リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

トランスサイエンス問題から基礎へと降りていく学び

川勝博は「旧来は科学の体系的学習は、学問の体系に従って基礎を学ぶことが多い。これは学問の構造上、今でも大切である。」と基礎から積み上げていく学習の必要性を認めたうえで、「基本は基礎から応用へと学ぶ。しかし応用から基礎に遡る逆過程の学習も併用する。現実の問題や生活や政策的な議論から入って、その謎を深めながら基礎まで遡る。」(1)と基礎へ降りていく学びの併用、「双方向の学習」を主張しているが、私も同様に考えている。理科教育で扱われてきた伝統的な内容(たとえば振り子、てこ、ばね、金属の性質、呼吸、岩石と鉱物等々)については、その内容の持つ社会的意義(学校教育で取り上げる価値)を問い直していく必要はあるものの、前節で触れた「教師からの課題の提示、実験・観察による課題の探究、考察とまとめ(課題の解決)、振り返り」という理科の伝統的プロセスで基礎からつみ上げる学習、「基礎からの学び」に適していると思われる。

一方でトランスサイエンス問題については「現実の問題や生活や政策的な議論から入って、その謎を深めながら基礎まで遡る」学び、つまり「基礎に降りていく学び」が適している。このことはすでに本章の冒頭の部分で述べたが、それを再度確認しておきたい。「意思決定を行う経験の文脈の中でその決定の基礎となる知識が学ばれていくのである。このような学習の形態であっても基礎的知識を学ぶことができる、むしろいわゆる生きた知識(活用できる知識)となる」「たとえば水俣病など公害について考える際には、汚染源からの汚染物質はどのように環境中に拡散していくのか、それが生態系にどのように影響を与え、人間にどう跳ね返ってくるのか、被害を受けるのは誰なのか、どうすれば汚染や被害を極小化できるのか(できたのか)、法や倫理の側面も含め、問題を扱うことが必要となる。多様な観点から現象を吟味し、まだよくわかっていないこともあることを承知の上で公的な意思決定(どんな規制をするのか、誰を被害者として認定するのか,汚染者の責任をどう問うていくのか)をしていかなければならない。従来の科学教育の常識からすればこのような問題を扱うことは、複雑すぎて整理しにくく、混乱をもたらす危険があると考えられるだろう。基礎的知識の十分な習得後に取り組むべき課題と考えるのが普通だと思われる。しかしこのような科学技術が現実と切り結ぶ文脈であるからこそ、そこに真正性を感じることができ、学びの意味が切実さを持ってたちあらわれて来る。トランスサイエンス問題を科学教育の中に持ち込むことは、一見、将来の科学者・技術者の教育にとっては余分な要素を持ち込むことのように見えるかもしれないが、科学教育にこのような真正性、学びへの切実感を持ち込むこと、それを動因として主体的な学びの姿勢を獲得していくことが期待できると考える。」

ただし川勝の言う「基礎」はおそらく基礎科学のことを指しているので、私の言う「基礎」とは意味は異なっている。トランスサイエンス問題を理解するための基礎は自然科学には限定されない。たとえば公害等環境汚染問題の解決のためには汚染の自然科学的理解だけでは不十分で、外部不経済等の社会科学の概念が必要となる。地球温暖化など地球問題の場合には条約など国家間の関係を調整するしくみについての理解が必要となる。理解が必要な概念や理論の範囲はそれぞれの問題によって異なるのである。

連動している問題もある。たとえば生物多様性の減少という問題はそれのみで完結しているわけではない。地球温暖化や砂漠化といった他の地球環境問題と連動しており、それらの問題についての認識も必要となる。ある問題の文脈を理解することは多くの場合流動的で学際的なことであり他の文脈(問題)と必然的につながっていくのである。 

一つの問題についてみても一般にトランスサイエンス問題へは様々なアプローチができるので、たとえば地球温暖化を防ぐ方策について温室効果ガス削減の技術(工学)に焦点をあてるのか、排出量取引など社会の仕組みに焦点を当てるのかということによって教材や教育方法は異なってくる。地域によってもどの問題のどこに焦点をあてるかということは異なってくる。

