなく,市民が何らかのトランスサイエンス問題に際して意思決定(政策)の支援ツールとして疫学を利用できるようになるのが目的である.したがって統計的手法(ある程度は必要)は最小限度にとどめ,意思決定の教訓となるような事例(公害病等疫学が意思決定の根拠として利用された事例)における疫学の利用を,必要に応じて法的・制度的・倫理的な側面にも触れながら学習するケースメソッドの手法をとるのが良いと考える.

以下では,市民に対する教育の中で扱うことが望ましい内容を,やや断片的になるがいくつか挙げてみたい.

(1)多田羅浩三(2009):現代公衆衛生の思想的基盤,日本公衆衛生雑誌,56(1),1-17

(2)田中嘉之(1972);イタイイタイ病第一次訴訟第一審判決にみる因果関係論(中),一ツ橋論叢,68(4)410-417より判決文を引用した

(3)吉村良一(2019):損害賠償訴訟における疫学の意義 : 水俣病訴訟を例に,末川民事法研究,5,33-53より判決文を引用した.

科学的成果物の前提となる変数の同定と当該変数をめぐる議論の理解

「科学技術へのクライアントシップ」の節で「前提による議論の拘束」について述べた

が、以下ではこれを「批判的に考える」という文脈の中において,変数という形で具体化してみたい。

小学校理科の伝統的教材として振り子がある.振り子の周期を決める条件を探求する教

材である.振り子の長さ,振れ幅(角度),振り子のおもりの重さをいろいろ変化させて,この3つの条件(以下変数と呼ぶ)のどれが周期を決めているのかをさぐっていくわけだが,その際の定番の実験方法は,この3つの変数のうち、どれか2つ、たとえばおもりの重さと振れ幅を固定して、振り子の長さという一つの変数のみを変化させ、その変数の影響を検出する方法である。いくつかの変数を同時に変化させてしまうと,どの変数が周期に影響するのかがわからなくなってしまうためにこのような方法をとるわけだが、この考えかたを条件制御と言い、小学校理科で重視されている考え方である。条件制御した実験を系統的に実施する(長さの変化,重りの重さの変化,振れ幅の変化をそれぞれ行っていく)ことによって,振り子の周期を決めるのは振り子の長さのみであるということを確認するのが授業の着地点になる.先生によってはそれ以後、高いところから吊って周期の大きな長い振り子を作ってみたり、秒振り子(周期2秒の振り子)を作るなど振り子の知識の活用を行うこともある。授業の焦点は振り子の長さによる周期の操作に移っていくわけだが,この段階ではおもりの重さや振れ幅は周期に影響を与えない変数として注意の対象から外れ、いわば「隠れて」しまう。

 実はこの実験には注意すべき点がある.振り子の等時性(同じ長さの振り子がゆれる周期は、振り子の重さや振れ幅にはよらず一定になる)は「振れ幅が大きくなければ」という条件付きであり,振れ幅が大きくなると,児童による荒い測定でも等時性の破れが観察されるようになる.そこで教科書では振れ幅を30度以上にはしないことが指示されているのである.  

トランスサイエンス問題とは関係のなさそうな振り子の話をしたのは,振り子の等時性には「振れ幅が大きくない」という前提が存在することであり、振れ幅が大きくなってくるやいなや、それまで隠れていた(前提となっていた)振れ幅が周期に影響を与える変数としてにわかに姿を現してくることを示したかったからである。これを実験の観察者の立場から少し揶揄的な言い方で表現してみるとこんなふうになるだろうか.「君は振り子の長さが周期を決めると言うんだね。でも君は10度とか20度とかでの実験しかみせてくれないね。思い切って振れ幅を70度にしてみようじゃないか。ほら周期は10度の時とは違うね。振れ幅が変わると周期も変わるというのが正解じゃないのかい」。

これを一般化して述べてみよう。実験とかシミュレーションにおいては、その実験とかシミュレーションにおいて変化させる変数(独立変数,振り子の場合は振り子の長さ)と実験等の結果(従属変数,振り子の場合は周期)の関連が注目されるのであり、実験の前提となる変数(振り子の場合はおもりの重さ,振れ幅,長たらしいので,以下,前提変数と呼ぶ.パラメーターと呼ばれることも多いが,パラメーターは変数一般を指して使われるので,ここでは前提変数としておく)については、考慮の対象から外される.しかし前提変数の変動がある範囲(この範囲を境界条件と呼ぶ)を超えると,それが実験結果に影響を与えるようになる.

もちろん論文等では冒頭で先行研究を援用して前提変数の設定の妥当性や境界条件について論じておき,研究が妥当な前提の上に行われていることを主張するのが手順となっている.

