リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

科学への留保付きの信頼

前章の「科学技術へのクライアントシップ」で科学論の専門家が「科学はいろいろな限界はありながらも、我々が持っている情報生産システムとしては最良のものである」と述べていたことを記した.科学は間違うこともあり,加速膨張が発見された後の宇宙論のように研究者に共有される自然像が突如として変化することもある.科学は絶えず書き換えられており,科学は変わっていく.しかし,では科学が信頼できないかというとそうではない.これも前章の「多様性・累積的進歩・真理への漸近性」で述べたように「実験や観測に立脚した相互批判という妥当性の判定手段があるため、それによって検証された学説が生き残っていく。技術の場合は事故が「検証」となることも多い。生き残った妥当性が高い意見(学説)が基盤となって科学技術は次のステージへ進んでいくことができる(累積的進歩)。」のであって,これこそが科学の強みである.科学の持つ知識生産の仕組み(科学の手法)と知識の品質管理システムはおそらく人類の作り上げてきたものの中で最も信頼できるものの一つであり,その品質管理を経て獲得されてきた知見は少なくとも当面の対応への足場とするに足るものである.以上のような科学への信頼は市民が科学に対してとるべき態度としておさえておくべきものだろう.

いささか素朴な科学信頼論と思われるかもしれないが,この意味での科学のしくみへの信頼を失えば,常温核融合であるとか予知能力であるとかいった科学の品質管理を経ていない偽科学あるいは「予防注射はチップを埋め込むことによって人々を支配する手段である」といった無根拠なフェイクにむしろ無防備になってしまうことになり,悲惨な結果を招きかねない.

しかし以上に述べた科学への信頼は科学というシステムへの信頼であって個々の科学者あるいは審議会とか学会のような組織の示す見解の受容とストレートにむすびつくものではない.そこには一定の留保というか抑制的態度が同時に必要となる.これまでの日本の科学教育ではこの部分はほぼ扱っていないが,無条件な信頼はそれが裏切られたときに極端な不信を招きかねない.健全な信頼は留保付きの信頼であり,科学に対する態度として以下に示す留保の部分を扱うことも今後の科学教育の中で考えていくべきであろう.