このように取り上げる問題が多様であり、問題へのアプローチも多様であるので、「基礎に降りていく学び」の「基礎」も多様となる。学習指導要領のように、「この学年(高校の場合はこの科目)でこの内容を学習する」という割り付けは難しいので、トランスサイエンス問題を題材とした「基礎に降りていく学び」は地域ごと、学校ごと、極端に言えば教育実践ごとに異なった内容にならざるを得ないだろう。これは市民の共通教養の育成を使命とする初等中等教育段階や学部を超えたリテラシーの育成を目指す大学の教養教育の内容として不適切ではないかという疑念を招くかもしれない。一般に○○問題を教育で扱おうとするときに付きまとう問題である。学校教育ではそんなことよりも、どんな問題にも適用できる基礎をしっかり行った方がよいのではないかという考えにも説得力がある

もちろん教育内容を大幅に増やしてカバーできる範囲を広くすればどの地域のどの学校でも扱う共通の内容(共通教養)を設定することはできる。日本学術会議が行った「持続可能な民主的社会」を構築するために万人が共有してほしい科学技術の智を検討し成文化する」ことを目的とした「科学技術の智」(2)というプロジェクトは、まさにこのように教育内容を大幅に拡張して工学や社会科学(この中には科学論や科学哲学も入っている)も含めた教育内容を提言する試みである。しかし、これは内容を盛り込みすぎていて、「万人が共有」することは難しい。

学校教育は科学技術だけでなく、競合する様々な社会からの要求にこたえて教育内容を設定しており、教育内容を大幅に増やすことによって共通教養を確保するという方略はあまり現実的ではない。

では「基礎に降りていく学び」については、トランスサイエンス問題を題材とし、問題を探求する過程の中で基礎概念や理論を学んでいくということ以外に共通性が存在しないかといえばそうではない。対象とする題材(問題)と学習の過程で獲得する概念や理論は地域や学校ごと異なっていても、トランスサイエンス問題である以上、前節で述べた「科学が知識生産システムとして持っている特性」(可変性・可謬性 、多様性・累積的進歩・真理への漸近性、前提の厳密性・前提による議論の拘束、公開性・選択肢の提示・あいまいさの許容、エンパワメント・責任・自己決定・自己信頼)は多かれ少なかれ共通している。したがって扱うトランスサイエンス問題が地域や学校ごとに異なっていても、これらの特性を明示的に取り上げ、5つすべてをカバーすることをもって共通教養とすることが考えられる。 

ただし問題によって上記の特性には濃淡があるので、複数の問題をとりあげることが必要となるかもしれない。

地球温暖化問題について見てみよう。温室効果ガスの二酸化炭素が温暖化をもたらす仕組みについては疑いなく合意されているが、海への吸収や自然由来の変化の温暖化への寄与、温暖化とその影響(海面上昇や生態系への影響等)といった事柄については多様な見解が存在する。そこでIPCC気候変動に関する政府間パネル)においては1000人以上の執筆者が関連する科学論文(査読付き論文に限られる)読み解き報告書原案を作成する。原案は各国政府を通じて世界中の科学者による査読が行われる。原案は1章につき20ページほど(全体としては800ページほど)だが、その20ページの1章に対して「通常20頁ほどの原案に800~1,000のコメ ントが寄せられるが,その一つ一つに論拠を持った対応 をし,必要ならば意見を取り入れる。各質問にどう判断 して,拒否あるいは修正したかは,記録にきちんと残される。その対応が正しくなされたか否かを執筆者と独立 にチェックするために,査読編集者(Review Editor)が おかれている」(3)。こうしたレビュープロセスの中から、より妥当であると多くの専門家が認めるその時点での科学的理解が確定し、科学者間の暫定的な合意となるのである。しかし双方ともに一定の根拠を持つ対立見解がある場合には、両見解が記され、断定はされず、今後の研究に待つことになる。温度上昇の幅に応じた複数のシナリオが作成されるが、これらは政策提言ではない。「特定の政策に関する提案は行わないものの、政策に関連する情報提供を行い、政策的に中立(policy-relevant and policy-neutral)であることを前提としている」(4。実際には政府の政策担当者も最終的な)レビューに加わっているので、IPCCの報告書が完全に「政策的中立」といえるかどうかは若干疑問な点があるが、専門家が政策を提示するのではなく、政策の前提となる知見を提示するというスタンスはIPCCの発足以来変わっていない。