しかし,教育の場において使われる資料集とか教材とかにおいてはその大部分(といっても私の見聞の範囲内だが)において前提変数の妥当性(その値でいいのか)や境界条件(どこまでその値でいいのか)を児童生徒が吟味することはほとんどない。というよりもそのような吟味は授業の流れを混乱させるとして注意深く回避させるようになっている.振り子の例で言うと30度以内の振れ幅にするというのは、教師の側の注意事項であって児童には30度以内で振りなさいという指示があるのみである(ちょっと余談になるが、小学校教師の理科指導を記述した文科省のウェブサイトはこの記述がなく、それどころか45度で振らすように書いてあってちょっとびっくりした。ちなみに教科書はちゃんと30度以内と書いてある)。

私は、伝統的な理科教材の場合(自由研究とか高校の課題研究のようにどんな実験をするのかということから考える必要があるものは例外)はこれでよいと思う。バックグラウンドを固定して少数の変数間の関係へと事象を単純化する還元論的方法が通常の科学の方法論なのだから,理科教育においてもそれがモデルとなるのは当然である.しかしトランスサイエンス問題を考える場合には、様々な科学的成果物の論理の立て方(上記の条件制御など)と結論を知ることと同様にそれが前提としている前提変数の妥当性を吟味する(正確に言えば妥当性を吟味する議論を知る)ことが効果的な教育になると考える。例を出してみよう

・基本高水という前提変数

 八斗島(群馬県伊勢崎市)という地名はあまり聞きなれないと思うが利根川が山地から平地に出てきて,さらに烏川,神流川を合わせて川幅を大きく広げた場所(正確には合流点よりやや下流)であり,利根川河口から180kmの位置にある.利根川の治水上重要な場所であるため,水位観測所が置かれ,八斗島を流れる洪水流量が利根川の治水政策の基準となっている.

ダム等の洪水調節施設で洪水調節が行われないと仮定した場合の河川の流量を基本高水と呼び,八斗島の場合,利根川流域で最大級の洪水があったカスリーン台風時の基本高水のピーク流量(最大流量)は22000㎥㎥/s(1秒間に17000㎥が流れる)とされている(1).河道ですべてこの流量を流すことはできない(氾濫する)のでこの基本高水を河道とダムで分担することになる.そのうち河道が受け持つ流量は計画高水と呼ばれ,八斗島の場合,16500㎥/sである(1).残りの流量はダムが分担することになり,国土交通省利根川上流域において八ッ場ダムをはじめ多数のダムを建設してきたのは,この計算を基礎としている.

建設省(現国交省)と市民団体が対立した千歳川放水路建設問題の議論の際、「基本高水は河川審議会で決定されたものであり、これは石狩川憲法である」と北海道開発局の担当者から発言があったとされているが(2)、このエピソードが示すように、基本高水は河川計画の根幹となる前提変数であり, 河川工学の専門性はここに集約されているともいえる.

しかし八斗島の基本高水については議論が絶えない。基本高水は流量モデルの改訂や降水量観測、都市化などの流域の状況変化に対応して変更されている。建設省は1980年にそれまでの17000㎥/sの基本高水のピーク流量を22000㎥/sに改訂した。その根拠は「基本高水のピーク流量22,000m3/sは、 もともと観測史上最大のS22.9洪水 (カスリーン台風)の実績降雨から、 河川整備等による氾濫量の減少を考慮して算出」(3)とされている。八斗島より上流部の河川整備が進んだことにより、1947年カスリーンの台風時よりも氾濫が起きにくくなった,つまりそれまで上流であふれていた水が下流まで流れるようになったため、その分、下流への流量が多くなったとするのである。それに対して大熊孝(河川工学)は、流域住民への聞き取り調査から建設省によるカスリーン台風時の氾濫推定は過大であり,氾濫によるとされてきた八斗島より上流部の被害は「赤城山を中心とした降雨によって土石流が多数発生したこと、本川の水位が高くなったことによって内水がはけないで、浸水家屋が出たことにある」と結論している.そして,利根川本川の氾濫はさして大きなものではなかったとし,「国交省の説明では、計算流量と実績流量との差はカスリーン台風当時、八斗島上流で氾濫したことになっているが、もし、これだけの量が上流部で氾濫したとすれば、氾濫水深を2mとしても6000ha 以上の氾濫面積が必要となる。現実にはそのような広大な面積の氾濫は無かった」と国交省の推定を批判している(4).氾濫の想定が間違っていれば基本高水のピーク流量も当然まちがっていることになり,大熊はピーク流量は16,000㎥と試算し,このことを根拠として利根川上流のダム建設の必要性に疑問を呈している.

