リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

そのフレーミング(問いの枠組み)は適切か-前提を問いなおす知性

写真は文字通り真を映す。目の前の光景をそのまま切り取る。しかし写真は光景全体を写し取るわけではない。光景の切り取り方(フレーミング)は写真家の意図に依存する。これは写真に限られたことではない。人間は神のようにある事物についてそのすべてを一挙に認識できるわけではなく、事物の提供する無限の情報を何らかのフレームによって切り取り、人間の処理できる情報に縮約して認識する。もちろん科学による認識についても同じことが言える。フレームの構築や選択(フレーミング)に際しては、何を重要と考え、何を重要と考えないかという認識論的な価値観によるフレーミングが行われる。高校の物理で扱う自由落下運動や放物運動の分析においては重力は扱われるが空気抵抗は出てこない。空気抵抗は運動の本質にかかわらない要素として捨象される。自由落下運動の試験問題では「なお空気抵抗はないものとして考えなさい」とされるのである。一方、雨滴が地上に落ちてくる速度を考える場合は、空気抵抗は運動を決める本質的なものとして算入される。トランスサイエンス問題の場合は社会とのかかわりがフレーミングに組み入れられる。リスクの問題について考えてみよう。リスクを評価するリスク論では、リスクは「望ましくない事態」(エンドポイントと呼ばれる)の起こる確率とその事態による影響の積として定義されている。「エンドポイント」を死亡とすると、たとえばある発電方式Aで死亡事故が起こる確率が別の発電方式Bで死亡事故が起こる確率が2倍であり、かつ被害の規模(死者数)が2倍であれば、リスク=確率×規模なので、AのリスクはBのリスクの2×2=4倍となる。コスト等の他の条件が同じであればAよりもBを選択するのが合理的ということになる。

この定義から分かるように、リスク評価はエンドポイントとして選ぶ事象に依存する。死をエンドポイントとすることが一般的ではあるが、「望ましくない事態」は死だけではない。死が「望ましくない事態」であることに疑いはないが、死までには至らなくても健康や生活の質に大きな影響を与える疾患や事故は多数存在する。死をエンドポイントとして選択した時点で,それらは捨象されている.「望ましくない事態」を死で代表させるというフレーミングによりリスクが定義されているのである.この点をとらえ,シュレッダー・フレチェットは「リスク評価の最大の問題はおそらくそれが質的に多様なリスクを数学的確率と死亡者数だけに還元する傾向を持つことにある」と批判している.私はフレチェットのこの批判に同感するが,ここで論じたいのはそのことではない.リスクについてリスク論を援用して議論するのならば,リスク論の前提を知ったうえで議論する必要があることを論じたいのである.

リスクを上述のように定義する以上,「望ましくない事態」の選択において死を選ぶのならば.他の「望ましくない事態」が考慮の対象外となることを前提として受け入れる必要がある.「望ましくない事態」として死以外のもの,たとえば発がんを選ぶ場合でも話は同じである.発がん以外の不都合なことが起こってもそれは考慮されない(できない).様々な「望ましくない事態」を考慮にいれた指標,たとえば生活の質も考慮に入れた「質調整生存年数」といったものを考えることもできる(2)が,すべての「望ましくない事態」を考慮に入れることはできないし,指標の中での「望ましくない事態」の按分はかなり恣意的なものにならざるを得ないだろう.またそもそも数値で表せないもの,たとえば「社会的公正」などは重要な価値ではあるがリスクの中に組み入れることはできない.

何を言いたいかというとリスクのような数値であらわされ,客観的に見えるものであっても,実はその根底に特定の価値観に基づくフレーミングが潜んでいるということである.だからといってリスク論が主観的で信用できないということではない.リスクについて議論する場合には,その結果として出てくる数値に関する議論以前に,前提となる価値観を受け入れるのか受け入れないのかを含めて議論していく必要があるということである.

もう少しリスクについて話を続けたい.リスク論でよく指摘されるのは原発事故のような市民が制御できず,影響が遅発的(代表的なのは発がん)ですぐ目に見えて知ることができないもののリスクは,交通事故のような自由意思である程度コントロールでき,影響が即時的で目に見えるものに比べて過大評価されやすいということである.その「対策」として「正しい判断を妨げる「主観」を減らし、客観的数値のみで 市民が判断できる環境を整える」といったことが専門家から提案される(たとえば嶋本貴文「市民に原発リスクを正しく判断してもらうには」(3)).しかしリスクの計算上は確かにこうなるとしてもこの考え方に漠然とではあれ納得しがたいと感じる市民は多いのではないだろうか.それは原発事故の確率が低く,リスク計算として交通事故よりリスクが低いとしても,いったんおこるとチェルノブイリや福島の事故のように極めて広域に影響が及び,破滅的な事故になるという経験があるからだろう.破滅的な事故が起こることがわずかな確率であってもあるとすればそれは許容しないという価値観を選択(フレーミング)することもありうるのであり,多くの人はそのようなフレーミングを無意識かもしれないが取っているのである.リスク論からすればリスクの定義を覆す「ちゃぶ台返し」の暴論であったとしても,このような価値観を意識し,明示的に選択することは,専門家のリスク計算を無批判に受け入れて「正しい判断」をするよりも私は望ましいと考えるし,それが教育の使命だと思う.念のためにいうがこれはリスク論に反対することが正しいと言っているのではない.判断のもっとも基底となる価値観の選択は各々の市民の権利であり義務であってそれは専門家やら行政やらに委任することはできない,自ら選ぶべきものだという市民ひとりひとりの認識を育てることが民主主義社会の教育の行うべきことだと言いたいのである.

リスクの話にだいぶ入り込んでしまったがフレーミングに話をもどそう.フレーミングを教育の場で,あるいは市民どうしの議論の場で扱う際に教育者が考慮すべきことを次に考えてみたい.

(1)シュレッダー・フレチェット(2007):環境リスクと合理的意思決定 市民参加の哲学(松田毅監訳),昭和堂

(2)岸本充生(2008):異なる種類のリスク比較を可能にする評価戦略-質調整生存年数を用いたトルエンの詳細リスク評価―,Synthesiology1(1),31-37

(3)嶋本貴文(2014):市民に原発リスクを正しく判断してもらうには,日本原子力学会2014年秋の大会,http://www.aesj.or.jp/~snw/katudouhoukoku/document/gakkai14aki_kikaku/paneru2.pdf