気候変動を考える場合、IPCCの報告書は必ず触れる必要があると思われるが、その結論だけでなく、有力な異論としてどのような異論があり、その異論にどのように対応されたのかといったプロセスの一部やIPCCの上記のスタンスを知ることが「可変性・可謬性 、多様性・累積的進歩・真理への漸近性、公開性・選択肢の提示・あいまいさの許容」といった「科学が知識生産システムとして持っている特性」を認識することにつながるだろう。

自然災害、たとえば津波災害はどうであろうか。「釜石の奇跡」という言葉がある。東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の際、釜石東中学校の生徒は地震後直ちに高所にある避難所への避難を開始した。隣の鵜住居小学校では3階など校舎内の避難行動(3階への避難)をとっていたが、中学生の避難を見た教員の指示で中学生に続き避難した。中学生たちは途中で合流した園児の避難を手伝いながら駆け続け、避難所に指定されていた福祉施設へ到達した。中学生たちは施設の裏手で起こっていたがけ崩れ、背後の住宅地に達した津波が起こしていた土煙を見てさらなる避難を提案し、小学生、園児とともに高台にたどり着いた。結果的に津波福祉施設にも到達し、間一髪で全員が無事避難できたのである(5)。この中学生たちの行動を指して「釜石の奇跡」と呼んでいる。この奇跡は災害研究者の指導の下、中学校で行われていた、3つの原則「想定を信じるな、最善をつくせ、率先避難者たれ」(5)を徹底させる教育によるものと言われている。このうち「想定を信じるな」ということについて指導に当たった研究者(群馬大学片田敏孝教授)はこのように述べている。

「端的に言えば、「ハザードマップを信じるな」ということである。最初にハザードマップを子どもたちに見せると、自分の家や学校が浸水域にかかっているかどうかによって一喜一憂するのが聞こえてきた。私は子どもたちに、「君はこのハザードマップを見て、『学校が浸水域の外にあるから安心だ』と言っていたが、相手は自然なのだから、この次の津波はこの通りに来るとは限らない。そう考えると、仮に学校が浸水域から外れていたとしても、大丈夫と考えるのは危険ではないか?だから、想定にとらわれてハザードマップを完全に信じてはいけないんだ」と説明した。子どもたちに自らが想定にとらわれていることを自認させること、そして、相手は自然であり、時として、人間の勝手な想定にとどまるものではないことを理解させたかったからだ。」(6)

釜石東中学校は津波ハザードマップの浸水想定区域外であり、それを信じればそもそも避難をしなくても良いことになり、これを信じ込んで避難しなかったとすれば生徒たちのほとんどは亡くなっていたであろう。ではハザードマップには意味はなかったのかと言えばそうではない。東北地方太平洋沖地震前のハザードマップにおいては1896(明治 29)年の明治三陸津波および 1933(昭和8)年の昭和三陸津波という、科学的記録が残されている限りでの最大級の津波が想定されていた。過去に起こった最大級の津波をもとにしているということはその規模の津波であれば確実に浸水する区域が明示されているということであり、ハザードマップはその区域内の人々に避難を促す効果がある。しかいこのことは裏を返せばそれ以上の地震には対応していないということでもある。中学校が津波ハザードマップの浸水想定区域外にあるということにはそのような含意がある。このことが理解されていれば、大きな地震がおこった時、各人が、あるいは集団がとるべき最善の行動はハザードマップにとらわれず、高所へ逃げること。そして自分(達)が逃げることによって他の人々を避難へとまきこむことであるということになる。自然災害による人的被害を最小限に抑えるにはこのような意味での科学理解、つまり科学により提示される情報をその前提も含めて理解し、前提を超えた場合に備えて主体的に意思決定・行動する(「最善をつくす」)ことが必要になる。