一方,関良基は,森林の過剰利用が行われていたカスリーン台風時に比して材積量で5.4倍に拡大するなど(1998年時点),森林が著しく回復し,また上流域にダムが5つ建設されているにもかかわらず,基本高水のピーク流量を17000㎥から22,000㎥と増やしていることを疑問視している(5).関はその批判を裏付けるため,1998年洪水について実際の基本高水のピーク流量とその時の雨量を国交省のモデルに入力して計算した基本高水のピーク流量(八斗島)とを比較し,森林保水力の上昇とダムの効果によりピーク流量が27.8%もカットされていることを示した.このことを考慮しないピーク流量設定は誤っており,「基本高水があってダム計画が定まるというより,ダム計画に合わせて基本高水は操作されているのではないか」と,治水上,最も基本的な前提変数である基本高水のピーク流量設定が恣意的に操作されていると考え,大熊と同じく,ダム建設に疑問を投げかけている.

上にも述べたように基本高水のピーク流量は治水計画の根幹となる前提変数である.それについての一定の根拠のある異議申し立てがあることを流域の市民が知っておくことは,公的政策とその代替的選択肢(オルタナティブ)のどちらをとるべきかについて,つまり政策の正当性について市民が議論するきっかけを与え,熟慮・熟議につながるという意味で啓発された市民の育成に有用と考える.

もう一つメタ的なフレーミングの例としても挙げた割引率という前提変数について地球温暖化問題を例として触れておこう.

・割引率という前提変数

経済学では,ある事業とか投資とかの是非を考慮する際に割引率という概念がよく使われる.あまり耳慣れない言葉であるので,少し説明しておこう.今,利率10%でお金を運用すると仮定した場合,現在の100万円は1年後に110万円になる.ということは1年後の110万円は現在の100万円に等しいことになる(実際の計算は少し異なるが,考え方は同じ).このように将来のお金(将来価値)を現在のお金(現在価値)におき直す際には減価する計算を行うことになり,その減価率が割引率と呼ばれる.当然同じ100万円でも1年後に得られる100万円と10年後に得られる100万円では現在価値が異なり,年数が長くなるほど現在価値は減少する.

地球温暖化問題にこの割引率の考え方を適用するとどうなるだろうか.現在時点において二酸化炭素を一定量(一単位)減らす費用が1万円,これにより100年後に10万円分の損害を防ぐことができるとする.割引率を3パーセントとすると,100年後の10万円を現在価値に直すと5000円であり,費用が現在価値を上回る.一方,割引率が1%ならば現在価値は3万7000円となり現在価値が費用を上回る.現在価値を最大化するように行動するのが経済合理的な行動であり、前者ならば対策を行わない,後者ならば対策を行うのが合理的な行動ということになる(以上は山口光恒の「費用便益分析と「スターン.レビュー」」(6)による).以上のような分析の手法を費用便益分析と呼ぶ.もちろんこのような判断を下すためには,未来の損害の大きさを正確に見積もり,それを金額に換算することができるモデルの存在とそれに入力するためのデータが必要であり,困難な点はたくさんあるのだが,それでもこの計算に挑んだ経済学者は存在する.その代表的存在がウィリアム・ノードハウス,ニコラス・スターンである.しかしこの両者の結論はかなり異なっている.大瀧正子の論文(7)によってその違いを見てみよう.ノードハウスは割引率を決める要素として市場利子率を考慮し,割引率を4~6%と想定している.そして「近い将来では排出抑制割合が大きくなるに従い抑制費用が急激に上昇するため,現世代の「負担」の大きさを考えると短期的な排出抑制に費用をかけるよりも,長期継続的に排出削減効果が期待できる温室効果ガス削減の技術開発に重点を置くほうが効率的な「温暖化政策経路(climate-policy ramp)」である」とした.性急に温室効果ガス(二酸化炭素,メタンなど)の排出量を削減することは現世代の大きな負担となり,それよりも技術開発によって長期的に排出量を削減する方が望ましいとしたのである.一方スターンは割引率を1.4%に設定している.「長期にわたる環境投資において,将来世代の「便益」を割引くことがピグー (Pigou (1925) )の「展望能力の欠如(lack oftelescopic faculty)」と考えるので,割引くことを認めることができない」(5)ため市場金利より著しく低い割引率となっている(経済成長による消費の拡大,つまり未来世代が現在世代よりも豊かになることを考慮するため0%にはしていない).これは地球温暖化対策による被害の軽減の現在価値を上げることになる.したがってスターンのモデルにおいては,地球温暖化に対して取るべき対応はノードハウスとは異なっており,「温室効果ガス排出の累積的な被害は長期的に甚大であるが,早期に削減すれば長期的に被害を回避するための費用は低く抑えられ,温暖化対策の便益は費用を凌駕する」と強力な対策を早期に行うことによって費用よりも便益が大きくなるとするのである.

