リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

リスク社会とその特性―リスクの不平等な配分とリスクの受苦の不可視化

「ひび割れたNUCLEAR POWER 雨に溶け風に乗って 受け止めるか 立ち止まるか どこへも隠れる場所はない It’s A NEW STYLE WAR」

浜田省吾  A NEW STYLE WAR 

 ベックの言う「「他者」の終焉」を端的に表した詞ではないだろうか。リスクは地球的規模で遍在しているのである。しかしこれはすべての人が同程度のリスクにさらされているとことを意味しているわけではない。

アメリカでは、貧困層や有色人種の集中する地区に産業廃棄物埋め立て施設、化学工場、ウラン鉱山などの危険施設が集中していること、「破壊の踏み車」という言葉に見られるように、一度汚染が起こると、それがさらに別の危険施設の立地を誘い、「差別と貧困の結びつきの中で汚染が汚染を呼ぶ」状況になっていることが明らかにされている(1)

日本でも、宮本憲一が公害の社会的特徴として「被害は社会的弱者に集中する」(2)ことをあげているように、公害の被害は、水俣四日市といった地方都市、そして漁民や農民など社会的発言力の大きくない人々が住んでいた地区に集中して現われていた。また日本の公害研究者は、水俣に典型的に見られるように、差別が公害の原因追及を妨げ、公害が激化していく構造が見られることを早くから指摘している。「公害は終わった」あるいは「日本は公害克服の先進国」と語られることが多い。しかし、この構造は現在に至るまで基本的には変わっていない。確かに短期間に激甚な身体的被害を与えるタイプの環境汚染はほとんど見られなくなったが、都市からあふれ出した産業廃棄物が地方へ運び込まれ、都市では立地できない産業廃棄物処分場が地方に立地する「ゴミは田舎へ」という流れは現在も続いている。原発が東京や大阪といった電力の大消費地からはるかに離れた東北や北陸に立地するのは、有り体に言えば、政治と経済の中心地の近くにそんな危険なものを置いておけない、地方ならば許容できるだろう、と政治家も電力会社も、そして東京や大阪の人々も考えているからである。

 同じことが国際的規模でも起きている。たとえばエイシアンレアアース社(三菱化成の子会社)がレアアースの精製をマレーシアのペラ州ブキメラ村で行い、その過程で発生した残土(放射性物質のトリウムを含む)が野積み状態で放置され、周辺住民に白血病などの健康被害を与えた事件がある。レアアースの鉱石はオーストラリアの鉱山で採掘されたものであり、レアアースは全量日本に輸出されていた。エイシアンレアアース社は日本やオーストラリアの厳しい環境基準を嫌って、マレーシアで精製を行っていたのであり、いわば公害の輸出を行っていたことになる。同様の事例(先進国による発展途上国への公害の輸出)はフィリピンのバサール銅精錬所(丸紅などが出資)、マレーシアのマムート銅鉱山(三菱金属などが出資)など日本の企業が関与したものだけでも多くの事例が見られる。

国内でも国外でもリスクはリスクの配分は富の配分とは逆に富裕層よりも貧困層に、都市よりも地方に、マジョリティよりもマイノリティに(たとえば白人よりも黒人に)多く配分される。リスクにさらされる程度には厳然たる階級性が存在するのである。ベックはこうも述べている。「富の問題が上方への集中であるのに対して、危険の場合は下方へ集中している。その限りにおいて、危険は階級社会を解体させずに強化している」、「極度の貧困と 極度のリスクとの間にはシステム上の引力が働いている。」(3)と。

