リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

「分析による麻痺」を避ける 及び 疫学は個人ではなく集団を考える時に意味を持つ

1 「分析による麻痺」を避ける

 一般に科学においても法律においても統計学で言う第一種の過誤(因果関係がないのに因果関係があることにしてしまう,犯人でないのに有罪にしてしまう)よりも第二種の過誤(因果関係があるのに因果関係がないことにしてしまう,犯人であるのに無罪にしてしまう)が犯されすいように見える,つまり慎重な判断が好まれる.データがそろってから,証拠がそろってから因果関係を推定する論文や答申が作成される,あるいは起訴が行われるのである.藤垣は水俣病をこの第二種の過誤がおこった例として説明している(1).行政,特に規制行政にも似たような傾向が見られる.豊島の産業廃棄物不法投棄や熱海市伊豆山の盛り土が引き起こした土石流災害などを見ると作為過誤 (するべきでないのにした 第一種の過誤)よりも不作為過誤(するべきなのにしなかった 第二種の過誤)を犯しやすいようである.行政が判断する際にはさらに原爆被害者が提訴した「黒い雨」裁判で国が「ほとんどすべての国民が何らかの戦争被害を受け,戦争の惨禍に苦しめられてきたという実情の下においては,原爆被爆者の受けた放射線による健康被害が特異のものであり,「特別の犠牲」というべきものであるからといって,他の戦争被害者に対する対策に比し著しい不均衡が生ずるようでは,その対策は,容易に国民的合意を得難く,かつまた,社会的公正を確保することもできない」(2)と他の戦争被害と原爆の被害の補償のバランスに言及しているように行政の責任を限定的にして他への波及を避けようとする政策的バイアスも存在し,ますます第2種の過誤が起きやすくなっているという構造上の問題もある.

むろんどちらの過誤も避けた方がよいが,上記の科学や法,行政の傾向を考えると,トランスサイエンス問題を扱う教育においては意識的に第二種の過誤を避ける,つまり重大な被害が起きかねない局面においては,実験的・病因論的な因果関係の解明が十分でない段階であっても,疫学的因果関係が認められれば,その段階で原因と目される行為や施設等の規制に踏み込んでよいという予防原則の論理を明示的に教えるべきと考える.生命や健康,種や生態系といった侵害されれば取り返しのつかないものについては完全な科学的証拠がなくても対策を行って潜在的な被害を防ぐべきであり,対策を講じながら科学的知見の充実に努めればよいという考え方である。詳細な因果関係の解明を待っていては遅すぎる可能性があり,少しでも早く対策を打つ必要があるからである.もちろんこれは間違う可能性を含んでいる.不必要な社会的・経済的コストを企業や行政に負わせてしまう危険があり,不必要だと分かった場合,補償責任が生じる場合もあろう.それも理解しておく必要がある。従って,これには,この責務を遂行した官僚や政治家個人の責任を追及して行政や政治を委縮させないという市民やメディアの責任も含まれる.

2 疫学は個人ではなく集団を考える時に意味を持つ

 疫学は個人ではなく集団を対象としたものである.たとえば喫煙という行為を行っている集団と肺がんの罹患率の関連を見るもので,個人の肺がんの原因を特定するものではない.ヘビースモーカーが肺がんにかかれば,喫煙が原因となった可能性は高いが,断定はできない.実は実験的手法であっても,特定個人の細胞や組織の中での分子やイオンのふるまいとそれに対する細胞や組織の応答をリアルタイムに追跡しているわけではないから,がんのように様々な原因が考えられるものについて厳密な因果関係を確定することはほぼ不可能である.ところが公害病,有毒物質の飛散事故,原水爆の被害といった人為的なものによる生命・健康被害については,疫学を根拠として,あたかも被害とその原因を厳密に対応付けして,被害者を特定できるかのような議論がなされ,行政がその議論をもとに施策を行うことがある.Aさんは基準に適合しているから被害者で,Bさんは基準に適合していないから被害者ではないという運用である.これは実務上.一定の基準を設けざるを得ないという事情に由来するものであるとはいえ,集団のリスクを対象とする疫学を個人に適用して因果関係を機械的に推定するという過ちを犯していると言わざるを得ない.疫学を援用した議論はしばしば数学的な詳細の話になってしまいがちであるが,この疫学の大前提を押さえない議論は不毛である.市民教育で疫学の考え方を扱う際,この前提はしっかりと教えておく必要がある.やや議論が抽象的になってしまったので,具体的な話をしておこう.

2001年に厚生労働省の疾病・障害認定審査会原子爆弾被爆者医療分科会は疫学の「曝露群の寄与危険度割合」(がんなどの病気の発生に原爆による放射線被曝が寄与している程度を示す確率)の考え方に基づき,被爆時年齢・性別・推定被曝線量から白血病等13の病気の原因確率を算出した表を提示した.そして原因確率が「おおむね50パーセント以上である場合には,当該申請に係る疾病の発生に関して原爆放射線による一定の健康影響の可能性があることを推定」という「原爆症認定に関する審査の方針」(3)を定めた.ところが,この基準(旧基準)では認定されない被爆者が相次ぎ,認定却下を不服とする集団訴訟が提起された.訴訟で国の敗訴が相次いだことからこの基準は改訂されたのだが,判決(平成20年5月30日大阪地裁判決を例とする)では次のように「曝露群の寄与危険度割合」を個人に適用することの不適切性を明確に指摘している.「原因確率は,現存する最良のものであるとしてもそのような基本性格をもつ疫学調査に基づいて算定された寄与リスクを個別具体的な個人に発症した個別具体的な疾病に適用しようとするものであるが,寄与リスク自体は,あくまでも当該疾病の発生が放射線に起因するものである確率を示すものにすぎず 個々人の疾患等の放射線起因性を規定するものではないから原因確率が小さいからといって直ちに経験則上高度の蓋然性が否定されるものではない(例えば,原因確率5%という場合,10人全員が5%の過剰リスクを負っていた場合もあるし,10%の者が5人で他は0%の場合もあり,審査の方針のいう10%を超える者であるか否かは,個別の審査でなければ判定できない )」.疫学を具体的な事象に適用しようとする場合,疫学が集団を対象としたものであって個人について判断するものではないこと,個人について判断する場合には,個々の事例に即した判断が必要であることという原点に立ち戻って判断しなければならない.この場合,多少の判断のぶれはありうるが,そのぶれは基準の機械的な適用によって排除するのではなく,複数の専門家による判断など判断の工夫によって是正していくべきものであろう.判断そのものはあくまでも個別事例に即して判断するべきである.

(1)藤垣裕子(2003):専門知と公共性,東京大学出版会

(2)広島地方裁判所令和2年7月29日「黒い雨」被爆者健康手帳交付請求等事件判決中の被告の主張より引用

(3)疾病・障害認定審査会原子爆弾被爆者医療分科会(2001):原爆症認定に関する審査の方針 第1回原爆症認定の在り方に関する検討会(https://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/09/s0928-9.html)において提出された資料を引用

(4)大阪地方裁判所(2008):平成20年5月30日判決原爆症認定申請却下処分取消等請求控訴事件判決 https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/731/036731_hanrei.pdf