このように異なった結論を見せられるとスターンとノードハウスのどちらが正しいのかと問いたくなる.しかしこれはあまり生産的な問いではない.そもそも経済モデルに入力するたくさんの前提変数の値には不確実性が伴い,それに立脚する未来予測も不確実性が大きい.これらを予言のように見て実務的な意思決定を行うことは誤りであって,意思決定の参考となるツールという程度に考えておくのが穏当だろう.むしろスターンとノードハウスでなぜほぼ真逆の政策が提言されているのか,その理由を問うことの方がより生産的な問いになりうる.それが上に述べてきたように割引率なのである.

割引率に注目して考えてみると,スターンの上記の考え方は伝統的な経済学をはみ出していることに気づく.経済学の常識にてらして考えれば,ノードハウスの割引率の設定が標準的なものと言える.市場で行われる活動には様々なものがあり,地球温暖化について特例的に市場金利から大きく乖離して割引率を低くすれば,地球温暖化対策にかかわる投資の現在価値が過大に評価され,収益率が低い地球温暖化防止投資に巨額の資金が流れて他の活動が圧迫され,経済全体の生産性が低くなる.これは現在世代の犠牲が大きすぎる.多くの経済学者はこのように考えるであろう.しかしスターンは将来世代の被害を現在世代の現在価値に割り引いて設定するのは将来世代の福利を不当に損なうことであり,倫理的に許容しがたいと考えた.経済学の枠を超え,倫理に踏み込んだ考察をおこなったのである.割引率は単なる数値でしかないが,その設定にはこのように現在世代と将来世代の福利のバランスをどう考えるかというフレーミングの問題が潜んでいる.

基本高水の項で,基本高水という治水政策の根幹となる前提変数について異議申し立てがあることを流域の市民が知っておくことが,政策の正当性について市民が議論するきっかけを与え,熟慮・熟議につながると述べた.割引率についても同じことがいえる.地球温暖化問題について異なった政策アプローチがありうるのであり,その違いの要因が割引率にあること.割引率を考えることは現在世代と将来世代の福利のバランスという理念の問題に帰着することを知るのは,市民が政策的に地球温暖化問題を議論し,熟慮・熟議する際の一つの出発点となるだろう.

 

以上,2つの前提変数について述べた.前提変数には他にも重要なものとして安全率があるが,これについては「対話と関与のモデルー耳を澄ませてそっと行う」の節で述べたので,ここでは繰り返さない.しかし,建築物の耐震性能や食品の安全性を議論する時などに使われる安全率は工学や生物学の理論から出てきたものではなく,専門家が経験的に「ここまで余裕を取っておけば安全だろう」といういわば相場感覚で決めたものであり,リスク回避に投じることのできる資源(資金,時間等)との見合いで決められるものであることを改めて指摘しておこう.市民の要求次第で上げたり下げたりすることは可能なのであり,たとえば原発の耐震性をめぐる議論も,科学用語に彩られているとはいえ,その本質はきわめて政治的(悪い意味で使っているわけではない)なのである.

トランスサイエンス問題を教育の場に持ち込む際に問題をめぐる議論をフォローするだけでなく,議論のよって立つ前提となる変数に着目し,その妥当性を考えることが市民の思考の幅を広げ,実質的な議論ができる市民の育成につながると考える.

 

(1)国土交通省(2006):利根川水系河川整備基本方針中の基本高水等に関する資料,https://www.mlit.go.jp/river/basic_info/jigyo_keikaku/gaiyou/seibi/pdf/tone-2.pdf

(2)大熊孝(2004):脱ダムを阻む「基本高水」  

 さまよい続ける日本の治水計画,世界,2004年10月号,123-131

(3)国土交通省(2005):第21回河川整備基本方針検討小委員会資料,https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonhoushin/051003/pdf/s2-1.pdf