 このリスクの不平等な配分の背景には何があるのだろうか。もちろん富と権力の不平等があることは間違いない。NIMBY(Not In MY BackYard 自分の裏庭には来るな)という言葉が示すように有害化学物質や放射性物質、廃棄物を扱うような施設は誰しも近くに来ては欲しくないので、そのような施設は抵抗の少ない地域に立地することになる。アメリカの廃棄物業界会議で、住民の反対で立地がなかなか進まない熱リサイクル施設(廃棄物を焼却することによる熱エネルギーを利用する施設)の立地をどう進めるかをテーマとした部会が開かれ、そこでコンサルタントによって用意された資料には、「抵抗が少ない地域の条件」は、次のようなものであったという(1)。〈南部もしくは中西部、人口25,000人以下の 小規模コミュニティ、農村部、これまでに施設による美観的影響を受けていない、既存施設による雇用効果の経験もしくはその認識がある、経済的利益が目に見える、処分場埋立地の上、保守的、市場主義重視、中高年が多い、学歴は高卒以下が多い、共和党系、職業としては 農牧業・ビジネス関連・技術関連・自然搾取的、 低収入、カソリック、政治的関心低、ボランタリー団体への所属なし、平均居住歴20年以上〉。これはあからさまに富と権力から遠い地域にこのような施設が立地しやすいということを示している。ちなみにカソリックが条件に挙げられているのは奇妙に見えるが、これは宗教自体が影響しているというよりも、アメリカは、歴史的経緯からプロテスタントが社会上層を占めており、カソリック信者の社会的地位が低いことが関係するのであろう。

 居住地以外の条件(食物、職業等)においても、富裕で権力のある人々はリスクを回避できる多様なオプションを持つのに対して、その対極にある人々はそもそも選択できるオプションが限定され、リスク回避に有効なオプションを持っていないことが多い。先進国の富裕な消費者は無農薬のバナナを選ぶことができるが、先進国の大農業資本が支配する発展途上国の農園では労働者が手で殺虫剤が撒かれ「人々は白く粉だらけになっている」(3)

 しかし、富と権力の不平等のみがリスクの不平等な配分をもたらすわけではない。私は近代以降の社会の基本的前提である功利主義そのものに起因する面も大きいと考えている。

 功利主義について述べる前に私の個人的経験に触れておきたい。

ある電力会社の課長と話したとき、彼は原発に反対する人々を大略次のように批判した

 

大学病院のヘリが家の近くをよく通るが、それをうるさいといって批判する人がいる。そうう人は自分のことばかり考えていて社会全体のことを考えていない。原発も社会全体のために必要不可欠なものという意味で病院のヘリと同じだ。それなのに否定するのは、社会全体のことを考えていないのだ

 

原発の立地したところは、それまで開発が遅れ、貧しくて困っている人たちが多かった。原発ができて道も学校も新しくなり、生活がとても便利になって皆喜んでいる。それなのによそものが入ってきて原発反対を叫んでいて住民は困っている。

 

もちろんこれはインフォーマルな場での話である。しかしそれだけに本音ではあろう。少し矛盾したところはあるが、功利主義の考え方を体現していると思うので紹介した。

 彼の話の前段は、功利主義、後段は功利主義に立った際の政策選択を補助する補償原理を示していると考えることができる。

功利主義は社会全体の効用(幸福)を最大化することを目的とする。したがって、政策選択に当たっては社会構成員全体の効用の総量を最大化することを目標として選択するべきであると考える。「電気を安く大量に供給する原発は、電気の豊富な供給により産業や市民生活を支えており、リスクを勘案したとしても便益の方が大きいので、国民全体の総効用を高めるために原発を選択するべきである。それを批判するのは社会全体の効用に配慮しない視野の狭い感情的な議論である」というのが功利主義に基づいた彼の前段の考えであろう。

一方で原発周辺の住民は事故のリスクのため、事故時はもちろん、平常時でも事故の恐怖にさらされて効用は低下する。大多数の人々の効用の改善をもたらす政策であっても残った少数の人々の効用を低下させてしまうのでは、政策の犠牲者を出すことになり好ましくないし、犠牲になる人々の激しい抵抗を引き起こし、政策が実行できない可能性が出てくる。望ましいのは、「誰かの厚生(効用)を損なうことなく、他の誰かの厚生を高める」ことのできる変化(4)(パレート改善)である。そこで、原発や居住地の水没をともなうようなダム建設に典型的にみられるような、周辺住民の効用の低下を必然的に伴う開発や施設建設に際しては、それに伴って発生する効用(具体的には電力会社の増益や税金の増収分)の一部を周辺住民に移転(道路や学校を新しくする、土地の補償を行うなど)して効用の低下を補償することが行われる。補償によって効用の低下分を回復するので、「誰かの厚生(効用)を損なうことなく」社会全体の効用が上昇する。「補償のおかげでそれまで貧しかった地域が豊かになって皆喜ぶ。反対するのはそれを理解しないよそもの」というのが後段の部分の彼の考えであろう。

