リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

リスク社会とその特性―遍在と破滅―

 

 

ベックのいうリスク社会とは、富の分配とそれをめぐる争いが社会の中心的課題であった「貧困社会」が「人類の技術生産力と社会福祉国家的な補償と法則がある水準に到達」し、貧困が緩和され、同時に「危険と人間に対する脅威の潜在的可能性が、今までになかったようなスケールで顕在化する」社会である(1)。リスク社会においては「「日々のパンをめぐる争い」の重要性は低下し、そのかわりにリスクの分配が人々の、そして政治の大きな関心事となってくる。生産力の飛躍的増大をもたらして貧困を緩和した主たる要因は科学技術であるが、リスク社会におけるリスクをもたらしたものもまた科学技術である。もちろんリスクは科学技術が発展する以前から存在していた、しかし、現代のリスク社会を特徴づけるリスク、科学技術が深く関与するリスクは、それ以前のリスクとは大きな違いがある。その一つは「人類全体に対する包括的な危険」であり、またそれと密接な関係にある遍在性である(1)。日本の例で説明してみよう。

 福島第一原発の事故は日本を破滅の瀬戸際まで追いつめた事故であった。しかしこれを「破滅の一歩手前で踏みとどまった」と考えるのは誤りであろう。宮崎駿が「原子力発電所の事故で国土の一部を失いつつある国」と日本について述べているように、放射性物質により高度に汚染され、事実上国土から失われた地域(帰還困難区域)は福島県の7市町村にまたがり、3万3700ヘクタール(新宿区の20倍程度)、住民は2万四千人に及ぶ。これらの地域は今後避難が解除されるとしても、事故以前よりも放射能レベルははるかに高く、住民は「日常生活において自らの被ばく線量を把握し、被ばく線量低減手段や放射線教育、健康管理や生活環境地域のモニタリング等について関心を高め、放射性セシウムが残存する生活環境で暮らす放射線防護の知識が大切」(富岡町放射線健康管理係)(2)という生活を強いられる。被曝は自己責任だというわけだが、子どもにとってこれがいかに過酷であるかは言うまでもない。日本は2011年3月に破滅の一歩手前で踏みとどまったのではない。部分的に破滅したのである。同様のことはチェルノブイリでも、ウラルのマヤーク核技術施設(放射性廃棄物タンク爆発事故によりチェルノブイリの20倍にも及ぶ放射性物質が放出された)でも、もっと大きな規模で起きている。放射能だけではない。有機化学が生み出したテトラクロロエチレンのようなPOPs(難分解性、高蓄積性、長距離移動性、有害性を持つ物質)は人や生態系の健康への脅威となり、世界を緩慢な破滅へと追い込んでいく危険をはらんでいる。

 ベックは原子力災害や有害化学物質に汚染された土地を、地図上に出現し拡大していく「白い斑点」にたとえ、そのような土地はもはや土地としての価値を喪失し、「誰も所有することを望まない」土地、「法的な所有が継続しても社会的または経済的には収用されてしまう」、「生態学的価値収用」された土地となることを指摘している(2)。このようなローカルな破滅が世界中で進行しているのである。そしてローカルな破滅はローカルにはとどまらない。「至るところで、有毒物質がまるで中世の悪魔のように忍び笑いをしながら悪事を働いている」(1)、つまりダイオキシンが日本中の母親の母乳から、あるいは南極のアザラシからも検出されるように、汚染は汚染源とは全く無縁のように見える場所まで浸透していく。水、空気、食物といったあらゆる媒体を通じて侵入してくる有害化学物質や放射性物質は環境に偏在しており、それらにさらされることは避けがたい。「危険は風や水とともに移動し、あらゆる物とあらゆる人の中に潜り込む」。「危険を前にして富めるものも力を持つものも安全ではない」。「そのかげて安心して暮らせる壁と自分の空間」は存在しないのである。ベックはそれを「「他者」の終焉」と呼ぶ(1)。逃げ道はないのである。

 一方で、依然として解消されていない全面核戦争による破滅の脅威があり、化石燃料の大量消費が招く可能性がある暴走温暖化の脅威がある。このようなグローバルな破滅の脅威、一度起こってしまえばもはや地球規模で文明と生態系に修復不能な損害を与え、人類の絶滅につながりかねない脅威も世界を脅かしている。科学技術がもたらすリスクあるいは少なくとも科学技術なしでは存在しえなかったリスクがローカル・グローバル両面から我々に迫っているのであり、地球的規模で遍在している。

(1)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(2)富岡町放射線健康管理係(2016):年間1ミリシーベルトと20ミリシーベルトの話、https://tomioka-radiation.jp/2016/09/30/1msv_and_20msv.html