(4)大熊孝(2008):意見書,http://www.yamba.sakura.ne.jp/shiryo/ikensho/ikensho_ookuma.pdf

八ッ場ダム公金支出差し止め請求にかかわり水戸地裁に提出された意見書

(5)関良基(2018):利根川の緑のダム機能と基本高水問題,経済地理学年報,64,102-112

(6)山口光恒(2008):日経BP 山口光恒の『地球温暖化 日本の戦略』 連載第 10 回

費用便益分析と「スターン・レビュー」【前編】,http://m-yamaguchi.jp/others2/bp_10.pdf

(7)大瀧正子(2008):地球温暖化問題の経済分析における将来世代の厚生評価の問題点,立命館国際研究,21-2,121―139

批判的に考えるー科学の方法論

本節では市民の意思決定の質を高めるために必要な要素として科学の方法論があることを述べる.とはいっても,私は,これまでの科学教育で扱われてきたような科学者の科学的探究をモデルとした方法論が必要だと考えているわけではない.科学的研究をモデルとした方法論である仮説設定,研究計画の作成,実験,考察といった流れの体験は理科のリテラシーとして重要なものだが,トランスサイエンス問題を考える場合には,科学的探究を実践することそのものよりも,当該のトランスサイエンス問題を論じる際に参照される科学的成果物(典型的には論文だが,有害物質の規制基準や環境アセスメントなど科学が主要なプレーヤーとしてかかわるもの一般をさすと考えていただきたい)を批判的に検討したり,トランスサイエンス問題のステークホルダーと生産的な議論ができることが重要だと考えるからである.このようなことができるためには科学の内容についての知識があるだけでは十分ではない.成果物は,成果を得るために採用している方法や前提があるはずだが,その適切性についての議論を理解するための知識(方法論的知識)が必要だし,方法論的知識を使って自ら問いを立て,討論してみる経験もある程度必要だろう.ではトランスサイエンス問題を扱うのに必要な方法論的知識や経験にはどのようなものが考えられるのだろうか.以下ではそれを考えてみたい.

問いの宛先

自然科学は自然現象をモデル化する営みである。モデルを洗練させることによって科学の予測力と現実世界への応用可能性は拡大していく。典型的な例はニュートン力学からアインシュタインの相対論への発展である.水星の近日点移動などニュートン力学では理解できなかった現象を相対論で理解できるようになり,また相対論により人工衛星と地上の時刻合わせを行うことによってGPSが可能になっている.

多様な要素が複雑にかかわり,システムのふるまいが予測しにくい気象システムや海洋生態系についても,現実世界での観測量とコンピューター上のモデルによるシミュレーションを突き合わせることによって、より予測力の高いモデルを作成し,天気予報や魚の資源量計算を精緻化させる試みが行われている.

これらは社会が求めることと科学が得意なこと,科学ができることが一致している例である.しかしこの両者は一致しないことがある.特にトランスサイエンス問題においては,科学技術が社会に実装される局面において様々なステークホルダーの思惑が交錯し.社会が科学に対して何を求めるのか,どこまで求めてよいのかということ自体が論争の種となる.それはたとえば生殖医療をめぐる議論を見ればあきらかであろう.出生前診断代理出産等生殖医療にかかわる技術の適用については社会の側の危惧により倫理的・政策的制約がかけられることが多い.一方でその制約の枠内で研究が積み重ねられ,技術的可能性は拡大していく.そしてその可能性が一部のステークホルダーの切実な期待(健常な子どもを持ちたい等)と結びついたとき,今度はその期待が社会的な力を持つようになり、倫理的・政策的制約が徐々に解除されていく.生殖医療の歴史はその繰り返しであった.今後はips細胞からの生殖細胞の創出という究極の不妊治療も考えられるが,この技術は「「デザイナーベイビー」(生殖細胞に遺伝子操作を行うことで生み出された親の望む形質をもった子供)と表裏一体の技術」(1)であって、倫理上の大きな問題を生み出す可能性を持っている。これらの技術がはらむ様々な問題について科学は安全性の向上,心理学的手法による当事者の精神的不安の抑制など多くのことをなしうる.しかし科学は「これ以上下がることのない倫理的限界はあるのか,ないのか,あるとしたらそれはどこに引かれるべきか」あるいは「そもそもこのような絶対的な倫理の境界線をもとめること自体無意味なのか」といった問いに答えることはできない.もちろん科学者はこの問題に直面している当事者なので,その意見を傾聴すべきではあろう.しかし科学という知的カテゴリーに答えられない問いであることに変わりはない.誰がこの問いに答えるべきか、つまり問いの宛先はだれかというと一人一人の市民と言う他ない。問いの宛先を「一人一人の市民」とするのは、「アジア太平洋戦争の戦争責任が一人一人の日本人にある」というような言説と同じく説明責任を分散・希薄化し、問いの意味を無化してしまう危険性はある。しかし答えることができない問いを科学に問うても、科学が得意とすること、科学ができることに置き換えた答え、あるいはさらに言えば科学ができることを拡大する方向での答えが返ってくるだけであろう。答えが間違っているのではない。端的に宛先が間違っているのである。