むろん、原発がそもそも社会全体の効用を改善するのかという前提への疑問は残るが、それなりに筋の通った議論のように見えるし、実際国の産業政策は明治以来、一貫して功利主義の論理で行われ、単純な功利主義一辺倒で通せない場合は補償原理で補正してきた。しかし功利主義は以下に述べるように、リスク分配の不平等を助長し、さらにリスクの受苦者を不可視化するという重大な欠点を持っている。

その一つは「費用も便益も,それが富裕な人々に生じる場合に大きくなり,貧困な人々に生じる場合に小さくなる傾向があると言える。したがって,便益が比較的富裕な人々に享受され,費用が比較的貧困な人々によって負担されるような変化は,そうでない変化よ りも,効率性の基準を満たす可能性が高い」(5)。ことに伴う不平等である。仮に都市の高級住宅地の近くに原発を作ろうとすれば、土地代だけでも莫大な費用がかかるし、労働コストも高い。一方、へき地と呼ばれるような場所に立地し、安い電気を大量に都市に送電すれば、送電にはある程度の費用がかかるが、全体的な費用ははるかに少なくて済む。電気をふんだんに使えることになる都市の便益も大きい。

便益は主として都市に生じるが、その便益の一部を原発立地自治体に交付税等の形で還元すれば、パレート改善が実現するであろう。しかしこうして実現されるパレート改善は都市とへき地の貧富の差に依存して生じるものである。この論理を徹底させるなら貧困地区や地方に危険な施設を集中させればよいことになり、このことがリスク分配の不平等を助長し、公正を損なうことは明白であろう。

もう一つの欠点は価値の経済価値への一元化である。ダム、発電所、コンビナートなどの大規模開発行為が行われる際には経済効果の算出とそれをテコとした開発促進(地元理解の促進)が行われるのが通例である。ダムを例にとると、建設時の作業員の雇用、地元の建設会社への支払い、ダム所在地交付金などダムサイト立地地域には多額の資金が流れ込む。たとえば青森県津軽ダム所在地の西目屋村の2019年度の歳入が約24億7000万円であり、一方、日本ダム協会の資料(6)によれば、2010年度のダム建設の経済効果(2010年度に雇用や用地費等で地元に帰属する資金)は約27億6000万円である。ダム協会の資料なので、帰属効果の大きい年度を選んでいる可能性もあるが、村の歳入を凌駕する規模の資金が地元に流入していることになる。一般にダムサイトの所在する市町村は過疎地域が多いので、地域の経済規模に対してかなり大きな比率の資金が流入し、それには多分に補償の意味も含まれているのだが、それにもかかわらずほとんどの地域で強い反対運動が起きている。 

それらの地域は概して先祖伝来の土地と地域共同体への愛着が強く、村の神社の桜をともに愛で、生業ではないにしても渓流でアユやヤマメといった魚を取り、近場の山でキノコや山菜を採取することを楽しむ人々が多い。このような生活は都市居住者にとっても憧れの生活類型となりうる生活であり、経済的価値には還元できない遊び仕事を多く含む、別な意味で豊かな生活である。このことはおそらくほとんどの人が認めることではないだろうか。ダムサイト地域におけるダム反対運動は、ダムがこの豊かな生活をまるごと沈めてしまうことに反対しているのである。しかし、補償においては、上述の豊かさはほとんど顧慮されない。土地代や現金収入(一般に山村ではこれは低額である)といった経済価値のみが補償の対象となる。というよりは実務上これしか方法はないだろう。コミュニティのつながりや清流の持つ精神的価値は考慮する客観的手法がないからである。

