リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

問いの宛先

自然科学は自然現象をモデル化する営みである。モデルを洗練させることによって科学の予測力と現実世界への応用可能性は拡大していく。典型的な例はニュートン力学からアインシュタインの相対論への発展である.水星の近日点移動などニュートン力学では理解できなかった現象を相対論で理解できるようになり,また相対論により人工衛星と地上の時刻合わせを行うことによってGPSが可能になっている.

多様な要素が複雑にかかわり,システムのふるまいが予測しにくい気象システムや海洋生態系についても,現実世界での観測量とコンピューター上のモデルによるシミュレーションを突き合わせることによって、より予測力の高いモデルを作成し,天気予報や魚の資源量計算を精緻化させる試みが行われている.

これらは社会が求めることと科学が得意なこと,科学ができることが一致している例である.しかしこの両者は一致しないことがある.特にトランスサイエンス問題においては,科学技術が社会に実装される局面において様々なステークホルダーの思惑が交錯し.社会が科学に対して何を求めるのか,どこまで求めてよいのかということ自体が論争の種となる.それはたとえば生殖医療をめぐる議論を見ればあきらかであろう.出生前診断代理出産等生殖医療にかかわる技術の適用については社会の側の危惧により倫理的・政策的制約がかけられることが多い.一方でその制約の枠内で研究が積み重ねられ,技術的可能性は拡大していく.そしてその可能性が一部のステークホルダーの切実な期待(健常な子どもを持ちたい等)と結びついたとき,今度はその期待が社会的な力を持つようになり、倫理的・政策的制約が徐々に解除されていく.生殖医療の歴史はその繰り返しであった.今後はips細胞からの生殖細胞の創出という究極の不妊治療も考えられるが,この技術は「「デザイナーベイビー」(生殖細胞に遺伝子操作を行うことで生み出された親の望む形質をもった子供)と表裏一体の技術」(1)であって、倫理上の大きな問題を生み出す可能性を持っている。これらの技術がはらむ様々な問題について科学は安全性の向上,心理学的手法による当事者の精神的不安の抑制など多くのことをなしうる.しかし科学は「これ以上下がることのない倫理的限界はあるのか,ないのか,あるとしたらそれはどこに引かれるべきか」あるいは「そもそもこのような絶対的な倫理の境界線をもとめること自体無意味なのか」といった問いに答えることはできない.もちろん科学者はこの問題に直面している当事者なので,その意見を傾聴すべきではあろう.しかし科学という知的カテゴリーに答えられない問いであることに変わりはない.誰がこの問いに答えるべきか、つまり問いの宛先はだれかというと一人一人の市民と言う他ない。問いの宛先を「一人一人の市民」とするのは、「アジア太平洋戦争の戦争責任が一人一人の日本人にある」というような言説と同じく説明責任を分散・希薄化し、問いの意味を無化してしまう危険性はある。しかし答えることができない問いを科学に問うても、科学が得意とすること、科学ができることに置き換えた答え、あるいはさらに言えば科学ができることを拡大する方向での答えが返ってくるだけであろう。答えが間違っているのではない。端的に宛先が間違っているのである。

では上記のような根源的問いを科学者(科学ではなく)に問うことが的外れかというとそうではない。上にも述べたように科学者はこの問いと向き合いながら仕事をしているのであり、問いの具体的局面をもっともよく知っている当事者である。具体例を通して問いを整理し、分節化し、言語化することに長けた良き助言者となりうる。しかし外してはならないことは、問いを考え、暫定的ではあれ答えていくのは一人一人の市民であるということ、そして問いを科学の得意な形、科学ができる形に変形した答えについては「それは違うよ」と言い続けることである。

(1)佐々木恒太郎・斉藤通紀(2018):ヒトiPS 細胞を用いた生殖細胞造成の現状と将来

(日本産婦人科医会の研修ノート第100号のサイトより引用)