では上記のような根源的問いを科学者(科学ではなく)に問うことが的外れかというとそうではない。上にも述べたように科学者はこの問いと向き合いながら仕事をしているのであり、問いの具体的局面をもっともよく知っている当事者である。具体例を通して問いを整理し、分節化し、言語化することに長けた良き助言者となりうる。しかし外してはならないことは、問いを考え、暫定的ではあれ答えていくのは一人一人の市民であるということ、そして問いを科学の得意な形、科学ができる形に変形した答えについては「それは違うよ」と言い続けることである。

(1)佐々木恒太郎・斉藤通紀(2018):ヒトiPS 細胞を用いた生殖細胞造成の現状と将来

(日本産婦人科医会の研修ノート第100号のサイトより引用)

メタ的なフレーミング

「科学の社会化」の章でスチュワート・リチャーズの「科学・哲学・社会」の中の「巨大増殖炉計画はプルトニウムの頻繁な輸送を必要とするが、それは偶発的事故とテロリストの攻撃という当然の危険を伴うのである。そのために列車と原子炉用地の警戒のために大部隊の憲兵が必要になるであろう。これは原子力と個人的自由との非両立性という恐れをやがて起こすであろう」(1)という記述を紹介し、「プルトニウムという物質の持つ性質、それを利用する核燃料サイクルという科学技術体系そのものが権力の再配分の原因となる。集権化をもたらすのである」と述べた。

高速増殖炉というトランスサイエンス問題について意思決定する際には,高速増殖炉固有の問題を超えた、社会そのものの方向性にかかわる価値観の選択、高度に中央集権化された社会を選ぶのか、分権化された社会を選ぶのかという権力の再配分にかかわる意思決定を行っているのである.したがってこの問題を扱う場合にはそのような意味での価値観選択とそれに基づいたフレーミング、いわばメタ的な価値観選択・フレーミング(以下,メタ的なフレーミングと略す)を同時に行っているのだという意識を市民が持つ必要があり,教育者もそのことを意識しておかねばならない.

「権力の再配分」というメタ的なフレーミングは様々なトランスサイエンス問題に通底するフレーミングとして活用することができる。たとえば1960年代から70年代にかけて,主に発展途上国において稲や小麦の新品種の導入により大きな収量の増加がもたらされた農業改革,いわゆる「緑の革命」を「権力の再配分」というフレーミングで吟味するならば、種子や農法の選択における農民の意思決定の権能を特許や国際機関の資金援助というツールを使って種子会社や肥料会社、農薬会社が吸収していくプロセス,企業が権力を拡大したプロセスとみなすこともできる。緑の革命は収量の向上といった農業や食糧問題の範囲の中にとどまるものではなく,種子企業等の企業への農民の依存,あるいは種子や肥料を大量に購入して経営規模を拡大できる上層農家とそれができない下層農家への農民層の分解という社会の変化を伴うものだったのである.遺伝子組み換え作物の開発と普及はこの延長線上に存在する。

医学・生命科学の領域で言うならば「自己決定権」もメタ的なフレーミングとして考えることができる.「自己決定権」は,広く言うならば次のようなものとして理解することができる.

「主に「国家による干渉を受けずに個人が私的な事柄を自分で決定する権利」として理解され,実質的に保障される権利は,もっぱら私事,すなわち避妊や中絶,結婚や離婚,自己の生命や身体,容姿や趣味・嗜好といった,「プライバシーの領域に関わる事柄を決定する権利」として捉えられている」(2).医学・生命科学の領域で言うならば自己決定権は治療に対するインフォームド・コンセント,死後の自己の臓器の他者への移植の容認.人工妊娠中絶の権利といった様々な文脈で現れる.

これらは,現在の日本においては自己決定権の及ぶ範囲と認識されていると言えるだろう.しかし,たとえば人工妊娠中絶においては,「自己決定権」をめぐって深刻な対立が起きている.妊婦の血液で診断できる新型出生前診断の登場により,出生前にダウン症など一部の遺伝性の障害の診断ができるようになったため,診断で陽性と判定された妊婦のほとんどが中絶を選択するという事態となっており(3).遺伝性疾患の人々やその家族及び支援者から障害者の生の価値を否定するものだという批判がなされているのである(4).多くの人々はこの批判は傾聴に値するものだと考えるだろう.しかしこのような異論は新しい技術によりもたらされた「自己決定権」の力に圧倒されているのが現状である. 