これはもちろんこれらの価値が実在しないとか重要でないということではない。しかし経済価値に乗らないということで一度無視されると、以後はそれらの価値がなかったかのように、あるいはわずかの精神的慰謝料に換算してそれで済まされるということになりがちである。本来経済的価値に還元できないこれらの諸価値は無視されるか、むりやりわずかな経済的価値に翻訳される。このような立場を内化した人々から見れば、山村の生活は「貧困」以外の何物でもない。ダムはむしろ「山村で暮らさざるを得なかった貧しい人々」の生活を近代化する福音としてすらとらえられ、反対する人々は「些末なことにこだわって多くの人々へ恩恵をもたらすダムの建設を邪魔する利己的な人々」と見られるであろう。ダムによって上述の諸価値が失われること、つまり村や川や山をダム底に沈められる人々の受苦はこの論理によって不可視化される。それだけではない。このような内化は外部の人々だけではなくダムによって沈められる地域の人達にも起こる。内化を受け入れた(受け入れざるを得なかった)人々と内化を拒否する人々との間で対立が起き、もともと緊密なつながりを持つコミュニティであるだけに対立はしばしば骨肉相食むような激しい憎しみを引き起こす。開発推進側はこの対立をあおり、コミュニティを破壊することによってダム建設を受け入れさせようとする。ダムを造る権力はダムを造るだけではない。コミュニティを引き裂き、経済価値以外の価値を捨象し、貧困を創造するのである。

話がずいぶん長くなってしまったが、もう少し続けさせてほしい。ダムによって利益を受ける都市の人々は恩恵を受けるだけで何もデメリットはないのだろうか。私はそうは思わない。誰かを犠牲にすることによってその他の大勢の人々が助かることは、犠牲になる人々にとっては気の毒だが、やむを得ないということを受け入れてしまえば、それはダムにとどまらない広がりを持つようになる。原発、産業廃棄物埋め立て地など様々なリスクを社会経済的に弱い立場にある人々へ押し付けることをやむを得ないと考える、倫理学でいう「滑りやすい坂道」に踏み出すことになる。ダーウィンは進化論が「弱者が生き延びて子を残すことの明らかな悪い影響」という優生学的発想を帰結することを認めながらも、同時に弱者を助けねばならないという義務感が人間の「最も高貴な部分」に由来し、弱者を選別排除することは「もっとも高貴な部分が傷つくこと」になるとも述べたという(7)。「滑りやすい坂道」へと踏み出すことは、他者の痛みへの無感覚や無視をもたらし、他者への共感という人間の「もっとも高貴な部分」を傷つけることによって、都市の人々に対しても不利益をもたらしているのではないだろうか。

実は、人々の効用の総和の大小関係でとるべき政策を判定できるという功利主義は経済価値以外の価値を排除しているわけではない。経済価値以外の価値を無視する傾向にあることへの警告はむしろ功利主義の現実への適用を論ずる場合に必ずといってよいほど聞かれることである。しかし実務上はこのような警告はほとんど無視されてきた。ダム然り、原発然り、コンビナート然りである。

権力は静態的なものではない。絶えず発動する(何かを行う)ことによって権力構造が確認され、権力は維持される。そのこと自体が悪いこととは言えないが、これまでの歴史を鑑みると、民主主義体制が確立されてから以降でも、何かを行う場合、どこかにリスクを押し付けて全体の福利の向上をはかるという形での功利主義の援用、「みんなのために」の旗印でだれかを犠牲にするという形での権力の運用を功利主義で正当化することがしばしば行われてきた。功利主義そのものを捨て去ることはできないだろう。しかし我々はこの限界を認識し、その適用限界の境界線が見えてきたら、潔く撤退することを厭ってはならない。

(1) 藤川 賢(2016):福島原発事故の避難指示解除と帰還にかかわる環境正義の課題、明治学院大学社会学部付属研究所研究所年報、46巻、149-161

(2)宮本 憲一(2017):日本の公害問題の歴史的教訓、滋賀大学環境総合研究センター研究年報、14(1)、3-19

(3)ウルリッヒ・ベック(1986):危険社会―新しい近代への道、東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局

(4)佐藤主光()」:公共経済分析Ⅰ https://www.ipp.hit-u.ac.jp/satom/lecture/pubecon1/2013_pubecon1_note04.pdf

(5)岡 敏弘(2002):政策評価における費用便益分析の意義と限界 、会計検査研究、25、31-42

(6)日本ダム協会津軽ダム建設の経済効果、http://damnet.or.jp/cgi-

(7)松田純(2018):安楽死尊厳死の現在、岩波書店