リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

プリコラージュの知

プリコラージュ(フランス語)とは「寄せ集めてつくる」という意味であり,「器用仕事」とも訳される.たとえば服のデザインの分野では,ありあわせの布を組み合わせて新しいデザインや服を作りだす仕事をさして使われる.レヴィー・ストロースは,人類学の調査の中で,「未開人」と見なされてきた先住民が、西洋の知識体系とは異なるが,独自の論理で世界を秩序付ける思考様式を持つことを発見し,これを「具体の科学」と呼び,プリコラージュになぞらえて説明した(1).

 プリコラージュは近代科学の考え方とは対照的な思考である.近代科学は対象となる現象を世界から切りだす.たとえば生物学は世界の中から生物を抜き出す.あるいは栄養学は生物の諸現象を栄養という観点から切り出す.そして切り出した現象や事物を網羅的に探求し,分析して明快な因果関係の網の目で現象や事物を理解しつくそうとする.一方,プリコラージュは今ある手持ちの知識や材料から出発し,それらを組み合わせ,いわばそれらと対話しながら,足りないものを適宜調達し,パッチワークのように組み合わせて世界を理解しようとする.領域にはこだわらず,利用できるものは利用する.「「持ち合わせ」,すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である」(1).パッチワークを構成する部品間に不整合が発生することがあっても何とかそれをおり合わせ,世界の理解可能性を維持しようとする.それは神話が起源の異なる様々な神話が混淆しても,何とかそれらの間に辻褄をつけて神話の統一性を維持しようとすることに似ている.

 こう説明してくると,プリコラージュの知,寄せ集めてつなぎ合わせる知は何か不徹底でいい加減なもののように思われるかもしれないがそうではない.確かにそのような一面はあるだろう.しかし,それは近代科学,たとえば医学だとか物理学が確立してきた専門家のための各専門分野の知(専門知)とは異なるが,社会にとって専門知とは異なる意味での有用性を持つのであり,専門知の限界を補う可能性を持っている.その理由を次に述べよう.

上に述べたように専門知は世界の中から、その専門知が対象とするある領域を抜き出して、それを体系的な知の形、典型的には学問の形で理解しようとする.専門家は特定の領域、例えば医療、工学、教育等について専門的訓練を受け、専門知により各領域に生じた様々な課題に対処するわけだが、それぞれの領域には各領域の知見を背景とした定型的な課題処理の様式が確立している。医学の場合で言えばそれぞれの病気についての標準治療があり、法曹の世界には判例があり、建築の世界には設計施工基準がある。少し荒っぽい言い方になるが、これらの定型を知悉し、それをふまえた実践を間違いなく行うことができるのが専門家であるといってもよいだろう。

専門知はその定型的な課題解決の型に落とし込むことのできる課題に対してはきわめて有能である。しかしその有能さは何にでも同じように通用するわけではない。「科学知識は自然界の一つの描写」,「対象あるいは現象のある限られた範囲の「地図」」なのであって,きちっと定式化されたものであれば、どんな問いにも厳格に答えられる」(2)ことが強みであるが,逆にその分野の定型に落とし込んでしまうと他の分野が見えなくなってしまい,むしろそれが逆機能になってしまう場合すらある。この節の冒頭で述べた缶ミルクがまさにそのような例にあたるだろう.おそらく支援にかかわった担当者は栄養学の観点から缶ミルクの優越性を確信し、栄養学の定型に落とし込むことによってアフリカの子どもたちを救えると思い込んだのではないだろうか.

典型的なトランスサイエンス問題はまさにこのような定型が通用しにくい構造をしている。大規模風力発電施設を例にあげてみよう.マクロに言えば,再生可能エネルギーの発電量を増大させていくことは必要である.エネルギー自給につながる可能性もある.しかし騒音,低周波振動,希少生物への影響,地域によっては斜面崩壊による災害を惹起する可能性などデメリットについても多様な観点から検討する必要がある.また建設の是非や規模の決定に対する地域住民の参与など政治プロセスの民主性の確保も考える必要がある.

これら個別の問題について専門家が関与し,専門知を提供することは必須であるが,それらの専門知を統合して最適な意思決定を行う手法が存在するわけではない.可能な解はいくつもあるし,どれが最適な解かは,価値観によって違う可能性がある.要するに至極あいまいなのである.その曖昧さは専門知が不完全なために生じる問題というよりも,「科学的合理性が及ばない領域で意志決定をしなければならない」,「科学のもつ理性とは別に恣意的ではない合理的な判断が求められる」(3)というトランスサイエンス問題の本質に内在した問題である.経済学者のアマルティア・センは社会経済政策が実現すべき価値について「合意あるいは一致を民主的に探し求めることに依存する選択手続きはきわめて混乱したものになるかもしれない.テクノクラートはこの混乱にすっかり嫌気がさし,「まさしく正しい意味合い」出来合いのウェイトを与えてくれるような素晴らしい方式を切望するかもしれないが,しかしもちろんそのような魔法の方式は存在しないのである」(4)と述べているが,トランスサイエンス問題についてもこの指摘はあてはまる.トランスサイエンス問題にも「科学的合理性」にかなった魔法の方法は存在しない.

どうすればいいかと言えば,当該地域の市民が専門家や他の市民と対話しながら,これらの専門知をそれぞれの価値観による自分なりの重み付けをし,地域の文脈にてらしながら.つなぎ合わせて意思決定をしていくという実に泥臭く手間を要する方法に頼るほかはない.このとき市民はプリコルール(器用人)となりプリコラージュを行うのである.そしてその市民の意思を何らかの方法で集積してその地域(自治体とか集落とか)の意思決定としていく.

その意思決定を「難しい問題だからわかんない」として専門家に委ねることは適当ではないだろう.それは民主的な意思決定の権利の否定であり,また専門家からすれば,むしろ意思決定そのものへは関与しないことによって(むろん個人としての意見を表明することは構わない)価値中立とか普遍性というような専門知の中核的価値を守ることができるからである。

このように考えてくると、意思決定に必要な専門知がいくつか存在していて専門知相互の調整を一意的に行うことができない課題,価値観の競合が存在している課題「(ほとんどのトランスサイエンス問題はこれにあてはまる)においては,それらの専門知を対話と熟考によってそれぞれの市民がそれぞれの仕方でつなぎ合わせる,つまり再組織して課題に適用するというプリコラージュの知の形でアプローチするという形にならざるを得ないことがわかる。もちろん専門知を軽視するわけではない。むしろ再組織と適用の過程で、専門家と対話することによって,専門知の持つ問題を焦点化する能力、専門家のネットワークを駆使する力といった専門知の切れ味の鋭さは身に迫って意識化されることになるだろう。ただ大事なことはそれに取り込まれて依存してしまうのではなく、専門知を課題の解決にどう生かすのかを市民自身、当事者自身が自分の頭で考え,意見を表明し,対話し,また意見を変える,つまり自己教育を行っていくことだ。市民のプリコラージュの知と専門知が補足しあうことによって課題に対峙するのである.

(1)クロードレヴィストロース(1976):野生の思考,大橋保夫訳,みすず書房

(2)ジョン ザイマン (1988):科学と社会を結ぶ教育とは,竹内敬人・中島 秀人 訳,産業図書

(3)廣野喜幸(2013):サイエンティフィック・リテラシー 科学技術リスクを考える,丸善出版

(4)アマルティア・セン(2000):自由と経済開発,石塚雅彦訳,日本経済新聞社