一方で、津波災害を避けるための防潮堤についてはこのような理解は浸透していなかった。岩手県宮古市田老地区には総延長 2,433 メートル、海面高さ 10 メートルの「万里の長城」と言われるほどの長大な防潮堤が整備されていた。しかしこの防潮堤は津波を防ぎきるように設計されたものではない。明治三陸津波の最大津波高は15メートルであり、同規模の津波なら確実に防潮堤を超えてくる。実際、田老町では2,003年の防災便りの中で、当時の町長が「現在の防潮堤は津波に遭遇した経験はない。「逃げる間の時間稼ぎ」くらいに思っておかないと、現状を過信したあまりに逃げ遅れ、被災することになりかねない」(7)という趣旨の警鐘を鳴らしていたという。しかし多くの住民が防潮堤の巨大さに安心し、地震後も避難行動を起こさず、多数の犠牲(181人)が出てしまった。市民が防潮堤の効果の前提を理解し、それを踏まえて判断し、行動を起こしていればこれほど多数の死者が出ることはなかっただろう。ここには地球温暖化問題とは少し力点が異なる市民と科学の関係性のモデルがある。この問題は「前提の厳密性・前提による議論の拘束、エンパワメント・責任・自己決定・自己信頼」といった項目を扱うことに適していると考えられる。

少し話が多岐にわたってしまったので、あらためてこの節をふりかえってみよう。

学校での科学技術の学びはそのほとんどが「基礎からの学び」である。それに適した領

域はあるものの、トランスサイエンス問題については「現実の問題や生活や政策的な議論から入って、その謎を深めながら基礎まで遡る」学び、つまり「基礎に降りていく学び」が適している。ただしこの場合の「基礎」というのは自然科学に限定されず、問題によっては社会科学的な概念も含まれる。トランスサイエンス問題の性格を反映し、学びは流動的で学際的なものとなり、他の文脈と必然的につながっていく。「基礎に降りていく学び」においては共通の教育内容を設定することは難しい。しかしこれは共通教養を否定するわけではない。「科学が知識生産システムとして持っている特性」(可変性・可謬性 、多様性・累積的進歩・真理への漸近性、前提の厳密性・前提による議論の拘束、公開性・選択肢の提示・あいまいさの許容、エンパワメント・責任・自己決定・自己信頼)を明示的に取り上げ、これらの特性すべてをカバーすることをもって共通教養とすることが考えられる。ただし問題によって上記の特性には濃淡があるので、複数の問題をとりあげることが必要となるかもしれない。

(1)川勝博(2010):大学における科学基礎教育改革の視点、名古屋高等教育研究。第10号、77-94

(2)科学技術の智プロジェクト(2022):科学技術の智プロジェクト 総合報告書、科学コミュニケーション研究所

(3)西岡秀三(2008):科学が文明を変える:気候変動に関する政府間パネルIPCC)が果たした役目、日本原子力学会誌, 50巻9号、557~561

(4)環境省(2022):IPCC評価報告書概要 https://www.env.go.jp/earth/ondanka/ipccinfo/ipccgaiyo/ipcc_hyoukahoukokusho.html

(5)鳥谷部茂(2018):東日本大震災における釜石の奇跡と悲劇、広島法学、42 巻2号

139-153

(6)片田敏孝(2013);想定外を生き抜く力~大津波から生き抜いた釜石市の児童・生徒の主体的な行動に学ぶ~、https://www.bousaihaku.com/pdf/report-souran/2013/higashinihon25_4-2-3c.pdf(消防防災博物館)

(7)川北新報(2013):備えの死角(2)防潮堤/「万里の長城」油断招く、https://kahoku.news/articles/20130430kho000000001000c.html