将来的に遺伝子診断技術が進展すれば,体外受精を行った後,受精によってできたいくつかの胚の中から遺伝的障害を持つ可能性のある胚を排除して「正常な」胚を選ぶ,あるいは親の希望に沿った胚を選んで母体に戻すことさえもできるようになるだろう.ここまでくると現段階ではかなり多くの人が違和感をおぼえることになると思われる.しかし,体外受精が行われたときその是非について多くの議論がなされたにもかかわらず,現在は全く当たり前に行われているように、新しい技術が登場し、それを選択する人々が多くなれば、それが「自然な」こととして受け入れられることは十分予想できる。そのとき障害をもって生まれた人とその親に注がれる視線は「避けようと思えば避けられたはずの障害を避けなかった人たち」、「自己責任で障害を引き受けた人たち」、「あえて社会に負担をかける人達」という視線に変質してしまわないだろうか。全く同じことが尊厳死安楽死脳死と臓器移植等生命にかかわる様々なトランスサイエンス問題についても言える。「自己決定権」は「他者の意図を押し付けられることのない各人の自由な選択」という含意からあふれ出して、生命の選別がごく当たり前の社会に道を開く可能性を持っているのである。

メタ的なフレーミングの候補としては、リスク論の基礎ともなっている「期待効用」や開発プロジェクト等の便益評価に用いられる「割引率」なども考えられる。

ここまでメタ的なフレーミングについて述べたが,メタ的なフレーミングを明示的に扱わなくてもよい、あるいはメタ的なフレーミングを想定しなくてもよいトランスサイエンス問題も多いだろう。しかし教育者は個別のトランスサイエンス問題の背後にメタ的なフレーミングが存在する可能性を意識し、必要に応じて学習者にその存在を気づかせる指導が求められると考える。

(1)スチュワート・リチャーズ(1985)、:科学・哲学・社会」:岩坪昭夫訳、紀伊国屋書店

(2)金井直美(2011):自己決定の限界と可能性-自己決定の主体と能力をめぐる考察,政治学研究論集,33,147-169

(3)日本経済新聞2014年6月27日の記事「新出生前診断 染色体異常、確定者の97%が中絶」,https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2703S_X20C14A6CC1000/

(4)利光恵子(2021):受精卵のゲノム編集と優生思想,科学技術社会論研究,(19),32―40

不適切な前提を置いている立論に対しては、それについて批判的に検討しておくか、または排除する

フレーミングは「価値観の選択の問題」とすぐ上で述べたが,明らかに不適切な前提をもとにした立論の場合、それを教育の場に持ち込むと事実認識を誤らせかねない。現実世界から事実を切り取ってくるフレーミングは価値観によって異なってくるので、価値観と事実を明確に切り分けることは難しいが、だれの目から見ても不適切と思われる前提はありうる.もちろん虚偽の場合は論外だが,多くの場合,先行研究から都合のよい部分だけを切り取って,それを前提として立論されることが多い.たとえば原発について経済学者の池田信夫は「原発事故で過去50年に出た死者はチェルノブイリ事故の60人だけだが、WHOによれば、世界で毎年700万人が大気汚染で死んでおり、石炭火力がその1割としても70万人だ。中国だけで毎年36万人が石炭で死んでいるという推定もあり、石炭こそ最悪のエネルギーなのだ。つまり直接コストでみると火力は原子力といい勝負だが、環境・安全性などの社会的コストを考えると、原子力が圧倒的に安い(再生可能エネルギーはコストでは問題にならない)」(1)と論じている。出典が記されていないが、おそらくこれはチェルノブイリ・フォーラム(国際原子力機関が主催したチェルノブイリ事故の国際会議)で報告された急性放射線障害と小児甲状腺がん死者(小児甲状腺がんは「大部分が放射性ヨウ素の取り込みに起因する」と評価された)(2)を根拠としているのであろう。

チェルノブイリ原発事故による死者数の見積もりは、対象集団の規模をどうとるかによって異なってくる.そのため,チェルノブイリ・フォーラム、世界保健機関,国際ガン研究機関(世界保健機関の一機関であるが独自に推定を行っている)といった推定を行った機関ごとにそれぞれ推定死者数は異なってくる(3)。しかしいずれの場合でもがん死を死者数に組み入れている。原発事故では核爆弾と異なり、死者数はガンによる死亡が圧倒的に多い(たとえばチェルノブイリ・フォーラムでは死者は約4000人と推定しており,大部分はがんによる)。実験的にも疫学的にも放射線が発がんの要因であることは確定されており、池田がそれを知らないことは考えにくく、意図的にがんによる死亡を除外していることが疑われる.またもし知らないとすればそもそもチェルノブイリ原発事故の被害を論じる資格はない。このような明らかに不適切な前提をもとにした立論を教室の中に持ち込むのは議論の前提となる事実認識を誤らせることになるので有害である.ただしデータそのものは虚偽ではなくても,データを一部しか提示しないことによって誤った結論を導くことができる例として使うことはできるかもしれない.

