リスク社会の科学教育―科学を統治する市民を育てるー

このブログは、大学で科学教育を担当している筆者(荻原彰)が、現代の巨大な科学技術を市民が適切に統治するため、科学教育はどうあるべきかを考えていくブログです

プリコラージュの知を育むー課題特性

ではこのようなつなぎ合わせる知.プリコラージュの知をどうすれば育んでいくことができるのだろうか。前提を確認しておこう。プリコラージュの知はこれまで多くのリテラシー論が依拠してきたミニマム・エッセンシャルズ(最低限の教養)とは異なる。ミニマム・エッセンシャルズは市民が共通に所持すべき知識・スキルを同定し、リスト化したものであらわされる。しかしプリコラージュの知は課題ごとに知識をはりあわせ、かき集めるものなので、ミニマム・エッセンシャルズのようにあらかじめ知識のリストを用意しておくわけではない。「知」と表現はしたものの、そこに何か実体的な知識領域が存在するわけではない。課題に取り組む実践の中でそのつど生成し、プロセスの中に立ち現れてくる総合的判断力であり、知識活用能力である。課題に取り組む中で知識は得られはするが、その獲得自体が目的ではない.文脈に応じて課題解決をしていく能力の獲得が目的である。

このような性質を持つプリコラージュの知は課題解決の現場経験によって育まれる。というよりもそれしかプリコラージュの知を育てる方法はないであろう。もちろん課題ならば何でもよいというわけではない。プリコラージュの知を効果的には育む条件を備えた課題が望ましい。この場合の教育の要諦は教えるべき知識を選ぶことではなく、取り組むべき課題を選ぶ、あるいは学習者による課題の選択を支援することである.そして課題に取り組むプロセスを支援することにある。

ではどのような性質を持つ課題が望ましいのだろうか。上記の記述とやや重複するが例をあげてみよう。近年、温暖化に伴う気象災害が激甚化している。国も自治体も治水施設(堤防、ダム)の設置・強化だけでは対応できなくなり、流域全体で治水を考える流域治水の考え方が主流になりつつある。河道から水が溢れて冠水する場所が出ることも許容し、「溢れても安全」な治水を目指しているのである。これは生態系の保全という環境的な価値、治水に要する公費の節減という経済的価値とも概ね整合している。しかし一方で冠水する可能性のある土地(許容する土地)は多くの場合、水田などの農地であり、農作物が被害を受けることがある.道路も冠水するので,交通は不便になる.「田舎を犠牲にして都市を守る」ことになるので,当然、公正の観点から疑問を持つ人もいる。実際、三重県雲出川など堤防に開口部(無堤防ないしは低い堤防)地が存在していて大きな洪水のたびに農地が冠水する(農地が遊水地となっていて下流の人口密集地での溢水を防いでいる)地域では、その地域に住む人々の多くは、必ずしもそれに納得しておらず、不公平感を持っている。非常に大きな洪水の際には,農地だけでなく住宅も被害を受ける可能性があり,長野県更埴市では,堤防の開口部から流れ込んだ水が遊水地からあふれてしまい,住宅や公共施設が冠水し,市長は開口部の閉鎖を求めている.災害の激甚化に対応するための流域治水が,逆にそれによって守られるはずの当事者から異議申し立てを受けるという錯綜した構図になっている.

流域治水を進めていくには、冠水する可能性のある土地の財産の保全、財政コスト、公正の問題,川や田んぼの生態系保全、景観設計など考えなければならない様々な要因をその地域の事情に応じて解きほぐしていかなければならない。それぞれの領域にはそれぞれの専門知は存在するものの、それらを調整する定型的な手法が存在しているわけではないし,専門知の間には(たとえば生態系の保全と洪水被害の低減)しばしば対立が存在する.結局は流域の市民があれこれと専門家の意見を聞きながらも自分たちの中でしっかり話しあって折り合いをつけ,着地点を探していく(協働的課題解決),プリコラージュとして解決していくほかはない.

ここには

①様々な専門知を援用して取り組まなければいけない課題

②専門知相互,あるいは専門知の内部にも対立が存在し,その対立を認めながらも決断しなければいけない課題

③解決の過程の中に専門家と市民,市民相互の協働を含みこむ課題

という課題特性が存在する.

プリコラージュの知はこのような特性を持つ課題に取り組むことによって構築されると,私は考えている.

これは政策的に言えば市民参加の政策形成であり,教育論的に言えば,社会的相互作用を通じてプリコラージュの知を構築して行く自己教育のプロセスということになる.