 

(1)池田信夫(2016):原子力の価値、評価を妨げるものは何か,https://www.gepr.org/contents/20161215%E2%88%9201/

(2)The Chernobyl Forum: 2003–2005 (2006):Chernobyl’s Legacy: Health, Environmental and Socio-Economic Impacts and Recommendations to the Governments of Belarus, the Russian Federation and Ukraine,http://www.agriculturedefensecoalition.org/sites/default/files/file/nuclear/14Q_200

3_2005_IAEA_Publications_Chernobyl_Legacy_Second_Revised_Edition.pdf

(3)今中哲二(2006):チェルノブイリ事故による死者の数,原子力資料情報室通信,386,8-11

できるだけ多様なフレーミングを教室に持ちこむ

ある特定のトランスサイエンス問題は様々な価値観の下で切り取りうる(フレーミング)のであって,その問題の専門家だからといってそのフレーミングが「正しいフレーミング」であるとは必ずしも言えない.すぐ上でも述べたようにどのフレーミングを選択するかは個々の市民が決めるべきことである.しかし決めるためにはその問題についてどのようなフレーミングがありうるかを知らないと決めようがない.たとえば原発原発の話ばかりで恐縮だが,トランスサイエンス問題の典型例なので少ししつこいがまた例として挙げさせていただく)について考えてみよう.発電手法には多数の評価軸がある。環境影響であり、安全性であり、コストであり、安定的な供給であり,国家安全保障である。このような評価軸の設定自体はどのようなフレーミングにも共通することであるが,各評価軸の内部でのフレーミングは論者によって大きく異なっている.たとえば国家安全保障で言えば国際紛争時の日本のエネルギー供給の安定性を重視してエネルギー安全保障の観点から原発を推進すべきとするフレーミングをとる議論が多い(たとえば三菱総合研究所「提言 カーボンニュートラル時代の長期的な原子力利用の在り方」(1))が、ロシア・ウクライナ戦争では原発が軍事的に占拠されたり破壊されることが現実味を帯びてきたことから,原発は紛争の際,むしろ脅威と考えるべきとして,国家安全保障と原発による汚染を関連付けるフレーミングも見られるようになってきた(2).発電コストについても、たとえば廃炉に伴う低レベルの放射性廃棄物をすべて廃棄後の管理を要するとみなす、いわば全量管理のフレーミングを選択するのか、一定のレベル以下の廃棄物は放射線によるリスクが無視できるものとみなす裾切りのフレーミングを選択するのか(現行法ではこのフレーミングを採用している)によって廃炉のコストは全く異なってくる.ちなみに経産省によれば110万kw級の沸騰水型軽水炉では裾切り(クリアランス)を選択することにより廃炉の際に2万8000トンのコンクリートや金属の低レベル放射性廃棄物をリサイクルまたは通常の廃棄物として処分できることになる。これは技術的な問題ではない.放射能を持つ物質はすべて厳格に管理すべしとする価値観と,健康リスクが一定程度以下に抑えられれば,管理するかどうかはコストとの見合いで決めるべきとする価値観が背景に存在している.

 教育の場では、これらの多様なフレーミングをすべてとりあげることはできないが、ひとまずはこのような多様なフレーミングをできるだけ多く収集し、その中から学習者の発達段階や地域性を考慮して学習活動の組み立てを考えていくことが必要となる。ただしこれは原発の利点と欠点を並べたリストを作ってそれを学習するという意味ではない.もちろんこのような学習も大きな意味があるのだが,それよりも,

①同じ評価軸であってもフレーミングのとり方,つまりはその基礎となる論者の価値観によって問題の見え方が異なる

フレーミングとして何を選択するかは,どれかのフレーミングは科学的に正しくてどれかのフレーミングが間違っているというような科学の問題ではなく,価値観の選択の問題である.

③どのフレーミングを自分に親和的なものとして選ぶかは各自の熟考と選択に任されている

以上について知ることの方がむしろ主要な学習内容となる.個々のトランスサイエンス問題はその素材となるのである.

 各種のフレーミングを取り上げる際に,教育者が特定のフレーミングを価値づけて提示することは,学習者の自発的なフレーミングの選択という観点から言って適当ではないが,提示するフレーミングの選択と提示手法については,次に述べるように一定の注意を払うことが必要である.

(1)三菱総合研究所(2022),提言 カーボンニュートラル時代の長期的な原子力利用の在り方,https://www.mri.co.jp/news/press/20221007_2.html

(2)伊方原発運転差止請求事件原告弁護団準備書面(97)(2022): 武力攻撃の対象となる原発の危険性と反公益性,http://www.ikata-tomeru.jp/wp-content/uploads/2022/06/準備書面97武力攻撃の対象となる原発の危険性と反公益性.pdf

(3)経済産業省(2019):廃炉からのゴミをリサイクルできるしくみ「クリアランス制度」 https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/clearance.html